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15. ムトウヤシロ

「借金取りじゃなさそうだな……、誰だよ、お前たち?」

 想像していたのとは少し違う。伸ばし放題の髪と髭、神経質そうな濁った瞳、痩せぎすな体を覆うのは、ヨレヨレのランニングシャツとくすんだ色のジャージズボン。顔のしわも肌のつやも、まだ三十代半ばのはずなのに、四十をゆうに越えているように見えた。そんな、どう見ても、みすぼらしい、という一言が当てはまりそうな、その人が武藤社(むとうやしろ)だった。

「突然、お騒がせしてすみません。俺は河瀬数馬。こっちが北上理沙。俺たち、高校の天文部に入ってて、武藤先輩の遠い後輩に当たるんです」

 と、数馬が早口に身分を明かす。だけど、武藤さんの瞳は疑いと詮索の色を失わなかった。

「そんなことは聞いてねえよ。何の用があって、俺を訪ねてきたんだって訊いてるんだ」

「それは、先輩に是非教えていただきたいことがありまして……」

 そう言うと、数馬は自分の鞄を漁り、例のファイルを取り出した。武藤さんが高校生の頃に書きとめたメモノートがファイリングされたアレだ。きっと、部室からこっそり持ってきたんだろう。

「これについて、お聞きしたいんです!」

 数馬は、ノートのページを捲り武藤さんに突きつけた。一瞬、武藤さんの顔に戸惑いが顕れる。その戸惑いの意味はわたしたちには分からなかったが、「仕方ねえな、上がれ」という、武藤さんのお招きに預かることにした。

 アパートの外観の通り、四畳半の狭い部屋は、今にも朽ちてしまいそうなくらいボロボロだった。畳はすでに色あせて、年代ものの擦りガラスがはめ込まれた窓からは、隙間風が吹き込み、部屋の漆喰はカビとヒビに覆われている。それにもまして、わたしが驚いたのは部屋があまりにも殺風景だったことだ。テレビやラジオといった、最低限の娯楽物は存在せず、ポスターやインテリアは見当たらない。部屋の隅に、年季の入った本棚に幾つかの書籍が並べられている他には、独り暮らしでも小さすぎる大きさの冷蔵庫、病院でももう少しいいやつ使っているよと言いたくなるような、パイプベッドがあるだけで、おおよそ、現代人の住まいというよりは、監獄か何かを思わせる。

「まあ、適当に座れ」

 と、武藤さんはわたしたちに言うと、作り付けの小さなコンロの火にヤカンをかけた。

「お構いなく……」

 すかさず、わたしは言ったのだけど、武藤さんはわたしの言葉など構わず、コーヒーカップを三つ取り出して、インスタント豆を手際よく入れていく。

 わたしと数馬は、とりあえず、本棚の近くに腰を下ろした。あまり人の部屋をきょろきょろするもんじゃない、と両親に教わったはずなのに、わたしはなんだか落ち着かなくて、殺風景な部屋に視線を何度も巡らした。

 本当に想像していたのは違う……。わたしが部長から聞いた話では、武藤さんは高校を卒業した後、理系の大学へ進み、天文学を専攻したらしい。それは、国木田部長が目指す進路とまったく同じで、高校の天文部のメモノートに、当時まだ誰も目を付けていなかった「未知の流星」のことを克明に記すくらいだから、きっと大学でもその才能を研究に生かし、今は天文学者として名を馳せているだろう、とわたしは勝手に想像していた。

 だから、訪れた武藤さんの住まいが、こんな風に監獄を思わせるとは、ちっとも想像していなかったのだ。もちろん、それは、わたしの勝手な想像で、人生にはいろいろな出来事が起こりうる。それを推察することは、ただのいらぬ詮索であって、年下でまだ高校生のわたしたちが問い質していいものではない。

 と、わたしは考えていたのに、武藤さんがコーヒーを淹れてわたしたちの前に座るや否や、数馬がわたしの考えなど打ち払うかのように、

「お仕事はなにをなされているんですか?」

 なんて、あまりにも無神経に訊いた。当然、武藤さんは不機嫌そうな顔になり、無造作に畳の上にコーヒーカップを三つ置くと、あごをしゃくって見せた。

 ベッド脇にいくつかの用紙が投げ捨てられている。紙の端には「求職票」と書かれていた。それだけで、わたしたちにも、武藤さんが何を言いたいのか分かる。だけど、もう掻く恥もないと言わんばかりに、武藤さんは、

「日々、職安に出かけてる。あとは、日雇い労働で、食い扶持を稼いでる始末だ」

 と、笑った。その顔は、世の中の不況を嘆いていると言うよりは、自らの体たらくを嘲笑うかのようだった。

「でも、大学では天文学を専攻されたんですよね? 武藤さんほどの方なら、きっと大学で研究を続けていると思ってました」

 殺風景な部屋と、武藤さんの自嘲に、「案の定」という言葉が頭の中を過ぎったわたしは、思わず口を滑らした。武藤さんは、再び不機嫌そうな顔になると、

「君は、可愛い顔して、キツイことをサラッというね」

 と、わたしに向かって語気を強めた。しまった、と思っても一度口をついて出た言葉を引っ込めることは出来なくて、わたしは、恐縮してしまう。

「まあ、仕方がないか。君の言うとおり、六年前まではこれでも、大学の研究室で研究員を務めていた。だけど、今はきっぱり天文学は捨てた。ご覧の通り、この部屋には望遠鏡も、観測機もない」

