2章 火輪の夢のほとり
五百旗頭綾乃――
その名を口にした瞬間、楓の脳裏に輪郭のはっきりしたその凛とした横顔が浮かんでいた。
芸能人にさほど興味のない楓でさえ、名前を聞けば顔がイメージできるほどの有名キャスターである。
だが、その知名度の高さは真雪にはまったく伝わらない。
真雪にとってテレビとは『動く絵が映る気味の悪い板』という認識しかない代物で、芸能の世界や有名人への興味など皆無だった。
綾乃が“全国区の顔”だと言われても、おそらく彼女はきょとんとするだけだろう。
それに反し、妖怪寺の住職もまた綾乃の名を聞けば当然のように気づくはずだった。
しかし、今回寺に依頼を寄せてきたのは、綾乃ではなく夫である五百旗頭慎一の名だった。
そのため、住職は姓の珍しさに綾乃の名前が頭を掠めたかも知れないが、依頼人が“旦那のほう”であったため、まさか妻が有名キャスターとは思いも寄らなかったのだろう。
――住職が気づいていたら、大騒ぎになっていたに違いない。
その点については楓は胸を撫で下ろしていた。
余計な騒ぎの種は無いに越したことはないからだ。
朝倉に案内され、楓と真雪は応接用の客間へ通された。
玄関から客間へ向かう廊下には、異国の香りをまとった多種多様な美術骨董品がずらりと並んでいた。
象牙に動物が彫り込まれた彫刻の置物、繊細な金細工のランプ、色鮮やかな刺繍の布屏風――
国も時代もばらばらに見えるそれらは、所狭しと並べられているのに、不思議と雑然とはしていない。
ひとつひとつが丁寧に手入れされ、ピタリと整った位置に鎮座していた。
しかし真雪の目には、見つめると奥から視線が返ってくるように感じられる赤銅色の仮面、人の顔のようなシミの形が浮かび上がる異様な雰囲気を放つ古びた木像など、何やら曰くありげな物もいくつか含まれているように感じられた。
日本古来のものだと付喪神が付く場合もあるが、海外の品はどうなのだろうか。
真雪が眉をひそめると、楓がそっと朝倉に尋ねる。
「……こちらのお宅、海外のものが多いんですね」
朝倉は穏やかに微笑んでうなずいた。
「ええ。
旦那さまのご趣味でして。
外交官でございますから、各国を回られますの。
その折、良い品があれば時々こちらへ送って来られるんですよ」
二人が通された客間は柔らかなクリーム色の壁紙に、落ち着いた木製の家具、几帳面に磨かれたテーブルの上には、季節の花を生けた小さなガラス瓶が置かれていた。
ハロウィンめいた装飾はなく、この家の空気は街の喧騒とは対照的に、ひんやりと落ち着いていた。
「奥さまがお戻りになるまで、少しお時間がありますので……
先に、私から美羽さんのことをお話ししておこうと思います」
朝倉は湯気の立つ温かいお茶を淹れ、真雪と楓の前に置くと、テーブルの上に指先を重ねて静かに息をついた。
その表情には、どこか迷いと、言葉を慎重に選ぼうとする影があった。
「実は……
美羽さん、最近ずっと悪い夢を見ているようでして」
楓は姿勢を正し、真雪は“可憐な女子高生”の顔を保ったまま、こくりとうなずく。
「最初は“変な夢を見る”程度のことだと思ってたんです。
でも……毎夜毎夜同じような夢を見るらしく、本人も気になっているようで……」
朝倉は言葉を継いだ。
「……真っ暗な場所で火が燃えていて、その火の周りを子どもたちが手をつないで踊っている夢を見るそうなんです。
そして……」
楓は眉を寄せる。
真雪は相変わらず愛らしい表情のままだが、その瞳の奥ではひそかに観察している光があった。
「最初は十人ほどいた子どもが、夜ごとに一人、また一人と減っていくそうで……
今朝はもう二人しかいなかった……」
