9. 猛襲、定期試験! (前編)
定例星見会が終ると、わたしたちには、恐ろしい定期試験が待っている。特に苦手とする数学は、最大の難関と言い換えてもいいだろう。星見会が終わると、すぐに気分を切り替えて、試験勉強を開始しなければならない。それは、苦行みたいなものだけど、高校生である以上避けては通れない。
腹をくくったわたしは、学校の授業が終わると、勉強道具を抱えたまま、市立図書館へ向かった。市立図書館には、大きな勉強室が設けられており、利用する学生は多い。わたしもその一人で、上級生が占有する学校の図書室を避けて、市立図書館の勉強室を利用しようと考えていたのだ。
ところが、考えることはみな一緒。わたしが市立図書館に到着するころには、すでに勉強室は満席の状態だった。しかも、密集する人の所為でやけに騒がしい。これでは、試験勉強なんて出来ないかもね、と思いながら、会議室ほどもある勉強室を見渡していると、隅の方の席に、見慣れた背中を見つけた。あれは、有里香だ。
「おおーい」
声をかけようとして、わたしは踏みとどまった。有里香の向かいに座る数馬の姿も見つけたからだ。奥手な有里香が勇気を振り絞って、数馬を試験勉強のお供に誘い出したに違いない。下手に声をかけて二人の邪魔しちゃいけない。
わたしは出かかった声を飲み込んで、二人がわたしに気付く前に踵を返した。
仕方ない、大人しく家に帰って勉強するか……。頑張りたまえ、有里香! わたしは、友人の恋の行方をそっと応援しつつ、家路に就いた。
だけど、やっぱり自分の部屋では集中力が沸かない。ノートと教科書に三十分も向かうと、集中力が途切れてペンを落としてしまう。ともすれば、そのままノートに突っ伏して眠ってしまいそうな勢いだ。リビングに下りて冷たい麦茶でも飲んでこようか、それとも、ちょっと気分転換にサッカーバカの愚弟でもからかってこようか。どうせ、あいつも試験勉強に頭を悩ませている頃だろう。などと、下らない悪戯心が芽生え始めるのとほぼ同時に、机の隅に置いた携帯電話が鳴る。バックライトに照らされたディスプレイには、有里香からのメールの着信を知らせる文字。メールを開いてみると、
『どう? 勉強はかどってる?』
なんて、軽い調子で文面は始まった。その語感だけで、有里香の明るい笑顔が思い浮かんでしまう。ところが、続く文字にわたしの眠気は一気に吹き飛んだ。
『今日、図書館に来たでしょう? どうして、声もかけずに帰ったの?』
なんだ、有里香のやつわたしに気付いていたんだ……。「どうして」なんて訊かないでよね。恋する友達のために、やむなく邪魔者は退散したんじゃないか。
「それは、あんたたちの邪魔しちゃいけないと思ったからよ。どうなのよ、あんたこそ勉強はかどってるの? まさか、数馬と一緒にいて緊張してましたなんてことないわよね?」
たっぷり皮肉を込めながら返信する。ややあって、再び携帯電話が着信を知らせた。
『当たり。でもでも、明日も一緒に勉強することになったんだよ!』
「それは、奥手な有里香にしては大進歩ね!」
『ふっふーん、すごいでしょう? 褒めて、褒めて!』
画面からあふれ出してきそうなほどの、恋する乙女の笑顔に、わたしは思わず苦笑した。そう言えば……有里香が数馬を好きだということは知っているものの、どういう馴れ初めなのかは聞いたことがない。訊くだけ野暮な気がしていたのだけど、こうなると問い質してみたくなる。
「ねえ、有里香ってば、あのバカずまの何処が良い訳?」
と、送り返信を待つ。
『どこって、優しいところかなぁ……。ほら、河瀬くんってちょっと格好つけたがるところとかも可愛いし』
有里香のメールを読むわたしの顔から、苦笑が爆笑へと変換される。「優しい」と「可愛い」は多分、数馬に最も似合わない形容詞だ。百歩、いや一万歩譲って「可愛い」は認めるとしても、「優しい」なんてことは絶対にありえない、と言ってもいいだろう。かれこれ十数年、数馬の幼馴染をやって来たわたしが言うのだから、間違いない。
「あいつの優しさなんて、ヒロ先輩と比べたら、月とすっぽんだよ!」
『お兄ちゃん? お兄ちゃんなんて、全然優しくないよ。学校じゃ、お兄ちゃんって呼ばれるの嫌がるし、あたしのおやつを食べちゃったりするし』
有里香は、わたしの意見に真っ向から反対する。わたしが数馬と長い付き合いであるように、先輩の妹である有里香は先輩と生まれたときからの付き合いだ。お互い一緒にいる時間が長ければ長いほど、どうしても相手の欠点ばかり見えてしまう。
そういう主張はえてして、お互いに好きな相手のいいところばかりをフィルターにかけているため、平行線を脱却することは難しい。
もっとも、有里香は、わたしがヒロ先輩にそっと恋していることなんて、知りもしない。
