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夜明けに捧ぐ華<妖怪寺鎮魂譜>  作者: 狐月華
2 『トルコキキョウの護り手』
16/19

6章 結び灯の座す間

泰巌は和室の畳の上に正座し、硯と筆、そして真新しい和紙を整然と並べた。

指先の迷いすら許されぬ結界の道具――

ひとつひとつを丁寧に扱う所作に、普段の飄々とした姿は微塵も残っていなかった。


真雪は少し離れたところに膝を折り、泰巌の手元をじっと見つめている。


お札は全部で九枚。

その数に真雪は小さく頷いた。


(九は“極め”――

さすがに、わらわでも知っておるわ。

これは結界の基本じゃ)


筆が紙を滑り、一枚目、二枚目、三枚目と迷いなく文字が刻まれていく。

張りつめた静寂の中、墨の香りがゆっくりと満ちていく。


しかし――

四枚目に差しかかったとき。


「……あっ」


筆先がわずかに震え、泰巌は眉をひそめた。


「むむっ……

こりゃあ“書き損じ”じゃな」


泰巌は札をつまみ上げ、苦い顔をする。

彼が結界用の札でミスをするなど、ほとんどあり得ない。

そのため、真雪の胸の奥に、ごく小さな氷の粒のような違和感が落ちた。


だが、泰巌は平然とその一枚を丸め、脇に置くと、ふたたび筆を取り直す。

筆致は変わらず、迷いも揺らぎもない。


やがて九枚すべてを書き終えたころ――


「じゅしょくー、なにしてるの?」


ふわりとした声が背後から降ってきた。


振り返ると、美羽が人形を抱いて覗き込んでいた。

首をかしげる仕草は小鳥のように愛らしい。


「おお、美羽ちゃん。

これはな、結界のお札をお習字しておるのじゃ」


泰巌の視線は自然と、美羽の抱える金髪の人形へ吸い寄せられる。

朝の光を浴びた白いリボンが、きらりと揺れた。


「……その人形、ちょっと見せてくれるかの?」


「うん!」


純粋な笑顔のまま人形を差し出す美羽。


泰巌が両手を伸ばそうとした、そのとき――


――カチャッ。


泰巌の太い指が硯の横の筆の柄を弾いた。


「あっ」


筆は宙で一回転し――


――ぽすっ。


人形の純白のリボンに、筆先が見事に命中した。


黒い墨が花のようにじわりとにじんでいく。


「………………」


静寂が一瞬だけ訪れ――


「やぁああああああああああっ!!」


美羽の泣き声が屋敷中を揺るがした。


「ひぃっ!?

ちょっ……

ご、ごめん、ごめん!

