灰色の巨都、ロット・ノット
ロットノットにやって来たラバァルは、この巨大な都市の構造と、力を持つ者たちの関係を知って行く事に成る、何時もの様に何もかも破壊してしまうことなく、事を進めなくてはならず、非常に手間のかかる戦いになって行く事に成ります。
その98
ラガン王国の首都、『ロット・ノット』。
その地に初めて足を踏入れる者は、まず都市そのものが持つ圧倒的な歴史の重みに息を呑むだろう。凡そ三千年前にノース大陸全土を支配したと伝えられる古代文明の巨大な遺跡の上に、層を重ねるようにして築かれたこの街は、滅び去った文明の痕跡を今もなお随所に色濃く留めている。特に、ロット・ノット南側に広がる旧市街は、三百年から六百年以上前に築かれた建造物が密集し、迷宮のように入り組んだ路地が続く。様々な石材で無秩序に建てられた高さ二十メートル近い建築物は、手入れが行き届かず、多くが傷み、煤けていた。古代の石組み技術は、歴史を学ぶ者にとっては興味深い対象であろうが、現在そこは知識を持たない貧しい者たちが住み着き、その歴史的価値を知ることもなく、日々の生活の場として利用しているに過ぎない。淀んだ空気と、常に漂う得体の知れない匂いが、この地区の特徴だった。
現在のロット・ノットの行政と経済の中心は、約二百年前に旧市街の北側に新たに建設された新市街に移っている。こちらも主たる建材は石だが、様々な種類の磨かれた御影石などがふんだんに用いられ、旧市街の雑然とした景観とは対照的に、整然と区画整理された壮麗な街並みが広がっている。建造からの年月が比較的浅いため、目立って荒廃した建物は少なく、清潔感があった。
かつてノース大陸で三番目の規模を誇ったこの巨大都市も、現在では人口百万人を割り込み、緩やかな減少傾向にあるという。かつてはラガン王国の富が集中する大陸有数の経済中心地だったが、近年、北のリバンティン公国の首都『アンヘイム』が目覚ましい発展を遂げたことでその地位を奪われ、現在では大陸第四位の経済規模へと後退していた。街全体を見渡せば、築二百年から三百年以上を経た建物が大半を占め、重厚な歴史を感じさせる一方で、全体的な手入れの不足からか、どこか寂れた、あるいは停滞したような印象も受ける。
街には多くの人々が行き交っているが、その表情にはどこか影があり、互いを警戒し合うような空気が漂っている。特に南の旧市街――スラム街ではその傾向が顕著で、幼い子供でさえ、身なりの良い旅人を見かければ、隙を見てスリを働こうとするほど治安が悪化している。その一方で、城壁に囲まれた上層区画に住む富裕層は、想像を絶するほどの贅沢な暮らしを送っており、下層民との間には埋めがたいほどの格差が存在していた。ロット・ノットは、富と貧困、栄光と退廃が、巨大な城壁の内側で隣り合わせに存在する街なのだ。
都市構造は、その階層を明確に示している。最も高い場所に位置する上層部には、王族や有力銘家、大富豪の壮麗な邸宅が建ち並び、磨き上げられた美しい石畳の道が続く。その下に広がる中層部には、比較的裕福な商人や腕の良い職人たちが住まい、活気がありながらも落ち着いた雰囲気が漂う。そして、最も低い南側に広がるのが、前述した貧困層が暮らす旧市街のスラムだ。迷路のような路地、老朽化した密集家屋、そして常に漂う猜疑心と諦念の空気が、そこを支配していた。
地理的に見れば、ロット・ノットは急成長するアンヘイムから南西へ約八百三十キロメートルの距離にある。かつては二つの都市を結ぶ街道で盛んな交易が行われていたが、近年は街道沿いに出没する山賊や野盗が凶悪化・増加したことにより、危険を嫌う商人たちが陸路での物資輸送を敬遠するようになり、交易量は目に見えて減少していた。それが、ロット・ノットの経済的地位の低下に拍車をかけている一因でもあった。
そんなラガン王国の首都の全貌が、丘陵の上から一望できる場所までやって来たラバァルは、眼下に広がる灰色の巨大な都市の威容に、思わず息を呑んだ。
「……なんという、巨大さだ……」
呟きは、乾いた風に乗り、空気中に溶けていく。
