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夜明けに捧ぐ華<妖怪寺鎮魂譜>  作者: 狐月華
1 『金魚草の冒険』
3/8

1章 霧の中の約束

夜のうちに森に来た目的を果たした郁人は、いつの間にか眠ってしまっていたようだった。


ひんやりとした空気の中で目を覚ますと、世界は白い霧に包まれていた。


夜の気配をわずかに残した朝。

地面には露が降り、濡れた葉の上に淡い光が滲んでいる。

遠くで水を含んだ枝が静かに軋み、どこかで花の匂いがかすかに揺れた。


深い森の朝は、夜よりも増して静かだった。

霧が地を這い、木々の根元をやわらかく包み込む。

鳥の声も風の音もなく、世界そのものが息を潜めているようだった。


郁人は立ち上がり、歩き出した。


昨夜のあの少年――


泣いていた少年の姿が脳裏をかすめる。

放っておくつもりだった。

けれど、あの泣き声だけがどうしても耳から離れなかった。

胸の奥がざわめき、冷たいものが喉に滞る。


(……放ってはおけないな)


あの小さな背中を見たとき、胸の深いところがじんと痛んだ。


——幼いころ、誰にも言えずに独り泣いていた自分の姿が、あの少年の姿に重なって見えた。


気づけば、郁人はまた同じ道を辿っていた。

湿った落ち葉の上を流れる冷気が、彼の進む方向へそっと寄り添うように動き、静寂をわずかに乱す。


霧の向こう側――


昨日と同じ場所で、淡い光がまた揺れていた。


小さな体を丸めて泣く少年。

霧に濡れた髪が頬に張りつき、涙が光を返している。

その周囲だけ、時間が止まっているようだった。


郁人はゆっくりと歩み寄り、できるだけ優しく声をかけた。


「……どうして泣いているんだ?」


男の子は肩をすくめ、ゆっくり顔を上げた。

涙に濡れた瞳が、霧の光を宿して揺れる。


「……ぼく、帰れないの。

ママに会いたいのに、帰れないの」


その声はかすれて、霧の中に溶けていった。


「帰れない……?」


郁人の問いかけに、男の子は小さく頷いた。

その輪郭が霧に淡く滲む。


「……名前、教えてくれるか?」


しばらくの沈黙のあと、少年はぽつりと答えた。


「……あきら。

あかつきとも読む字なんだよってママが言ってた」


「暁くん、か」


郁人がその名を口にすると、霧が微かに震えた。

薄明の光が枝の隙間を縫い、濡れた苔を照らす。


暁はほんの少し安心したように微笑む。

その笑みは儚く、それでも確かな温もりを宿していた。


「俺は郁人。

……少し話してもいいか?」


「……うん」


郁人はしゃがみこみ、暁と目線を合わせた。

霧を透かして差す光が、ふたりの間をやわらかく染める。

どこからか、咲きはじめた花の香りが漂ってきた。

湿った空気の中に、甘く澄んだ匂いが溶け込んでいる。


「暁、どうしてここにいるんだ?」


問いかけに、暁は黙り、膝を抱えた。

長い沈黙のあと、唇を噛みしめてつぶやく。


「……知らない人が、来たの」


「知らない人?」


暁は頷いた。


「やさしかったよ。……最初のうちは、ね」


言葉が震えている。

郁人は何も言わず、静かに続きを待った。


「『遊ぼう』って言われて、ついていったの。

……ぼく、うれしくて」


「そう……だったんだな」


「でも……痛いことをしてきたの。

怖くて、痛くて、やめてって言ってるのに、笑いながらやめてくれなくて……苦しくなって。

――息ができなくなって、気が付いたらここにいたの」


暁の声は霧とともに消えた。

郁人は目を閉じ、胸の奥に冷たい痛みを感じる。


「……そうか」


それだけしか、郁人には言葉が見つからなかった。

慰めの言葉なんて、きっと届かない。

