21. 友情 (後編)
「おおーい、有里香……わたし、理沙だよ」
わたしは、部屋の扉を軽くノックしながら、呼びかけた。声は届いているはずなのに、返事はない。ドアノブをひねってみても、固く施錠されており、開きそうにもなかった。
「風邪引いたんだって? お見舞いに来たわよ。開けて、有里香」
すると、返事の代わりに、どすん、とドアの向こうに、何かがぶつかる鈍い音がする。きっと、有里香が枕を投げつけたのだろう。
「有里香っ!! 何やってるのっ! ちょっと、開けなさいっ! 有里香っ!!」
有里香のお母さんが、肩を怒らせて、激しくドアを叩いた。わたしは、一体全体何が起きているのか理解できずに戸惑っていた。やがて、部屋の中から声がする。ひどくくぐもっていて掠れている。それが、有里香の声だと分かるまで、少しだけ時間がかかった。
「帰って!」
たった一言、有里香が廊下のわたしに言う。その言葉尻の棘は、壁越しにも伝わってくる。良くは分からないけれど、有里香は怒っている、ということだけはわたしにも分かった。
「今すぐ帰って、二度と来ないでっ!!」
「なんてことを言うのよ、有里香っ! 折角、お友達が心配してきてくれてるのよ!」
「うるさい! そんなやつ、あたしの友達なんかじゃないっ!!」
またしても、扉に何かが叩きつけられた。今度は、枕よりももっと硬いものだ。そして、有里香の怒りの矛先は間違いなくわたしに向けられている……。どうしてわたしに? と問いたいけれど、扉の向こうから伝わってくる気配は、それを許してくれそうにもなかった。その代わりに、有里香の家まで訪れた本来の目的を尋ねることにした。
「ねえ、有里香……もしかして、あいつと何かあったの?」
有里香のお母さんが居る手前、有里香の想い人の名前は伏せた。だけど、それだけで、有里香には分かるはずだ。
「なによ、白々しいっ。全部知ってて、あたしのこと笑ってたんでしょ!」
「ごめん、何のこと言ってるのか良くわかんないけど、わたしは有里香のこと笑ったりなんかしてないよ」
「嘘ばっかりっ!! 理沙がそんなひどいヤツだとは思わなかった。思いたくなかった!」
「わたしが、ひどいヤツ……?」
直接顔を見なくても、部屋の中でわたしに怒鳴りつける有里香の剣幕くらい分かる。わたしはドアの前からたじろぎ、そして頭上に現れては消える疑問符と格闘した。その沈黙が更に、有里香を苛立たせ、ついには、
「帰れっ!! 今すぐ、出てけっ!」
と、取り付く島もないように、ヒステリックに甲高い声で叫ぶ。
わたしは本当に困ってしまった。文化祭の振り替え休日をはさんで、有里香の態度は一変してしまった。その理由が何なのかは良く分からなかったけれど、わたしの所為であることは、有里香の口ぶりから間違いないようだ。だけど、わたしには身に覚えがない。どうして、数馬だけじゃなくて、有里香までわたしに怒っているのか、その理由がとんと見当もつかないのだ。
「ごめんなさいね、わざわざきていただいたのに」
玄関口で退散するわたしを見送ってくれた有里香のお母さんが、申し訳なさそうに、わたしに頭を下げた。
「いえ、わたしの方こそすみませんでした……。わたし、何か有里香の機嫌を損ねるようなことしちゃったみたいで」
「もしかして、あなたたち喧嘩でもしたの?」
「いいえ、そんなはずはないんですが……ごめんなさい、わたしにも、有里香が怒ってる理由が分からないんです。本当に、ごめんなさい」
なんだか、二人して頭を下げ合っている光景は、きっと端から見たら滑稽に映っただろう。わたしも、有里香のお母さんも、困り果てていた。許しを請うにも、理由を質すにも、有里香は取り合ってくれるそぶりも見せない。
「あれ? 北上さん」
突然、お暇しようとするわたしの背後で声がした。
「紘之、お帰りなさい」
わたしが振り返り声の主を確かめる前に、有里香のお母さんがその名を呼ぶ。学校から帰ってきた、ヒロ先輩は通学自転車のスタンドを立てながら、ニッコリとわたしに微笑む。わたしは、その笑顔をまともに見れなかった。大好きな先輩に出くわしてしまったという緊張感と同時に、あの「先約」のことが脳裏を過ぎるからだ。だけど、先輩はそんなわたしの内心など知りもしないで「もしかして、有里香に会いに来たの?」とわたしに尋ねた。わたしは頷いてから、なるべく先輩の方は見ないようにして「でも、部屋に入れてくれませんでした」と答える。
「そっか、北上さんでもダメか。昨日夕方に帰ってきてから、あいつ様子が変なんだよ。随分荒れてたし」
「さっきも、何か投げつけられました。どうやら、有里香が閉じこもってる原因は、わたしみたいです……」
とわたしが言うと、先輩は目を丸くした。
「えっ、北上さんが? 何かあったのか? もしかして、喧嘩でもしたの?」
「してない……はずです。だって一昨日、文化祭の時はお互い笑って『また明後日ね』って別れたんです……だから、わたしにも何がなにやら分からなくて」
「そっか。だよな、北上さんと有里香、仲いいもんな。喧嘩なんかするはずないよな。でも、あいつ、どうしたんだろう。北上さんなら知ってるかもって思ったんだけど」
