3章 闇声の落ちる庭で(後)
綾乃が自宅に戻ってきたのは、深夜十二時を少し過ぎた頃だった。
玄関の鍵が開く音が、張り詰めた静寂に響き渡る。
家の中は温かな空気に包まれてはいたが、それは平穏とは程遠い、異様なほどに静まり返った空気に支配されていた。
リビングでは、美羽がソファの上で小さく寝息を立てていた。
「ママが帰るまで起きてるの」そう言っていた美羽だが、疲労と、それ以上の緊張に耐えきれず眠ってしまったのだろう。
朝倉はそっと美羽にブランケットをかけ直している。
その仕草には、どことなく不安が滲んでいた。
その横では、真雪がまだ少し強張った表情で座っていた。
さきほど恐怖で震えた肩は落ち着きを取り戻したが、その瞳の奥には、未知の脅威に触れたことへの生の恐怖が、深い影を落として張り付いている。
綾乃は仕事の疲れを隠しきれず、コートを脱ぎながら靴を揃える手も重い。
しかし、その疲労を押し殺すように、かすかに掠れた声で呟いた。
「……ただいま。遅くなってごめんなさいね」
楓が、警戒を解かずに静かに立ち上がり、綾乃の前に歩み寄った。
「綾乃さん、お疲れ様です」
楓は低く、丁寧な声で言った。
「私は、妖怪寺の住職の代理で参りました、深山楓といいます。
そちらが真雪です。
お嬢様の件について、少し腰を落ち着けてお話ししたいのですが」
綾乃は一瞬、眉をひそめたが、うなずいた。
「ええ、わかりました。朝倉さん、申し訳ないけれど、何か飲み物を」
「すぐに」
朝倉は静かに立ち上がり、簡単な飲み物を用意して運んできた。
ソファで眠る美羽を気にかけながら、綾乃、楓、真雪、そして朝倉の四人はダイニングのテーブルについた。静かな部屋に、グラスが置かれる小さな音だけが響く。
楓は改めて姿勢を正し、先ほどの出来事を慎重に伝えた。
「綾乃さん。
実は……お嬢様、美羽ちゃんと玄関の飾りつけをしていた時、美羽ちゃんが正体不明の光に襲われたんです。
あれは……人のものではありませんでした」
綾乃の目が大きく見開かれ、疲れの影は一瞬で凍りついた。
「光……?
美羽が、危ない目に……?」
「はい。
美羽ちゃん自身に怪我はありませんでしたが……
とっさの出来事で私も真雪も何もできませんでした」
楓の独白に朝倉が震える声で続けた。
「美羽さんが抱いていた、あのお人形が。
まるで身代わりのように、光を受けたんです。
あの子が、あの人形が美羽さんを守ったんですよ」
真雪は、ただテーブルの上の湯気の立つ飲み物を見つめている。
先ほどの恐怖がまだ残っているのか、人形の行動に対して特に意見を述べる様子はなかった。
楓は朝倉の言葉にうなずきつつも、その瞳の奥には何かを探るような思案の光が宿っていた。
しかし、今はそれを口にはせず、静かに続きを待った。
綾乃は息を呑み、テーブルから視線を上げ、ソファで眠る娘へと向けた。
その視線はわずかに震えている。
横で人形は、静かに、美羽の腕の中に収まっていたが、その静けさ自体が不気味な気配を放っていた。
「……お願いします。
美羽に、何が起きているのか――どうか、教えてください」
楓は静かに息を整え、綾乃へ向き直った。
「……綾乃さん。正直に申し上げます。
今の時点で、美羽ちゃんに“何が起きているのか”を断定することはできません。
美羽ちゃんを襲った光も、その正体が何なのかは……」
綾乃は唇を震わせながら小さく頷く。
「まだ、確証を得るには材料が足りません。
……夜が明けたら、庭を調べさせてください。
そうすれば、何かわかるかもしれません」
リビングの空気が、さらに張り詰める。
「ですが――」
楓は静かだが力のある声で続けた。
「今は原因を追うよりも、この夜を乗り切ることが最優先です。
