季節の終止線~。
マーブル城の玉座の間だ! 息が切れた状態でも何とか場を教えようと、ブレネフ参謀は必至で叫んだ、
その声が聞こえたのかどうかは分からないが、ラバァルと部下たちは、全力で駆けて行く...。
その96
その言葉が耳朶を打つや否や、ラバァルの表情が一変した。彼は、まるで解き放たれた獣のように、猛然と駆け出して行った。ラーバンナーをはじめとする部下たちも、ラバァルのただならぬ気配に即座に反応し、一斉にその後を追う。背後から、ブレネフの必死の声が飛んだ。「玉座の間だ! 急げ!」
タッタッタッタッタッ―――!
玉座の間の重厚な扉が、まるで蹴破られたかのように内側へ弾け飛び、ラバァルたちが雪崩れ込む。目に飛び込んできたのは、絶望的な状況だった。数名の兵士が必死に剣を振るい、異様な甲殻類を思わせる巨躯の男――後に【ブラッドレイン】の頭目、ブラーと知れる存在――に立ち向かっていた。そして、そのブラーと直接対峙していたのは、アンドレアス将軍とハイル副指令その人であった。焦げ臭さと生々しい血の匂いが鼻をつき、緊迫した静寂の中、時折、金属の鋭い衝突音と苦悶の呻きが響き渡る。ラバァルたちが目撃した瞬間、ブラーの巨大な鋏状の右腕が振り下ろされ、アンドレアス将軍とハイル副指令は、まるで子供の玩具のように無残に弾き飛ばされ、床に叩きつけられた。鎧が軋む鈍い音が響き渡る。
その光景を視認した瞬間、ラバァルの全身から、深紅と漆黒が渦巻く禍々しい闘気――ゼメスアフェフチャマ――が、まるで内なる怒りの奔流のように噴き出した。床を蹴る音すら置き去りにし、常人には捉えられない速度でブラーへと突撃する。
ゴォンッ!!
激突の瞬間、玉座の間全体を揺るがすような鈍い衝撃音が轟いた。異形の男ブラーは、為す術もなく背後の壁に叩きつけられ、御影石の壁が砕け散る音と共に、大きな人型の穴を開けてめり込んだ。「ぐぅぅ……!」苦痛に歪んだ喘ぎ声が、瓦礫の中から漏れ聞こえる。
突如として現れた、何者とも知れぬ男が、あの残虐非道な【ブラッドレイン】の頭目ブラーを、たった一撃で壁に叩き込んだのだ。その信じ難い光景を、傍らで部下を叱咤していたジュピター将軍は、ただただ愕然とした表情で見つめていた。開いた口が塞がらないとは、まさにこのことだった。一方、強烈な一撃を受け、壁に埋まったブラーも、一瞬意識が混濁したが、すぐに己の状況を理解した。先ほど、主であるアエーシュマから注意を受けていた「ラバァル」という存在を思い出す。「……やっちまった、な」最悪の事態に陥ったことを悟り、冷や汗が背筋を伝うのを感じた。
よろめきながら壁から抜け出し、自分を打ちのめした男が一体何者なのか見定めようと、ブラーはゆっくりと視線を向けた。だが、目に映ったのは、自分には目もくれず、倒れているアンドレアス将軍とハイル副指令に駆け寄り、彼らを助け起こしているラバァルの姿だった。強敵を目の前にして、まるで取るに足らぬとでも言うようなその態度に、ブラーの怒りは瞬時に沸点を超えた。
「舐めるなぁっ!!」
全身から黒い煙が噴き出し、地響きのような唸り声と共に、彼の肉体は見る間に変貌を遂げていく。猛牛の如き太く鋭い角が頭部から突き出し、皮膚は不気味な赤黒さに染まる。甲殻類を思わせた右腕と巨大な鋏は、まるで溶けた飴のように変形し、彼の胴体を包み込むようにして、より堅牢で禍々しい甲殻鎧へと姿を変えた。さらに、背中からは巨大な翼が生え始め、その動きに合わせて甲殻鎧の一部が裂け、翼が広がるための道を自ら開いていく。顔つきも変化し、二つだった眼は四つに増え、その瞳は吸い込まれそうなほど深く美しいブルーアパタイトの如き妖しい光を湛えている。口からは、制御しきれない魔力の奔流か、青白い光を帯びた煙のようなオーラが絶えず溢れ出していた。完全に変身を遂げたその姿は、体長7メートルはあろうかという巨躯となり、まるで地獄の深淵から這い出てきたグレーターデーモンのような、圧倒的な威圧感を放っていた。
