9章 裂ける闇の座
真雪は、美羽がいる背後の結界を背に、外から侵入してくる気配を一つたりとも見落とさぬよう、神経のすべてを研ぎ澄ませていた。
空気は張り詰め、日が傾いた屋敷の中はじわじわと影を伸ばしていく。
息を潜めているだけで、胸の奥が冷たくきしむような静けさだった。
しかしその静けさは、ただの“静寂”ではなかった。
音が聞こえないのではなく――
空気が音を呑み込んでいる。
耳鳴りのような、微かな圧が頬を押し、喉の奥を湿った指でなぞられているかのように息が吸いづらい。
畳の端がほとんど触れてもいないのに軋む気がして、真雪は唇を噛みしめた。
――その瞬間。
真雪の背後、結界の内部から、ぞわりと肌を逆なでするような、異様な気配が立ち上った。
その気配は“見えない手”となって真雪の背を撫で上げ、脊髄の奥を冷たく締めつける。
空気がわずかに波打つような感覚を覚えた。
「っ……!」
反射的に振り返った真雪の視界に飛び込んできたのは――美羽だった。
美羽が、まっすぐ前を見つめながら、頭上に人形を掲げ、動きを止めている。
その瞳は焦点を失い、光が抜け落ちている。
まるで……何かに操られているようだ。
「美羽ちゃん……?」
真雪が呼びかけても反応がない。
そして――
美羽に掲げられた人形が、不気味な気配をまとい始めた。
空気が低く唸るように震え、温度が一度、二度と下がっていく。
人形の身体が、ゆっくり、ゆっくりと宙へ浮き上がった。
真雪は息を呑んだ。
人形の髪の毛が……ドクン、ドクン、と脈を打っている。
まるで生き物の臓腑がそこにあるかのように、波打ち、うねり、何かを求めるように蠢いていた。
髪の根元から、ぬめるような黒い霊気がぽたりと滴り、畳に触れる寸前で蒸発する。
「――嘘、でしょ……?」
真雪の膝の内側が震える。
彼女が容易に立ち入れない強固な結界。
その中に、美羽と……人形がいる。
「まずい……!」
真雪は鞄から小太刀を抜き放ち、結界へ刃を当てた。霊力を込め、一気に振り下ろす。
――ガンッ!
結界が白く光り、衝撃波が逆流したかのように刃が弾き返される。
腕に痺れが走り、骨が軋む。
「くそ……!
住職の結界、強すぎる……!」
焦げるような焦りが胸の奥で暴れた、そのとき――
真雪は気づいた。
浮かんだ人形は、不気味なほどに動かない。
髪だけが脈打ちながら、しかし本体は微動だにしない。
「……あれ……?」
おかしい。
いや――
何かに“押さえつけられている”。
真雪の視線が、人形の頭に挿された簪へと引き寄せられた。
住職が作った簪が、鈍い光を帯びている。それは――護符の光。
「……なるほど……
簪が、髪の力を封じてるんだ……」
だが同時に理解した。
あの簪は――
決して“汚したリボンの代わり”なんかじゃなかった。
住職は最初から、美羽に不安を悟られぬように笑いながら……
人形に宿る異様さを見抜いていたのだ。
「……そういうこと……だったんだ……」
彼が不器用に笑って誤魔化した仕草。
紙の染みを気にするふり。
――全部、美羽を怯えさせないための優しい嘘だった。
「美羽ちゃん……
絶対、絶対に……
私が、守るから……!」
人形の髪が、また大きく脈動した。
ドクン――。
薄闇の中でその脈動を押さえつけるように簪の光が鋭く跳ねた。
封じた怪物が暴れ出すのを必死に抑えるように、光は痛いほど眩しく輝く。
「……っ、これ以上は……!」
真雪は歯を噛みしめた。
髪の脈動がひとつ強まるたび、簪の結界そのものがたわみ、空気が歪むのがわかる。
だが――
押さえ込みきれないほど、人形神の放つおぞましい力は増していく。
(……もう、時間がない……!)
