10章 還る光のゆらぎ(後)
その瞬間――
――ヒュウウウウウウッッ!!
空気が悲鳴を上げる。
鋭い風切り音が、部屋の空気そのものを裂き割った。
真雪の視界の端を、刃のような光が閃光の尾を引いて駆け抜ける。
音より速く――
いや、速度という概念すら追いつけない。
眼で捉えるより先に“貫通の結果”だけが世界に残るような、極限の直線。
それは矢ではない。
流星ですらない。
ただ一条の、破壊のためだけに放たれた白い雷光。
一直線に――
人形の頭へ。
――ズドォォォォン!!!
光の槍が命中した瞬間、世界が白に塗り潰された。
人形の髪が黒い火花を散らして爆ぜ上がり、轟く衝撃波が部屋中の空気を押し潰す。
畳が震える。
壁が軋む。
視界が真昼の閃光に焼かれ、真雪は咄嗟に腕で顔を覆った。
それは光ではなく――
“斬り裂く力”として形を成した、暴力的なほど純粋な輝きだった。
真雪は思わず腕で顔を覆った。
焼け焦げた髪が、ふわりと空気に舞い落ちる。
真雪は震える指先で床を押し、ゆっくり顔を上げた。
「……な、に……?
今の……光……は……?」
部屋には、楓の驚愕した息づかいと、結界の余波がまだ震えている音だけが残っている。
人形は――
完全に沈黙していた。
ボウッ……!
次の瞬間、人形の全身に炎が走った。
黄金色の髪が真っ黒に焼け焦げ、見事な刺繍をたたえた布が溶け、それがまるで“この世に残るべきではなかった存在”そのものが浄化されるように、ぱちぱちと音を立てて崩れていく。
炎が人形を包んだ瞬間――
美羽の瞳に、光が戻った。
焦点が揺れ、瞬きをし、ようやく、幼い顔に生気が宿る。
「……っ……ぁ……」
細い喉が小さな息を漏らす。
「美羽ちゃん!」
真雪が手を伸ばしたが、その前に――
光だけが、残った。
人形の髪が消滅した後も、光の塊はその場に留まり続けていた。
淡い光をたたえてゆらり。ゆらりと揺れている。
そして――
――ウゥゥゥゥ……
低い唸り声が、光の奥底から響いた。
昨日、庭で聞こえたものと同じ音。
昨日と同じ得体の知れない気配に対し、真雪は、底知れぬ恐怖を覚えていた。
「っ……来るなら来い……!」
真雪は、痛む身体を無理やり起こし、小太刀を構えてその切っ先を光へ向ける。
緋色の瞳が鋭く細められ、銀の髪が揺らめき、僅かに残る神気を全身から絞り出すように刃に纏う。
だが――
「真雪、待って」
楓がそっと前に出た。
楓の足取りはふらついている。
それでも、光のすぐ傍まで歩み寄り、その手を伸ばした。
光が、応えるようにわずかに震える。
楓は、ゆっくりと息を吸い込み、胸の奥にそっと言葉を落とすように光へ囁いた。
「……優くん、だよね」
その瞬間、光の揺れがふっと止まり、空気が静まった。
まるで――
長い間、誰にも届かなかった呼び声を、初めて聞き取ったかのように。
まるで――
泣き出す直前の子どものように。
真雪が目を見開く。
「……優……
だと……?」
ちょうどその時、廊下から足音が聞こえた。
綾乃が息を切らしながら息を切らせながら佇んていた。
「楓くん、美羽は――」
その言葉より先に、耳へ届いた“優”という名。
綾乃の呼吸が止まり、世界がひっくり返ったように見開かれた瞳が光を捉える。
「……っ――」
バッグが手から零れ落ち、鈍い音を立てて畳の上に落ちた。
綾乃の唇が、言葉を探すように震える。
「……そんな……
そんなはず……」
しかし、その震えの奥に宿っていたのは恐怖ではなかった。
胸の底を掬い上げられるような――
喪ったものが突然、そこに形を得た時の痛みに近い悲しみだった。
楓は光の前に歩み出る。
光は楓の手の動きに合わせるように、たどたどしく揺れる。
まるで人の気配を追って触れようとしている幼い指のように。
「……この光は、“優くん”です」
綾乃の肩が大きく震えた。
「優くんは……
美羽ちゃんの兄になるはずだった魂です。