ラバァル自身は、その変貌にも眉一つ動かさなかったが、周囲に残っていた者たちは違った。ブラーから放射される凄まじい恐怖の波動に、魂を直接掴まれたような感覚に襲われ、立っていることすら困難になっていた。冷たい汗が滝のように流れ落ちる。その空気の変化を感じ取り、ラバァルは小さく舌打ちした。「…ちっ、のんびりもしてられねぇか」そして、再び動く。
「ラーバンナー、エルトン、将軍たちを安全な場所へ」
「はっ!」ラーバンナーとエルトンは、力強く頷くと、すぐさまアンドレアス将軍とハイル副指令に肩を貸し、玉座の間からの脱出を図る。その様子を見たジュピター将軍も、部下たちに後の戦闘を任せ、慌てて彼らの後を追って逃げ出した。
ラバァルは、巨大化したブラーを冷徹な眼差しで睥睨し、静かに、しかし明確な敵意を込めて問うた。「…で、誰だ、てめぇは?」
自分の存在すら知らぬという目の前の男の言葉に、ブラーの四つの瞳が怒りに燃え上がり、もはや問答は不要と判断して、攻撃を開始する!地響きを立てながら一気にラバァルへと迫り、巨大な拳を振り下ろす!それは、まるで巨大な岩塊が落下してくるかのような破壊力を秘めていた。それに対し、ラバァルは瞬時に左腕に赤黒い闘気ゼメスアフェフチャマを凝縮させ、迫りくる拳を、まるで当然のように受け止めてみせる。
ガギィンッ!!
巨大な拳が、ラバァルの細身の腕に激突した瞬間、信じ難い光景が広がった。ブラーの渾身の一撃は、ラバァルの左腕に吸い込まれるようにピタリと静止し、微動だにしなかったのだ。周囲に僅かに残っていたブラーの部下たちは、目を剥き、現実を受け入れられないといった表情でラバァルを見つめている。渾身の一撃を軽々と受け止められたブラーは、動かない右腕を諦め、残った左腕で追撃を仕掛けようとした。
だが、ラバァルにその攻撃を受ける意思はなかった。次の瞬間、ブラーの分厚い甲殻鎧で覆われた腹部に、深々と風穴が開いていたのだ。いつ、何が起こったのか?ブラー自身、全く理解できなかった。「……ぁ?」と、自分の腹に空いた穴に手を当て、困惑した表情を浮かべている。
その間抜けな姿を晒す猶予すら与えず、ラバァルは動いた。右手、左手、右足、左足――目にも止まらぬ速度で繰り出された斬撃が、ブラーの四肢を的確に切断し、その巨体を地面へと落下させた。ドスン、という重い音と共に床に倒れ伏したブラーには、もはや抵抗する力は残されていない。その巨体の上に、小さな影――ラバァルが音もなく降り立ち、その顔面を足蹴にしようとした瞬間、ブラーは最後の力を振り絞り待ち構えていた。
「己ぇぇぇぇっ!!」
絶叫と共に、四つの青い瞳から強烈なブルーレーザーが、至近距離のラバァルに向けて一斉に放たれたのだ!それは、まさに刹那の出来事だった。ラバァルは、そのレーザーを真正面から受け止めた。
レーザーの直撃を確信したブラーは、歪んだ勝利の笑みを浮かべた。「…ざまぁ、みろ…! や、やってやったぞ…!」主アエーシュマからの忠告を破って戦いを挑んだ結果がこれだ。結局は自分が勝ったのだ、と。しかし、その矮小な喜びは、文字通り一瞬で砕け散る。すぐに、底知れない絶望が彼を呑み込んだ。四つの瞳から放たれた破壊の光線は、確かにラバァルに命中したはずだった。だが、それはラバァルの周囲に瞬時に展開された赤黒い闘気ゼメスアフェフチャマの障壁に阻まれ、彼の本体には寸分も届いていなかったのだ。そして当然のように、ラバァルは次なる一撃へと移行していた。
生意気な光を放った四つの瞳。ラバァルは、その全てに、赤黒い闘気で練り上げた鋭利な手槍を、寸分の躊躇もなく深々と突き刺し、ブラーの動きを完全に封じる。そして、右手に巨大なエネルギーを凝縮させた漆黒のバスターソードを顕現させると、瀕死のブラーの巨体を、一刀の下に両断したのだ!