朝倉は膝の上で手を組み直し、不安を押し隠すように唇を結んだ。
「最初のうちは怖くはなかったと言っていました。
みんな笑っていたから。
でも……子どもが減るにつれて、怖くなってきた、と」
その言葉に、真雪が机の上でそっと指を重ね、小さくうなずいた。
「……それって、すごく心細かったんじゃないかな。
美羽ちゃんの夢の中、最初はいっぱいいたお友だちが……
一晩ごとに、ひとり、またひとりって消えちゃうんでしょ?」
その隣で、楓が静かに続けた。
「今朝はもう二人しか残っていなかったって……。
このままいくと、誰もいなくなるのが――
ちょうどハロウィンの三十一日の夜になる、訳ですね」
楓が静かに言う。
真雪は胸の前で腕を組み、ほんのり眉を寄せた。
その仕草の裏には、説明のつかないざわつきがあった。
胸の奥から滲み出る不安が、彼女の表情を静かに曇らせているのだ。
――嫌な予感がする。
「それだけではなくて……
朝起きると、今朝、初めて気が付いたのですが、美羽さんの首に赤い筋のような痕が付いていて……」
「赤い……筋、ですか」
「はい。
まるで細い紐で締め付けたような……
昨日までは無かったと思うんですが……
気が付きませんでした」
朝倉は小さく首を振り、続けた。
「それで……
私から奥さまにお伝えして、奥さまが旦那さまにご相談されて……
それで、旦那さまからご住職さまにご依頼させていただいたのだと思います。
もしかしたら、美羽さんに何か恐ろしいことが起こる前触れではないか、と」
楓はゆっくり呼吸した。
真雪は、にこりと優しい笑みを崩さずに――
(……赤い筋に夢の火。
子どもが減る踊り。
なるほど、妙に具体的よの)
と内心だけで冷静に分析する。
説明が一段落した、そのときだった。
――コトリ。
廊下のほうで何かが軽く当たるような音がし、三人がそちらを向く。
扉が少しだけ開き、そこから小さな影がそっと顔をのぞかせた。
「……まきちゃん?」
大事そうに、淡い色の服を着た古い人形を抱えた少女――
美羽が立っていた。
白いワンピースの胸元にしっかりとその人形を抱きしめ、どこか不安げに、けれど興味深そうに客間の中を見つめている。
「あら……美羽さん。
お部屋でお休みになられているものかと」
朝倉が少し驚きながら声を掛けると、美羽は首を小さく横に振った。
「おトイレに眼が覚めたの。
そしたら……
まきちゃんが、だれかとおはなししてるの、聞こえたの」
美羽が眠そうに目をこすりながら答えた。
その手に抱えた人形は、古い物なのか色あせてはいるものの、どこか大切に扱われてきた気配があった。
金髪の女の子をかたどったその人形は、少しゆるく波打つ髪が肩のあたりでふわりと広がり、淡い色のガラスの瞳がどこか遠くを見つめている。
その金色の髪には、小さな純白のリボンが結ばれており、色あせた雰囲気の中でそこだけがひときわ清らかに際立っていた。
人形が身につけているのは、シンプルなブラウスと膝丈のスカートの組み合わせだった。
生地自体は決して高級な素材ではないようだが、ブラウスの襟元や袖口、スカートの裾には、細やかで美しい刺繍が施されている。
糸の一本一本が丁寧に重ねられており、作り手のこだわりや愛情がはっきりと感じられるほどだった。
服の色は時間とともにくすんでしまっていても、その刺繍の線は今もなお力強く優しく、人形全体からは長い年月を経ても薄れない“愛された痕跡”が静かに漂っていた。
楓はそっと美羽に視線を合わせ、柔らかい声で微笑んだ。
「こんにちは。
ぼくは楓、今日は君のお話を聞きに来たんだよ」
真雪はぱっと嬉しそうな笑顔を浮かべ――
「はじめまして、美羽ちゃんっ。
わたし、真雪っていいます。