でも……
生まれてこれなかった」
綾乃の喉がきゅっと締め付けられたように動く。
「……そんな……
じゃあ……」
「はい。
流産で……
この世界に来ることができなかった。
だから優くんの魂は、形になれないまま、どこにも帰れないまま、ずっと“暗いところ”を彷徨っていたんです」
その言葉に呼応するように、光がふるりと揺れた。
幼子が寒さに耐えながら、必死に誰かの腕を探すように。
綾乃の瞳から、ぽろりと涙がこぼれた。
楓は続ける。
「……でも、優くんは消えなかった。
美羽ちゃんを――
妹を守るために、ずっとここにいたんです」
光が優しく明滅した。
それはまるで誇らしげに「うん」と言っているようでもあり、ずっと言えずにいた“自分の想い”をようやく認めてもらえた子のようでもあった。
真雪がそっと小太刀を下ろす。
「……あの光の矢は……
美羽殿を狙っていなかったと……
そういうことじゃな」
「うん。
あれは美羽ちゃんに迫る危険を必死で払いのけようとしただけ。
怒りの声に聞こえたうなりも……
全部、『ここにいるよ』『名前を呼んで』っていう声だった」
光が、まるで“その通りだよ”と言うように、ふわりと瞬いた。
その揺らぎはとても未熟で、とても切なかった。
触れようとしても触れられない子どもが、ただ懸命に存在を伝えようとしているようだった。
綾乃は胸元を押さえながら、ふらりと一歩、光へ足を運んだ。
「……ゆ……優……?」
その声が空気に触れた瞬間、光は震えた。
かすかな明滅が何度も何度も繰り返される。
まるで、ずっと探していた声にようやく手が届いた幼い魂が、呼び返す方法を知らず、ただ“震える光”で返事をしているかのように。
綾乃の頬を涙が伝い続ける。
「……ごめんね……
ごめんね……優……
呼んであげられなくて……
迎えに行ってあげられなくて……
お母さん……ずっと……」
その瞬間、光は綾乃にすっと近づき、彼女の涙を拭うように頬へ触れた。
触れられた場所がじんわりと温かくなる。
――ああ。
まるで、小さな手のひら。
「……優……
あなた……」
綾乃は両手を、失ってしまった我が子を抱きしめるように広げ――
その光へとゆっくり腕を伸ばした。
光が一瞬だけ強く明滅し、次の瞬間――
ふわり、と綾乃の胸に吸い込まれるように寄り添った。
温かい。
あまりにも優しい。
幼子が母親の胸に顔をうずめるときの、あのかすかなぬくもりそのままで。
「……ありがとう……
優……あなたが守ってくれたから……
美羽は……生きていられたのね……」
光が、胸元のあたりでそっと脈を打つ。
――ぽん。
――ぽん。
――ぽん。
心臓に似た、だがもっと柔らかい脈動。
母の声に喜ぶ、小さな命の反応のようだった。
綾乃はその輝きを抱きしめながら、震える声で囁く。
「……生まれてきてくれて……
会いに来てくれて……
ありがとう……
優……本当に……
ありがとう……」
すると光は、まるで返事をするように、ほんの小さく――
――ひゅる……
やさしく息を吹くような音を立てた。
次の瞬間、光はすうっと綾乃の腕から離れ、天へ向かって細く伸びる。
「……あ……」
綾乃が思わず手を伸ばすが、もう届かない。
光は、天へ帰る子どもの魂のように静かに昇り――
天井近くで一度だけ、別れを告げるように穏やかに瞬いた。
それは、「もう大丈夫だよ」と言っているような、そんな優しい最後の光だった。
そして――
すう……っと消えた。
まるで最初から存在しなかったかのように。
けれど確かな温もりだけが、綾乃の胸に深く残った。
「……優……
ありがとう……
ありがとう……」
綾乃はその場に膝を落とし、両手で顔を覆い、声を震わせて泣いた。
真雪は小太刀を握ったまま静かに頭を垂れ、楓はそっと視線を伏せて見守る。
――確かに、そこに“想い”はあった。
そして、それはようやく正しい場所へ還ることができたのだった。