その破壊的な一撃は、ブラーの肉体のみならず、玉座の間に僅かに残っていた【ブラッドレイン】の下級構成員たちをもまとめて塵と化し、ブラーの魂、そしてこの地域で命を落とした者たちの無念の魂までも全てを吸収した。【ブラッドレイン】の幹部ブラーは、ラバァルの魂の一部へと組み込まれ、この世から完全に消滅した。後に残されたのは、激しい戦闘の爪痕と、主であるジュピター将軍のために最後まで戦い抜いた、僅かな兵士たちの亡骸、そして全てが焼き尽くされたかのような焦げ臭い匂いだけとなっていた。
それを遠く離れた地から感知した邪神【アエーシュマ】は、あれほど忠告したにも関わらず、無様な最期を遂げたブラーに対し、一瞬、眉を顰めた。だが、すぐに無能な駒に割く思考はないと冷酷に判断し、その存在を意識から消し去る。そして、残る【ブラッドレイン】の幹部、【ジャルダンヌ】に対し、冷徹な念話で即刻この地からの撤退を命じた。ジャルダンヌは、ブラー、ナザール、バルカンといった他の幹部たちが消滅させられたことを知ると、紅い唇に薄く歪んだ笑みを浮かべた。「…ふふ、間抜けな奴ら。これでアエーシュマ様の寵愛は、この私だけのものになるわ」共に悪虐の限りを尽くした仲間たちの死に、一片の感傷も抱くことなく、彼女は崇拝する主の絶対命令に即座に従い、残存する部下たちを引き連れてヨーデルを放棄し、指示通り『ロットノット』へと迅速に撤退していった。
【ブラッドレイン】という嵐が過ぎ去った後、ヨーデルに残されたのは、夥しい数のラガン第二軍兵士たちの無惨な亡骸が折り重なる光景と、まるで家畜のように解体され、内臓を抉り取られたヨーデルの民たちの、言葉を失うほどに変わり果てた姿だった。全ての音が消え失せたかのような異様な静寂だけが、先ほどまでの惨劇の凄まじさを物語っていた。
ラバァルは、首魁を討ち果たした後、アンドレアス将軍たちが搬送されたと聞いた、即席の野戦用キャンプへと向かった。
キャンプの入り口に到着すると、警護の兵士がラバァルの姿を認め、中にいる者へ到着を告げた。すぐに兵士は戻ってきて、「将軍が、直ぐにお通しするように、と」硬い表情で伝えてきた。
幕舎の中へ入ると、一斉に内部にいた者たちの視線がラバァルへと突き刺さるように注がれた。張り詰めた空気の中、安堵、疑念、そして畏怖がない交ぜになった様々な感情が渦巻いているのが感じられた。「…奴らはどうなった?」低い声で、アンドレアス将軍が問いかける。声には疲労の色が濃い。
「はい、首魁を含め、確認できた敵対勢力は全て排除しました」ラバァルは淡々と事実を告げる。すると、隣で治療を受けていたジュピター将軍が、信じられないといった表情で身を乗り出した。「なっ…!あの化け物を…本当に倒したと言うのか!」その声には、未だ強い驚愕の色が滲んでいた。「ええ。問題なく」ラバァルは、ジュピターの剣幕にも動じることなく、静かに答える。ジュピターは、目を丸くしてラバァルを見つめ、絞り出すように隣のアンドレアス将軍に問い詰める。「アンドレアス将軍! 一体この者は何者なのですかっ!」
アンドレアス将軍は、落ち着き払った様子でジュピターの問いに応じ。「彼は、我々が独自に依頼した協力者…いわば『影』の者だ」その声は静かだが重みがあり、場の空気をわずかに鎮める。「今回、マーブルを襲った未曽有の災害、そして我々の進軍を阻んでいたあの異常な吹雪を収束させたのも、彼とその仲間たちの尽力によるものだ。…そうだな、ラバァル」
アンドレアス将軍たちの視線が、再びラバァルに向けられる。ラバァルは、その視線を受け止め、静かに頷いた。「はい。吹雪の原因は、マーブル王家に伝わる秘宝〖永劫の冬〗と呼ばれるアーティファクトでした」ラバァルの声は、抑揚は少ないが、その言葉には確かな重みがあった。「聞けば、そのアーティファクトがグラティア教の手に渡る過程で破壊され、封じられていた大精霊が解放された、と。それが今回の吹雪の元凶でした」幕舎の中に、息を呑む気配が広がった。