かわいいお人形さんだねぇ」
と明るい声で言った。
(ふむ……ふむ。
この幼子が“夢見る少女“か)
内心では、真雪の目つきが鋭く細まっていた。
美羽は少し緊張しつつも、二人の様子に安心したようで、ぎゅっと人形を抱き直した。
美羽はおずおずと楓のそばまで歩いて来ると、そっと問いかけた。
「……ねぇ、かえでさん。
ハロウィンって、なぁに?」
その言葉に、真雪の目がきらりと光る。
「えっとですね、美羽ちゃん。
ハロウィンというのは……
“サウィン”って呼ばれる古ケルトの祭儀が起源なんですけど……
その実態って、ただの季節のお祭りとかじゃなくて、“死者と生者の境界が崩壊する”っていう、かなり根源的且つ――」
「あ、ちょっ、真雪さんストップストップ!」
楓が慌てて手を伸ばし、真雪の説明を遮った。
「えぇ〜、これからが良いところだったのに……!」
「だって美羽ちゃん、あんまり濃い説明すると眠れなくなっちゃいますよ」
楓は苦笑しながら美羽へ向き直る。
「ハロウィンってね、街をいっぱい飾りつけしていろんな服にお着替えして――
子どもたちはお菓子をもらえたりすることもある楽しいお祭りなんだよ」
楓はそう言って、美羽の顔をのぞき込むようにやわらかく微笑んだ。
その視線は、つい先ほど通り過ぎてきたばかりの、オレンジと紫の光で飾られた店先を追いかけているようだった。
「たくさんの人が楽しそうに笑っていて、街中がキラキラしていて――
とても素敵な夜なんだよ」
「……うん。
テレビでみてきれいだなって、思ったの」
美羽の瞳が、きらきらと揺れる。
「……おうちも、かざりつけ、していいの?」
その問いに、真雪はぱっと表情を明るくした。
「もちろんですっ!
ハロウィンの飾りには、“悪いものを追い払う力”があるって言われてて……
だから、お家だと特に玄関に飾りを置くのが、と〜ってもいいと思います♡
美羽ちゃんのイヤな夢も、きっと遠くへ行っちゃいます!」
「……ほんと?」
「はいっ、ほんとですっ」
真雪は胸の前で指を組み、ふわりと微笑んだ。
その笑顔は可愛らしく、頼りなげで、守られる側の少女を完璧に演じてみせていた。
「じゃあ……じゃあね!
かざりつけ、したい!
ママが帰ってきたら、びっくりするかな……?」
楓と真雪は顔を見合わせ、にこりと笑った。
「それ、いいね」
「はいっ。
とってもすてきなサプライズになりますよ〜♡」
その時、少し離れたキッチンの方で、ごそごそと物音がした。
振り向くと、朝倉がパントリーの棚を開け、奥の方から大きな丸い影を抱え出しているところだった。
「こんなことも、あろうか…っと」
朝倉は頬をゆるませ、立派なオレンジ色のカボチャをそっとテーブルに置いた。
「それ、カボチャ……?」と美羽が目を丸くする。
「ええ。
実はですね、明日みんなで飾りつけしようと思って、買っておいたんです。
そうゆうお話ならば、せっかくだから、今からこれも一緒に飾ってもいいかもしれないですね」
楓が感心したように目を瞬かせる。
「朝倉さん、流石ですね〜」
「ふふ、たまたまですよ」
真雪は両手を胸の前で軽く合わせ、ふわっと微笑んだ。
「わぁ……すてきです〜。
こんなにかわいいカボチャがあったら、玄関がいっきに楽しくなっちゃいますね♡」
美羽は嬉しそうにカボチャへ駆け寄り、そっと触れた。
「これも、おまもり……に、なる?」
「うん。きっとね」
楓が優しく答えると、美羽はさらにほっとしたように頬をゆるませた。
こうして、綾乃が帰宅する前に――
一人の少女と三人の大人、そして一つのカボチャで、五百旗頭邸の玄関を飾りつけて小さな“魔除けの準備”をすることが決まったのだった。