今夜、再び何かが起こる可能性があります。
美羽ちゃんを朝まで無事に守り抜くこと。
それが、今できる最も重要なことです」
楓の言葉は落ち着いていたが、その奥には強い覚悟があった。
今夜、何が起こるかわからない。
その確信が、冷たい現実として全員の胸を支配していた。
綾乃は静かにうなずきを返し、楓は慎重に言葉を選びながら続けた。
「綾乃さん、今夜、再び何かがあるかも知れない、真雪と二人、今夜はこの家に泊まらせてください」
綾乃は戸惑うことはなかった。
「お願いします。助かります」
「ありがとうございます。
そして、美羽ちゃんは決して一人にしないように……
今夜は綾乃さんも一緒にお休みください」
「そうね、わかったわ」
綾乃は同意し、美羽を抱き上げようとソファに近づいた。
朝倉は心配そうな顔で綾乃と美羽を見つめている。
「奥様、わたくしも一緒に……」
「朝倉さんは、体を休めてください。
美羽ちゃんのことは僕たちに任せてください」
楓は穏やかに、しかしきっぱりと制した。
次いで、楓は真雪に向き直る。
「真雪、もしかしたら窓から何か襲ってくるかも知れない。
綾乃さんの寝室で、窓とベッドの間で休んで欲しい」
真雪は、恐怖に強張っていた顔をわずかに緩ませ、小さく頷いた。
「わかったわ」
「そして、僕は――」
楓は廊下に目を向けた。
「寝室のドアの前の廊下で休みます。
何かあったらすぐに呼んでください」
話し合いが終わると、家の中には再び静寂が落ちた。
朝倉は綾乃の寝室に必要なものを整え終えると、深く一礼して自室へ下がっていった。
綾乃はそっと美羽を抱き上げ、眠ったままの娘の重みを確かめるように胸に抱きしめながら、静かに寝室へ向かっていく。
真雪もまた、震えの余韻を押し隠しながら、その後に続いた。
そしてリビングには、楓だけが残された。
時計の針が刻む音が、やけに大きく響く。
楓はソファに背を預けることもなく、部屋の片隅で腕を組んだまま目を閉じた。
しかし、眠る気配はない。
むしろ、脳裏の思索はますます深みへ沈んでいく。
(……あの光。
確かに異質だった。だが――)
胸の内で浮かんだ直観に、楓は小さく眉を寄せた。
(怒りも、怨みも……
憎悪の気配すらなかった。
霊的な存在なら、何かしら“感情の残滓”が混じるはずだ。
あれには……“何も”感じられなかった)
鋭利で、冷たく、ただ一直線に放たれた光。
それには、敵意、殺意、害意、どれも、驚くほどに欠けていた。
そしてもうひとつ、胸の奥にわだかまりとして残っているものがあった。
(……あの声だ)
光が消えたあと、庭の闇から響いた、獣のような低いうなり声。
真雪が恐怖で身をすくませた、あの不気味な響き――
だが楓には、まるで違うものに聞こえていた。
(あれ……“唸り声”じゃない。
怖がらせようとする音じゃない。
……訴えていた。
まるで、何かを必死に伝えようとしているみたいに)
形にも言葉にもならない、ぎりぎりのところでこぼれ落ちるような声色。
苦しみのようでもあり、焦りのようでもあり――
そして、どこか切実だった。
(美羽ちゃんを狙ったように見えて――
結果的に当たったのは人形の髪だけ。
本当に“美羽ちゃんを狙った”のだろうか?)
答えにたどり着くには、材料が足りない。
しかし、楓の胸に沈んだ“違和感”は、重くはっきりと形を持ち始めていた。
静かな室内の奥、寝室へ続く廊下に目を向け、楓はひとつ息をつく。
「……考えても仕方ない。
夜が明けたら、必ず何か掴めるはずだ」
そう小さく呟き、楓は廊下の薄闇へ歩み出した。
家全体が息を潜めるような気配に包まれる中、夜は、ひっそりと深まっていった。