 そう言うと、武藤さんはコーヒーをすすった。わたしたちも、いただきますと告げ、コーヒーに口を付ける。賞味期限の切れたコーヒー豆は、ひどい酸味ばかり口の中に広がっていった。

「それで……これのことなんですが。これをお書きになったのは、武藤さんですよね?」

 もう一度メモノートを広げて、数馬が言う。いつになくかしこまった口調は、あまり数馬に似合っていなかった。

「そうだ。懐かしいな……。俺が高校二年のころに、書きとめたものだ。これの所為で、俺の人生の歯車は、狂ってしまったんだよ」

 武藤さんはノートを拾い上げると、そこに書かれた文字や計算式、図形を眺めて、目を細めた。

「コペルニクスがこいつを発見したときには、俺の体に電気が走った。コペルニクスって言うのは、当時の天文部が大学から供与してもらってた、小型電波観測機の愛称だ。俺が卒業する前にスペースデブリの所為で壊れちまったけどな」

「武藤さんがこのノートで仰ってる、流星って、今天文学会を賑わせている『未知の流星』のことですよね?」

「ああ、そうだ。やつら、今頃になって、慌てふためいてやがる。俺が、研究を学会に提出したときには、鼻で笑ったくせに、アメリカの何とかっていう天文台が発見したなんて、発表したとたんに手のひらを返してきやがった」

 フンっと、鼻を鳴らすと、武藤さんは職安の求職票にまぎれていた、小さな封筒を取り出す。武藤さんに宛てた手紙のようだ。表の差出人の名は個人ではなくて、この国の最高学府の大学名が記されていた。

「今更、研究室に戻って来いって言うんだぜ。『未知の流星』などと世迷いごとを抜かすなと散々ほざいていたお偉方が、今度は下手に出てくるなんて、それこそ滑稽だ。人のことバカにするのも大概にしやがれってんだ」

 武藤さんは毒づいた。恨みの篭ったような口調は、わたしを閉口させる。要は、武藤さんはかつて、誰よりも早く「未知の流星」を発見して、それを発表した。だけど、学会はそれを黙殺したため、武藤さんはやむなく、天文学の夢を捨てて、その日暮しの生活を送っていると言うわけだ。それは、天文学者の娘としては、なんだかいたたまれないような気分になってくる。もしかしたら、わたしの父も、武藤さんを鼻で笑った一人かもしれないのだ……。

 わたしが黙りこくっていると、数馬が勝手に話を進めてくれる。

「でも、俺たちにとっては、誇るべき大先輩ですよ、武藤さんは」

「止せよ、お世辞ならその手紙だけで間に合ってる。それより、俺にそのノートの事を聞いてどうするんだ? 俺もこんなだが、暇じゃないんだ。これから、日雇いの仕事に出かけなくちゃならねえ。出来れば、手短にしてもらえると嬉しいんだけどな」

「それは、すみません。えっと、俺たち今年の文化祭で、この『未知の流星』について取り上げようと思っているんです。そこで、世界で一番早くこの流星を発見してらした武藤先輩に、お話を聞きたくて来たんです。どんな流星で、流星は何処から飛んできて、どんな風に地球から観測することが出来るのか、教えていただけませんか?」

 数馬がお願いすると、武藤さんは急に翳を帯びた横顔で、染みの張り付いた天井を見上げた。そして、ひとつ、この寒々とした部屋にため息を吐き出した。

「知らない方が身のためだ……お前たちが言うところの大先輩として一つだけ教えてやれるとしたら、それだけだ」

「は?」

 数馬が言葉の意味を図りかねて、問い返す。

「だから、お前たちに教えてやることは何もないってことだよ。お前たちだけじゃない、その下らない手紙をよこしたお偉い天文学者どもにも、誰にも教えてやることは何もない。さっきも言ったとおり、俺は天文学を捨てた。星なんて、二度と見たいとは思わない」

 呆気にとられたわたしたちに、武藤さんはまくし立てるように言った。

「さあ、帰った帰った。仕事に遅刻するわけには行かないからな。お前たちの所為で、明日のメシにありつけなくなったら、俺は飢え死にするかもしれないぞ!」

 と、急き立てる。まるで、流星のことはおろか、天文学のことなど耳にしたくもないと言った顔つきだった。何故か突然に、何かに思い至ったように、態度を翻した武藤さんに追い立てられたわたしたちは、部屋からつまみ出されてしまった。

「ちょっと、武藤先輩っ!!」

「やめなよ、数馬っ!!」

 数馬がもう一度部屋に乗り込もうとするのを、わたしは止めた。数馬は肩を落として「分かった」という風に、わたしに頷いてみせる。その代わりに、数馬は自分の携帯電話の番号を書き記したメモを、扉の郵便受けに差し込んだ。

 結局何の収穫も得られないまま、わたしたちは駅への帰路に着くことになってしまった。

「ごめんな、何にも教えてもらえなかった……俺、何かまずいことを言ったのかなぁ?」

「ううん、そんなことないと思うけど。わたしの方こそ、無駄足に付きあわせて、ごめん」

 しょげる数馬の肩を軽く叩いて、わたしは作り笑顔を数馬に見せた。やがて、駅舎が見えてくる。わたしはポケットの中の財布を探り、今月のお小遣いと相談して、わざわざわたしに付き合ってくれた数馬へのお礼代わりに、お昼ご飯を奢ることにした。もちろん、格安のファーストフード店だけど。

ご意見・ご感想などございましたら、お寄せ下さい。


4/28 コペルニクスについてと、末尾を書き直しました。

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