仲間たちの逃走。
ヨーデルの街にそびえ立つ夜明けの塔。その日の朝は、どこまでも澄み渡る青空が広がり、肌を優しく撫でる心地よい暖かさに包まれていた。そして、不思議なことに、人々が動き出す前から、どこからともなく美味しそうな香りが運ばれてきて、塔の住人たちは、労せずして温かい食事にありつくことができた。まさに、このヨーデルにおいて、最も安寧と幸福を感じられる場所――それが、この朝の夜明けの塔だった。もちろん、その裏では、多くの者が人知れず奔走し、絶え間ない努力を続けているのだが、そんな平穏な空気を切り裂くように、一報の緊急の知らせが舞い込んできた。しかし、その知らせを運んできた使者の素性が明らかになった瞬間、その場の穏やかな空気は一変する。なんと、その人物は、人々の記憶に深く刻まれた、あの忌まわしきグラティア教に関わる者だったのだ、その事が知らされると……。
その91
ここは『夜明けの塔』祈りの間だ、現在ここには800名前後の女神セティアを信仰する信者、神官、修道女たちが出入りして、朝食の配給を行っていた。
そんな場に、突然ラバァルの部下である、シュツルムとデサイヤの二人がやって来て、もうすぐラガン王国軍が攻めて来ると言う、知らせを仲間のマリィとルーに知らせに駆け付けた所だった。
デサイヤは久しぶりの再会に、「ヤッホー!元気してた?」と明るく声を弾ませ、旧交を温めている。しかし、シュツルムは笑顔を見せることなく、真剣な眼差しでマリィに迫った。
「マリィ、よく聞け。間もなくラガン王国の軍が、この塔に押し寄せてくる。戦乱の最中だ。敵味方の区別なく、見境なく殺戮が始まるだろう。すぐにここを離れ、俺たちと一緒に逃げるんだ。ルーにも声をかけてきてくれ。一刻の猶予もないぞ。すぐに逃げなければ、本当に死ぬことになる。」シュツルムの言葉の重さと、その緊迫した様子から、マリィは事態の深刻さを理解した。彼女は返事もそこそこに、ルーレシアの元へと駆けて行く。
シュツルムとデサイヤは、二人の様子を注視していた。マリィがルーレシアに何かを必死に伝えているようだが、ルーレシアは首を横に振っている。二人は何か言い争っているように見える。しばらく見守っていたが、状況は変わらず、膠着状態に陥っている様だ。
シュツルムは、煮え切らない二人の様子に苛立ちを隠せない。(一体何を迷っているんだ!一刻を争う事態だというのに!)彼は、早く行動を起こさせたいと強く思っている。
マリィとルーレシアの間で激しいやり取りが交わされていた。即座に全てを捨てて逃げるべきだと主張するルーレシアに対し、マリィは共に過ごしてきた人々を見捨てることに強い抵抗を感じて。せめて身近な者たちだけでも連れて逃げようよと、二人は激しく意見をぶつけ合っていた。
「ちょっと、ルー、それはあまりにも冷酷じゃない?」マリィの声はわずかに震えている。
「マリィ、何を言っているの?今の状況が分かっているの!?」ルーレシアの声も険しい。
「ねえ、ルー……ここに来てから、あなたのこと、本当に頼りになると思ってたんだ。だから、そんな酷いこと言わないで、助けてよ。力を貸して。」マリィは必死に訴える。
そんな二人の様子に気づいた周囲の人々が、何事かと不安げな表情で取り囲み始めた。そのざわつきに気づいたルーレシアは、「マリィ、周りを見てごらんなさい」と冷静に促した。ルーレシアの言葉にハッとしたマリィも、周囲の異様な静けさに気づき、息を呑む。しかし少し考え込んだ後、何かを決意したように、マリィは力強く歩き出した。
マリィは、法王のいる場所へと急ぎ足で向かった。途中、見慣れない聖戦士に呼び止められそうになったが、以前、食料調達の際に共に活動し、顔見知りだった別の聖戦士が、マリィの顔を見て「通してやれ」と声をかけてくれた。感謝の念を込め、マリィはそのまま法王の元へと辿り着く。
「法王フェニックス様!」周囲にも聞こえるように、少し声を張り上げてマリィは言った。「緊急のご報告がございます!」
法王は、優しく微笑み、「どうしましたかな、マリィさん」と、その名を呼んだ。その温かい声に、マリィは胸が熱くなり、喜びと安堵の表情を浮かべながら言った。「はい、たった今、私の友達が教えてくれたのですが……」
「何があったのですか?」法王は穏やかに問いかけた。
「はい、もう間もなく、数時間後には、ラガン王国の兵士たちがヨーデルになだれ込んでくるそうです!」
その報告を受けた法王フェニックスは、静かにマリィを見つめ、「マリィさん、その情報は確かなのでしょうか」と、穏やかながらも念を押すように尋ねた。
