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夜明けに捧ぐ華<妖怪寺鎮魂譜>  作者: 狐月華
2 『トルコキキョウの護り手』
13/16

3章 闇声の落ちる庭で(後)

綾乃が自宅に戻ってきたのは、深夜十二時を少し過ぎた頃だった。

玄関の鍵が開く音が、張り詰めた静寂に響き渡る。

家の中は温かな空気に包まれてはいたが、それは平穏とは程遠い、異様なほどに静まり返った空気に支配されていた。


リビングでは、美羽がソファの上で小さく寝息を立てていた。

「ママが帰るまで起きてるの」そう言っていた美羽だが、疲労と、それ以上の緊張に耐えきれず眠ってしまったのだろう。

朝倉はそっと美羽にブランケットをかけ直している。

その仕草には、どことなく不安が滲んでいた。


その横では、真雪がまだ少し強張った表情で座っていた。

さきほど恐怖で震えた肩は落ち着きを取り戻したが、その瞳の奥には、未知の脅威に触れたことへの生の恐怖が、深い影を落として張り付いている。


綾乃は仕事の疲れを隠しきれず、コートを脱ぎながら靴を揃える手も重い。

しかし、その疲労を押し殺すように、かすかに掠れた声で呟いた。


「……ただいま。遅くなってごめんなさいね」


楓が、警戒を解かずに静かに立ち上がり、綾乃の前に歩み寄った。


「綾乃さん、お疲れ様です」


楓は低く、丁寧な声で言った。


「私は、妖怪寺の住職の代理で参りました、深山楓といいます。

そちらが真雪です。

お嬢様の件について、少し腰を落ち着けてお話ししたいのですが」


綾乃は一瞬、眉をひそめたが、うなずいた。


「ええ、わかりました。朝倉さん、申し訳ないけれど、何か飲み物を」


「すぐに」


朝倉は静かに立ち上がり、簡単な飲み物を用意して運んできた。


ソファで眠る美羽を気にかけながら、綾乃、楓、真雪、そして朝倉の四人はダイニングのテーブルについた。静かな部屋に、グラスが置かれる小さな音だけが響く。


楓は改めて姿勢を正し、先ほどの出来事を慎重に伝えた。


「綾乃さん。

実は……お嬢様、美羽ちゃんと玄関の飾りつけをしていた時、美羽ちゃんが正体不明の光に襲われたんです。

あれは……人のものではありませんでした」


綾乃の目が大きく見開かれ、疲れの影は一瞬で凍りついた。


「光……?

