くまちゃんの隣に立つ子
ある日、ノノがもう一体のスーツを抱えて控室に現れた。
ピンク色のウサギの着ぐるみ。
ふわふわの耳と、つぶらな目。くまちゃんとは対になるような、明るく愛らしい姿。
「この子、今日からくまちゃんの“お隣”ね」
ノノの言葉のあと、控えめな足音とともに入ってきたのは、一人の少年だった。
まだ制服姿が残るくらいの年齢。
怯えたような目で、ノノと、その隣のぼく――くまちゃんを交互に見ていた。
「だいじょうぶ。着ぐるみは怖くないよ。……ね? くまちゃん」
ノノが優しく微笑んで、ぼくのぬいぐるみの手をとった。
ぼくは、ほんの少しだけ、手を上げてみせた。
それを見た少年の目に、わずかに好奇心の光が戻る。
――ああ、わかる。
その気持ち、ぼくもかつて感じた。
着ぐるみの中に入るということ。
自分の顔を隠せること。
重たい布に包まれて、自分じゃないものとして存在できること。
少年はやがてウサギのスーツに腕を通し、足を入れ、ゆっくりと頭をかぶった。
ノノがその背中のファスナーを丁寧に閉めながら、優しく言う。
「ねえ、ウサちゃん。
もう中のことなんて考えなくていいよ。
ここにいるのは、あなた自身……“ぬいぐるみとしてのあなた”なんだから」
くまちゃんの隣に、もう一体のウサちゃんが並ぶ。
ピクリとも動かず、まるで最初からそこにいたかのような存在感。
通路を通る人々が、展示ガラスの前で足を止める。
「かわいいね」「中に誰かいるのかな?」
そんな声が、ぼくたちの外側を流れていく。
でも、もう誰も本気で“人が入ってる”なんて思っていない。
動かないぬいぐるみは、ぬいぐるみとしてそこにあるだけ。
――ウサちゃん。
いま、君の中ではきっと、ぼくと同じ“溶け始める音”がしているだろう。
最初は違和感だった内部のこもった空気、擦れる布の感触、
自分だけが聞くこもった鼓動の音。
それが、だんだんと落ち着いてきて、
やがて安心になり、
最終的には、“ぬいぐるみの身体の一部”になる。
ノノがぼくたちを並べて、うっとりした表情でつぶやいた。
「うん、いい眺め。……中身のない展示品って、ほんとに癒されるね」
その言葉が、誇らしかった。
ぼくは“展示される存在”であることに、静かな誇りを抱いていた。
ウサちゃんもきっと、すぐに気づくだろう。
人間でいるより、ずっと楽だということ。
誰にも名を呼ばれなくても、ここにいるだけで“愛される”ということ。
――ようこそ。
ここは、「中に誰もいない」者たちの国だ。