4章 薄光に滲む痕
真雪がふと目を覚ますと、窓際のカーテンのすき間から、薄い金色の光が斜めに差し込み、部屋の空気を静かに満たしていた。
(……寝てしまっていた、みたいね)
いつ眠りに落ちたのか思い出せない。
昨夜の緊張が解けたのは、一瞬だけだったはずなのに。
真雪はゆっくりと身を起こし、隣のベッドに視線を向けた。
綾乃も、美羽も――
穏やかな寝息を立て、深く眠っている。
そのときだった。
(……ん?)
美羽の首もとに、微かな霊の揺らぎのようなものがかすめた。
真雪は眉を寄せ、そっと身を乗り出す。
光の角度が変わった瞬間――
「……っ!」
美羽の白い首筋に、細い、糸のような跡が一筋。
まるで昨夜の“光”に焦がされたかのように、赤黒い痣が薄く刻まれている。
真雪は瞬時に息を呑み、綾乃の肩に手を伸ばした。
「……綾乃さん、起きて。
すぐ……見てください」
「……え……?
なに……?」
寝ぼけた声で目を開いた綾乃は、美羽の首元を見た途端、呼吸を忘れたように固まった。
「……な……ッ……これ……」
声がかすれ、震え、言葉にならない。そのとき、廊下の扉く音が聞こえた。
「真雪、どうした――」
楓が言い切る前に、その視線は美羽の痣を捉え、表情が険しく引き締まった。
「……いつのまに。
真雪、何か気が付かなかったか……?」
楓の問いに、真雪は唇を震わせながら首を横に振る。
「……わからない。わからないの……。
わたし、ずっと……
すぐそばにいたのに……
全然、気づけなかった……」
自分の無力さが、胸の奥を鋭く刺した。
美羽の寝息は静かで、苦しげな様子もない。
それがかえって、異様だった。
何が起きたのか。いつ侵入されたのか。
真雪にも、楓にも、判断がつかない。
真雪は、震える手を握りこみながら言った。
「……もう、四の五の言ってる場合じゃないわ。
楓……私たちの手に負える状況じゃない。
住職を呼びましょう」
その声には、昨夜とは違う強い覚悟が宿っていた。
リビングの静寂よりも深く、部屋の空気は冷たく張りつめていく。
◆◇◆◇◆
綾乃と美羽、朝倉、真雪、そして楓の五人は、ひとまずリビングに集まっていた。
重苦しい空気が漂う中で、ただ一人、美羽だけが昨日と変わらぬ無邪気さで折り紙を広げて座り込んでいる。
朝倉はその隣に寄り添い、笑顔を絶やさずに折り方を教えていたが、その声の端々に張り詰めた緊張が滲んでいた。
楓は、そんなふたりをしばらく黙って見つめたあと、小さく息を吸い込んだ。
(……答えは聞く前から分かっている気もする。
けれど、確認しないわけにはいかない)
それは、今朝の美羽が見た“夢”についてだった。
「美羽ちゃん」
楓は柔らかい声で呼びかけ、そっと隣にしゃがんだ。
「ねえ、今朝見た夢のこと、少しだけ教えてもらえる?」
美羽は折り紙を広げた手を止め、「うん」とあっけらかんと頷いた。
「えっとね……
きのうとおんなじ夢だったの」
「昨日と同じ……?」
「うん。
ひがあってね、そこでおどってるの。
いまは、わたしと……えっと……」
美羽は首をかしげ、指を折って考える。
「“かおのない子”と、ふたりでてをつないでたの」
朝倉が息を呑む音が、かすかに聞こえた。
「顔が……ない?」
「うん。なんか、まっしろ……?
