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11. 憂鬱のタネ

 国木田部長から押し付けられた任務は、過酷を極めた。夏休みが終わりに近づいても、十時間あまりの星見会の記録は、一向に纏め上げることが出来ない。パソコン初心者のわたしにとっては、文字を、数字を、たった一ページ打つだけでも、相当な労働力が必要なのだ。それにも拘らず、自称「忙しくしている」らしい部長は一度も手伝いになんか来てくれない。

 このまま、高校一年生の夏が終わってしまうのかと思うと、今日も一日、サウナルームみたいな部室で、たった一人で作業することに、憂鬱さは隠せない。口をついて出るのは、暗くよどんだため息ばかり。せめて、有里香のように、好きな人と一緒の時間がすごせたら、過酷な作業も少しは楽しくなるというのに、肝心のヒロ先輩の顔さえ、この夏休みの間、一度も見かけていないのだ。

 人づてに聞いた話だと、ヒロ先輩は生徒会の仕事も掛け持っているようで、夏休みが終わった後に控える、文化祭のスポンサー集めに借り出されているらしい。国木田部長が言った「英兄の別の用事」と言うのがそれだ。きっと、わたしが汗だくになりながらパソコンに向かっている間も、先輩は炎天下をまるで営業のサラリーマンみたいに、駆け回っていることだろう。

「ヒロ先輩、お疲れ様です」

 と言って、その労をねぎらうヒロインになりたいものだけど、わたしにも仕事が待っている。そういうヒロイン妄想は、頭の中だけで終わらせるほかなかった。

 そう思えば思うほど、夏休みだというのに制服に着替えて、学校へ行くことが、憂鬱で仕方がない。

「姉ちゃん、朝っぱらから、何不景気な顔してるんだよ?」

 朝食の並べられた食卓の向かいから、弟の声が聞こえる。その言い草は、なんだか父の口調に良く似ていた。しかし、その父はここのところ、家に帰ってきていない。

「あんたはいいわよねぇ、一日中サッカーボールをバカみたいに追い回してるだけでいいんだから」

 サッカー部の朝練から帰宅したばかりで、ご機嫌な顔をした弟に、わたしはたっぷり皮肉を込めて、言ってやった。すると、弟は少しばかり癇に障ったのか、

「バカとは失礼な。これでも、秋にある県大会優勝目指して頑張ってるんだよ。俺たちイレブンは特に」

 と、憮然とする。確かに、泥だらけの体操着は、彼の努力を物語っているようだった。

「あんた、レギュラーだったの?」

「あったりまえじゃん! っていうか、質問の答え聞いてないよ。なに、さっきから、ため息を連発してるんだよ。ほら、外はこんなに晴れてるんだぜ。もうちょっと、明るい顔しようよ」

 そう言って、弟はダイニングの窓の外に視線をやった。今日も、猛暑日の記録を更新しそうな勢いで、太陽が照り付けている。今にも、この世の水はすべて干上がってしまうんじゃないかと思うくらいだ。

 わたしは、再びため息をついた。この調子なら、わたしは誰もいない部室で、脱水症状か熱中症で死ぬかもしれないと、冗談半ばに思う。

「ほらまた、ため息。こっちまで鬱な気分になるから、やめてよね」

 と、苦言を呈しながら、弟の頭上に電球がパッと灯ったような気がした。それは、大抵良からぬことを言い始める予兆だ。案の定弟は、日に焼けた顔を歪めて、

「姉ちゃん……もしかして、失恋でもした? まあ、姉ちゃんみたいな口の悪いヤツは、男から嫌われやすいけどな」

 と、口走る。わたしは、反論するよりも先に、小生意気な弟目掛けて、テーブルの隅に置かれた布巾を投げつけた。まだ湿ったままの布巾が、べしゃりと弟の顔に張り付く。

「ぐえっ、何だよう。暴力反対っ!!」

「あんたねぇ、言葉の暴力ってものも知りなさい。っていうか、わたし失恋なんかしてないわよっ、失敬なやつ!!」

 フンっ、と鼻を鳴らし弟を叱り付けたわたしは、コップに注がれた牛乳を一気に飲み干して、苛立ちを収めた。まだ、告白もしてないどころか、ちっとも先輩との距離が縮まっていないというのに、どうやって失恋のするのか、と問いかけたところで、何のことだか分からないだろう。特に、サッカーボールが恋人みたいなこの愚弟には。

「なんだ、違うのか……。そうだよなぁ、色気ないもんな、姉ちゃんは」

「今度は、コップ投げてやろうか?」

 わざとドスの聞いた声で、わたしは空になったコップを掴んだ。弟は両手で顔面をガードしながら悲鳴を上げる。まさか、本当にコップを投げつけるほど、わたしはひどい姉ではない。しかも、朝っぱらから姉弟喧嘩して、気力と体力を浪費したくもない。

「や、それは勘弁。でも、暗い顔してるとマジで男に嫌われるよ」

 そんなこと、弟に言われなくても分かってる。

「うるさいわね。わたしにだって、いろいろと気苦労ってものがあるの。それよりさ、お母さんは?」

 わたしはコップから手を離すと、ダイニングキッチンを見渡した。いつもなら、パートの仕事に出かける前に、炊事洗濯を済ませるため、忙しくパタパタしている母の姿が何処にも見当たらないのだ。