「あの中全てに、人が住んでいるというのか……」
早朝の柔らかな光に照らされた都市は、まるで巨大な生き物のように、遠目にも蠢いているように感じられた。最初に訪れたルカナンの街も大きいと感じたが、ここは比較にならない。見下ろすだけでも、優に四、五倍、あるいはそれ以上の規模があるように見える。建築資材の違いだろうか、赤茶けた土の色が目立ったルカナンに対し、ロット・ノットは様々な色合いの石材が織りなす灰色を基調としており、石造りの建造物群が朝陽を反射して、所々で白く、あるいは鈍く輝いていた。
ラバァルの感嘆とも呆れともつかない呟きに気づいたのか、隣を馬で並走していたアンドレアス将軍が、長旅の疲れを感じさせるやや荒い息をつきながらも、快活な声で笑った。
「わっはっは、そうだろうとも! あれこそが、我がラガン王国の中枢にして心臓部、『ロット・ノット』よ!」
彼は都市全体を誇らしげに指し示しながら続ける。
「中央に一際高く、荘厳にそびえ立っているのがラガン城だ。そして、その周囲にリング状に広がっている区画が見えるだろう? あれが上流階級の者たちが住む居住区だ。その北及び西側外が新市街、中流階級のエリアだな。平民が上流階級エリアや城に入るには、それぞれ身分を示す許可証が必要になる。覚えておくがいい」
アンドレアス将軍の声には、この国の支配階級に属する者としての、隠しようのない矜持と権威が滲んでいた。
「しかし、ラバァルよ。ただ驚いてばかりではいかんぞ。お主は、この都で名を上げ、確固たる力を持つ者とならねばならんのだからな!」
将軍の力強い言葉に、ラバァルは巨大な都市から視線を外し、短く頷いた。
「分かっています。ただ、初めて目にする首都の威容に、率直な感想を口にしたまでです。この雰囲気に呑まれたわけではありません」
落ち着き払った声で答える。
「わっはっは、そうか、そうか! 頼もしいことよ!」
アンドレアス将軍は、再び豪快に笑うと、手綱を引き締め、愛馬に軽く合図を送った。将軍を先頭に、ラバァル、そして数名の供回りの者たちからなる僅かな一行は、埃っぽい最後の坂道を駆け下り、灰色の巨都ロット・ノットへと向かって進み始めた。
馬の蹄が石畳を打つ、パカン、パカンという軽快な音が、午後の陽気な空気に響く。一行は街の入り口近くに設けられていた簡素な厩舎に馬を預け、徒歩で街の中心部へと向かった。アンドレアス将軍や供回りの者たちが纏う銀や鋼鉄製の鎧が、歩くたびにカシャリ、カシャリと擦れる音を立てる。石畳の広い通りを進んでいくと、やがて視界が開け、予想外に広大な円形状の広場に出た。半径八十メートルはあろうかという広場は、午後の強い日差しを浴びて、多くの人々の話し声や呼び声で満ち溢れている。まるで常設の市場のようで、色とりどりの大きなテントが所狭しと張られ、食料品や日用雑貨、工芸品などが並べられていた。熱した鉄板で肉を焼く香ばしい匂いや、大鍋で煮込まれたスープの食欲をそそる湯気が、様々な匂いと混じり合って空気中に漂っている。
木製の棚に手作りの玩具を並べた露店、奇妙な仮面を被って身振り手振りで芸を見せる大道芸人、吟遊詩人らしき男の奏でるリュートの音色。裕福そうな身なりの子供が、着飾った親の手を引き、玩具をねだったり、大道芸に見入ったりしている。広場全体が、一つの巨大な市場であり、同時に人々の交流の場となっているようだった。
「……これは、何か特別な祭りでもあるのですか?」
ラバァルは思わず、隣を歩く将軍に尋ねた。
「いや」将軍は、喧騒の中でもよく通る声で首を横に振る。「これがロット・ノットの日常だ。特にこの中央広場は、常にこのような賑わいを見せている」
「なるほど、流石は首都というわけですか」
ラバァルは内心で感心しながら、活気に満ちた広場の様子を物珍しそうに観察しつつ、一行と共に広場を抜け、さらに奥へと続く緩やかな石畳の坂道を登っていった。
坂を登るにつれて周囲の喧騒は徐々に遠ざかり、乾いた空気と午後の暖かな日差しだけが感じられる、落ち着いた雰囲気へと変わっていった。建物の様式も、より洗練され、手入れが行き届いているように見える。