胸の奥底がじりじりと焼けつく感覚に、真雪は決意を固めた。
真雪に残された“最後の手”を、ここで切らなければ――
間に合わない。
小太刀を両手で握りなおし、刃先を結界へ向ける。
刃は微かに震えているのに、真雪の腕は凛として揺らがない。
そして、真雪は低く、囁くように呪文を唱え始めた。
「――――白雪の朝に生まれ落ちし、わが魂よ……」
声が重なり、響きが深まり、空気が震え始める。
真雪のまわりに、目には見えない圧が渦を巻き始めた。
小太刀の切っ先が結界に触れた瞬間、鋭い火花のような光が散った。
僅かではあるが結界が揺らぎ、かすかな歪みが走る。
真雪はそれに追い打ちをかけるように、さらに呪文を強めた。
「……眠りて封じられし白蛇の理……!
いま一度、その片鱗を示したまえ……!」
刃に沿って白い光が走り、それが真雪の腕へ、肩へ、胸へと駆け上がっていく。
まるで体そのものが古の力を思い出すかのように、全身が淡く、凛と輝いた。
結界の内側。
髪の脈動は苦悶する心臓のように激しく波打ち、簪の光が一瞬だけ強まり――
押し返され、揺らぐ。
(……早く……!
今なら、まだ……
押し返せる……!)
真雪は自らを鼓舞するように、さらに一歩踏み込んだ。
結界の圧は凶暴だ。
腕は痺れ、肺が潰れそうだ。
それでも真雪は声を張り上げる。
「――我、これを人の世の理に逆らわず!!
ただ、護りのために振るう!!」
刃に宿る光が爆ぜた。
結界の表面に細い亀裂が走る。
「……もう少し……っ!」
真雪は両手で柄を握りしめ、さらに力を込めて押し込んだ。
足元が震えるほどの反動が返ってきても、踏ん張り、声を途切れさせない。
「束ねられし鱗の鎖よ……
いま一重――ほどけ――!!」
その瞬間。
真雪の瞳が大きく見開かれ、激しい白光が彼女の身体を包み込む。
――ビキビキビキッ……
パアァァンッ!!
鋭い破砕音。
真雪を封じ込めていた封印が弾けた。
光が奔った次の瞬間、真雪の黒髪は銀に、瞳は炎のような真紅へと変わり、その気配は周囲の空気さえ震わせるほど一変した。
封じられていた力が“一段階だけ”開き、そこに宿る密度がまるで別人のものへと跳ね上がる。
解放された真雪は、まるで風そのものが形を得たかのように後方へひらりと跳び下がり、低く深く腰を落とした。
銀髪が風を切って広がる。
指先まで研ぎ澄まされた気迫が、結界へ一直線に向けて集中する。
次の瞬間――
真雪の身体が“弾けるように”前へ走った。
足元の畳が軽く悲鳴を上げるほどの踏み込み。
流れ落ちる銀の線のように、彼女の体が滑らかに回転し、舞うような一閃の動作へつながる。
その回転はしなやかでありながら、刃の重みと気迫はひたすらに鋭く、重い。
すべての力を、ただ一点へ叩き込むための舞――。
そして、真雪の小太刀が結界へ放たれた。
――キィィィィィン!!
金属的な悲鳴が空気を裂き、結界の表面に一筋の光が走った。
だが――
結界は完全には砕けなかった。
真雪の一撃が穿った箇所には確かに亀裂が走り、蜘蛛の巣状に細かな線を広げている。
しかしその奥――
結界の“核”はなおも強靭さを保ち、ひび割れた表面を押し戻すように脈動していた。
「っ……!!」
次の瞬間、結界から放たれた猛烈な反発が真雪の身体を吹き飛ばした。
重い衝撃が全身を突き抜け、彼女の身体は畳へ激しく叩きつけられる。
背中から痛烈な衝撃が走り、肺から苦しげな息がこぼれた。
「……っ、は……!」
しかし真雪は倒れたまま、まだ結界の方へ手を伸ばしていた。
(……ここで……
諦められるか……!
美羽ちゃんが……
あの中にいるんだ……!)
内側では、人形の髪がひと際大きく脈打ち、簪の光が悲鳴のように揺れる。
(……まだ……!
まだ終わってない……!)
震える指先が、なお結界へ伸び続ける。
そのとき――
ドンッ!
勢いよく扉が開かれ、強い風のように楓が飛び込んできた。
「真雪ッ!!」
楓は蒼白な顔で真雪のもとへ駆け寄り、肩を抱き起こす。
「大丈夫!?
何が――」
だが言葉は、結界の内側を見た瞬間、凍りついた。
髪が蛇の群れのように蠢き、生き物のように脈動する人形――
その異様さに楓は息すら忘れた。
「……真雪。
あの人形……
山科さんが調べて分かったんだ。
あれは“死者の髪”で作られた特別な形代だった……!