これは、その……

ほんに……!」


泰巌は真っ青になりながら、必死で取り繕おうとあたふたする。

真雪は額に手を当て、深々とため息をついた。


泰巌の視線がふと、丸めた書き損じの和紙へと滑った。


「……待っておれ、美羽ちゃん」


和紙を広げ、指先で折り筋をつけ始める。

その手つきは先ほど墨を走らせていたときよりも、むしろ真剣だった。


「な、何を……?」


真雪が呆れたように眉をひそめる。


泰巌は折り、返し、また折り――

やがて和紙は小さな花をあしらった繊細な簪へと姿を変えた。


墨の模様が淡い影となって、どこか儚い輝きを帯びている。


「美羽ちゃん、お人形さんのリボンの代わりじゃ。

これをあげよう」


泣き腫らした目のまま、美羽は慎重に簪を受け取った。


「……きれい……!」


泰巌がそっと人形の髪へ挿すと、簪は柔らかな光を受けて淡く煌めいた。


「……すごい……かわいい……!」


美羽の表情がぱぁっと明るくなり、泣き声は跡形もなく消えた。


「よかったのお……」


泰巌が胸をなでおろす。

真雪は肩をすくめながらも、優しい苦笑を浮かべた。


「……まあ、結果オーライかのう」


朝の緊張に満ちていた五百旗頭邸に、ほんのひと呼吸の柔らかさが戻った。


◆◇◆◇◆


準備を終えた泰巌は、美羽の手を軽く支えながら静かに和室へと向かった。

その背に続くのは、儀式の補助を任された真雪と、美羽の様子が気掛かりでならない綾乃である。


和室は邸宅の中心に据えられた“要”の間取りになっていた。四方の廊下はそこを巡るように伸び、まるで家そのものがこの部屋を守るために造られたかのようだ。


天井は吹き抜けとなっており、見上げれば、天窓から差し込む光が静かな柱の群れを淡く照らしている。

その光はどこか神域の差し込み光のようで、今から行われる儀式にふさわしい厳かな静けさを室内へ満たしていた。


綾乃が和室の中央に布団を敷き、美羽をそっと座らせる。

美羽は人形を胸に抱きしめたまま、じっと動かない。

不安げに揺れる瞳が、目の前に立つ二人――

泰巌と真雪――へ吸い寄せられる。


泰巌は、先ほどまでの軽口を叩いていた姿と同じ人物とは思えなかった。

深い紫の袈裟に身を包んだその姿は、時代の隔たりを超えて現れた法師のように厳かで、空気を一段、張り詰めさせる。


真雪もまた、白と朱の巫女装束に着替え、髪を一つに結い上げていた。

少女のような柔らかな表情は消え、そこにあるのは清浄な気配を纏う巫女の顔つきだけだった。


「さて……綾乃殿」


泰巌が静かに綾乃へ声を向ける。


「これより貼る結界は和室全体を囲うものじゃ。

ゆえに綾乃殿が敷居から一歩でも踏み込めば、結界が反応して跳ね返すやもしれぬ。外側に立っておる分には問題はない故に。

近くで見守って構わぬ」


綾乃は小さく息を呑み、敷居から半歩だけ下がった。


「……わかりました。

ここから見守らせていただきます」


「うむ。それでよい」


美羽は綾乃の方を向き、不安げに唇を揺らす。


「ママ……ここにいてね」


「もちろんよ。

すぐそばにいるわ」


綾乃は美羽の方に視線を送り、優しく微笑んでみせた。美羽は少しだけ肩の力を抜き、人形を胸に抱き直す。


「……よし。

始めるぞ、真雪」


「うむ。

わらわはいつでもよい」


泰巌は九枚のお札を丁寧に持ち直し、短く息を整えた。


――八枚は東西南北と四隅へ。

――残る一枚は中心の守護結印。


泰巌は部屋の中央へ歩を滑らせ、静かに膝をついた。


「真雪、結びの詞を」


「心得た」


真雪は息を整え、両手で鈴を包み込むように持ち上げた。

白い指先が微かに震えているのは恐れではなく――

これから呼び込む神気への、敬意と緊張ゆえ。


腕をゆっくり肩の高さまで引き上げ、しなやかな手首の返しとともに鈴をひと振りする。


しゃら――ん。


――その瞬間だった。


綾乃には見えないはずの微細な光の粒が、空気の膜を破るようにふわりと飛び立つ。

真雪の髪が淡く揺れ、泰巌の衣の袖に光が触れるように流れていく。


光の粒は“見えざる風”に導かれるように泰巌の周囲へ集まり、淡い光輪を描きはじめた。


満ちていく神気に、真雪は胸の奥で息を呑む。


鈴を胸の前で構え、意識を一点に注ぎ込む。


「清き光、満ち渡り給え。

天の御柱より降り注ぐ神威を請い、この地に宿るすべての穢れを――

祓い清め給え!」


真雪の声が空気そのものに染み渡るように響き、鈴の音がそれを追うようにひときわ澄んで鳴り渡った。


しゃら……ん。


その瞬間、光の粒がいっせいに震え、真雪の足元に淡く影を落とす。

細い光の筋は、目には見えぬ流れを掴むように漂いはじめ、やがて泰巌の周囲を巡る光輪の一部へと吸い寄せられていった。


神気が満ちていく気配に、真雪は胸の奥が熱くなるのを感じながら、鈴を胸前でしっかりと構え直した。


泰巌は一歩、静かに前へ進む。

その歩みには畳の沈みも足音もなく、ただ空気だけが僧の動きに合わせてわずかに流れを変える。

修めた者だけが到る“霊的な歩法”