「ラバァル、ここからは上流階級用の居住区だ」
アンドレアス将軍の声が、先ほどよりも幾分か低く、厳格な響きを帯びた。
「この先は、今までのように物珍しげにキョロキョロと見回すのは控えるように。ここでは、見られているという意識を常に持て。背筋を伸ばし、前を向いて歩け」
将軍の言葉から、ラバァルはこのエリアには、目に見える規則だけでなく、暗黙の内に守るべき堅苦しい作法や慣習が多く存在することを察した。周囲には、丁寧に手入れされた美しい庭園を持つ、壮麗な石造りの邸宅が静かに立ち並び、中下層エリアの猥雑な活気とは明らかに異なる、静謐で、どこか排他的な空気が漂っているのが肌で感じられた。
やがて一行は、ロット・ノットの中枢である荘厳なラガン城の城門へと辿り着いた。アンドレアス将軍を先頭に、一行は巨大な石造りの門をくぐる。城内もまた、静寂に包まれていた。石畳の床に、将軍たちの軍靴が立てる規則正しい足音が響き渡る。城門を守る衛兵たちは、アンドレアス将軍の姿を認めると、即座に姿勢を正し、一切の淀みない動きで敬礼を行った。
(ほう、流石は将軍というわけか。この城の衛兵にまで顔が利くとはな)
ラバァルは内心でそう思いながら、厳格な雰囲気に満ちた城内を進んでいく。
一行は、やがて豪華な装飾が施された巨大な扉――謁見の間へと続く扉の前までたどり着いた。そこでアンドレアス将軍が立ち止まり、ラバァルに向き直る。
「ラバァルよ、すまぬが、ここから先はわし等だけで入らねばならん。陛下への謁見が済むまで、外で待っていてくれ」
「承知しました」
ラバァルは短く答える。アンドレアス将軍が供の者と共に扉の中へと消えていくのを見送ると、ラバァルは時間を潰す場所を探した。謁見の間の扉の脇に、手すりの付いた広々とした石造りのテラスのような場所があるのが目に入った。おそらく、高位の人物に随行してきた者たちが、主を待つ間に時間を過ごすための控えの場なのだろう。そこからは、街の景色がよく見渡せそうだ。ラバァルは、そこで待つことに決め、テラスへと足を踏み入れた。
テラスには、午後の暖かな空気が満ち、柔らかな風が頬を撫でていく。眼下には、ロット・ノットの街並みが、東側から南側にかけて雄大に広がっていた。ラバァルは手すりに軽く寄りかかり、改めてその壮大な景色を眺め始めた。先ほど丘の上から見た遠景とは異なり、ここでは建物の細部や、行き交う人々の小さな姿まで見て取れる。彼は、ただ無目的に眺めているわけではなかった。街の区画、主要な通り、建物の配置、そして特に、先ほど通ってきた旧市街へと繋がるであろう南側の入り組んだ路地の様子を、記憶に焼き付けるように注意深く観察していた。十分以上、彼は微動だにせず、都市の姿を目に焼き付けていた。
その時、不意に背後から、凛とした、それでいて穏やかな声がかけられた。
「そんなに熱心にご覧になって……何か面白いものでもございましたか?」
その声は、まるで澄んだ水のように、自然にラバァルの耳に届いた。ラバァルは、誰何の気配も感じさせずに近づいた相手に内心で僅かな警戒を覚えつつ、ゆっくりと振り返った。
そこに立っていたのは、陽光を浴びて輝く、豊かで美しいプラチナブロンドの巻き毛が印象的な、凛とした佇まいの女性だった。年の頃は、二十代前半から半ばといったところか。貴族の令嬢のような優雅さも感じさせるが、その立ち姿や身のこなし、そして何より彼女が身に纏っている軽鎧と腰の剣は、彼女が騎士であることを示唆していた。
ラバァルが値踏みするように彼女の全身を素早く観察していると、彼女は小さく微笑み、まるで彼の思考を読み取ったかのように言った。
「ふふ、驚かせてしまったかしら。ええ、お見立ての通り。私は、王にお仕えする騎士ですわ」
その言葉に、ラバァルは僅かに眉を寄せた。心を読まれたような気分の悪さを感じ、彼はわざと返事をせず、再び街の景色に視線を戻し、テラスの端へと数歩移動して距離を取った。