ラバァルは言葉を続ける。「吹雪を止めるには、その大精霊を再び〖永劫の冬〗に封じ込める必要がありましたが、現実的ではない。そこで別の手段を探りました。マーブル王家の古文書に、代替となりうる大精霊の存在が記されていたのです」ラバァルの言葉に、幕舎内の者たちの間に緊張が走る。「その記述に従い、我々は『生贄の迷宮』最下層に赴き、そこに座するとされる大精霊〖ニフルヘイム〗と接触しました」彼の声が、わずかに低くなった。「…少なからぬ犠牲はありましたが、結果として〖ニフルヘイム〗との取引に成功し、あの大精霊の力で吹雪を鎮めることができた、という次第です」ラバァルは、幕舎内に漂う疑念や驚愕の視線を感じながらも、事実を簡潔に、しかし核心を突くように説明した。彼の言葉が終わると、幕舎内に再び静寂が訪れた。ただ、先ほどまでの張り詰めた空気とは異なり、今は深い驚きと、人知を超えた存在に対する畏怖のような感情が、静かに満ちていた。
その後、ジュピター将軍、ハイル副指令、ブレネフ参謀らが矢継ぎ早に質問を重ねてきたが、ラバァルはそれら一つ一つに冷静に対応し、説明を繰り返した。大方の状況理解が進んだと見計らい、ラバァルは機を逃さず切り出した。「今回の吹雪鎮静の功績をもって、一つお願いがございます。我々パーティーメンバー全員分の、旧タートス領および旧マーブル領における限定的な自由通行許可証の発行を、強く要望いたします」
アンドレアス将軍は、腕組みをしてしばし黙考した後、重々しく頷いた。傍らに控えていたジュピター将軍も、複雑な表情ながらも無言で同意を示す。二人の将軍が、インクの染みた羽根ペンを執り、ざらりとした羊皮紙にサインを書き込む音が、静かな幕舎に響いた。仮の許可証を受け取ったラバァルは、二人の将軍に礼を述べ、足早にその場を後にした。
夜明けの塔の前まで戻ると、塔は依然として強力な防御障壁に覆われ、内部への立ち入りを拒絶していた。
冒険者ギルドで瀕死の状態にある仲間たちを救うには、高位の神官の力が必要であり、そのためにはこの結界を解除してもらう他ない。塔の外では、ラバァルの仲間たちが、どうしたものかと話し合っていた。ノベルが口を開く。
「ラバァル、やはりこの結界を解いてもらうには、彼らの身の安全を保証することが最低条件だろう。何の保証もなしに、ラガン軍が駐留するこの状況で、彼らが結界を開けるとは思えない」
他の者たちも、ラバァル自身も、その意見に異論はなかった。
そこでラバァルは再びアンドレアス将軍、ハイル副指令、そしてブレネフ参謀と協議の場を持った。結界解除のためには、内部にいる者たちの安全保証が不可欠であること、そして瀕死の冒険者救助という人道的な理由を強く訴え、彼らを説得。高位神官の協力を得るための道筋をつけた。
ラバァルは、アンドレアス将軍の署名が入った安全保証を明記した封書を用意してもらい、夜明けの塔の入り口へ向かった。そして、その封書に自らの力を込め、障壁の向こう側へと強引に捻じ込んだ。すると、10分と経たないうちに、障壁内部で封書の存在が感知されたのだろう、塔の重い扉が軋みながら開き、中からフードを目深に被った神官戦士らしき人物が現れた。彼は地面に落ちていた封書を拾い上げると、すぐに塔の中へと戻っていった。
それから約2時間が経過した頃。塔内部の者たちが、外部からの侵入を完全に拒むために行っていた封印の祈りを、一時的に緩めたようだ。封印の一部が解かれ、中から一人の神官戦士と、高位らしき神官が現れた。彼らは、封書に書かれた内容――安全の保証――が真実であるか、改めて確認を求めてきた。
ラバァルは、その問いに対し、王国正規兵であるベラクレスを仲介役として立てることで信用性を担保した。同時に、冒険者ギルドで仲間たちが置かれている悲惨な状況を詳細に説明し、一刻も早く高位の回復術を行使できる神官の助けが必要であることを、切々と訴えた。その結果、さらに30分ほどの問答の後、ついに二人の神官が塔の外へ出てくることを承諾してくれたのだ。ベラクレスは、安堵の表情を浮かべた冒険者たちと共に、二人の神官を伴い、無事に冒険者の酒場へと向かっていった。
その間、ラバァルとその仲間たちは、その場を動かなかった。万が一、この状況を利用してラガン軍の一部が暴走するようなことがあれば、結界を一時的に解かせたラバァルにも責任が生じる。彼は、あくまで冒険者たちの窮状を救うためにこの交渉を行ったが、その行動に伴う責任の重さを自覚していた。そのため、些細な油断も許さず、不測の事態に備え、仲間たちと共に夜明けの塔の外で注意深く警戒を続けていた。