「はい、私の友人はグラティア教におり、そこから得た情報だといっております。真偽を確かめる時間も手段もありませんが、私は友人の言葉を信じています。」マリィは力強く答える。
法王フェニックスは深く頷き、集まった信者たちに向かって言う。「分かりました。皆に伝えましょう。ヨーデルからの避難を望む者は、ためらわずにそうしなさい。これまで多くの困難を乗り越えてきた皆さんです。生き延びる道があるならば、そちらを選ぶのが賢明でしょう。女神セティア様は、いかなる場所にいても私たちを見守ってくださいます。避難することに後ろめたさを感じる必要はありません。セティア様の御心は、常に皆さんと共にあるのですから。」
法王フェニックスの言葉は温かく、信者たちを安心させるようだった。しかし、マリィが情報をグラティア教の友人から得たと告げると、場の空気は一変してしまった。食料調達で功績を上げたマリィのことは知られていたが、敵対するグラティア教徒からの情報という事実に、信者たちの顔には露骨な不信感が浮かび上がっていた。
「マリィさんには申し訳ありませんが、私はグラティア教の者を信じることはできません。」一人の女性神官戦士が毅然とした口調で言い放つと。その一言を合図としたかのように、信者たちの間に抑えられていた感情が一気に噴き出した。「そうだ!私もグラティア教の奴らの言うことなんて信じられない!」「敵の情報かもしれないぞ!」次々と、マリィのグラティア教の友人という情報源に異を唱える声が上がり、騒然とした空気が祈りの間を支配する。
入口付近にいたシュツルムとデサイヤにも、疑いの目が向けられ始めてしまい。敵意を含んだ視線にこの場に留まる事が出来ず、二人は言葉もなく外へ出ることを余儀なくされた。
「ちょっと待ってください!あなたたちが助かったのは、彼らが教えてくれた食料の情報があったからじゃないですか!」マリィは必死に訴えたが、グラティア教への根強い反発は強く、彼女の声は騒がしい信者たちの声にかき消されてしまった。
この状況を見かねた法王フェニックスは、静かに側近の神官ソシエルに何かを囁いた。すると、ソシエルが一歩前に進み出て。
「皆「静粛に!ええーい、静まれ!静まれ~、静まれ~~!
法王様の前で、その騒ぎは何事か!」
遠くまで響き渡る、鋭くもよく通る声が『夜明けの塔』祈りの間全体に轟くと、さすがの信者たちもその迫力に息を呑み、次第に騒ぎを収めていった。場内は、水を打ったように静まり返った。
その静寂の中、修道女仲間のエリーが心配そうな表情でマリィの元へ駆け寄ってきた。「マリィさん、私はあなたを信じます。」エリーの力強い言葉が、マリィの心に温かい光を灯した。そして、エリーに続いて、同じ部屋の仲間である六名の修道女と、他の部屋からも五名の修道女たちが集まり、マリィを囲んで励ましの言葉をかけてくれたのだ。 冷え始めた心だったマリィは仲間たちに助けられたのだ。
そうしてる所へ憔悴した様子の修道長ロメールがゆっくりと現れた。ロメールは、集まった修道女たち全員を見つめ、慈愛に満ちた声で言う。「あなたたち修道女は、いつだって心を一つにして、互いを支え合うのですよ。マリィさん、皆を頼みますわね。」
ロメールはどこか諦めたような表情で、自分は行けないだろうと告げた。マリィはそれを聞き、「ロメール修道長……?」と、心配そうに声をかけた。
「ごめんなさいね、マリィさん。もう体が思うように動かないの。それに、私は法王様の傍にいたいの」ロメールはそう言うと、寂しそうな微笑みを浮かべた。マリィはその言葉に何も言えず、ただ静かに頷いた。エリーの側に寄り添ったマリィは、そこに立っているルンベール子爵に気づき、「ルンベール子爵もご一緒してくださるのですか?」と問いかける。
ルンベール子爵は、マリィの言葉に応える前に、法王フェニックスに恭しく膝をつき、許可を仰ごうとした。法王フェニックスは、彼の真摯な眼差しを受け止め、穏やかな声で言った。「ルンベール。そなたは〖聖なる騎士〗は。皆を守り、いかなる場所でもその務めを果たすことを忘れてはならない。頼んだぞ」{ルンベール子爵は、かつて食料危機を救った功績により、仲間と共に〖聖なる騎士〗の称号を授与され、現在は聖騎士としてその武勇を発揮していた。}
「エリーが行くなら、私も迷わず行く」ルンベール子爵は力強く断言した。
「ありがとうございます!皆の護衛で、きっと大きな助けになりますよ」マリィは安堵の表情を浮かべ、心からの感謝を伝えた。