「出てった」

 と、するりと弟は答える。あまりに簡素な答えに、わたしは思わず「はぁ?」と、素っ頓狂な声を上げる。弟の言い方があまりにも、ドラマで聞く科白のように思えたのだ。

「いや、だからさ、父さんの着替えとかを大学の研究室に持っていくために、姉ちゃんが起きる前に出かけたんだよ」

「だったら、そう言いなさいよ。ちょっとびっくりしたじゃない……。そう言えば、お父さん、最近ちっとも帰ってこないね。どうしたのかな?」

「ほら、あれだよ。結構前の新聞に載ってた『未知の流星』ってやつ。いま、天文学会じゃ、その話題で持ちきりなんだって。なんたって、ハレー彗星の倍以上の大きさがある流星が、地球の傍を通り過ぎるかもしれないんだ、そりゃ父さんじゃなくても夢中になるよ。だから、父さんの大学でも、みんなこぞって『未知の流星』の研究に明け暮れてるって話だよ」

 まるで、見てきたように弟がわたしに説明する。

「よく知ってるのね」

「知らないのは、姉ちゃんくらいだよ。だいたい、姉ちゃん天文部なんだろ? ちょっとは『未知の流星』ってやつに興味はないの?」

 弟があきれたような口調でわたしに言った。興味があるとかないとか以前に、わたしは定期試験や星見会のデータまとめで、すっかりそのことを記憶の片隅から追い出していた。その点については、弟からなじられても仕方がない。

 そもそも、天文学者の父を持ちながらも、天文学どころか夜空の星さえも良く分かっていない、不肖の娘としては、恥ずかしい限りである。天文部に入ったのも、父の後を追って、とかそんな殊勝な心がけではなく、好きになってしまった相手に近づくために入部したのだ。

 まさか、それを弟に暴露するわけには行かない。だけど、そんな理由で天文部に入ったにも拘らず、夏休みの毎日を、星座の図表とにらめっこしているのでは、あまりにも哀しすぎる。

「そういあんただって、星座の名前も知らないくせに。毎日、サッカーばっかやってるんじゃ、お父さんも悲しむよ」

 わたしは精一杯の反論を、パンにかじりつく弟にぶつけてやった。すると、わたしのシュートは難なく、キーパーの両の手に吸い込まれていった。

「あまいな、姉ちゃん」

 ニヤっと、弟は笑う。

「ぼく、ちゃんと勉強してるもんね。将来は、父さんの後を継いで、立派な天文学者になるつもりだよ。ゆくゆくは、天文学会を震撼させるような論文を発表して、ノーベル賞をもらうんだ。息子は、父の背を見て育ち、父を越えていくものなんだよ、姉ちゃん」

「サッカーはどうするのよ。ワールドカップは?」

「サッカーは趣味だよ。趣味を仕事になんかしたくないね」

 弟は、驚いてしまうほどドライなことを言う。ああ、そうかこの姉にして、この弟ありってことなのか。

「それに、ワールドカップに出られるやつなんて、一握りしかいないんだ。そういうやつは、県大会優勝どころか、全国大会優勝を狙ってる。ウチの部活とは大違いさ」

 どうやら、ドライな性格の方向性は、わたしとは違うらしい。ワールドカップ出場枠の倍率よりも、ノーベル賞を受賞する倍率のほうが、圧倒的に高い。それが証拠にここ数年、ノーベル賞を受賞した日本人は数えるくらいしかいない。熱いのか冷めてるのか良く分からないが、弟は満面の笑みをわたしに向けてくる。

「じゃあ、娘のわたしは、母の背を見て育ち、母を越えなくちゃならないのね。ってことは、わたしは天文学に興味を持つ必要はないってことだね。お父さんより年収の高い人のお嫁さんになって、スーパーのレジ打ちのパート職じゃなくて、デパート店員の正社員になればいいんだ」

「なにそれ? 理想低くない? もうちょっと夢を持ちなよ」

「冗談よ。でも、あんたみたいに誇大妄想を持ちたくはないわね……」

 そう言ってから、わたしはリビングの時計に目をやる。すでに時刻は午前九時を回ろうとしていた。

「あんたと馬鹿なこと言ってたら、遅刻じゃない。まったく、もーっ!」

 わたしは慌てて、食器を片付ける。勿論、夏休みなので、登校する時刻に決まりはない。だけど、一秒でも早く作業を始めないと、夏休みが終わるまでに部長から言いつけられた作業を終わらせる自信は、何処にもなかった。

「行って来ますっ!!」

 わたしは鞄を持つと、騒がしく家を出る。背中から、まだ食卓でゆるりと朝食を食べる弟の「行ってらっしゃい」が聞こえた。勢いよく玄関を出ると、カッと照りつける灼熱の夏日に、わたしは目を細めた。耳の辺りをくすぐるようなセミの鳴き声。よどんだ汗ばむ熱気。そのどれもが、わたしを尚も憂鬱にする。

 だからと言うわけではない。弟との他愛もない会話に現れた、『未知の流星』という言葉など、すぐに忘れてしまいそうだった。だけど、その流星が、間もなくわたしたち人類にとって悲劇のカウントダウンを始まりを告げることになるなんて、そのときのわたしは思っても見なかった……。

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