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17. 文化祭

 ヒロ先輩が放った「先約」と言う言葉ばかりが、頭の中を去来して、文化祭が始まっても、わたしはそれどころではなかった。きっと、クラスメイトや男友達との約束があるんだと、信じたい一方で、「もしかしたら」という疑念が湧く。胸焼けがするみたくヒリヒリと苦しくて、摩ってみたところで楽にはならない。ただの胸焼けではないのだから。

 よくよく考えてみれば、わたしはヒロ先輩のことを統べて知っているわけではない。ヒロ先輩のプライベートなことを先輩の妹である有里香に尋ねれば、わたしが先輩のことを好きだと言うことが、有里香にバレてしまうのではないか、という惧れもあった。だからけして、油断していたとかではない。油断するには、先輩はカッコいいし、誰にも優しい人だ。ライバルの一人や二人いたっておかしくない。そんな先輩に、もしも「彼女」がいるとすれば、わたしはどうしたらいいんだろう……。「先約」の正体が、「彼女」なら、わたしは、誰もわたしの恋心に気付いていないうちに、大人しく身を引くべきなのか。いや、そんなことは出来ない。十六年の人生でようやく見つけた恋なのだ。そんなにあっさりと諦めがつくはずはない。

 せめて、先輩の「先約」が誰なのか、知りたい……。

 だけど、文化祭前まではあれほど暇を持て余していたと言うのに、当日になると、忙しさがわたしを追い立てた。午前中は、クラスの出し物、アイスクリーム屋さんのお店番。折りしも、晴れ間が広がった文化祭当日は、秋も深まるこの時期に、九月初旬並みの気温をマークし、冷たいアイスクリームは売れに売れた。大人も子どもも生徒も、こぞってアイスクリームを求めて集まったのだ。

 そして、午後からは、部活の展示物の番。丁度、午前中の番をしていた有里香と数馬ペアと入れ替わる形で、わたしと部長が番に付く。番をすると言っても、別に有料の出店ではないから、見て回るお客さんの質問などを聞き、それに受け答えるだけの簡単な仕事だ。

 と言っても、量販店の店員さんのように、すんなりと受け答えが出来るわけがない。それだけの、天文学に対する知識の蓄えがわたしには備わっていないのだ。一応、勉強はしてるつもりだ。だけど、天文学はひとつの学問になるくらいの分野だから、素人のわたしが本を何冊か読んだくらいで、投げかけられる質問に卒なく答えることなんて、できるはずもない。わたしは、来客に質問される度に、答えに窮して、部長を呼ぶ。忙しさと言う点では、国木田部長の方が忙しいと言える。

 わたしは、来客を部長に任せて、窓辺の椅子に腰掛ける。今は星なんかより、ヒロ先輩のことが気になって仕方がなかった。だったら、先輩のところへ駆けて行けばいいじゃない? 心の中でもう一人のわたしが言う。だけど、それが出来ない臆病者なのがわたしなのだ。駆けて行けるくらいなら、今頃告白のひとつやふたつしている。でもその告白ひとつに足が踏み出せないわたしは、一度目がダメでも何度だってアタックを仕掛けるような、強い女の子には、なれそうにもないのだ。

「はぁ」

 声が混じって、ため息が窓にぶつかる。窓辺からは、特設ステージのある中庭が見下ろせる。ちょうど、喉自慢大会が始まったところだ。生徒や来客たちがエントリーして、カラオケで鍛えた歌声を披露している。ふと、その人ごみに、ヒロ先輩の姿を見かけた気がした。だけど、すぐにヒロ先輩らしき人影は、ステージに殺到する観客たちに紛れて見えなくなる。

 今頃、先輩は「先約」の人と一緒に、楽しく文化祭を見て回っているのだろうか。なんだか、夏休みからこっち、ヒロ先輩とはすれ違いまくりで、踏んだり蹴ったりな高校生活を送っていることに、哀しくなってくる。わたしの臆病者の心根に、どんよりと黒い雲が差し掛かり、ともすれば土砂降りの予報に変わりそうだった。