ルンベール子爵は、「承知した。仲間たちにも声をかけてくる。直ぐに連れてくるから外で少し待っていてくれ」と言うと迅速に動き出す。
そしてルンベール子爵はエリーにも何か短い言葉を残し、足早に去っていった。
何だろう、と不思議そうに見るマリィの表情に気付いたエリーは。
「ルンベール子爵様は、抜け道をご存じのようです。少しだけ外で待っていてください、とのことです。」
他に避難する者はいないかと、マリィは声を上げたが、手を挙げたのはほんの数名だった。その中に、先ほどマリィを呼んでくれた神官ペリファラの姿を見つけたマリィは、小さく手を挙げて喜びを示した。しかしシュツルムの「時間がない」という言葉が頭によぎると、マリィはこれ以上待つのは危険だと判断した。
手を挙げた者たちを見渡し、マリィは少しでも多くの命を救いたいと願いながら言った。「皆さん、外へ出ましょう。」そして、修道女たちとルーレシアを先導し、法王フェニックスに感謝の言葉を述べ、急いで外へと向かう。
外で待っていたシュツルムは、その人数を見て目を丸くした。「おいおい、マリィ、本気か?こんな大勢で逃げるつもりなのか?」彼は呆れ顔で言ったが、すぐに表情を引き締め、
「もう時間がない。行くぞ」と声をかけた。
しかし、マリィは焦ったように言った。「少し待って!私の仲間が、ヨーデルからの抜け道を知っているようなんだ。今、その仲間が応援を呼んで来てるので、ほんの少しだけ待ってちょうだい。」
シュツルムは、信じられないという表情でマリィを見つめた、しかし「抜け道」という言葉には興味を惹かれたようで。「抜け道?一体どういうことだ?」と、問い詰めるように尋ねる。マリィ自身も抜け道の詳細は知らなかったため、とっさに「抜け道は抜け道だよ!きっと、私たちを安全な場所に連れて行ってくれる、秘密の道ね!」等と、半ば強引に説明。
これほどまでに時間をロスしてしまったことに内心苛立ちを募らせていたシュツルムだったが、もし本当に近道があるのなら、と、不承不承ながらも待つことを認めて……。
『夜明けの塔』表門の右手に位置する修道院宿舎側の建物の陰で待機していたシュツルムは、その間にマリィが連れてきた者たちを鋭い視線で確認していた。多くは修道女のようで、その数は十一名。他に、見たところ杖を持った神官と思われる者が二名、ショートソードや軽メイス等を装備している神官戦士が四名といったところか。シュツルムは、この中で実際に戦闘で頼りになりそうなのは、神官戦士の四名程度だと判断を下した。もし戦闘になった場合、一人でも多く戦える者が欲しい。ルーとマリィはそれなりに戦力になるだろうが、デサイアが直接的な戦闘には向かないことはシュツルムも承知している。これは、想像以上に厳しい逃亡になるだろう――その思いが彼の表情を険しくしていた。
それから十分近い時間が過ぎた。これだけ待たされたシュツルムの苛立ちは限界に達していた。「おい、マリィ!いい加減にしろ!てめぇ、死にたいのか!いつまで待たせるつもりだ!」今にも怒りが爆発しそうな彼の声が響く。両方の立場を理解しているマリィは、その状況に冷や冷やしていたが、ようやくその時、ルンベール子爵が姿を現した。修道女エリーもまた、待ちくたびれていたのか、彼の姿を見て安堵の表情を浮かべた。そして、ルンベール子爵は皆に向かって落ち着いた声で言った。「私の仲間が、王宮の地下にある通路の下で待っています。そこから王家専用の地下通路を使い、ヨーデルの外へ脱出します。皆さん、私に続いてください。」
一行は、王宮裏手のひっそりとした池のほとりに到着した。そこで待っていたのは、ルンベール子爵と同じ〖聖なる騎士〗の称号を持つ仲間たち――親友のセバスティアン(皆からは粋な男セバスと呼ばれている)、他国への亡命選抜にアレック大将から選ばれてた騎士トーヤ、そして同じくフォビオの亡命に同行を命じられていたランパードだ。
一行が合流し、ルンベール子爵に案内され池のほとりの茂みに近づいた時、セバスティアンが前に進み出た。彼は懐から、磨かれた親指ほどの大きさの水晶を取り出すと、それを目の高さに掲げた。その瞬間、今まで見過ごしていた茂みの中に、まるで蜃気楼のように隠し通路が浮かび上がったのだ。{この通路は、以前セバスティアンがアレック大将からフォビ王子亡命の護衛を命じられた際に、大将自ら説明を受け、この水晶の使用法を教えられていた。} 皆は目の前で起こった不思議な出来事に唖然としたが、セバスはごく普通に。
「さぁ降りますよ。」 そう声を掛け下に降りて行く...
