第88話 マスター華子の変なバー5 夢の途中
「さてさて、今日の貼り紙は少し趣向をかえてこれじゃ。
えい!」
甘く素晴らしい記憶。
忘れようにも思い出せない。
ただそれが悲しい。
記憶は心の宝石箱。
「いらっしゃいませ。bar happyendへようこそ」
「この道は仕事帰りによく通るんですが。
このお店には、何故か全く気づかなかった。
でも、今日は不思議と目に入って。」
「ほんとそういうお客様多いんです、うちのお店。
目立たないっていうより、必要ない人には見えない位存在感ないんです。」
「ふっ、それは、、、面白い。」
シルバーグレーの端正な老紳士は、軽く笑いながらゆっくりとカウンター席に座った。
「歩いていたら、急に悲しくてたまらなくなって、うずくまって泣いてしまいそうになって。
こんな大人が変ですよね。
その時、このお店の看板がふと目に入ったんです。」
「そうなんですか。
私もそういうことよくありますよ。」
「何かお飲みになりますか?」
「はい。じゃ、、そう、パラダイスを。」
「ふふっ、夢の途中、、ですね。」
「きっと、以前悲しいことがあったんですね。」
「いや、その悲しいことが思い出せなかったんです。
何もかも。
素晴らしい記憶なのに。
けして忘れてはならない記憶なのに。
ずっと、ずっと忘れていたんです。
しかし、何故かこの歳になって少しづつ思い出してきたんです。
まるで、魔法が徐々に解けてきたみたいに。
記憶が少しづつ戻るのにつれ、悲しさがどんどん増してきました。
どうして、こんな宝石のような記憶をこの歳まで忘れていたのか。それが悲しくて悲しくて。
そしてとうとう今日、それに耐えられなくなってしまいました。
悲しみのダムが決壊するみたいに。」
「それは大変でしたね。
差し障りがなければ、お話を聞かせていただいても。」
「不思議な話ですよ。信じてもらえるかどうか。
それと思い出したんですが、口止めもされてもいたんです。絶対に死ぬまで誰にも話すなと。
それも国のある重要人物から。
まあ、その人ももうこの世界にはいませんが。
でも、話したらあなたにご迷惑がかかかるかも。」
「それは大丈夫です。ご心配なく。
パラダイスを飲んでるお客様の話なんて、はなから信じませんから。
きっとまだ、夢の途中、なんでしょう。」
「はっはっ、そりゃいい。
夢の途中、か。
そうかも知れませんね。
いや、多分そうです。
そういうことなら、気楽に話せます。
じゃあ、もう一杯いただけますか。
パラダイスを。」
「では、私の夢の途中、、の話を聞いていただけますか。
そう、あれはまだ私が若い二十代、駆け出しの研究者だった頃の話です。」