すると、女性騎士も、カツ、カツ、と革張りのブーツの踵を鳴らし、ラバァルのすぐ近くまで追ってきた。
「あらあら、ご機嫌を損ねてしまいました? 申し訳ありません」
その涼やかな声には、からかうような響きが微かに混じっているように聞こえた。
「ただ、あなたのような装いの方は、この城内では大変珍しいものですから。失礼ながら、少し確認させて頂きたく存じます」
濃い緑色の革製シャツにフード付きのコート、黒革のズボンとブーツというラバァルの出で立ちは、確かに煌びやかな貴族や厳つい軍人ばかりのこの場では異質だった。
「……何の確認だ?」
ラバァルは、警戒を隠さない低い声で問い返す。
「あなた様がどちらからいらっしゃったのか。そして、どなたのご同伴でこちらへ?」
女性騎士の言葉には、先程までの柔和さとは裏腹に、尋問するような響きと、警備責任者としての威圧感が滲み出始めていた。
「それは、命令か? 答える義務が?」
ラバァルは、冷ややかな視線を彼女に向けながら問い詰める。
「ええ、ございますわ」
女性騎士は、ラバァルの視線にも臆することなく、きっぱりと言い返した。
「何故なら、私はこの謁見の間周辺の警備責任者を務めておりますので」
彼女は軽く胸に手を当て、自信に満ちた表情で付け加えた。「警備隊長、ラナーシャと申します」
「ほう……」ラバァルは、軽く鼻を鳴らした。「ここに来てまだ僅かな時間だが、早速の検問とはな。結構なことだ」
彼は、小さく息をつくと、面倒そうに答えた。
「アンドレアス将軍に同行してきた。今は、将軍が謁見を終えるのを待っているところだ」
それを聞くと、ラナーシャと名乗った警備隊長は、ふむ、と短く呟き、腕を組んでラバァルから数歩離れた位置に立った。その鋭い眼差しは、ラバァルをじっと観察している。
「なるほど、第一軍の将軍閣でございますか。失礼ながら、それが真実か確認させて頂く必要がございます。将軍がお戻りになるまで、私もここで待たせて頂きますわ」
ラバァルは、肩を竦めてみせた。
「好きにするがいい。俺は、もう少しこの街を眺めている」
そう短く告げると、彼は再び街の方へと視線を戻し、これ以上話しかけるなという意思を明確に示すように背を向けた。ラナーシャは、まだ何か尋ねたいことがあったような気配だったが、ラバァルのあからさまな拒絶の態度に、小さくため息をつくのが聞こえた。
「……まあ、仕方ありませんわね」
そう呟くと、彼女もそれ以上は話しかけず、テラスの柱に寄りかかり、静かに待ち始めた。午後の暖かな日差しだけが、石造りのテラスを静かに照らし続けていた。
そうして、四十五分ほどの時間が過ぎただろうか。午後の陽気が少しずつ熱を帯び始めた頃、背後で謁見の間の重厚な扉が開く軋む音が響き、アンドレアス将軍が少し疲れたような、しかし満足げな表情で姿を現した。
「待たせたな、ラバァルよ」
その声には、わずかに労わるような響きがあった。その姿を認めると、柱に寄りかかっていたラナーシャが、ハッとしたように素早く姿勢を正し、アンドレアス将軍の元へと歩み寄る。そして、軍隊式の隙のない動作で、丁寧に敬礼を行った。
「これは、アンドレアス将軍閣下! ご機嫌麗しゅうございます。私は、この区域の警備を担当しております、警備隊長のラナーシャと申します。お目にかかれて光栄に存じます!」
凛とした声には、先程ラバァルに向けていた猜疑心や皮肉めいた響きは微塵もなく、将軍に対する深い敬意が込められていた。
その豹変ぶりを冷めた目で見ながら、ラバァルはアンドレアス将軍に視線を送り、聞こえよがしに言った。
「将軍。どうやらこれで、俺への疑いは晴れたようですよ」
その小さな皮肉に、ラナーシャは頬を朱に染め、ばつの悪そうな顔でラバァルを一瞥すると、すぐに将軍に向き直り、素直に頭を下げた。
「も、申し訳ございません、将軍閣下! こちらの方の身元を確認しておりました。これも職務ですので、どうかご容赦ください」
その様子を見て、アンドレアス将軍は腹を抱えて笑い出した。
「わっはっはっは! なんだラバァル、警備の者に怪しまれていたのか! 全くお前という奴は!」
