7. 定例星見会
わたしの通う高校の三年生は、受験勉強や就職活動に専念するために、夏休み前で部活を引退する決まりになっている。もっとも、夏休みから秋にかけて、内申にも影響するような重要な大会などがある場合、その限りではないのだけど、大会やコンクールと無縁で自由気ままな天文部の三年生は、例外なく夏休み前で部を去っていくことになっている。
天文部から引退する三年生は、全部で三人。
岡崎千春先輩は、前部長。だけど、この人ほど部長と言う言葉が似合わない人は居ない。いつも、のほほんとして、怒ったり大声を出した笑うところを見たことがない。千春という名前がぴったりな、ほんわかとした陽気に包まれたような人だ。
豊田彰正先輩は、岡崎先輩とは正反対に情熱的な人だ。体育会系を思わせる筋骨隆々な体つきこそ違うけれど、星空について熱弁を振るう姿は、どこか国木田部長に似ている。
知多保樹先輩は、寡黙な人で、女の人みたいにほっそりとした輪郭が特徴的だ。豊田先輩とは水と油のように見えて、とても仲が良く、星座についての博識ぶりなら、部内で右に出る者はいない。
わたしたち一年生とは半年だけの付き合いだったけれど、その個性豊かな面々は、しっかりとわたしたちの心にも刻まれている。土曜日の日暮れと同時に開催された「定例星見会」はそんな三年生の先輩たちへの「お疲れ様でした」というコールから始まった。
学生も先生たちも帰宅し、わたしたちだけになった学校の屋上には、即席の宴会会場……もとい、天体観測会場が設けられていた。歴代の天文部員が少ない予算で購入してきた、望遠鏡一号から三号までが並べられ、官位のテーブルと計測器。それとは別に、レジャーマットを広げて、持ち寄ったジュースとお菓子を広げる。そして、皆で座って星の輝く夜空を見上げながら、雑談に花を咲かせながらお菓子をつまむ様は、なんだか夜のピクニックみたいだと、わたしは思った。
「夏の星座の軌道観測かぁ……国木田くん、随分張り切ったのねぇ」
ジュースの注がれた紙コップ片手に、わたしたちに配られた「定例星見会」のしおりをめくって、岡崎先輩が言う。スローテンポな喋り方は、岡崎先輩の特徴だ。
「去年、わたしたちが定例星見会やったときなんてねぇ、適当にテーマ決めて、あとは適当に望遠鏡のぞいてただけだったのよ。まあ、豊田くんが『たるんでる!』って怒ってたけど、その方が先輩たちも喜ぶし、わたしたちも楽しめるからいいじゃないって、部長権限を濫用してやったのよ」
「ですよね。やっぱり、楽しくなきゃ、徹夜なんて出来ませんよね」
「そうそう」
わたしの言葉に岡崎先輩は笑顔で同意する。すると、望遠鏡を覗き込んでいた国木田部長と、豊田先輩がそろってこちらを向き、キッと睨みつけてきた。
「岡崎の悪い影響に感化されるな、北上!」
と、豊田先輩。続いて、国木田部長が、
「こんな満天の星空が広がっているというのに、ジュースとお菓子に夢中とは、情けない」
と言う。そんなことを言われても、わたしを含めてみんな紙コップを握り締めて離さない。その代わりに、生ぬるい夜風に煽られた、テーブルの上の観測用紙がパタパタと音を立てた。
「いいか、お前たち! 天文部の部活としての本文はだな……」
豊田先輩が腰に手を当てる。まるで、ボディビルダーがポーズをとっているようにしか見えないけれど、そういう時は決まって、お説教モードに突入する合図なのだ。このままでは、国木田部長と豊田先輩のサラウンドお説教で、夜のピクニックは中止させられてしまう。
「まあまあ、堅苦しいことは抜きにして、どうですか、豊田先輩も、国木田もこっちへ来て、ジュースでも飲みましょうよ。夜はまだまだ始まったばかり、星は逃げませんって」
「そうよ、ヒロくんのいう通りよ。豊田くん、国木田くん、こっちへいらっしゃいな」
間一髪のタイミングで、ヒロ先輩と岡崎先輩が笑顔を浮べて、二人を手招きする。二人は、お説教モードを断念し、ため息混じりに「遠慮する」とだけ言い、再び黙々と望遠鏡の覗き込んだ。
そうして、星見会は一時間もたたないうちに、真面目な観測組と、雑談に盛り上がるピクニック組に分かれた。まあ、豊田先輩も国木田部長も、星を観測しながら星談義に盛り上がっているのだから、べつに気にすることはないだろう。と、わたしは望遠鏡に噛り付く先輩たちの背中を見て思いながら、お菓子の袋に手を伸ばす。たしか、わたしの好きなチョコレートのプレッツェルを買ったはずなんだけど……。あったあった、コンビニ袋の一番奥。
「これ、もーらいっ」
唐突にわたしの斜め後ろから声がする。すっ、と日焼けした手が伸びてきて、わたし寄りも先に、プレッツェルの箱を取り上げた。わたしが、部長たちのように鋭く睨みつけると、その視線の先には、ニヤニヤと笑う数馬がいた。