5時間ほどが経過した頃、遠くから複数の足音が近づいてきた。見れば、ベラクレスに付き添われた二人の神官と、治療を受けて幾分か顔色が戻った冒険者たちが、こちらへ向かってくるのが見える。冒険者たちは、まだ衰弱の色は残るものの、命の危機は脱した様子だ。ラバァルは、戻ってきた神官と短い言葉を交わした後、彼らの案内で、塔の内部にいるという法王フェニックスと直接会見することになった。
塔の内部は、外観の堅牢さとは裏腹に、静謐な祈りの空間が広がっていた。案内された先、奥まった一室に、質素ながらも威厳のある椅子に腰掛けた老人がいた。鋭い、しかし深い憂いを帯びた眼光が、入ってきたラバァルを捉える。彼が法王フェニックスだろう。ラバァルは、臆することなく法王に向かって静かに歩み寄る。
「あんたが法王フェニックスだな。俺はラバァル。以前、マルティーナの依頼で動いていた者だ。彼女の配下の兵も少数だが預かっている」
「…マルティーナ様の…? 生きておられるのか?」法王の声に、驚きと僅かな希望が混じる。
「ああ。『生贄の迷宮』へ行く際に、パーティーを組んで行動を共にしていた。色々あって吹雪を止めることには成功したが、その代償か、マルティーナはシャナやラージンたちと共に、〖ニフルヘイム〗の力でノース大陸の西方のどこかへ飛ばされてしまった」ラバァルは、状況を簡潔に説明した。
法王フェニックスは、目を見開いた。「なんと…マルティーナ様はご無事だと…! それは真か!?」
「〖ニフルヘイム〗…あの大精霊から直接聞いた話だ。間違いあるまい」
「そ、そなた、大精霊と直接言葉を交わしたと申すか…?」法王は信じられないといった表情だ。
「話ができなければ、取引もできんだろう」ラバァルは事もなげに言う。
「…なるほど。それは、そうだな…」法王は、ラバァルの尋常ならざる力量を改めて認識し、深く頷く。
ひとしきりマルティーナに関する話が終わると、ラバァルは本題に入った。ヨーデルで目の当たりにした悲惨な現状を、言葉を選びながらも率直に伝えた。長く続いた吹雪による壊滅的な被害、食料も尽き疲弊しきった人々の暮らし、そして、【ブラッドレイン】の襲撃による惨状。マーブル全土がラガン王国の支配下に置かれるのも時間の問題であることを告げた。法王は、静かにラバァルの言葉に耳を傾けていた。その表情は険しく、深い悲しみが滲み出ている。
ラバァルは、畳み掛けるように続ける。「いつまでもここに籠城しているわけにもいくまい。ラガン側も、この塔の存在を快くは思っていないはずだ。もし、あんたや、ここにいる者たちが望むのであれば、俺の責任でルカナンまで連れて行く手筈を整えるが、どうする?」
法王フェニックスは、ラバァルの言葉が終わるのを待って、低いが強い決意を込めた口調で言った。「…我々は、この地を離れるわけにはいかぬ。ここには、守らねばならぬものがある」
その揺るぎない意志を理解すると、ラバァルは深く追求はしなかった。「そうか。分かった。だが、もしこの中に、それでもルカナンへ行って生き延びたいと望む者がいるのなら、その者たちだけは俺が責任を持って連れて行く。その点は考慮してほしい」
法王フェニックスは、ラバァルの配慮に僅かに表情を和らげ、「…感謝する、ラバァル殿。皆とその件について話し合いたい。30分ほど、時間を頂戴できぬだろうか」と申し出た。ラバァルは、「分かった」と短く答え、再び外へと出て行った。
外へ出ると、待っていた仲間たちが心配そうな表情で駆け寄ってきた。「どうだったんだ?」彼らの声には、焦りと期待が入り混じっている。ラバァルは、彼らの視線を受け止めながら、「今は、考える時間が必要だそうだ」とだけ答えた。そして一行は、再び塔の前で、静かに法王の返事を待つことにした。空には、先ほどよりも少し傾いた陽が、塔の白い石壁を赤く染め始めていた。
約束の30分が過ぎた頃、塔の扉が再び開き、先ほどラバァルを案内した神官が現れた。神官は、ラバァルの前に進み出ると、恭しく頭を下げて言う。「法王フェニックス様がお呼びです」
再び法王フェニックスの前に立ったラバァルを迎えたのは、先ほどとは打って変わって、どこか吹っ切れたような、穏やかな表情に変化していた。「ラバァル殿、待たせて申し訳なかった」法王の声は、先ほどの硬さが取れ、温和な老人のそれに戻っていた。「それで、話はまとまったか?」と、ラバァルは返事を促した。
