10章 還る光のゆらぎ(前)
「――やめろぉぉぉぉぉ!!」
真雪が叫び、結界へと飛び込もうとする。
だがその瞬間――
住職の結界を成す九枚の札のうち、東・南・西・北の四札が同時に震え、まるで儀式そのものが息を吹き返したかのように、四方の空気が色づき始めた。
――東。
東の札が、翡翠色の気配を孕み、光が“ばさり”と羽ばたくように揺らめく。
緑玉の息吹が結界の表層を震わせ、青き龍の気配が小さく鳴動した。
――南。
南の札からは、熱を帯びた真紅の残光がしゅう、と燃え広がる。
朱の鳥が翼を震わせる前兆のような赤い陽炎が、空気をゆっくりと揺らした。
――西。
西の札には、白銀の雷が細い刃のように走り、空気を研ぎ澄ませる。
白虎の咆哮の気配だけが先に届き、畳の上をひりつかせた。
――北。
北の札は、大地の底から悟らせるような重い“玄の深淵”を滴らせる。
黒い静寂が床下から立ち上り、空間の温度がひとつ沈んだ。
四つの光が奔る稲妻となって放たれ、人形の髪を一瞬で凍りつかせる。
その束が硬直したまま、空間の表面がみしりと音を立ててひび割れるように震え、四方から注ぎ込む力に部屋そのものがきしむ。
次いで光は、ふっと札から離れ、まるで重力すら失った絹糸が舞うようにゆらゆらと結界の内側へ漂い出す。
蒼・紅・白・黒――
四色の光は細かな粒子となって尾を引き、薄闇の和室へ鮮烈な線を描きながら軌跡を重ねていく。
光の流れはまるで儀式そのものが息づいているように脈動し、天井へ反射した色がわずかに揺らぎ返した。
「……な、何……?」
真雪の息が止まる。
光はまるで自ら意思を持つかのように静かに形を固め――
そこに浮かんだのは、四つの小さな正方形の紙片。
紙片は、まるで目に見えぬ指先で操られるかのように折り畳まれ、折り目が走り、角が立ち、羽が開き――やがて四体の“折り紙の守護獣”となった。
東は蒼光をまとった青龍――
翡翠色の気配を揺らし、細い尾が空気を切るたびに、水面のような青いさざ波が結界へ広がった。
南は紅蓮を散らす朱雀――
炎の羽ばたきの残響が、周囲の空気をわずかに熱で震わせる。
西は白閃を走らせる白虎――
白銀の刃のような閃光が、毛並みに沿って流れ、畳へ細かな影を落とす。
北は影を揺らめかせる玄武――
深黒の甲羅からこぼれ落ちる重い波動が、床下へ沈み込むように結界の底を支えた。
「……式神……!!?
これは……住職……
お主、どこまで隠しておった……!」
真雪の声が震えた。
四体の式神は音もなく宙に舞い、人形の周囲を旋回する。
軌跡は鎖のように絡まり、髪の束を縛り上げる。
青龍は蒼い身で締め上げ、
朱雀は紅の尾で灼き、
白虎は白刃で裂き、
玄武は黒圧で押し潰す。
四方の守護が揃った瞬間、空気はまるで別世界のように澄み渡り、式神たちは“悪しきものを討つためだけに生まれた兵”のように動き始めた。
「……住職……
普段はぼんくらのように笑っておったくせに……
こんなにもとんでもない秘術を潜ませておったとは……」
真雪は呆然と呟いた。
四体の式神は、息を呑むほど静かな動きで宙へと浮かび上がり、人形を中心に円環を描いて位置を定めた。
その瞬間、蒼・紅・白・黒──
四つの光が淡く脈動し始める。
光は揺らぎながら尾を引き、幾筋もの軌跡が重なり合って空中に紋を刻むように編まれ、やがて光の鎖となって髪の束を厳かに縛り上げていく。
空間そのものが光に照らされ、色彩の影を落とすほどだった。
そして──
その神聖な沈黙を裂くように。
式神たちは“悪しきものを討つためだけに生まれた兵”として、宿命の光をまとい、容赦なき動きを開始した。
蒼龍が発する蒼気は水面に反射する月光のように揺らめき、
朱雀の紅炎は揺れる羽根の残光のように鮮烈な軌跡を描く。
白虎の白刃は稲光のごとき鋭い閃きを走らせ、
玄武の黒圧は光を吸い込む闇の波となって周囲を歪ませた。
四方の光と闇が渦を巻くように一点へと収束した瞬間、空気は完全に音を失う。
世界が色を奪われるほどの静謐が広がり、ただ四つの光だけが脈打つ心臓のように明滅していた。
しかし――
髪は、それでも止まらない。
いや、むしろ。
ドクン……
ドクン……!
ドクンッ!!
式神の力を受け止め、吸い込み、それを踏み台にして膨れ上がるように“内側から”さらに強まっていく。
青龍の蒼光がしなる。
朱雀の炎翼が揺らぎ、
白虎の光刃がきしみ、
玄武の黒圧が震えた。
(……まずい……
この式神でも、“抑えるだけ”が限界……!)
