ぬいぐるみになる日
それは、ある閉店後の夜だった。
ノノは、くまちゃんの背中にゆっくりと手を当てた。
その感触は、かつてよりもずっと“固く”なっているように感じた。
湿り気も、動きの反応も、すべてがなくなっている。
まるで――中に誰もいない、本物のぬいぐるみのように。
「……そう、とうとう来たんだね」
ノノはうれしそうに微笑んだ。
スーツの内側に閉じ込められていた“ハル”は、もう何日も、反応を返さなくなっていた。
呼吸も、動きも、わずかな振動すらない。
けれど、ノノにはわかる。
(中にいる“彼”は、もう完全にくまちゃんの一部になった)
ウサちゃんも同じだった。
目の前に立つ二体のぬいぐるみは、完璧に“無”の存在となり、ただ静かにそこにあった。
「今日からはもう、イベントには出さないわ。
ここに運んで、ずっとそばに置いておく。……ね?」
ノノは、二体を一つずつ大きな白い布で丁寧に包んだ。
それはまるで、何かを“封じる”儀式のようだった。
着ぐるみとしての機能を失い、人間としての記憶も失った二人は、
ただの愛される“モノ”として静かにその場に横たえられた。
「これでもう、苦しくないね。重さも、汗も、視界の狭さも――
全部、自分のものになった。……だから、もう感じないでしょ?」
ノノは、倉庫の奥にある“私物展示棚”へと二体を並べた。
そこには、すでに何体ものぬいぐるみたちが並んでいた。
どれも、少しだけ不自然に膨らみ、温もりを宿した、“中にいた形跡”を持つ空洞たち。
「これで、完成……ね。
私のコレクションは、“中身が誰かだったか”じゃなくて、
“もう誰でもない”ってところがいいの」
ノノは灯りを落とし、そっと扉を閉める。
そして、静寂の中に残されたぬいぐるみたちだけが、
なにも語らず、なにも動かず、ただそこに在った。
ふわふわの毛並み。
ゆるやかな笑顔。
そしてその中には――
もう、誰もいない。
わたしは知ってるの
そのふわふわの中に、まだあなたがいることを
誰も知らないけれど
誰も気づかないけれど
――わたしだけは、ちゃんと見てる
呼吸を止める練習、上手になったね
瞬きもしない
声も漏らさない
そう、もう“あなた”じゃなくて、くまちゃん
それが、本当にすてき
布越しに伝わるの
鼓動の代わりに、わたしの手の温度が沁みていく
あなたの名前が、少しずつ抜けていく音がする
中身じゃないってことは
――わたしにとって、永遠ってこと
だれにも触れられない
だれにも壊されない
だれにも知られずに
あなたは“そこに”いてくれる
愛してるわ
動かなくなってからのほうが、ずっと
あなたはきれいになった
だから、今日も灯りを落として
ガラス越しに、そっと囁くの
「大丈夫。ねえ、息してる?
――してるなら、なおさらいい。
してなくても、もっといい」