法王は、ゆっくりと頷き。「うむ。皆で話し合った結果、僅かではあるが、3名の者たちがルカナンへ行くことを望んでおる。彼らの行く末を、ラバァル殿に託したい。…引き受けてはくれまいか」
「分かった。その旨、アンドレアス将軍にも伝えておこう。その者たちには、いつでも出発できるよう、準備をさせておいてくれ。おそらく、数日以内には出発できるはずだ」ラバァルはそう告げると、改めて法王に一礼し、今度こそ塔を後にした。外に出ると、夕刻の強い日差しが、ラバァルの背中を照らしつけていた。
翌日、アンドレアス将軍率いる第一軍は、ジュピター将軍ら第二軍と、水面下で長時間にわたる協議を行った。その結果、ここで感情的に対立し、内紛を起こすことは、首都『ロット・ノット』にいるであろう黒幕たちの思う壺である、との結論に至った。
重々しい沈黙の後、アンドレアス将軍は深い溜息をつき、今回の件については不問とし、第一軍をルカナンへ引き上げさせるという、苦渋の決断を下した。
鎧や武具が擦れ合う音、兵士たちの抑えた声だけが響く中、第一軍は静かにヨーデルを後にした。ラバァルたちも、今はアンドレアス将軍の指揮下にある者として、その隊列に加わり、黙々とルカナンへの帰路についた。
しかし、全員がルカナンへ戻るわけではなかった。A級冒険者のノベル、リバック、ロゼッタの三名は、遠くノース大陸の西方へ飛ばされた仲間、マルティーナを探すための新たな旅に出ることを決意していた。彼らはラバァルたちと、互いの無事を祈り、固い握手を交わした。そして、それぞれの未来へ向けて、新たな一歩を踏み出す。その足音は、やがて吹き抜ける風の音に掻き消され、遠ざかっていった。
ヨーデルでの騒乱から五日が過ぎ、ラバァル一行は再びルカナンの土を踏んでいた。長く困難な旅路の疲労が色濃く滲んでいたが、彼らの目下の課題は、この戦禍の傷跡が生々しく残る街で、新たな安住の地を見つけることだった。埃っぽい道を歩き、じりじりと照りつける日差しに焼けた石畳の熱気を感じながら、ラバァルは街角で交わされる住民たちの囁きに耳を留めた。女神セティアを信仰する者たちのための、ささやかな集会場ができたらしい。そこでは、女神の加護を受けた「聖女」と呼ばれる女性が、拠り所を失った人々を導いているという噂だった。
マリィをはじめ、ヨーデルから共に脱出してきたセティア信仰の修道女たちや、法王から託された3名のセティア教徒たち、神官ペリファラとカトレイヤ、ルンベール子爵、セバスティアン、トーヤ、そして聖戦士や信徒たち。彼らにとっても、その噂は一条の光となるかもしれない。ラバァルは彼らを伴い、まだ瓦礫が撤去されきっていない、整備されていない道を選びながら、噂の集会場へと足を向けた。グラティア教に洗脳された元タートス人との激戦の痕跡は未だ生々しく、焦げ付いたような匂いが微かに鼻をつく。かつて見かけた野良犬や猫の姿はなく、すれ違う人々の顔には、隠しきれない疲弊と飢えの色が深く刻まれていた。
目的の集会場らしき、質素な木造の建物の前にたどり着くと、扉の隙間から穏やかな祈りの声と、意外にも明るい子供たちの笑い声が微かに漏れ聞こえてきた。扉を開けると、そこには見知った顔があった。汗を拭いながらも、元気に立ち働くレクシアの姿だ。ラバァルは、安堵と驚きが混じった表情で、片手を軽く挙げた。
「よぉ、レクシア。息災だったか。…ずいぶんと、様になってるじゃないか」
ラバァルの声に、レクシアは弾かれたように振り返り、ぱっと顔を輝かせて駆け寄ってきた。
「ラバァル! あなたこそ、ご無事で…! 本当によかった…!」声には、隠しきれない安堵が滲んでいる。
「ああ、まあな。色々あって、今はアンドレアス将軍の下で仕事を受けている。帰る場所も失っちまったんでな。当面は、このルカナンに腰を落ち着けるつもりだ」ラバァルの声には、旅の疲れと共に、新たな生活への覚悟が感じられた。
「そうだったの…! でも、嬉しいわ、また会えて!」レクシアは心からの喜びを表情に浮かべる。「今、私はここで、ルカナンでの戦いで全てを失った人たちを、再び女神セティア様の御許へ導き、生きる力を取り戻してもらうために、微力ながら尽くしているのよ」その瞳には、困難な状況の中でも揺るがない、強い意志の光が宿っていた。