豪快な笑い声が、テラスに響き渡る。ラバァルは、やれやれといった表情で肩を竦めた。
「別に、俺は怪しい素振りなどしておりませんよ。彼女が怪しんだのは、俺のこの服装だそうです」
自分の言い分を説明するが、将軍は「わっはっは、そうか、そうか! それもそうだな!」と、まるで他人事のように一人で得心がいった様子で、まだ笑い続けていた。
アンドレアス将軍が次に向かった先は、城を出て、上流階級エリアのさらに奥深くにある壮麗な邸宅だった。高い石塀に囲まれ、手入れの行き届いた豊かな庭園が垣間見えるその邸宅は、評議会議員の一席を占める名門、『スタート・ベルグ家』の現当主、ジョン・スタート・ベルグ(六十三歳)の住まいである。
このスタート・ベルグ家は、長年にわたりラガン王国第一軍の有力な後援者であり、政治と経済の両面から軍を支えてきた存在だ。ラガン王国の軍はそれぞれ有力な貴族や実力者を後援者としており、例えば先の戦でラバァルも顔を合わせたジュピター将軍率いる第二軍の後援者は、同じく評議会議員である名門『ゾンハーグ家』の女当主エリサ・ゾンハーグ(五十五歳)、そして現在のラガン王国宰相を務めるアルメドラ(六十一歳)である。エリサとアルメドラは従妹同士という血縁関係にもあり、その結びつきは極めて強い。
アンドレアス将軍がこの邸宅を訪れたのは、現在スタート・ベルグ家と第一軍が直面している危機について協議するためであり、同時に、ラバァルをジョン・スタート・ベルグに正式に紹介するという目的もあった。
重厚な木製の扉が開かれ、将軍一行が邸内に入ると、広々とした豪奢な、しかし落ち着いた雰囲気の客間に通された。そこは、ロット・ノット滞在中のアンドレアス将軍のために、常に用意されている部屋だという。そして、将軍が事前に連絡していたのか、ラバァルのための部屋も隣に用意されていた。「長旅で疲れただろう、遠慮なく使うように」とジョンから勧められたが、ラバァルは「宿なら自分で見つけますので、お気遣いなく」と短く断った。まさか用意した部屋を断られるとは思っていなかったのか、当主のジョンは一瞬、驚いたような表情を見せた。しかし、アンドレアス将軍から事前に渡されていた紹介状に記されていたラバァルの異色の経歴と、その佇まいを改めて見て、「……そうか。君らしいな」と低い声で呟き、すぐに納得した様子で、それ以上その件を追及することはなかった。
その夜は、豪華なディナーが振る舞われ、ラバァルもアンドレアス将軍と共にスタート・ベルグ邸に一泊させてもらうことになった。しかし翌朝、ラバァルが早々に辞去しようとすると、アンドレアス将軍が彼を引き止めた。
「そう慌てるな、ラバァル。この街では、区域を移動する際に身分を示す『通行許可証』が必要になる場合がある。ジョン殿に手配してもらっているから、それを受け取ってからにするがいい」
街の中を移動するだけでいちいち許可証が必要とは、なんと面倒な場所だとラバァルは内心で思ったが、それがなければまた昨日のような面倒事が起こる可能性もある。仕方ない、と彼は了承し、朝の日差しが差し込むスタート・ベルグ家の中庭で、許可証が届くのを待つことにした。
やがて、丁寧に髭を整え、威厳のある落ち着いた雰囲気のジョン・スタート・ベルグが、アンドレアス将軍と共に中庭に現れた。そして、ジョンはラバァルに向き直ると、低いながらも明瞭な声で、現在スタート・ベルグ家と第一軍が置かれている深刻な状況について語り始めた。
「ラバァル殿、将軍からは君の並外れた力量について聞いている。我々が今、どのような苦境にあるか、君にも知っておいてもらいたい」ジョンは、重い面持ちで言葉を続けた。
「現在、我々スタート・ベルグ家とアンドレアス将軍率いる第一軍は、評議会内で急速に勢力を伸ばしてきた新興の『ムーメン家』、その若き当主モロー・ムーメン(二十八歳)と、彼と結託した宰相アルメドラ、そして古参の名門でありながら彼らに与した『ゾンハーグ家』によって、組織的な攻撃を受けている。彼らは、名門の一つだった『ベスウォール家』があまり能力の高くなかった長男を跡継ぎにしてしまった事が原因で、力を急速に落とし凋落した事をきっかけに、力を付けた新興勢力と手を結び、我々スタート・ベルグ家と第一軍を、この国の権力の中枢から完全に排除しようと、なりふり構わぬ攻勢を仕掛けてきているのだ」