「ちょっ! それわたしのっ! 返せ、バカずまっ!!」
好物を奪われた、わたしは必死で数馬の手を追いすがる。だけど、数馬は悪戯っ子のような顔をして、袋を開けると、バクリとお菓子を頬張った。
「バカずまとは、失礼な。なあ、有里香ちゃん」
数馬はふてぶてしくも、有里香に同意を求める。ヒロ先輩の隣に行儀良く座っていた有里香は、突然話を振られて驚いたのか、ビクッと跳ね上がる。
「う、うん。そうだね、河瀬くん。でもでも、そのお菓子返してあげた方がいいよ。理沙から好物を奪うと、猛獣になるから」
上擦った声に、なんとか冗談を滑り込ませて、有里香が言う。猛獣……そう言えばヒロ先輩にも言われたことがある。兄妹なんだなあと、わたしは思わず感慨にふけりそうになるのを抑え、まさに猛獣のような怖い顔を作って、数馬に掴みかかる。
「うわーっ、勘弁、返すからっ」
数馬は笑いながらそう言って、食べかけのプレッツェルの箱をわたしに突き返す。横では、その光景を見ていたヒロ先輩がクスクスと笑う。
「仲いいのな、二人とも」
と、あまりにも楽しそうにヒロ先輩がいうものだから、なんだか言い知れぬ腹立たしさが腹の奥から湧き上がってくる。もちろん、ヒロ先輩にじゃなくて、バカずまの方。
「理沙と河瀬くん、仲よさそうに見える? お兄ちゃん」
有里香が少し眉を下げて、兄に問いかける。ヒロ先輩は「そりゃ、二人は幼馴染だもんな、仲いいに決まってるよな」と、事も無げに答える。
どうして、男たちはこうも鈍いのか。ヘラヘラと笑ってる数馬も、ニッコリ楽しそうなヒロ先輩も、わたしたちの揺れる乙女心(?)には気づいてくれない。何故、有里香がわたしと数馬のことを気にしているのか、わたしが何故腹立たしく思うのか、その理由は有里香が数馬を好きで、わたしがヒロ先輩を好きだと言うこと。まあ、バカずまが気付かないのは、仕方がないとしても、せめて、ヒロ先輩には気付いてもらいたいと言うのは、わたしが女の子故の、わがままなんだろうか。
「そんなことないですよ、先輩。数馬とはただの腐れ縁ですから! もーあんたは、有里香と話しなさいっ」
わたしは有里香へのフォローと、先輩に妙な誤解を与えないために、あえて冷たく数馬に言い放ち、その手からプレッツェルの箱をむしり取るように奪い返した。「え、なんで?」と言いたげな数馬のきょとんとした顔を無視して、わたしはちらりとヒロ先輩の横顔を見る。わたしをプラネタリウムに連れて行ってくれたあの日のように、キラキラした瞳で、先輩は本物の星空を見上げている。そういう、先輩の姿に恋したのが、数ヶ月前。あれから、何の進展もない。って言うか、あるわけもない。わたしにとって憧れの人でも、先輩にとってわたしは可愛い後輩の「北上」なのだ。
悔しい。自分の意気地なさと、先輩の鈍さが。わたしは、数馬から取り返したプレッツェルの残りを、がっついた。口の中に、バターとチョコレートの甘い味が広がる。
不意に、笑い声が聞こえる。どこかスローテンポでまったりとした笑い声は、岡崎先輩のものだ。
「元気ね、みんな。その調子で、天文部を盛り立てて行ってね」
と、先輩は笑い声に乗せて、妙に老け込んだことを言う。だけど、そこはかとなく先輩の笑顔には寂しげな色が浮かんでいた。二年半過ごした部活から引退する、と言うのは部長まで勤めた岡崎先輩にとって、感慨もひとしおなのだろう。
先輩はそっと、夜空を見上げる。そして、小さく指を伸ばし、
「ベガ、アルタイル、デネブ……」
と、夏の夜に瞬く、一際輝く三つの星を指で線を引いて結ぶ。
「わたしね、この部に入るまで、星の名前どころか星座なんて、ひとつも知らなかったのよ。今、わたしの頭の中にある知識のすべては、知多くんの受け売りなのよ」
「岡崎は物覚えが良かったからね。すぐに、ぼくの教えることは何もなくなっちゃったけど」
それまで一言も発さなかった、知多先輩がおもむろに口を開いた。
「そんなことないわよ。わたし、知多くんにも豊田くんにも感謝してる。二人のおかげで、天文部を選んで良かったって思うから。ありがとう」
と岡崎先輩に感謝の意を述べられた知多先輩は、照れたように後頭部をかく。そして、照れ隠しなのか、岡崎先輩がそうしたように、夜空を指差した。
「こと座のベガ、わし座のアルタイル、白鳥座のデネブ。この三つを線で結べば、夏の夜空に燦然と輝く三角形が出来る」
と、知多先輩の講義が始まる。お菓子ばっかりで天文部らしいことをしていないわたしたちは、静かに耳を傾けることにした。
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