「ごめんなさい。お役に立てなくて」
「いや、別に北上さんを責めてるわけじゃないんだ。むしろ、妹の考えてることも良く分からないなんて、俺は情けない兄貴だよ」
先輩はため息をついた。それは、妹に対する少しばかりの呆れも込められていたのかもしれない。先輩は、そっと二階の窓を見る。遮光カーテンがぴったりと閉じられた窓は、有里香の部屋の窓だ。
「あら、あなたたち、知り合いなの?」
不意に、有里香のお母さんが言う。わたしとヒロ先輩が普通に会話を交わしていることに疑問を感じたのだろう。先輩は少し笑って、母親の問いに答える。
「ん? ああ、そうだよ。天文部の後輩、な?」
語尾は、わたしに向けられたものだった。そう、わたしは「後輩の北上」なのだ。先輩の当然のような口ぶりに、わたしは胸が苦しくなった。有里香が怒ってる理由も良く分からない。それに加えて、数馬も何故かわたしに怒っている。そして、目の前に居るわたしの好きな人は、わたしの気持ちに気付いてはいない。それは、鈍いとかじゃなく、先輩にとってやっぱりわたしは、ただの後輩なんだ。
「あの、わたし失礼します。お邪魔しました!」
わたしは、有里香のお母さんとヒロ先輩に一礼すると、逃げ出すように有里香の家を後にした。夕日の帰り道を歩きながら、胸の中が、気持ち悪いくらいに渦を巻いている。友達から、訣別のような言葉を浴びせかけられ、その理由はわたしには分からない。幼馴染は、今まで見たことのないような顔をして、わたしを睨みつける。先輩は、わたしの気持ちには気付いてくれない。
それは、この大空の果てを真っ直ぐ地球目指して飛来する流星が、もたらすであろう「世界の終わり」に比べれば、とても小っぽけで、どうでもいいようなことだ。だけど、わたしにとっては「大事件」にも等しい。たった三日足らずで、わたしの周りは大きく様変わりしてしまったのだ。
家に帰ると、何ヶ月ぶりかの父の顔があった。研究の合間を縫って、家にある資料を取りに来たらしい。
「おおっ、理沙。我が愛娘よっ!! パパだよ、忘れていやしないだろうね?」
そう言いながら父はまるで、生き別れになった娘と再会したかのように、わたしを抱きすくめようとしたけれど、わたしは両手で突き飛ばすように、父を跳ね除けた。父は、あっと悲鳴を上げて派手にしりもちをついた。それには、家族一同が驚きの眼を見せた。
別に天文マニアの中年男に抱きつかれるのが厭だったわけじゃない。その時のわたしは、久々に家族が全員揃った喜びに浸るだけの、心の余裕がなかった。わだかまった心の糸はもつれ合って、とても気分が悪い。わたしにとって、ヒロ先輩も数馬も有里香も、家族と同じくらい失いたくない、大切な人たちだ。だけど、わたしは、今にもそれらを失いそうになっている。それが、わたしの心の糸をもつれさせるのだ。
「痛ててっ……もー、なんだよ、理沙。つれないヤツだな。そんな可愛げのない娘に育てた覚えはないぞ」
と、子どものようにふてくされる父に、「うるさい」と一瞥をくれて、わたしは部屋に閉じこもった。それは、まるで有里香と同じようだと思う。ベッドに突っ伏して、枕に顔をうずめる。圧迫される胸よりも、息苦しくなってくる。だけど、わたしはそのまま堂々巡りの思案に耽った。
しばらくして、母が部屋のドアをノックする。有里香の部屋のように鍵がついているわけではないのだが、母は部屋には入って来ずに、ドアの向こうから
「夕飯食べないの? お父さんも食べてから大学へ戻るそうよ。折角、家族四人揃ったんだから、一緒に夕飯にしましょ」
と言う。多少、不安気な声だった。無理もない、わたしはこれと言った反抗期も迎えずに、成長してきたわけで、ある意味親の手のかからない子どもだった。それは、家族がとても仲がいいということの表れでもある。だからいつもなら、父が抱きついてきても「止めてよ、加齢臭が移る!」と言いながら避けるだけで、無下に突き飛ばしたりなんかしない。いつもと違う娘の行動は、母にいらぬ不安を抱かせてしまったらしい。要するに、遅すぎる反抗期の到来とでも思ったのだろう。
もしかしたら、有里香のお母さんもそんな風に思っているのかもしれない……。
「食欲ないから、いらない……」
わたしは枕から顔を上げて、戸外の母に言った。とりあえず、反抗期なんていう高尚なものでないことを示さなければいけない。
「あと、突き飛ばしたりして ごめんってお父さんに謝っておいて。それから、お仕事頑張ってって」
と、付け加えると、母は心なしか安心したようだ。
「そんなこと、自分で言いなさいな」
そう言って、母はわたしの部屋の前から去って行った。階段をトントンと下りていく音が聞こえなくなると、わたしは再び顔を枕にうずめた。
どうしたらいい? 友達を失わないためにはどうしたらいい? 今みたいに、素直な言葉を言うためにはどうしたらいい? わたしは必死で思案をめぐらせた。そうしているうちに、ゆっくりとわたしは眠りに落ちて行った。
ご意見・ご感想などございましたら、お寄せ下さい。