それでも、できるだけ優しく声を続けた。


「もう大丈夫だ。

ちゃんと分かったから」


暁は顔を上げた。

涙の奥に、かすかな光が戻る。


「……ぼく、どうしても帰りたいの。

ママのところに」


小さく息を吐き、俯きながら続けた。


「でも、知らないところに連れてこられちゃって……

おうちがどこにあるのか、わからないの。

帰りたくても、帰れないの」


郁人はその言葉を静かに受け止めた。

霧の奥から、かすかな風が吹き抜ける。

枝先の若い葉が擦れ、まだ乾ききらない水滴がぽとりと落ちた。


「暁は……どうして、そんなに帰りたいんだ?」


問いかけに、暁は小さく息をのむ。

しばらく黙ってから、震える声で呟いた。


「……ママに、あやまらなきゃいけないの」


「……そうか」


郁人は静かに目を伏せた。

霧の向こうで、光がわずかに強くなる。

その柔らかな明るさを見つめながら、郁人はそっと言った。


「……いっしょに、ママに会いに行こう」


暁は一瞬、驚いたように目を見開き、それから小さく頷く。

頬に残る涙の粒が光り、霧の中で溶けていく。

森の静寂に、わずかな風が流れた。


湿り気を含んだ空気が動き、木の匂いと花の香がわずかに混ざる。

それは、何かがほんの少しだけ動き出した合図のようだった。


◆◇◆◇◆


霧はまだ薄れず、木々の間を白い靄が流れていた。

郁人は一本の古びた杉の根元に腰を下ろし、手のひらで額を押さえる。


――どうすればいいのか。


泣いていた暁に「ママに会いに行こう」と言ったものの、何の情報も手がかりもない。

現実的に考えれば、それは無謀な約束だった。


暁はすぐそばに立ち、光に透ける輪郭を揺らして寄り添っている。

その姿は霧に溶けながらも、確かにここに存在していた。


目には不安と期待が入り混じり、声にならない想いが宿っている。

手を伸ばせば届きそうで、けれど触れれば崩れてしまいそうだった。


警察に行っても、きっと正気を疑われる。

役所で事情を話しても、他人である自分が何も知ることはできない。


「亡くなった子どもの霊が母親を探している」

――そんな話、誰が信じるだろう。


霊の姿が見える自分だからこそ、できることがあるはずだ。

そう信じたいのに、どうすればいいのか見当もつかない。


溜息をひとつ落としたそのとき、背後から柔らかな声がした。


「……ずいぶんと思いつめた顔をしておるな」


振り返ると、そこには一人の老人が立っていた。

薄い灰色の羽織をまとい、どこか透けるようなその姿。

気配は穏やかで、しかし確実に“この世の存在”ではない。


郁人はゆっくり立ち上がり、頭を下げた。


「長いこと、この森を彷徨っておってな。

もう帰る場所もないが……時々、話し相手を探して歩いておるのじゃ」


その声には、どこか懐かしい温もりがあった。


「何やら困っておるようだ。

話してみんか?」


郁人は少し迷ったが、小さく頷いた。


「……この森で出会った子がいるんだ。

暁という名の、まだ小さな男の子で、その子の“母親”を探したいんだけど、どうすればいいか……」


暁はそっと郁人の肩に寄り添った。

霧に溶ける輪郭がわずかに揺れ、光を柔らかく反射する。

その小さな姿に、郁人は静かに手を添えた。


老人の霊は目を細め、穏やかに微笑む。


「ふむ。その子も、こちら側に来てしまったのじゃな」


「……ええ」


「ならば、人に頼るのは難しかろう。

見えぬものの話など、信じてもらえん」


郁人は無言で頷き、暁の小さな肩にそっと手を置いた。


老人は少し考え、やさしく続けた。


「だがな、この森には、わしのような者がたくさんおる。

長い年月を過ごし、森の内も外も知り尽くした霊たちじゃ。

