26. 逃げないこと
花南が「最後のエデン」に旅立ってから、わたしは学校へ行くのを止めてしまった。死にたくないと思ってみても、流星が落ちてくるのは避けられないこと。だったら、せめて、残された時間をわたしなりに有意義に使いたいと思った。ただ、それは前向きに考えた結果じゃなくて、ヒロ先輩や有里香たちから逃げ出すため、と言った方が正確かもしれない。
学校に行くのを止めたからと言って、日がな一日中部屋にこもっているのも嫌だ。要するに、わがままなんだね、わたしってば……。ともかく引き篭もりになるつもりは毛頭なく、母にはいつも通り学校へ行くフリをして、家を出る。目指すは、「こども科学館」。一年前、ヒロ先輩が、部活選びに悩んでいたわたしに天文部を紹介してくれた、あの思い出の場所だ。どうして、時間つぶしの場所を「こども科学館」に選んだのかは、自分でもよく分からなかった。きっと、思い当たる場所がここしかなかったのかもしれない。
科学館の館長である、だるま館長はまるでいつもと変わらないように、ロビーにある受付に座ってお客を待っていた。「館長さんは『最後のエデン』に逃げないの?」とわたしが尋ねると、館長は達磨によく似たまん丸の顔ににっこりと笑みを浮かべて、「あんたのように、ウチにプラネタリウムを見に来てくれる客がいる限り、ぼくはここを動くつもりはないよ」と答えた。
科学館には、二つしか上映プログラムがない。ひとつは、星空をただ映すだけ。もうひとつは眠くなるような声のナレーションが付いた、子ども向けの星空講座。毎日日替わりで上映される。館長も世界が終わるまであと少ししかないことが分かっているからか、これでもかと言わんばかりにエンドレスでプラネタリウムを上映し続けた。
本当は、ここにいればヒロ先輩が来かもしれないと言う期待があった。一年前のあの時と同じように、二人で並んで、ドームに映し出された偽ものの星空を見つめる。そこには岡崎先輩なんかの入り込む余地はない。あのときの気持ちのまま、ヒロ先輩の隣でドキドキしながら星の数を数えるんだ。
だけど、実際には科学館に来るお客さんは、わたし以外にほとんどいない。たまに、大学生とか会社員、カップルが訪れては、しばらくプラネタリウムを鑑賞して帰っていくくらい。当然のことながら、ヒロ先輩が来ることもなかった。ヒロ先輩の家、つまり英家が、長野へ避難したと言う話は聞かない。つまり、ヒロ先輩も有里香もまだこの街にいる。だけど、先輩は一度も科学館へは来なかった。
わたしにとっては、先輩に恋をした思い出の場所だけど、先輩にとっては違う。人生最後の日々を、プラネタリウムを見上げてすごすよりも、一分でも一秒でも恋人……つまり、岡崎先輩と一緒にすごしたいと思うのは無理のないことだ。
そうして、わたしは世界が終わるその日まで、こども科学館のプラネタリウムで過ごすことにした……。
そんなある日のことだった。お客のいない上映屋でひとり、流れ行くプラネタリウム夜空を見上げていると、上映室の扉がゆっくりと開いた。わたしはかすかな期待を胸に、扉を開けて入ってくる人に視線を合わせた。もちろん、ヒロ先輩だと期待していた。だけど、入ってきたのは、ヒロ先輩なんかじゃなかった。
背は高いのはヒロ先輩と同じだけど、ボサボサの髪も、伸ばし放題の無精髭も、ボロボロのシャツも、ヒロ先輩とは程遠い容姿だった。わたしは、その人に見覚えがあった。
「ムトウさん……」
思わずわたしがその名前を呼ぶと、わたしたち天文部の大先輩でもある武藤さんもわたしのことに気が付いて、少しだけ驚きの表情になった。そして、武藤さんは扉を閉めると、ゆっくりとこちらに歩み寄り、どかっとわたしの隣の席に腰掛けた。
「君はたしか、天文部の後輩で、確か名前は……」
必死に記憶の糸を手繰り寄せる武藤さんからは、汗臭いにおいがする。わたしは、そっと顔をしかめながら、
「北上です。北上理沙」
と名乗った。
「そうそう、思い出したよ。奇遇だな、こんなところで君と会うとは思ってもみなかったよ」
「そうですね。わたしも武藤さんにお会いするなんて、思っても見なかったです。どうしてまた?」
わたしが尋ねると、武藤さんは少しだけ微笑んだ。その瞳には、あのボロアパートでわたしたちを追い返したときのような鋭さはなく、後輩に対する優しい笑みが感じられた。だけど、その笑みは、ひどくヒロ先輩に似ていた。「後輩の北上」に見せるあの笑顔に。
「俺も、高校生のときには、よくここへ来てたんだよ。このプラネタリウムの原版、ただ星空を映すだけだけど、ここほど正確で細かいものは、日本中探してもないだろうな」
武藤さんは、わたしの心境など知るはずもなく、満点の偽者の夜空を見上げて言った。
「世界が終わる……そうなったら、日雇い労働者なんてお払い箱さ。あんまりにもヒマになりすぎて、ふとここのことを思い出したんだ。死ぬ前に、もう一度あの頃、まだ星空に希望や未来を描いてた頃の気持ちに浸ってみたくなったんだよ」
と言う武藤さんの横顔は、何故か晴れ晴れとしていた。
「世界が終わるのが、嬉しいんですか?」
わたしが、その横顔に感じた思いを素直に口に出すと、武藤さんは上映室に入ってきたときと同じような、驚きの顔をする。