――そんな言葉すら自然と浮かぶほどの静謐さだった。



東。


泰巌は東の敷居の前で膝をつき、胸前でゆっくりと印を結んだ。


札を持つ指先には一片の乱れもなく、見えない何かへ誓いを捧げるように丁寧な所作で鴨居へ札を押し当てる。


――ばさり。


札の裏から羽が擦れるような光の揺らめきが広がり、東側の空気が緑の気配を帯びて震えた。


「――東方より昇る、緑玉の神威よ。

青き龍、青龍よ、今こそ目覚めよ!

万象の活力をもって、結界に揺るぎなき礎を築け!」


唱え終えた瞬間、泰巌の気配と東の札が確かに結び付いた証のように空気がわずかに閉じる。


真雪は息を吸い、鈴の柄を軽やかになぞるように指を滑らせてから振る。


しゃらら……


「神意、ここに在り。

守護の光、結界の始端に宿り給え。

青龍の息吹――

この場へ清き流れをもたらし給え!」


鈴の音に馴染むように東の光が脈動した。


泰巌は衣を乱さぬよう立ち上がり、南へ歩みを移す。

その後ろ姿を追うように光の粒がふわりと動き、まるで儀式そのものが呼吸しているかのようだった。



南。


泰巌は深く一礼し、まるで火を灯すように手首を返して札を鴨居へ押し当てた。

触れた瞬間、部屋全体に熱が走り、赤い残光が揺らめく。


「――南方より舞い降りる、真紅の炎よ。

朱の鳥、朱雀よ、今こそ翼を広げよ!

全てを焦がし、なお浄める聖焔にて、結界の門戸を清め尽くせ!」


朱色の光がしゅう、と音を立てるように広がり、僧衣の裾はその熱に呼応するかのようにゆるやかに舞う。


真雪は南へ向き直り、凛と背筋を伸ばし、鈴を軽やかに振る。


しゃらん……


「朱雀の炎、その力を静め奉り、すべての穢れを焼き祓い給え。

結界の輝き、曇ることなく永劫に護り給え!」


熱が徐々に静まり、炎の名残が空中に金の粉のように散った。



続いて、西。


泰巌は畳にそっと触れ、まるで水底の底へ沈むように西側の空気が深い青を帯びていく。

札を掲げ、白山布を払うような柔らかな動作で鴨居へ貼り付ける。


「――西方より轟く、白銀の雷鳴よ。

白き虎、白虎よ、今こそ雄叫びを上げよ!

鋼鉄すら凌ぐ堅牢なる壁を以て、結界の防壁となれ!」


白い閃光が札の周囲で鋭く弾け、空気が刃物のように研ぎ澄まされていく。


真雪は前へ進み出て、札に宿る雷の気配をなぞるように鈴を静かに振った。


しゃん……


「白虎の咆哮よ、結界に力を添え給え。

この守りの壁、いささかも揺るぎなく、破られることなきものとならん!」


その言葉は鋭さと柔らかさを同時に孕み、雷の光を鎮めつつ、結界へ力を流し込む。



北。


泰巌は膝を折り、畳へ手をつくと、今度は大地から湧き上がるような重い気配が部屋の底に満ちはじめた。

札を掲げ、ゆっくりと鴨居へ据え付ける。

札が貼られた瞬間、家屋全体が深く息を吐くように空気が沈む。


「北方に湛えられしくろの深淵よ。

玄の亀、玄武よ、今こそ身を構えよ!

