ぼくが、ぼくじゃなくなる夜
これは、“着ぐるみを着る話”ではありません。
これは、“着ぐるみとして生きていく”誰かの、静かな記録です。
ふわふわの毛並み、閉じられた視界、音を吸い込む布の壁。
そこは外の世界と切り離された、ぬくもりの檻――
けれど、その中にこそ、安心と快楽、そして「ほんとうの自分」があったのです。
人の形をしたくなかった少年が、
名を持つことよりも、呼ばれる存在でいたかった少年が、
やがて「くまちゃん」になるまでの物語。
あなたが読もうとしているのは、
中に人がいたはずの着ぐるみに、
――“中身なんて最初からいなかった”と言われるまでの過程です。
控室の空気は静かだった。
それなのに、ぼくの胸は、ずっとどくどくと音を立てていた。
目の前にあるのは、大きな、茶色いクマの着ぐるみ。
ふわふわの生地に丸い耳、どこか眠たそうな表情の顔。
そして開かれた背中のジッパーが、今にもぼくを飲み込もうとしている。
「……入る?」
ノノが優しく囁く。
ああ、もう逆らえない。ぼくはただ頷いて、そのまま足を入れる。
足首まで、ふくらはぎ、太もも……
少しずつクマのぬくもりが、ぼくの体温と混ざり合っていく。
中は柔らかくて、ほんの少し湿っていて、どこか甘いにおいがした。
「この中、落ち着くでしょ? 昨日もずっと入ってたんだから、もう……なじんでるんじゃない?」
ぼくは返事をしなかった。ただ、腕を通し、頭を被る。
その瞬間、視界が狭くなり、世界がくぐもった。
ぬいぐるみの頭の内側に響く、自分の呼吸。
「シュッ、シュッ」とこもる音。
そしてファスナーが、背中を締め上げていく音――
――カチッ。
鍵がかかった。
「これで今日も、くまちゃんの出来上がり」
ノノが言った。
ぼくは、もうクマだった。大きな耳、太い腕、もこもこの足。
そのどれもが自分の体の一部のように、重くて温かい。
「ねぇ、中の子、まだ残ってるの?」
ノノがぼくの前にしゃがみ、顔を覗き込むように聞く。
だけど、言葉が出ない。出せない。
言葉を出せば、“中の子”がまだいると証明してしまうから。
ノノはそっと、ぬいぐるみの腹を撫でる。
「ほら、もう君の鼓動は、こっちに移ってるでしょ?
お腹の奥でドクドクって、ぬいぐるみが呼吸してるの。
中身なんて、もう……どこにもいないよ」
ぼくの中で、確かに何かが変わっていた。
肌と布地の境界が、曖昧になっていく。
汗をかいているはずなのに、それはクマの体が“温まってる”だけのような気がした。
「どう? もう、“自分”って感じしないでしょ?」
ノノの声が、遠くて、でも心地いい。
まるで催眠のように、ぼくの輪郭を消していく。
(もう……くまちゃんで、いい……)
思ったときには、立ち上がっていた。ノノに言われなくても。
クマの足が、ぬいぐるみの手が、勝手に動く。
「よくできました。くまちゃんは今日も、すっかり中身のないいい子だね」
笑顔のノノが、そっと撫でてくれる。頭も、背中も、お腹も。
どこを撫でられても、それは“ぼくの”身体じゃなかった。
もうずっと、クマのぬいぐるみだった。
だから、名前も、年齢も、顔も、いらない。
――ぼくは、“くまちゃん”になった。