ジョンの落ち着いた声の奥には、抑えきれない怒りの炎が揺らめいているのが感じられた。
「具体的に言えば、アンドレアス将軍に対しては、先の戦いでようやく平穏を取り戻したルカナンから第一軍を撤退させ、代わって彼らの息のかかった部隊を駐留させようと画策している。ルカナンを傀儡として利用するためだ。そして、我々スタート・ベルグ家の事業に対しては、長年かけて築き上げてきた販路や顧客に、あらゆる手段で割り込み、奪い取ろうとしている。既に全体の二割近い顧客が奪われた。ここロット・ノットでの酒類の販売事業を例に挙げれば、元々権益を持つ我々が八割の市場占有率を握っていたところに、ムーメン家が裏で手を回して安価な密造酒を大量に市場に流し込み、我々の売り上げは大幅に減少している状況だ」
ラバァルは、黙ってジョンの話を聞いていたが、内心では苛立ちが募っていた。これほど明白な敵対行為を受けていながら、なぜもっと直接的な手段――武力で反撃しないのか? その疑問が、彼の口をついて出る。
「……それだけのことを仕掛けられていながら、なぜ武力で奴らを叩き潰そうとしないのですか?」
その問いに、ジョンは苦々しい表情で重いため息をついた。
「……それをしてしまえば、それこそ奴らの思う壺なのだよ、ラバァル殿」
「思う壺?」ラバァルは訝しげに問い返す。「どういう意味です?」
ジョンは、さらに表情を曇らせて説明した。
「奴らは、表向きはともかく、元より我々を政敵と見做している。宰相という立場、ムーメン家という新興勢力の財力と実行力、そしてゾンハーグ家という老舗の名門が持つ影響力。それら全てを利用して、最終的にはアンドレアス将軍と、スタート・ベルグ家当主である私を『国家への反逆者』として断罪し、政治犯を収容する監獄『サイオン』へ送り込むことを目的としているのだ。ここで我々が先に手を出せば、それを格好の口実として利用され、即座に反逆者の汚名を着せられ、サイオン送りとなるだろう。そうなれば、第一軍もスタート・ベルグ家も、完全に崩壊してしまう」
その陰湿な権力闘争の実態を聞き、ラバァルは「ふぅん……」と、まるで他人事のように短い相槌を打った。同じ王国の支配層同士が、裏ではこのような泥沼の争いを繰り広げている。改めて、この国の、そして人間の業の深さを感じずにはいられなかった。だが、それはそれとして。彼は冷めた目でジョンを見つめ、独り言のように呟いた。
「……なるほど。つまり、将軍や、あなた方が直接手を下さなければいい。……俺が、俺自身の判断で勝手に動く分には、あなた方の『反逆』にはならない、という理屈にもなりますね」
その言葉の真意をジョンが測りかねていると、ちょうど邸宅の門が開き、許可証の手配を終えたらしい軍服姿の使者が戻ってきた。使者はラバァルの元へ歩み寄ると、一枚の金属製のカードを差し出した。
「お待たせいたしました。こちらが、ロット・ノット市内の通行許可証になります。紛失されぬよう、ご注意ください」
許可証を受け取ったラバァルは、それを懐にしまうと、すぐさまジョンとアンドレアス将軍に向き直り、「では、これで失礼します」と短く告げた。そして、二人が何か言う間もなく、踵を返し、スタート・ベルグ家の壮麗な邸宅を後にしていく。
そのあまりに素っ気なく、そして何かを決意したかのような背中を見送りながら、ジョン・スタート・ベルグは、隣のアンドレアス将軍に聞こえるか聞こえないかの声で、呆然と呟いた。
「……確かに……将軍の言う通り、実に変わった男だ……」
早い午後の暖かな日差しが、手入れの行き届いた庭園の緑を、鮮やかに照らし出していた。
最後まで読んで下さりありがとう、またつづきを見掛けたら読んでみて下さい。