無限の静寂と深淵をもって、結界の根源を護り給え!」


真雪はその重厚な気配に寄り添うように息を整え、鈴をそっと振る。


しゃら……


「玄武の静寂、ここにあれ。

災厄を沈め、揺らぎを鎮め、この結界の底をどこまでも深く、揺るぎなく!」


四方の光が一斉に揺らぎ、細い光の筋が空中で結ばれた。

和室全体に透明な“壁”が生まれはじめる。


「まだ終わりではないぞ」


泰巌の声とともに衣が静かに揺れ、僧は八つの方角へと歩を進める。



北東――艮。


柱に近づき、泰巌は腰を落として札に手を添える。

山脈を撫でるように重い所作で柱へ押し付けると、札は吸い込まれるように貼り付いた。


床下から、土の気がどっと立ち上がる。


「陰陽の境、鬼門を開かせぬ!

山脈のごとき重厚なる土の力を以て、すべての邪気を圧し込めよ!」



南東――巽。


泰巌は札を掲げ、柱の木目に沿うように指先をすべらせて貼り付ける。

手首を返し、ふっと息を吹きかけると、柔らかな清風が渦を巻いて立ち上った。


「清き風よ、結界の内を巡れ。

淀みなき流れを保ち、浄化の道を満たし給え!」



南西――坤。


泰巌は掌を胸前で整え、重力を帯びたような動作で札を柱へ押し当てた。

札を貼り付けた瞬間、大地の気が中央へと収束し、空気にずしりとした重みが宿る。


「大地母神の慈悲と重力よ!

裏なる道の穢れを吸い込み、結界の境界を確固として固めよ!」



北西――乾。


泰巌は札を天へ祈るように高く掲げ、ゆっくりと柱へ据え付ける。

指が離れた瞬間、天井から透明な光がすっと降りる気配が生まれた。


「天空より臨む絶対の意志よ!

金剛の力をもって、結界の完成を宣し給え!」


八つの札が揃ったとき、畳を這うように伸びた影の線が光へと変じ、柱同士を結びながら龍のようにうねって吸い込まれていく。


「最後じゃ」


泰巌は中心へ戻り、守護結印の札を両手で高く掲げた。


真雪は胸前で鈴を横に構え、目を閉じて息を整える。


――しゃら、しゃらん……


鈴の音が空間を撫でるたび、無数の光の粒が中心へ吸い寄せられ、天井から降り注ぐ薄布のような柔らかな光が広がる。


泰巌は大地の底から響くような声で紡ぐ。


「八方すべて、満ちる!

四神の威厳、八極の堅牢、そして守護結印の慈悲と剛力――

ここに一つへと融け合え!

張り巡らされしは神威不滅の守護の檻!」


真雪は大きく目を見開き、中心の光へ向けて両の手を重ねる。


「結界の力、静かに、しかし確かに、この場に定まり給え。

神意のまにまに、円環は乱れることなく――」


「――陰陽の理、ここに成就す!」


泰巌が札を畳へそっと置いた瞬間、札は強烈な白光を放ち、部屋全体へ波紋が奔った。


真雪は祈るように呟く。


「……鎮まれ。

結われ。ここに、護られよ。」


光は四方八方から逆流し、中心へ収束し――


ぱん、と弾けた。


空気がしん、と静まり返る。


一片の乱れもなく、結界が張られたと誰の肌にもわかるほど明瞭だった。


「……できた。

強固な結界じゃ」


泰巌は深く息を吐き、額の汗をぬぐう。


「これで、美羽殿の身は確かに守られる」


真雪も肩を落とし、微笑を浮かべた。


「綾乃さま……大丈夫ですよぉ。

わらわが保証いたします♡」


美羽は不安げに泰巌を見上げたが、僧が穏やかに微笑むと、ほっと表情が緩んだ。


「……なんか、あったかい……」


美羽は人形を抱きしめ、綾乃は胸をなでおろす。


「ええ……本当ね。

安心していいのよ」


泰巌も静かに頷いた。


「それでよい。

守りは確かなものとなった」


こうして――

五百旗頭美羽を守るための“霊的防壁”は完成し、綾乃は結界の外に立ちながらも、それが確かに娘を包み込んでいるのを肌で感じていた。

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