よくわかんないの。
でも、てをにぎってくれててね、いっしょにまわってたの」
美羽は何気ない調子で続ける。
「そしたらね、その子が、すうっていなくなったの。
ふうっと、とんじゃったみたいに」
楓は喉の奥が固くなるのを感じながら、静かに続けた。
「消えたとき……
何か言われた?」
美羽は折り紙を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「『次はキミの番だよ。待っててね』って。
へんな声だったよ。おとこのこかな、おんなのこかな……
わかんなかった」
真雪の背筋に、ひやりとしたものが走る。
「……その子の手は、どんな感じだった?」
楓はゆっくりと問いかけた。
美羽は少し考えたあと、ふわりと目を細める。
「なんかね……
あったかいときと、つめたいときがあったよ。
でも……」
言葉を探すように指を動かしながら美羽は続けた。
「……“ひもみたい”だった」
その瞬間、室内の空気が一段冷えたように感じられた。
楓はその感触を頭のどこかでつなぎ合わせながら、胸がざわつくのを抑えきれなかった。
(――やはり、あの痕と同じ……)
小さく息を吐くと、楓はソファに腰を下ろし、深呼吸した。
そして、スマートフォンを取り出す。
「……住職に連絡します」
画面をタップする楓の手元を、真雪はじっと見つめていた。
その指先が触れる瞬間、真雪は小さく息を呑み、ぐっと身を乗り出す。
「楓、待って。私から話す」
その声は、強がりとは程遠い、張り詰めた色を帯びていた。
楓は驚いたように目を瞬かせるが、すぐに無言で頷き、スマートフォンを差し出す。
真雪は受け取ったスマートフォンを胸の前で一度握りしめ、深呼吸すると耳に当てた。
呼び出し音が二度、三度――
『やあ〜おはよ〜!
今日もいい天気だぞい!』
間の抜けた、底抜けに機嫌の良い声。
リビングにいる全員の表情が微妙に固まった。
真雪の眉がピクリと跳ね、口元が引きつる。
「……住職。私、真雪。
昨日、依頼主の五百旗頭さんのご自宅で、依頼主のお嬢様、美羽ちゃんが“矢のような光”に襲われたの」
『ん〜?
なんじゃって?光?
ああ、あれか、よくあるやつじゃろ。
真雪ちゃんにかかれば、チョチョイのチョイじゃろ?
そんな気にするほどでも――』
「もう少しで美羽ちゃんが大怪我するところだったの!!」
真雪の声が弾け、楓は思わず背筋を伸ばす。
ソファでうとうとしていた朝倉が、はっと顔を上げた。
美羽も半分眠ったまま、何が起きたのかと目をこすった。
「それだけじゃないの!
今朝、首筋にくっきりと痣が浮かんでいたの!
これは“ただの不可思議現象”じゃない!」
『……ええと……それは……
まあ……心配……だな……』
住職の声がシュンとしぼみ、真雪は詰め寄るように言葉を重ねた。
手の甲には焦りでうっすら汗が浮いている。
「美羽ちゃんの命がかかってるの!
住職、今すぐ綾乃さんの屋敷へ来て!」
『いや、いやぁ〜
……それはちょっと……
無理なんじゃよ……』
真雪の目が細くなる。
楓は横で、息を殺すように見守った。
綾乃も、胸の前で指を組みながら不安げに真雪を見つめている。
「……無理って、どういうこと?」
『あ、あのじゃな……
どうしても外せん、大切な用事があってじゃな……』
「子どもの命より大切な用事があるっていうの!!?」
『い、いやその……
そういうつもりでは……!』
追いつめられた住職の声が裏返る。
真雪の握るスマートフォンがプルプル震えはじめ、楓は“危険だ”と喉を鳴らした。
「じゃあ教えて。
いったい、“何”を優先するつもりなの?
――はっきりと、教えてくれる?」
リビングが水を打ったように静まる。
折り紙をいじっていた美羽でさえ、動きを止めた。
沈黙が続いたあと――
『………………TJB48じゃ』
「……え?何?」
『……TJB48』
「何?そのTJB48というのは……」
「あ、真雪、TJB48というのは――」
楓が説明を始め、指で顎を触れながら言葉を選ぶ。
「地下アイドルですね。
アルファベットは本拠地の地名を示す48グループの一つで、TJBは東尋坊の…」
その言葉は、最後まで続かなかった。
真雪が、鬼のような形相で固まっていたからだ。
目は三角に吊り上がり、背中に黒い炎が立ち上がったかのよう。
楓はサッと一歩引き、喉がカラカラになる。
(……こ、これはヤバい)
「……ほぅ……そうか、地下アイドルとな……」
『そうじゃ!
TJB48の……ハロウィン……
限定ライブがあるんじゃ!……』
住職に真雪の表情は全くわかっていない。
真雪の震える肩、血が引いていく頬。
楓は「誰か止めて」と心で叫ぶ。
『いや、それだけじゃない!
その前にファンミーティングがあって……
今日はその、推しの“焔凛たん”の特別握手会が……!
数ヶ月ぶり?
