第2話-2
あれは、8歳の暑い夏の日の昼下がりのことだった。
「本日の魔術のお勉強はこれで終わりです。よく頑張っていらっしゃいますね。少し休憩を挟んで、剣術の稽古のお時間になります。」
「ありがとうございます。」
先生が部屋の呼び鈴を鳴らすと母がアンナと共に入って来た。
「先生、毎日どうもありがとうございます。フェリクスの出来はどうですか?」
母が尋ねた。
「勉学の方は大変よろしい出来かと思います。この調子なら4年後の学園受験も希望が持てるのでは。」
「あらまぁ本当ですか!よかったじゃないのフェリクス!」
「……別に。」
「ただ、まぁ、礼儀作法の方が少しまだ練習がいるかも知れませんね…。」
「あら…フェリクス、それはだめよ。貴族として社交の場での情報交換は重要なのだから。…そうだ、今度わたくしのお友達を呼んでお茶会を開こうかしら!それぞれの子供も連れてきてもらってフェリクスのお友達に…!」
「ヒッ…」
「フェリクス様、実践の機会も重要ですわ。奥様のおっしゃる通り、交友関係をお広げになるのも貴族のたしなみです。」
アンナまで説教を始めた。誰も分かってはいない、幼く社交性の乏しかったフェリクスにとってそのお茶会というものがどれほど恐怖の対象だったか。
「い、いやだ!僕は魔術の勉強の方がしたい!」
「フェリクス、これはやりたいかやりたくないかではなく、やらなければならないことよ。」
「魔術の勉強よりお友達と遊んだほうがきっと楽しいですし利益にもなります。一度でも試されてみては?」
「魔術の勉強だって利益になるじゃないか!」
誰も理解してくれないのだと思った。悲しくて悔しくて、フェリクスは心の赴くままに走り出した。追いかけてくる大人たちを習いたての攻撃魔術で威嚇し、屋敷の人間を振り払って王都の街へ駆け下りた。
王都は暑い夏だと言うのに人で溢れかえっていた。市場は賑わい、道端で自分と同じくらいの子供たちが思い思いに走り回って遊んでいる。手をつないではしゃぐ親子や大繁盛の出店、逢瀬を楽しむ恋人たちの間をくぐり抜けてフェリクスは限界まで走った。
いつの間に郊外まで来てしまっていたのだろう、フェリクスは貴族の住む中心地からは少し離れた王都郊外に着いてやっと足を止めた。辺りは静寂に包まれ、人の気配は薄くまばら。フェリクスは急に知らない場所に来てしまったと焦った。がむしゃらに走ったせいでどの道を通ってきたのかよく覚えていない。走り続けて疲弊した体は酸素に飢えていて、頭もよく回らないけれど、どうやらここが中心地のように治安のいい場所ではないのは幼い彼にもわかった。
一人の男が、フェリクスに声をかけた。
「坊ちゃんここらじゃ見ないナリしてんね〜。城の方の子供か?」
「は、はい…。」
「っは、満身創痍じゃん。それじゃあこのあたり知らねえんだろ?いいところ連れて行ってやるよ。」
「え、あ、」
引き上げられるままに立ち上がり、フェリクスが男についていこうとしたその時。
「捕まえたーっ!!!」
まるで赤い稲妻のようだった。少女特有の無垢な高い声と共に現れた稲妻はフェリクスを飛び越えた。腕をつかんでいた男は一瞬にして吹き飛ばされて姿を消し、次の瞬間フェリクスの目に映ったのは黒い泡に剣を突き立てる紫交じりの赤髪を結い上げた少女だった。
「だいじょーぶ?こいつ弱いから殴っちゃえばよかったのに!ついて行っちゃいけないんだ!」
「その人、それ、魔物だったの…?」
「そぉだよ、食ったやつに変身するの!」
知らないの?とでもいうように首を傾げた少女は腰が抜けてしゃがんだフェリクスを見下ろした。
「お嬢〜っ!いきなり飛び出しちゃだめって昨日もマスターに言われたばかりでしょう!」
「あ、エスクード!おっそ〜い、先にしとめちゃったじゃん!」
「それは結構なことですが…!お嬢に何かあったら首が飛ぶのは俺なんですけど、!?」
「首がとぶ?」
「あーーなんでもないです、なんでも!帰りますよ!君も大丈夫?早くお家に帰りなよ。」
エスクードと呼ばれた男性はフェリクスの前にしゃがんで諭すように話した。人当たりの良さそうな男性に気が緩んだフェリクスは無意識のうちに立ち上がって去ろうとする2人を呼び止めていた。
「ま、待ってください!僕、家を出てきてしまったんです。だから、せめて明日までの間、お二人のお屋敷に泊めては頂けないでしょうか?!無理を言っているのは承知しております、その上で、どうかどうかお願い致します…。」
2人は顔を見合わせた。
「ねえ、君。」
エスクードが言った。
「もしかして君、貴族の子?」
フェリクスは当然、というふうに頷いた。
「そうか、だから……そうか…。」
「貴族だと、いけないのでしょうか…?」
「いや、逆におれたちの方がいいのかなって感じだよ。」
エスクードは含みのある笑顔で微笑んだ。その絶妙な顔の真意が気になったフェリクスではあったが、それを訊けるほどの余裕はなかった。
「おやしき?には住んでないけど、うちに来る分には父さんも何も言わないよ!」
エスクードが許可したのに便乗してか、リタも得意げな様子で微笑んだ。
*
「そのあと僕はギルドに連れて行ってもらって、そこから実家に連絡がいって翌朝には連れ戻されたし説教も受けた。でもあの日見たリタの動きが忘れられなくて、何度も何度も親を説得してジュステ冒険者ギルドに通ったんだ。母と同じ治癒属性が分かってからは冒険者の皆にも一層可愛がられるようになったのだけど、やっぱり近衛騎士の夢は諦めたくなくて剣もリタと一緒に教えてもらったんだよ。」
「リタ嬢の家を見たときにはびっくりしただろう、大きくて。」
「ああ、僕の屋敷よりずっと広くて大きかったから唖然としてしまったよ。」
「ははっ、そうだよな。俺も初めてジュステ冒険者ギルドを訪ねた時は驚いたよ、そこらの貴族の家より立派で堅牢なんだもの。」
「中に入るともっとすごいぞ。中庭で集会と手合わせをしているんだが、そこでは年に1回全冒険者トーナメントがある。あの中庭だけは絶対に壊れないからどんな手も使っていい。」
「そしてその当時からリタ嬢は強かったわけだ。」
ジョヴァンニは二段ベッドの上の段から顔だけ覗かせている。貴族としてこんな長時間に渡って同世代と語る経験がない分、2人ともやけに興奮している自覚はある。
「少なくとも僕は、リタに勝てたことはない。たまたま同い年で誕生日も近かったから手合わせでもセット扱いされがちで、その度に『で、今日も相方に負けたのか?』ってからかわれるのがいつも悔しかったよ。もう慣れてしまったけれど。」
「それはお気の毒に。」
「全くだ。」
部屋の扉の横に設置されたベルが鳴る。どうやら夕飯の時間のようだ。2人はベッドから跳ね起きると一階の食堂まで駆けていった。