「そうか。しかし、何もないところからよくこれだけの施設を…。大したものだ」ラバァルは、質素ながらも清潔に保たれた集会場の内部を見渡し、素直に感嘆の声を漏らした。
「ううん、これもラバァルのおかげよ」レクシアは悪戯っぽく微笑んで言った。
「俺? 何かした覚えはないが」ラバァルは怪訝な顔をする。
「前にあなたが教えてくれたじゃない。『何か本当に困ったことがあれば、執政官庁舎へ相談に行ってみろ』って。それで勇気を出して訪ねてみたら、ハイル副指令がとても親身になって相談に乗ってくださって、この場所の提供や、食料の配給など、色々と支援していただいているの」
「そうか、ハイル副指令が…。あの方なりに考えてやってくれてたんだな。分かった、今度会ったら礼を言っておく」ラバァルは納得して頷いた。
「ふふ、お願いね」レクシアは柔らかく微笑み、ラバァルの後ろに控える、見慣れぬ顔ぶれの一団に目を向けた。「それで、そちらにいらっしゃる大勢の方々は?」
「ああ、この人たちはマリィが親しくしていて、ヨーデルから一緒に脱出した者たちでな。皆、セティアの信徒だ。ルカナンには二日前に着いたんだが、今は宿暮らしでね。長期滞在になるだろうから、落ち着ける場所を探していたんだ。そんな時、この集会場と『聖女様』の噂を聞いてな。同じセティアの信徒同士、助け合えるんじゃないかと思って連れてきた」ラバァルの説明に、ヨーデルからの信徒たちは、安堵と希望の入り混じった眼差しでレクシアを見つめた。
「まあ…! それは本当に助かるわ、ラバァル!」レクシアの声は切実に聞こえた。「ちょうど、人手が足りなくて困っていたの。特に力仕事ができる男性がね。元タートスの人たちは、先の戦いの影響で心身ともに衰弱していて、満足な食事も摂れず、生きる気力さえ失いかけている人も多いから…」
その言葉を受け、ラバァルは後ろを振り返り、力強く言う。
「…という訳だ。あんたらもレクシアも、同じセティアの信徒だ。ここは互いに手を取り合って、この苦境を乗り越えるのが筋だろう」
ラバァルの言葉に異を唱える者はなく、皆、簡単な自己紹介を済ませると、レクシアに案内されて集会場の中へと入っていった。ラバァルは、ひとまず肩の荷が下りた、というように軽く息をつき、「あとは君たちでよく話し合って、やるべきことを決めてくれ」とレクシアに伝え、彼らの新たな生活の場となるであろう集会場を後にした。
こうして、ヨーデルからの避難民たちは、ルカナンにおける新たな「ねぐら」を得た。埃っぽかった古い木造の建物に、彼らのささやかな荷物が運び込まれ、床が掃き清められ、最低限の家財道具が運び込まれていく。窓から差し込む強い日差しが、壁の染みを温かく照らし出す。ルカナンでの、苦難の中にも確かな希望の灯る、新たな生活の第一歩が記された瞬間だった。
ルカナンに腰を落ち着けてから三ヶ月が過ぎた。レクシアたちの集会場は、ヨーデルからの避難民たちの労働力と信仰心が加わったことで活気に満ち、人々は少しずつだが穏やかな日常を取り戻しつつあった。食料事情も、当初の絶望的な状況からは改善の兆しを見せ始めていた。しかし、それと共に新たな問題も生じていた。集会場が手狭になってきたのだ。ルンベール子爵たちは、率先して周辺の森から木材を調達し、新たな居住スペースや共同炊事場の建設に汗を流した。この拡張計画は、ハイル副指令の計らいで正式に許可され、集会場エリアはラガン軍兵士の巡回ルートにも組み込まれることになった。この公的な治安維持の支援が、潜在的なトラブルを未然に防ぎ、コミュニティの安定に大きく貢献することになる。
だが、さらに半年が過ぎる頃、事態は再び深刻化する。拡張された集会場の噂は、「あそこへ行けば、安全な寝床と最低限の食事が手に入る」という形で広まり、安寧と食料を求める元セティア信者たちが、どこからともなく集まり続けたのだ。その結果、ようやく軌道に乗りかけていた運営は、再び深刻な食料不足に見舞われることになった。ルンベールたちが狩りで得るわずかな獲物や、修道女たちが危険を冒して摘む山菜だけでは、増え続ける人々の胃袋を満たすことは到底不可能だった。無理な狩猟や採集は、周辺の限られた資源の枯渇を招き、明日の食料さえ確保できるか分からないという、悪循環に陥り始めていた。日々の糧を得ることすら、再び困難になりつつあったのだ。