「なにやってんの?」

 唐突に掛けられた声。わたしは椅子から跳ね降りて後ろを振り返った。わたしがぼんやりと窓の外を眺めていることを、国木田部長が咎めたのだと思ったのだ。だけど、わたしの視線の先にいるのは、思いがけない顔だった。

「姉ちゃんらしくないな、ぼんやりとして。一瞬、姉ちゃんだと分からなかったよ」

 と、弟は日に焼けた顔に、悪戯っ子のようなニヤつきを浮べる。弟の傍らには、スーツ姿の母もいるではないか。わたしは思わずぽかんとしてしまう。すると、母が苦笑しつつ、

「なあに、そのみっともない顔は」

 と、わたしを窘める。みっともないと言われても、わたしは驚きを隠せなかった。

「なんで、お母さんと、タケルがいるのよっ!?」

「なんでって、あなたが普段どんな風に学校で頑張ってるのか見に来たのよ」

 母は、いつになくニコニコと笑って言う。いや、授業参観じゃないんだから、と出掛かったツッコミを飲み込んだわたしは、あたりをきょろきょろと見回した。まさか、母と弟が来るとは思っても見なかった。もしも、誰かに見止められたら、これほど恥ずかしいことはない。と思っていた矢先、来客の質問に答え終わった国木田部長が、母と弟の姿を見つけて、こちらへとやって来る。

「どうかなさいましたか?」

 部長が丁寧な口調で、母に言うと、こともあろうか母はこれまた丁寧なお辞儀を返して、

「北上理沙の母です。どうも、うちの理沙がお世話になってます」

「ぼくは弟のタケルです! 姉ちゃんがお世話になってます」

 と、二人揃って、わたしが止める前に勝手に自己紹介をしてしまう。国木田部長はやや驚いた顔をしながらも、すぐに微笑んで、「いえいえ、こちらこそ」なんて、まるでサラリーマンの社交辞令みたいなあいつを述べた。

「申し遅れました。ぼくは、天文部の部長をやらせていただいてる、二年の国木田亮です。この展示物はほぼすべて、北上くんが夏休みの間に、独りでまとめてくれたものです」

「まあ、理沙、すごいじゃない!」

 母はニコニコとして、わたしの背中を軽く叩いた。普段褒められることが少なければ少ないほど、思いがけず褒められれば悪い気がしない。すこしだけ、あの地獄の夏休みが報われたような気がする。

「ええ、流石は、北上准教授の娘さんです」

「あら、うちの主人をご存知なの?」

「はい、天文学を目指す者としてはもちろんですよ。特に、去年の天文学会で北上准教授が発表なされた論文の……」

 やや感動を帯びた熱い口調で、部長が語る。部長が発する言葉は、お世辞などではなく、心からの尊敬の念であることは、わたしにも分かった。愛する夫を褒められれば、母も嬉しいのだろう、母は終始ニコニコしながら、部長の言葉一つ一つに耳を傾けていた。

「ねえ、姉ちゃん」

 不意に、部長と母には聞こえないくらいの小さな声で、弟がわたしの脇を小突く。

「もしかして、姉ちゃんの好きな人って、あの部長さん?」

 あまりにも突拍子もない発言に、わたしは驚きの声を上げる代わりに、弟を軽く蹴飛ばしてやった。

「なんでそうなるのよ?」

「だって、さっき窓の外を眺めながら、ため息ついてたでしょ。そしたら、母さんが『恋わずらいかしらね』って言うから……違うの?」

 流石に母は鋭い。たしかに、恋わずらいであることは間違いないのだが、弟の勘は母のそれと違って随分鈍いようだ。

「違うわよ」

「恋わずらいが? それとも、部長さんが?」

「どっちも、違う。疲れたからため息をついただけ。それから、たとえわたしに好きな人がいたとしても、あの部長だけは絶対にありえないから。分かった?」

 と言って、わたしの言い種はあまりにも部長に対して失礼だったと思った。まあ、部長がわたしに好かれたいかどうかは別としても、絶対なんてきっと傷つくだろう。だけど、当の部長は母と話しこんでおり、まったくわたしの言葉は届いていなかった。