真雪は唇を噛んだ。
(……ならば……
わらわが、やるしかない……!)
四神が封印から離れたことで、結界はわずかに薄くなっている。
だがなお強固。
しかし、迷う余裕などなかった。
(……次の一撃で……
終わらせる……!!!)
真雪は小太刀を胸の前に掲げ、瞳を閉じる。
銀髪がふわりと揺れ、床に落ちた影がゆっくりと形を変えていく――
その影の奥で鎌首をもたげるのは、細く鋭い白蛇。
(……白蛇よ……
力を……
もう一重……)
小太刀を持つ真雪の腕に白い鱗が浮かびあがり、研ぎ澄まされた霊気が刃へ凝縮されていく。
式神が作り出した“唯一の隙”へ照準を合わせたその時――
――ガチャ。
玄関の扉が開く音。
「……え?」
集中がわずかに揺らぐ。
続く、落ち着いた足音。
聞き間違えるはずがない。
この家でその歩幅を取るのは――
「……ただいま。
……あれ?
朝倉さ――」
綾乃だった。
真雪の心臓が跳ねる。
「だ、だめ……ッ!!
綾乃さん……今戻っては……!!」
玄関の奥――
和室から漏れる眩光に、綾乃が足を止める。
「……え……
なに、これ……?」
「――急がねば……!!
綾乃さんを巻き込む前に……
ここで終わらせるッ!!」
その叫びに呼応するように――
ドクンッ!!!!
人形の髪が四方へ弾け飛び、式神が吹き飛ばされた。
青龍がはじかれ、
朱雀の炎が散り、
白虎の爪が砕け、
玄武の甲が軋む。
四神が大きく揺らぐ。
その瞬間――
人形の放つ“敵意”の全てが、式神へ向けられている。
真雪は――迷わなかった。
小太刀を握る手に息を吸い込み、胸の奥に残る最後の一滴の力までも、すべて刃へと流し込む。
指先から肩、背筋へと走る力の線がすうっと一本に束ねられ、世界の雑音が静かに遠ざかる。
周囲の空気がわずかに沈黙し、真雪の周囲だけが研ぎ澄まされた水面のように凪いだ。
そして――
真雪は地を蹴った。
畳が爆ぜるように軋み、体が弾かれた矢そのものとなって前へ伸びる。
しなる小太刀は、引き絞り切られた弓。
その切っ先の一点はこの世のすべてを貫く槍の矛先。
彼女の全てを載せた最後の一歩が、空気を裂く鋭い衝撃を纏い、刃を結界に突き出した。
結界に触れた瞬間、刃先がわずかに沈み――
――通った。
ぴしり、と緊張を断つ乾いた音が走り、結界の表面に細く白い線が刻まれる。
真雪は生まれたばかりの“通り”を逃さない。
全身の力を刃へ叩き込むように、渾身の気合いとともに小太刀を一気に振り下ろした。
その刹那、刃は白光を孕み、尾を引く閃光となって弧を描く。
――バギィィィィン!!
爆裂する破砕音。
白い亀裂が閃光の稲妻となって奔り、結界の奥深くまで一直線に突き抜けた。
斬撃はその亀裂へ吸い込まれるように沈み込み、内側から光壁を抉り裂く。
氷壁すら容易く断ち割る一閃が奔り、結界は悲鳴のような震動を放った。
目映い光柱が四方へ散り、結界は――
真っ二つに裂けた。
次の瞬間、裂け目から走った眩い衝撃が全体を包み込み、砕けた光片が花吹雪のように四散する。
(……いける……ッ!!)
真雪は裂けた結界の残光へ飛び込み――
目前に、人形が迫る。
(……あと一太刀……ッ!!)
蠢く髪が脈動し、美羽へ伸びかかる。
“生き物”などではない。
それは災厄そのもの。
「――斬れる!!
ここまで来たら……
必ず!!」
刃が白光を噴き上げ、髪の根へ振り下ろされ――
ガクン!!
真雪の膝が、突然抜け落ちた。
「っ……!?」
視界がぶれ、刃の軌道が空を切る。
あと数センチ。
それだけ。
それだけなのに――
どうしても、届かない。
力が抜ける。
腕が重い。
胸の奥で、何かがぷつりと千切れた。
(……うそ……
こんな……ところで……?)
白蛇の封印を破り、力を振り絞った反動。
霊力も体力も、すでに燃え殻のように崩れ落ちていた。
小太刀を握ったまま、真雪は床に落ちるように膝をついた。
伸ばした手は、振り下ろしの姿勢のまま凍りついたように動かない。
目の前で――
髪が蛇の群れのようにうねり、美羽へと迫る。
(……だめ……
間に合わない……!)
焦りではない。
怒りでもない。
胸の中心に、重く深く沈んでいくのは――
(……ああ……そうか……
これが……絶望……)
呼吸が止まった。
声も出ない。
ただ、美羽の命がこぼれ落ちていく未来だけが鮮明に突きつけられる。