この状況を見かねたラバァルは、ルカナン執政官であるアンドレアス将軍に直談判し、集会場の共同体に限り、税率の一時的な引き下げ、あるいは免除を願い出た。しかし、アンドレアス将軍の答えは非情なまでに明確だった。「それはできん。税はラガン王国の根幹を成すものだ。国の取り分50%、執政官領20%という税率は、一部の領地、一部の民のためだけに変更することは、国家として許されん」
万策尽きたかに思われた。だが、ラバァルは諦めなかった。ブレネフ参謀との非公式な協議の中で、彼は一つの活路を見出す。集会場には、労働力となりうる多くの人手がある。このリソースを活用し、ラガン王国の領土の中でも比較的肥沃でありながら、治安の悪さ――特に野盗化した元タートス人の残党の存在――から未開墾となっていたエリアを、国から借り受けて開墾する、という計画だ。
「開墾した農地は、ラガン王国の国有農地として登録し、そこで働く者たちを国が雇用するという形を取れないだろうか」ラバァルはブレネフに提案した。「彼らが最低限食うに困らない程度の賃金を支払い、安定した生活基盤を与える。これならば、収穫物の70%もの重税を納めるよりも、働く者たちは安全に、そしてリスクを負うことなく生活できる。同時に、国有農地となれば、王国軍の兵士に作物を野盗から守らせるという大義名分も立つ。治安改善にも繋がるはずだ」
この大胆かつ現実的な提案に、ブレネフ参謀は深く頷いた。「…なるほど。それならば国の法にも抵触せず、我々にとっても治安改善と食料確保という明確な利益がある。実に妙案だ、ラバァル」この一件を通じて、ブレネフはラバァルという男の、単なる戦闘能力だけではない、現実的な問題解決能力と柔軟な発想力に、改めて深い理解と個人的な信頼を寄せるようになっていた。
一方、ラバァルは、自身と仲間たちの生活費を稼ぐため、そしてルカナンの安定に寄与するため、ブレネフ参謀からの個人的な依頼も時折引き受けるようになっていた。その内容は、ルカナン周辺で起こる小規模な紛争の仲裁から、街の裏社会に潜む不穏分子に関する情報収集、時には、どこからともなく送り込まれてくる間者の捕捉と処理まで、多岐にわたった。
そうして、ルカナンに定住してから、五年という歳月が流れようとしていた。初夏の生暖かい風には慣れたが、日差しは相変わらず肌を焼き、乾いた土の道は熱気を帯びて砂埃を舞い上げる。時にはスカーフで口元を覆わなければ息苦しいほどで、せめて主要な通りに砂利でも敷けば多少はましになるだろうに、とラバァルは思うこともあった。街には依然として先の激戦の傷跡が残り、迷宮のように入り組んだ路地裏からは、飢えた獣のような、あるいはもっと陰湿な悪意の気配が、重く湿った空気に混じって漂ってくることがある。
ラバァルの活動は、表向きの復興支援や農地開墾の監督だけではなかった。彼は、ルカナンの裏社会にも深く関与し、その秩序(あるいは、彼にとって都合の良い秩序)を維持する役割を担っていた。夜のルカナンでは、土を踏む慎重な足音、壁際で交わされる低い声での密談、そして時折響く金属が擦れる乾いた音が、闇に溶け込んでいる。空気には、昼間の喧騒とは異なる、冷たい湿気と隠された悪意が淀んでいた。ラバァルは、そうした影の部分にも目を光らせ、ブレネフを通じて得た情報を元に、ルカナンの不安定な平和を脅かす要素を、密かに、そして冷徹に排除し続けていた。
朝から晩まで、ラバァルの日々は目まぐるしかった。集会場の運営支援、開墾事業の監督、裏社会の統制、そしてブレネフからの個人的な依頼。それらは全て、ラバァルが守りたいと願う人々――レクシアや、ヨーデルから来た者たち、そして彼なりに義理を感じているアンドレアスやブレネフの下で働く人々――が、この過酷で不安定な世界で、少しでもましな明日を迎えるために必要だと、彼が判断したことだった。五年という月日は、彼を単なる強力な戦士から、複雑な現実に対処する、影の実力者へと変貌させつつあったのだ。
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