美羽が、危ない目に……?」


「はい。

美羽ちゃん自身に怪我はありませんでしたが……

とっさの出来事で私も真雪も何もできませんでした」


楓の独白に朝倉が震える声で続けた。


「美羽さんが抱いていた、あのお人形が。

まるで身代わりのように、光を受けたんです。

あの子が、あの人形が美羽さんを守ったんですよ」


真雪は、ただテーブルの上の湯気の立つ飲み物を見つめている。

先ほどの恐怖がまだ残っているのか、人形の行動に対して特に意見を述べる様子はなかった。


楓は朝倉の言葉にうなずきつつも、その瞳の奥には何かを探るような思案の光が宿っていた。

しかし、今はそれを口にはせず、静かに続きを待った。


綾乃は息を呑み、テーブルから視線を上げ、ソファで眠る娘へと向けた。

その視線はわずかに震えている。

横で人形は、静かに、美羽の腕の中に収まっていたが、その静けさ自体が不気味な気配を放っていた。


「……お願いします。

美羽に、何が起きているのか――どうか、教えてください」


楓は静かに息を整え、綾乃へ向き直った。


「……綾乃さん。正直に申し上げます。

今の時点で、美羽ちゃんに“何が起きているのか”を断定することはできません。

美羽ちゃんを襲った光も、その正体が何なのかは……」


綾乃は唇を震わせながら小さく頷く。


「まだ、確証を得るには材料が足りません。

……夜が明けたら、庭を調べさせてください。

そうすれば、何かわかるかもしれません」


リビングの空気が、さらに張り詰める。


「ですが――」


楓は静かだが力のある声で続けた。


「今は原因を追うよりも、この夜を乗り切ることが最優先です。

今夜、再び何かが起こる可能性があります。

美羽ちゃんを朝まで無事に守り抜くこと。

それが、今できる最も重要なことです」


楓の言葉は落ち着いていたが、その奥には強い覚悟があった。

今夜、何が起こるかわからない。

その確信が、冷たい現実として全員の胸を支配していた。


綾乃は静かにうなずきを返し、楓は慎重に言葉を選びながら続けた。


「綾乃さん、今夜、再び何かがあるかも知れない、真雪と二人、今夜はこの家に泊まらせてください」


綾乃は戸惑うことはなかった。


「お願いします。助かります」


「ありがとうございます。

そして、美羽ちゃんは決して一人にしないように……

今夜は綾乃さんも一緒にお休みください」


「そうね、わかったわ」


綾乃は同意し、美羽を抱き上げようとソファに近づいた。


朝倉は心配そうな顔で綾乃と美羽を見つめている。


「奥様、わたくしも一緒に……」


「朝倉さんは、体を休めてください。

美羽ちゃんのことは僕たちに任せてください」


楓は穏やかに、しかしきっぱりと制した。

次いで、楓は真雪に向き直る。


「真雪、もしかしたら窓から何か襲ってくるかも知れない。

綾乃さんの寝室で、窓とベッドの間で休んで欲しい」


真雪は、恐怖に強張っていた顔をわずかに緩ませ、小さく頷いた。


「わかったわ」


「そして、僕は――」


楓は廊下に目を向けた。


「寝室のドアの前の廊下で休みます。

何かあったらすぐに呼んでください」


話し合いが終わると、家の中には再び静寂が落ちた。


朝倉は綾乃の寝室に必要なものを整え終えると、深く一礼して自室へ下がっていった。


綾乃はそっと美羽を抱き上げ、眠ったままの娘の重みを確かめるように胸に抱きしめながら、静かに寝室へ向かっていく。

真雪もまた、震えの余韻を押し隠しながら、その後に続いた。


そしてリビングには、楓だけが残された。

時計の針が刻む音が、やけに大きく響く。


楓はソファに背を預けることもなく、部屋の片隅で腕を組んだまま目を閉じた。

しかし、眠る気配はない。

むしろ、脳裏の思索はますます深みへ沈んでいく。


(……あの光。

確かに異質だった。だが――)


胸の内で浮かんだ直観に、楓は小さく眉を寄せた。


(怒りも、怨みも……

憎悪の気配すらなかった。

霊的な存在なら、何かしら“感情の残滓”が混じるはずだ。

あれには……“何も”感じられなかった)


鋭利で、冷たく、ただ一直線に放たれた光。

それには、敵意、殺意、害意、どれも、驚くほどに欠けていた。


そしてもうひとつ、胸の奥にわだかまりとして残っているものがあった。


(……あの声だ)


光が消えたあと、庭の闇から響いた、獣のような低いうなり声。


真雪が恐怖で身をすくませた、あの不気味な響き――


だが楓には、まるで違うものに聞こえていた。


(あれ……“唸り声”じゃない。

怖がらせようとする音じゃない。

……訴えていた。

まるで、何かを必死に伝えようとしているみたいに)


形にも言葉にもならない、ぎりぎりのところでこぼれ落ちるような声色。


苦しみのようでもあり、焦りのようでもあり――


そして、どこか切実だった。


(美羽ちゃんを狙ったように見えて――

結果的に当たったのは人形の髪だけ。

本当に“美羽ちゃんを狙った”のだろうか?)


答えにたどり着くには、材料が足りない。

しかし、楓の胸に沈んだ“違和感”は、重くはっきりと形を持ち始めていた。


静かな室内の奥、寝室へ続く廊下に目を向け、楓はひとつ息をつく。


「……考えても仕方ない。

夜が明けたら、必ず何か掴めるはずだ」


そう小さく呟き、楓は廊下の薄闇へ歩み出した。


家全体が息を潜めるような気配に包まれる中、夜は、ひっそりと深まっていった。

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