ぼくじゃない笑顔
「さあ、今日はお客さんの前に出ようね、くまちゃん」
ノノがそう言うと、ぼくは自然と頷いていた。
もう“ぼく”と呼ぶのがふさわしいのかもわからない。
この手も足も、くるんとした目も、全部“くまちゃん”のものであって、
その中にいる“何か”は、それを動かしているだけの、ぼやけた存在だった。
イベント会場には親子連れが集まっていて、照明がまぶしい。
でも、くまちゃんの視界は狭く、ふわふわと世界が遠い。
(……誰も、ぼくのこと、知らない)
誰も“中の人”を見ていない。
「くまちゃん!」と呼ばれるたびに、歓声を受けるたびに、
“ぼく”が存在しないことに安心する。
ぼくの動きはゆっくりで、愛嬌があって、ちゃんと笑顔で。
それはもう演技ではなかった。
あらかじめ“決められた動き”など必要なかった。
ぼくの中にあるのは、ぬいぐるみとしての振る舞いだけ。
ノノが舞台袖から見ていた。
「うん、完璧……まるで、中身なんてないみたい」
その言葉が、妙に嬉しかった。
(そう……中身なんて、もういらない)
汗で湿ったスーツの中。
体が徐々に重くなるのは、疲労じゃなかった。
ぼくという人間が、ほんとうに“くまちゃん”の中に染み込んで、布と、綿と、縫い目の一部になっていく感覚だった。
イベントが終わっても、ぼくは脱ごうとしなかった。
ノノがチャックに手を伸ばしたとき、そっとその手を押さえて言った。
「……まだ……」
ノノは驚かなかった。むしろ、にっこりと微笑む。
「……ふふ、そうだよね。くまちゃんは、もう“人間の姿”になんて戻りたくないよね」
ぼくはこくんと頷いた。
布越しの音も、視界の狭さも、すべてが心地いい。
体はどんどん、くまの皮膚とひとつになっていく。
それはまるで、記憶ごと吸い込まれていくような感じだった。
ノノが最後にこう言った。
「大丈夫。これからは毎日、着なくてもいいよ。
――だって、もう、あなたは“くまちゃん”そのものなんだから」