本来、この世に残っていてはいけない……
ハロウィンの夜、死者の魂と共に燃やされなければならない人形だったんだよ……!」
真雪の瞳が強く見開かれる。
「……死者の、髪……!」
「うん。
あれは美羽を護る守り神なんかじゃなかった……!
美羽ちゃんは人形に魅入られていたんだ……
そして、人形はハロウィンの夜が来るのを……
待っていたんだ!!」
その言葉が、真雪の胸の奥で最後の警鐘のように鳴り響いた。
瞬間、真雪は楓の手を引き払うようにして立ち上がった。
膝が砕けてもいい。
胸が潰れてもいい。
美羽を救うためなら――。
「――ならば!
なおさら、今ここで断たねばならん!!」
真雪は小太刀を握り直し、結界へ向かって叫んだ。
――キィィィィィン!!
小太刀の刃が結界に叩きつけられる。
弾かれる。
それでも踏み込む。
――ドンッ!!
――ガンッ!!
――ギィンッ!!
肩が裂け、膝が崩れ、喉から苦しい息が漏れる。
それでも真雪は――止まらなかった。
「開けッ……!
わらわは、何のためにここにおると思うておる!! この程度で……
退くものかああああッ!!」
結界の霊圧は畳を削るほど強烈だ。
だが真雪は叫びすら飲み込み、小太刀を振りかざす。
――再び、結界へ。
その姿はあまりにも必死で、痛々しく、そして――
美しかった。
楓は思わず、前へ飛び出していた。
「真雪! 僕も……!」
だが――
一歩踏み込んだ瞬間。
何かが彼の体を掴みつけたように、動きが止まった。
「……え?」
全身が鉛のように重い。
前へ行こうとすればするほど、逆に押し戻される。
「……僕……
何も……できない……?」
座り込んだ膝が震える。
拳すら握れない。
目の前では真雪が血を流しながら立ち続け、美羽を守るために何度もぶつかり続けている。
「……美羽ちゃんを護りたいだけなのに……!
なのに……こんな時に……!
真雪が戦ってるのに……
僕は……何も……!」
結界は楓だけを拒んでいるかのようだった。
楓は必死に腕を伸ばそうとするが、体は鉛のように重たく、バランスが取れず倒れこんでしまう。
ポケットから庭で見つけた美羽のおもちゃの指輪が転がり落ちる。
楓はその指輪に手を伸ばすこともできず、悔しさと無力感に絶望し、ただ震えた瞳で見守るしかなかった。
真雪はなお叫ぶ。
「美羽ちゃんを――
この子を護るのは……
わらわじゃ!!
この小太刀に懸けて……
絶対に……
傷一つ付けさせはせんッ!!」
小太刀が閃き、結界が悲鳴のように震えた。
真雪が何度も、何度も結界に小太刀を叩きつけるたび、
――ガンッ!
――ギィンッ!!
鋭い音が室内を満たし、空気は震え、畳は軋んだ。
結界の向こう。
人形の髪の脈動は、もはや“脈”ではなく――
暴れる獣の鼓動だった。
ドクン……
ドクンッ……!!
髪が一本一本蛇のようにうねり、根元からどす黒い霊気を吐き出す。
簪がぎらりと光を強める。
パァァァァ――ッ!
光は瞬く間に結界全体を覆い、真雪の影を畳にくっきりと落とした。
「……っ、まずい……!
簪が――
もたぬ……!!」
真雪は構え直す。
――ドンッ!
――ガンッ!
――ギィンッ!
人形の髪の力はさらに膨れ上がる。
簪も悲鳴を上げるように光を増した。
――だが……
ピシ……
ピシピシッ!
簪の光に細かな亀裂が走った。
まるで限界を迎えた祈りが、ひび割れていくかのように。
(……もう保たん!!)
ひときわ強い光。
そして――
パリン……
硬質な硝子が静かに弾けるように、簪は細かな破片となって砕け散った。
光の粒となった欠片が宙へ舞い、ふわりと漂い――
そして消えていく。
光が完全に消えたとき――
そこには何ひとつ残っていなかった。
封印が――
完全に消えた。
直後。
人形の髪が、獣のように揺れ動き――
ドクンッ!
ドクンッ!!
ドクン――ッ!!!
次の瞬間。
髪はすべての方向へと、一斉に伸び――
無防備な美羽へ襲いかかった。




