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初夜

 婚姻から三日、夫婦は必ず共に夜を過ごさなければならない。その最初の夜だ。


 アウラは、頭を下げたまま王を迎えた。

 衣擦れの音が、入り口からこちらへと近づいてくる。

 視線を注がれているのを感じる。

 小さな息を吐いたあと、吸い方がよくわからなかった。


 長い旅を超えて、ようやくたどり着いた地で、一人きり。祖国は遠く、アウラを知るものは誰もいない。


「アウラ・アウリア・エル・イルル・スマール王女」


 もう二度と聞くことのない自身の名前を耳にして、驚いて顔を上げそうになったけれど、堪える。すると、さらに驚いたことに、聞こえてきたのは流暢なスマール語だった。


「顔を上げて欲しい。私は山城ケイ。ケイは、うやまうという意味の、敬という字を使う。この国では、字には特別な意味が込められている。ごく親しい人にしか教えることのない大切なものだ。あなたに今夜、その意味を教えるのは、あなたのことを敬い、良い関係を築いていきたいと思っているから。アウラ。あなたは私の前で、頭を下げる必要はない」


 アウラは、顔を上げた。ケイは膝をつき、アウラを見つめていた。


 部屋には窓のようなものはない。山城の城塞の中の奥深く、洞窟住居の一室だ。あかりの届かない部屋の隅は薄暗く、しかしそれが夜空のように見えて、アウラは目を瞬いた。ケイのせいかもしれない。彼はまだ先程の金色の衣装のままで、薄暗い部屋の中では月の光のような色彩をしていた。


 そう、月の光だ。

 彼の柔らかさは月のあわい光に似ている。祖国の砂漠を照らす、強烈な日差しではない。冴え冴えとして理知的でありながら、あたりをやわらかく照らす月の光。


「……驚きました。私の国の言葉を知っているのですね。スマール国の第一王女、アウラです。どうぞよろしくおねがいします、ケイ様」


 スマール国は大陸にある。隣国は別の言語を使うが、どんな通訳の者でも、これほど美しいスマール語は話せないだろう。それが海を隔てた遠い島国の、王である人が話せるとは思わなかった。


「私は他にも、幾つかの国の言葉を学んでいる。スマール語は少々自信がなかったのだが、通じて嬉しい」


 ケイはにっこりと微笑んだ。


「歓迎するよ、アウラ。私の国へ来てくれてありがとう。こうして言葉をかわすのが、夫婦となったあとのことになって、申し訳ない。少し話そうか。そうだ、私の弟とは仲良くなれたかな?」


 アウラは不思議な心地で、ケイの手を取り、立ち上がった。そうして寝具のそばから、絨毯の上に移動した。山城では布の上に直に座る。椅子や机といった家具はないのだ。


 義弟との対面が親しみのあるものだったかについて、「ええ」と社交辞令で返そうか、それとも正直に話そうか、アウラは思案した。予想よりもずっと好意的な態度を示されて、どんな振る舞いが最適かはかりかねている。その一瞬の間で、ケイは何事かを察したらしく、苦笑した。


「私は鷹に乗れないから、迎えには行けない。それなら弟のことを知ってもらいたいと思ったのだが……あの子は少しばかり言葉足らずなところがあってね。だけど優しい子なんだ。すぐにわかると思う」

「はい」

「あなたには、私とこの山城を、好きになってもらいたい」

「お心遣いありがとうございます」


 ケイはうん、と頷いた。


「さて、徐々に伝えていこうと思ったんだが、私にはあまり時間がなくてね。ひとつ確認しておきたいんだけど、あなたがここへ嫁いできた目的はなんだろう?」


 アウラは、ハッとケイをみた。その顔には何の含みもない。

 ――山城の国の秘密を探れ。

 父からの言葉を思い出して、どきりとしていたけれど、これは心の奥に深くしまって、決してけどられてはならないことだ。


「私が嫁いできたのは、ふたつの国の友好のために」

「そうだね。君は友好のために来た。そこのところをはっきりとさせておきたかった」


 ケイは立ち上がると、手を後ろに組み、部屋の中を歩き出した。思いの外、きびきびとした動作の人だった。


「御存知の通り、この国は戦の最中だ。私は戦に出ることはないだろうが、王としてこの国のためにこの身を捧げたいと思っている。しかし私には、私の目的のために、共に歩んでくれる味方がいない。それは私の目的が、もし山城の人々が知ったら、到底受け入れられないものだからだ。けれども、私の目的は一人では成し得ない。だから独りきりで寄る辺のないあなたを、ぜひ味方に加えたい」


 味方。その言葉の意味について、アウラは思案した。

 后を味方にしたいというのはつまり、アウラの国を味方にしたいということだろうか?

 しかもそれは、山城の人々の意向にそぐわない目的のために、ということか。

 ケイは何を言おうとしているのだろう?

 アウラは困惑した。


「それは……共に為す目的というのは、ふたつの国の友好、ということよろしいのでしょうか?」


 確かめるように聞くと、ケイはまた、朗らかに微笑んだ。肯定とも否定ともわからない。


「時が来たら、私の目的を話そう。あなたに通訳はつけなかった。しばらく私がその役目をする。これから毎日、私のもとで、この山城のことを学んでほしい。そしてあなたのことを、山城の人々に教えてほしい」

「ケイ様が、通訳を……」

「そう。あなたは片時も離れず私のそばにいることになる。さて! 初日はここまでだ。とにかく今夜は、私はあなたの絶対的な味方で、それには王としての理由があり、そして、あなたに好かれたい。あなたは私の家族になるのだから。それを伝えたかった。疲れただろうから、ゆっくりおやすみ。明日から忙しくなる」


 ケイは、手を差し出した。アウラはケイの話をうまく飲み込めないまま、その手を取った。忘れそうになっていたが、今夜は初夜だ。


 婚姻とは二つの血を一つにすることでもある。

 この、不思議な空気のまま閨へ向かうのだろうかと、アウラは怪訝に思ったが、身を任すように手を差し出した。しかしケイが求めたのは、予想に反してただの握手だった。


「アウラ。この国に来てくれてありがとう」


 ケイはしっかりとアウラの手を握り、そして離した。

 戸惑うアウラを部屋に残し、部屋から去っていく。

 一人きりになったアウラはその場に立ち尽くし、薄い布で覆われた夫婦の寝床を見遣った。


 酷く疲れていたアウラは、一人きりで眠りにつけることをありがたく思ったが、これは国と国の婚姻であり、初夜に花嫁が放置されることは、喜ばしいことではないのだろう。

 ケイの心のうちがわからなかった。

 素直にケイの印象を受け取るならば、彼はアウラが思っていたよりもずっと、良い。好感を持った。けれど……。

 アウラは酷く疲れていた。この数日、慣れない旅のせいでよく眠れていないのだ。

 緊張の糸がぷつんと切れた脳では、深く考えることができない。重い身体を引きずって寝具へ辿り着くと、泥に沈み込むように、深い眠りに落ちていった。

 

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