……抽選で当たった……まさに神イベで……!』
墓穴を深く掘り続ける住職。
楓は片手で顔を覆い、朝倉は思わず「はぁ……」と長いため息を漏らした。
「……住職よ。
つまりおぬしは……儚い幼子の命の危機よりも……
己の“推し”の地下アイドルとやらを優先すると、そう言いたいわけじゃのぅ?」
真雪の声は低く、震え、冷え切っていた。
猫かぶりもいつの間にか消え失せ、背筋が伸び、空気がビリビリと震える。
『…………(沈黙)…………』
返事はなかった。
しかし沈黙こそが住職の答えだった。
真雪の手が震え、握ったスマホがカタカタと小さく音を立てる。
頬の筋肉が引きつり、怒りがこみ上げたせいで呼吸が浅くなる。
その瞬間、堰を切ったように真雪の怒気が爆ぜた。
「おんどれは、この生臭坊主が!!
どうしても外せない用事があると言っとったのは、あ、アイドルに会うため、じゃったと……?
そ、そうゆうことかえ?
ふ、ふざけるでないわあああッ!!」
「待って真雪!!」
楓が素早く手を伸ばし、振り上げられた真雪の腕が伸びきって振り下ろされる寸前、楓はスマートフォンを奪い取った。
ギリギリで床に叩きつけられるのを防いだ。
「はぁ、はぁ……!
楓、離すんじゃ――!」
「ちょっと待って、僕に話をさせて」
楓は真雪の肩にそっと手を添えて宥めると、スマートフォンを耳へ戻し住職に向き直った。
「住職。楓です。
昨日、美羽ちゃんが白い矢のような光に襲われました。
その光から美羽ちゃんの身を守るためには、生半可な結界では役に立ちそうにありません。
僕と真雪だけでは無理なんです」
綾乃は震える両手を胸元で握りしめ、視線を伏せる。
「それに、お屋敷にはご主人の趣味で海外の美術骨董品が多数あります。
その中に美羽ちゃんの夢の原因となるものがあるかもしれません。住職の経験と知識が必要なんです」
『じゃが、じゃがのうぅぅぅ……』
住職のしぼんだ声。
楓は額に手を当て、深く息を吸う。
「ひとつ質問です。
――五百旗頭綾乃というアナウンサーをご存じですか?」
『もちろん!
知っとるとも!!』
電話の向こうで弾けるように声が上ずった。
真雪は再び眉を吊り上げ、楓は頭を抱えた。
『綾乃ちゃんのファンクラブ、わし会員番号二桁じゃ!!
“公式初期組”といえばわかるじゃろ!
あの清廉な笑顔はのぅ、正に癒しで――』
「……そうですか。
それで十分です」
楓はため息を押し殺しつつ、隣で心配そうに見つめる綾乃へ視線を移した。
「綾乃さん。
住職に、直接お願いしていただけますか」
綾乃は静かにうなずくと、スマートフォンを受け取った。
一転して落ち着いた低い声で、住職へ呼びかける。
「……もしもし、住職さま。
私、五百旗頭綾乃です」
その瞬間、電話の向こうの住職の呼吸が止まった気配があった。
『……ッ!?
あやのたん、ご、ご本人……!?』
「はい。楓さんと真雪さんに娘がお世話になっております。
どうかお願いです。
これ以上、娘の美羽になにかあったら……」
綾乃は言葉を詰まらせ、息を整えた。
「……来ていただけませんか。
どうしても、あなたのお力が必要なんです」
その声音には、母親としての必死の願いが滲んでいた。
数秒の沈黙のあと――
『い、いきます!!
すぐいきます!!
今すぐ支度して飛んでいきます!!』
住職はさっきまでの引き延ばしが嘘のように二つ返事だった。
『あやのたん――いえ、五百旗頭さんのお願いを断るわけにはいかん!!
ほんの数分で出るからの!!』
ガタガタと支度するような物音が電話越しに聞こえはじめる。
『ま、待っとってくれい!!』
通話が切れた。
リビングには、ぽかんとした沈黙が再び訪れた。
真雪は唖然と口を開けたまま、かすれ声でつぶやく。
「……なんじゃ、あの態度は……」
楓は額に手を当てながら深い溜息をついた。
「……まあ、とにかく。
これで、住職は来てくれるみたいですね」
綾乃はほっと肩を落とし、胸に手を当てて「ありがとうございます」と静かに呟いた。