「前から訊きたかったんだけど、有里香と数馬っていつの間に知り合ったの?」
わたしは、譲らない主張に嫌気がさして、質問の核心に迫ることにした。そもそも、有里香が天文部に入ったのは、わたしがヒロ先輩に勧められて入部するより前の話。そして、有里香が天文部に入った動機は、好きな人……即ち、数馬とお近づきになりたかったわけで、そうすると、わたしが有里香の知らないところでヒロ先輩と運命の出会いを果たしたように、わたしが知らないところで二人は出会っていたということになる。
その辺り、有里香の友人として、数馬の幼馴染として、気になる。ところが、返ってきたメールは意外な一文だった。
『な・い・しょ』
末尾には絵文字まで加えられている。そう言われれば、尚更訊きたくなってくる。わたしだって、人並みに他人の恋の話には興味があるのだ。
「教えなさいよ」「嫌よ」「教えろ」「やだ」と、そんな文面のやり取りをひとしきり返したあと、先に折れたのは有里香のほうだった。勿論、わたしは有里香が圧しに弱いことを知っていて、しつこく「教えて」と迫ったわけだけど……。
しばらくして、長い文面のメールが返ってくる。あまりにも長く、彼女のメールをそのまま一冊の小説にしてしまいたくなるほどなので、ここはわたしの要約とすることをご了承いただきたいです。
わたしとヒロ先輩の出会いが偶然だったように、有里香と数馬の出会いも偶然だった。もっと平たく言えば、必然的な出会いなんて、そうそうあるものじゃないってこと。以前、「出会いは突然に。なんて、今時歌詞にもならないフレーズだ」と言ったけれど、前言撤回したい。
出会いは、高校に入学して間もない頃。ちょうどわたしが「チカン冤罪事件」を起こした日の前後、有里香は数馬とであった。その日、有里香は愛用の眼鏡を壊してしまった。もともと、有里香は本の読み過ぎで、極度に眼が悪い。三十センチ先のものもぼやけてよく見えないらしい。眼がいいのだけが取り柄みたいなわたしには、理解できない苦労だけど、ともかく眼鏡をうしなった有里香は次の授業がある教室の場所が分からず、校舎の中で途方に暮れていた。そこに颯爽と現れたのが、数馬だ。数馬は困り果てている女の子を見て見ぬフリするようなヤツじゃない。そこだけは、評価してあげたいけれど「大丈夫かい?」なんて、わたしから言わせれば、柄にもないこと言って、有里香を助けてあげたのだ。
有里香にとっては、それが運命の出会いだった。文学少女な有里香は、本の世界に憧れている節がある。辛辣な言い方をすれば、夢見がちなのだ。そういう彼女にとって、ピンチを救ってくれた数馬は、童話に出てくる白馬に乗った王子さまみたいなもので、一目ぼれしてしまった。
まあ、確かに、数馬は背も高いし、顔だってそんなに悪くはない。幼馴染に対して、かっこいいとは、口が裂けても言いたくないけれど、有里香の中ではきっと美化されまくってるに違いない。他人事だけに、ちょっと可哀相だ。
そうして、有里香は数馬が入部希望する天文部へと入った。入ってから、自分の兄も天文部員であることに気付いた点は、わたしと同じかもしれない。わたしも、先輩の後を追うように天文部に入部して、数馬がいることを思い出したのだから。
「でも、あいつ鈍感だから、有里香の気持ちに気付いてくれないかもね」
ようやく、有里香と数馬の出会いの長編物語を読み終えたわたしは、冷やかすようにメールを送る。ちなみに、有里香は天文部に入ってから、人生初のコンタクトレンズを着けた。それも、数馬が「眼鏡ない方が可愛いね」なんて言うから、有里香がその気になったのだ。
『気付かせて見せるわよ! こんなチャンス滅多にないもの! ってことだから、応援よろしくね!』
友人からの返信は、自信に満ち溢れている。
「応援してあげるけど、その代わり、あんたたちが数学で赤点とったら、大笑いしてやるからね」
送信のボタンを押しながら、わたしはため息をついた。大笑いしてやるなんて、冗談を言いながらも、有里香のことを羨ましく思う。
すごいなぁ、有里香は。勇気を振り絞って、試験勉強に好きな人を誘うなんて、わたしには出来ない。心のどこかで、ヒロ先輩だって試験勉強にいそがしいだろうから、迷惑をかけられないよ、と理由をつけて、こうして見飽きた部屋の中で一人、机に向かっている。好きな人に、自分から声をかけるなんて、大胆なこと、出来ない臆病者なのだ。きっと奥手なのは、わたしの方なのかもしれない……。
他人の恋を応援している暇があったら、自分の恋も何とかしたいと思う。こんなんじゃ、余計に勉強に手が付かないよ!
わたしはもやもやした頭を思い切振って、携帯電話を放り投げると、お風呂に入って寝ることにした。
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