「その質問は、あながち外れているわけじゃない。ちょうど、南の空のあたり、流星はそこから落ちてくる……。本当なら、ベイカーなんて名前じゃなくて、ムトウと名づけられるはずだった、流星がね! 俺は、十年以上前に、警告した。未知の流星が地球を滅ぼすとね。だけど、お偉方はみんな、鼻で笑ったんだ。そんなファンタジーを語るなんて、科学者の端くれにも置けないヤツだってな。そんな、馬鹿どもが、いま慌てふためいていると思うと、嬉しくて仕方がねえんだ」
「ひどい人ですね、武藤さんって!」
わたしがプイっとそっぽを向くと、武藤さんは声を立てて笑い始めた。
「君は相変わらず、可愛い顔してキツイことを、さらっと言うな」
「でも、だって、みんな死んじゃうんですよ。わたしも、あなたも、家族も、友達も、名前も知らない誰かも、みんなみんな! それを嬉しいだなんて、ひどすぎます!」
キッと鋭く武藤さんをにらみつけながら言うと、武藤さんは笑うのを止めた。武藤さんだって分かってるはずなんだ。世界が終わると言うことが、安穏としたことではなく、とても悲しくて辛いことだということが。だって、わたしと数馬が未知の流星のことを尋ねたとき「知らないほうがいい」と言ったのは、前途洋洋たる高校生のわたしたちに「世界が終わる」という真実を教え、落胆させたくなかったからに違いない。
「春の夜空の中心に輝くのは、北斗七星。その北斗七星のヒシャクの柄から、一等星のアルクトゥルス、スピカ、と線を引くと、春の大曲線ができます」
わたしは、偽者の夜空に指で線を引っ張った。
「アルクトゥルスは、うしかい座の一等星で、シリウス、カノープスに続く三番目に明るい星です。スピカは、おとめ座の一等星で、青白い光を放つ双子星です。この二つの星は、春の空に浮かぶ夫婦星と呼ばれており、アルクトゥルスが夫、スピカが妻と言われています」
「な、何だ、突然に!?」
わたしが突然星の解説を始めたために、武藤さんはびっくりしてうろたえた。だけど、わたしはいたって冷静だった。
「反対に、北斗七星の杓の部分からまっすぐ北進むと、北極星。さらに同じだけまっすぐ進むとカシオペアがあります。そして、北極星とは反対の方向に進むと、白い星が輝いています。これがしし座の一等星レグルス。しし座には、レグルス以外にもう一つ強く輝く星があります。名前はデネボラ。デネボラとアルクトゥルス、スピカを結べばそこに春の大三角が出来上がります。さらに、この三角に、りょうけん座のコル・カロリを加えたものを春のダイアモンドと呼びます。まさに、春の夜空に浮かぶ、巨大な宝石です」
「よく覚えてるな……」
「天文部に入ってから、星のこといっぱい勉強しました。星の名前、その由来、歴史、科学……たくさん本を読んで、星のことを勉強したのは、ヒロ先輩と恋人になりたかったからだけじゃありません。わたしは、星が好きです。でも、わたしはもうこの星空を見ることが出来ません。その辛さは、星のことが好きだった、武藤さんにも分かるはずです!」
「分かってるさ。だからってどうしようもない。俺が、あのまま大学に残っていれば、流星を避ける方法だって考え付いたかもしれない。でも、現実は違う。みんなで俺を馬鹿にして、星空から遠ざけた。今となっちゃ、こんな星空、憎いだけだ」
「嘘ばっかり……。じゃあ、なんで、プラネタリウムなんか見に来たんですか? 星空が憎いなんて嘘! みんなに馬鹿にされたから、武藤さんは逃げただけです!」
わたしは、じっと武藤さんの瞳を見据えた。武藤さんのにごった瞳が泳ぐ。それは、わたしの言ったことが図星である何よりもの証拠だった。
「世界が終わるのなんて、わたしは嬉しくなんかない。わたしは、わたしはっ、死にたくない!」
そう言い切っても、武藤さんは何も答えてはくれず、ただ黙って、偽ものの星空を見上げた。春の空は、徐々に動いていく。そして、長い沈黙の後、再び春の星空が巡り来る頃、おもむろに武藤さんは言った。
「君は、何からも逃げない自信があるのかい?」
と。今度は、わたしが口をつむぐ番だった。わたしは逃げている。数馬からも、有里香からも、ヒロ先輩からも。世界の終わりを理由にして、逃げ続けている。本当は、世界が終わって嬉しいのはわたしの方なのかもしれない。
「答えられないんじゃ、仕方ないな。世界は終わる。それは、変えがたい真実だ。それを受け入れる覚悟だけは、俺にはある。君とは違う」
そう言うと、武藤さんは席を立って、わたしに背を向けると、上映室を出て行ってしまった。しんとあたりは静まり返り、わたしは偽ものの星空の下でうつむく他なかった。
死ぬことの覚悟……。世界の終わりへの覚悟……。もしも、願いを取り消すことが出来るのなら、わたしは今すぐにでも流星に願いたい。
『どうか、世界を終わらせないで。みんなを、地球を守って』
だけど、地球を滅ぼすのは、その流星なのだ。わたしの願いなんて届くことはなく、ただ、時間だけが過ぎ、終わりのときが刻一刻と近づいてくる。一ヶ月……半月……一週間と。
最後のカウントダウンだ。
注意! 次回から第一話の下りに戻ります。残すところ、あと少しでラストになるので、是非是非、最後までお付き合いいただきますよう、よろしくお願いします。また、ご意見・ご感想などございましたら、お寄せください。