彼らに尋ねてみるといい。

何か手がかりを持っておるかもしれん」


「……この森の霊たちに?」


「うむ。人の縁は途切れても、霊の縁は案外しぶといものじゃ。

誰かが、その子の母親に繋がる記憶を持っておるかもしれん。

歩き、声をかけ、探してみるがよい」


老人はそう言い、ゆっくりと頷いた。

その表情は、どこか遠い記憶を懐かしむようだった。


郁人は深く頭を下げる。


「……ありがとう。

やってみるよ」


顔を上げたとき、老人の姿はすでに霧の中へ溶けていた。

残響のように耳に残る声を胸に、郁人は静かに立ち上がった。


霧の流れが足もとを撫で、冷たい湿気が裾をかすめていく。


側では、暁の気配が淡く揺れた。

形はなくとも、確かにそこに“在る”とわかる。

その存在の気配だけが、静かな温もりのように郁人の胸に触れた。


言葉なくして互いの想いを確かめ合い、二人は霧の森を歩き出した。

淡い光が、彼らの背をやさしく包んでいた。


◆◇◆◇◆


幾人もの霊に話を聞きながら、郁人たちは霧深い森をさまよっていた。

木々の間を渡る白い靄は途切れることなく流れ、どこまでも終わりが見えない。


不思議なことに、出会う霊たちは皆、郁人の問いかけに穏やかに応じてくれた。


この森には、さまざまな霊がいた。


失恋の果てに生きる気力を失った若い女。

詐欺に遭い、破産してすべてを手放した町工場の社長。

そして中には、キノコ狩りの途中で道を誤り、そのまま帰れなくなった老人のような――少し滑稽で、少し哀しい霊もいた。


生きていた頃の事情は違っても、皆この場所に何かを残したまま、静かに漂っていた。

木々の梢では、湿り気を帯びた光が滲み、どこか遠くから花の香が流れてくる。


一方で、生者への恨みを抱き、近づく者を睨みつける霊もいた。

それでも郁人の声に耳を傾けるうち、どの霊も少しずつ表情を和らげた。


暁のこと――

幼くして命を落とした少年の霊を語ると、誰もが不憫そうに目を伏せ、できる限りの助言をくれた。


暁は郁人のすぐそばを離れず、霧の流れとともに淡く揺らめいている。

その姿は時折かすみ、また輪郭を取り戻しながら、森の声に耳を傾けていた。

郁人の袖の端をそっとつまむようにして、静かに寄り添っている。


やがて、そんな中のひとりがぽつりと口にした。

――この森を出た街の外れに、「妖怪寺」と呼ばれる古寺があるらしい。


妖怪寺。


この名前を出すと、霊たちは口々に知っていることを語ってくれた。

そこには、三人の人間が暮らしているという。


ひとりは、身の丈三メートル近い大入道のような住職。

気に入らない霊を見つければ素手で殴り飛ばし、気合の一喝で震え上がらせ、問答無用で成仏させてしまうらしい。


もうひとりは高校生くらいの娘で、霊を見るとすぐに刀を抜く気性の荒い子だとか。

怒ると瞳が紅く染まり、髪が逆立ち、その刃に触れた霊は跡形もなく消えるのだという。


そして最後のひとりは、花屋で働く大学生の男。

名は、深山楓。他の二人のような恐ろしい噂はなく、物静かで穏やかな性格だと霊たちは口を揃えて語った。

霊が見えるかどうかは分からないが、話を聞いてくれそうな気配がある――と。


郁人は彼らに礼を言い、隣の暁へ振り返る。


「……行ってみよう。何か分かるかもしれない」


暁は一瞬、不安そうに郁人を見上げた。

しかし次の瞬間、小さく頷く。

その輪郭が光にやわらかく溶け、霧の中に淡い影を落とした。

靄の向こうで、陽の光が少しずつ強くなる。


郁人と暁はゆっくりと歩き出した。

湿った空気を払いながら進むその足取りには、わずかではあるが確かな希望の色が宿っていた。

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