中に誰もいませんよ
「くまちゃんは……動かなくても、十分かわいいね」
ノノがそう言って、ぬいぐるみの肩をぽんと叩いた。
その言葉に、ぼく――いや、“くまちゃん”は、小さくうなずいた。
この場所に運ばれてから、もう何日が経ったのだろう。
ショッピングモールのイベントスペース。
人通りのあるガラスケースの中に、くまちゃんは“飾られている”。
最初の数日は、訪れた子どもたちが不思議そうに「動いた!」とはしゃいでいた。
でもある日を境に、ぼくはもう動かなくなった。
ノノに言われたのだ。
「くまちゃんは、今度から“展示用”になるの。ほら、“中に人なんていない”って……みんなに信じてもらわなきゃ」
だからぼくは、じっとしている。
笑った顔を保ち、ふわふわの手を膝にのせて。
呼吸も、まばたきもしない。ぬいぐるみとして、完璧な“モノ”になった。
でも、中にはちゃんと意識があった。
(ぼくは、ここにいる……ここで、動かずに見られてる……)
スーツの内側は蒸れて、じっとりと肌に張りついている。
でもその不快感さえも、いまは“自分の体の一部”になっていた。
汗や匂いや熱すら、くまちゃんの皮膚として、ぼくの身体をつくりあげている。
誰かが目の前に立つ。
写真を撮る音。指でつつかれる感触。
(見られてる……でも、誰もぼくを“人間”だなんて思ってない……)
それが、心地いい。
“中の子”なんていない。ただのくまちゃん。動かないぬいぐるみ。
でも中では、微かに呼吸してる。気持ちいいとも、嬉しいとも感じている。
だけど、誰も知らない。
ノノが時折、閉店後に見にくる。
そのたびにそっとガラス越しに微笑んで言う。
「ちゃんと、ぬいぐるみになれたね。ハルくん……
もう誰も、“あなたがいた”ことなんて覚えてないよ」
それは、悲しさではなく、静かな喜びだった。
ぼくがいた証なんて、いらない。
ただ、“くまちゃん”としてここにいてくれれば、それでいい。
そして――明日は、別の新しい着ぐるみが搬入されると聞いた。
新しい“誰か”が、ぼくの隣で、もう一度「人間じゃなくなる過程」をたどっていくのだろう。
そのとき、ぼくは……
となりで、何も言わずにじっと見守っているつもりだ。
まるで本物の、
“中に誰もいないぬいぐるみ”として。