「ふうん……」

 弟は意味深に返事する。そして、ぐるりと部屋の中を見渡す。天文部が借りているのは、大教室のひとつ。普通の教室の一・五倍はあろうかという教室には、梁のようにワイヤー張られ、そこに、わたしがまとめ、有里香と数馬が製作した模造紙の展示が並んでいる。

「ちゃんと、天文部やってたんだ。ちょっと意外だな」

 弟は、書かれていることの意味も分からずに一つ一つを眺めて、感慨深げに言った。

「姉ちゃんってば、全然天文とかに興味ないんだと思ってたよ。ほら、父さんが星の話しても、いつも聞いてないし。だいたい、中学まで星座の名前もしらなかっただろ?」

「そうだよね」

「そうだよね、ってまるで他人事みたいに言うなよ。ホントに驚いてるんだから」

「まあ、わたしも自分のことだけど、ちょっと意外かな。でも、始めてみると、望遠鏡を覗くのも案外楽しいのよ」

「それ、父さんが聞いたら喜ぶかもね」

 弟はクスリと笑う。わたしも、併せて笑う。父は、一度もわたしに天文学に興味を持ってほしい、と言ったことはない。女の子だし、興味のないことに無理強いをさせたくないと考えてのことだろう。でも、内心ではきっと真逆のことを思っているに違いない。そんな父が、この展示物を見たら、どんな風に思うだろう……。そう言えば、『未知の流星』で忙しくしている父にも、ここ最近ろくに顔を合わせていない。と言うか、父はずっと研究室に篭りっぱなしだ。

「でも、あんた、天文学者になって、ノーベル賞取るんでしょ? だったらわたしの出る幕はないわね」

「いや、姉ちゃんが天文学者を目指すって言うなら、ぼくはワールドカップ目指すよ」

 冗談混じりにサッカーバカの顔をして、弟が言った。

「そう言えば、ホントにわたしに会うために、文化祭に来たの?」

 わたしは、弟の横顔に疑問をぶつけてみた。すると、弟は少しだけ笑って、

「いや、父さんの着替えとかを大学へ持っていくついで。ほら、この高校って大学からの帰り道でしょ」

 たしかに、高校の前を走る道を延々と真っ直ぐ行けば、父の勤める大学が見えてくる。

「なるほど、研究室に引きこもりのお父さんの世話をするついでに来たのか。まあ、わざわざ来るわけはないと思ったけどね」

 わたしは「合点がいった」と付け加えつつ、スカートのポケットから食券を取り出す。わたしのクラスがやっているアイスクリーム屋さんのチケットだ。店番を交代するときに、何枚かもらった分だ。本当は後で、有里香たちと一緒にアイスクリームを食べるつもりだった。

「来てくれたお礼。隣の校舎にあるアイスクリーム屋さんの食券。母さんのと二枚あげるから、それでも買って、さっさと帰りな」

「やった!」

 甘いものが好きな弟は、チケットを受け取ると小さく飛び跳ねて喜んだ。ちょうどその時、部長と母の会話も終わる。

「今後とも、娘をよろしくお願いしますね」

 母は余計な言葉で会話を締めくくった。そして、部長に一礼すると、母は再びわたしの方に歩み寄り、

「素晴らしい部長さんね。ご迷惑をおかけしないように、しっかりやるのよ」

 と、わたしに言う。一体何をしっかりやるのか。あと数時間もすれば、文化祭も閉幕する。だけど、父を褒められて、やたらと上機嫌な母は、わたしの心の声など気にも留めないで、まるで踊りだしそうな足取りで、弟を連れて展示室を後にした。

 わたしはその背中を見送りながら、またため息ついた。そのため息が、母たちのちょっと騒々しい来訪に疲れたから出たものなのか、それともヒロ先輩に会えないから出たものなのか、わたしにも良く分からなかった。多分、その両方なんだと思う。


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