一行は、さほど深くない階段を下まで降りると、地下回廊を進み出す。幅は成人男性が一人通れる程度はあるのだが、百九十センチメートルを超えるような大柄な者には厳しく。長身のシュツルムは、案の定、腰をかがめながら進まざるを得ないと言う状況だ。それを見ていたデサイヤは、「あらあら、背が高いってのも良し悪しね」と、どこか楽しげに言った。
シュツルムは平然とした様子だったが、涼しい顔で前を行くデサイヤに、小さく「チッ、俺だけついてねぇな」と返す。
先に進んでいた者の中にも、シュツルムと同じように身を屈めている人物がいた。聖騎士ランパードだ。ルンベール子爵の呼びかけに応じた彼らは、ヨーデルを離れるという話を聞いても、状況の深刻さを理解していなかった。それでもルンベール子爵が同行するというので、「まあ、大したことがなければ戻ればいいか」という程度の認識で、比較的柔軟に協力してくれていたのだ。
長い通路を抜け、一行はついにヨーデルの外の小さな森へと足を踏み入れた。
「やれやれ、やっとあの狭苦しい通路から解放されたか」シュツルムは大きく伸びをしながら呟く。マリィは安堵したように。「これで、もうヨーデルの外に出られたわね。」
全員が外に出ると、セバスティアンは先ほどの水晶を使い、通路の入り口を再び隠した。完全に消えたわけではなく、見た目には分からなくなった、というのが正確だろう。
その様子を見ていたルンベール子爵が、マリィたちに問いかけた。「それで、これからどちらへ向かうおつもりですか?」マリィは、その問いにシュツルムの方を見る。
それを受けシュツルムは即座に答える。「ルカナンへ向かう。」
その言葉を聞いた周囲の者たちは、一斉に「えっ!」と驚きの声を上げた。疑問の色が、彼らの顔に浮かぶ。ルンベール子爵も訝しげに尋ねた。「私たちはラガン王国の軍から逃げているのですよね?」
周囲の者たちは、ラガン王国の軍から逃れているはずなのに、その一部であるルカナンへ行く理由が理解できず、口々に疑問や反対の言葉を投げかけた。「それは危険すぎます!」「私たちをからかっているのですか?」など、様々な声が上がった。
その疑問に対し、シュツルムは少し頭を掻きながら言った。「説明は苦手なんだがな…まあ、理由を聞け。簡単な話だ。俺たちはルカナンをよく知っている。一度足を踏み入れれば、安全を確保できる可能性が高い。それに、俺たちのリーダーであるラバァルなら、きっとルカナンに戻ってくるだろう。…まあ、お前らはラバァルのことを知らないだろうが、口は悪いが頼りになる男だ。」
「それにだ」とシュツルムは続ける。「俺たちに物資は無い。この状態で遠距離を旅するのはなぁ無謀過ぎるだろ。こんな大人数で遠くへ行けば、追っ手を出されたらすぐに追いつかれる。
知らない土地を大勢で旅するのも危険がいっぱいだ。同じ危険を冒すのなら、少しでも近い方が楽だろう。ルカナンまでの距離は大体分かってる。今回は人目に付きにくい険しい道を通る事になるが。それでも他よりかなり近い。それになにより遠くへ逃げるのは俺は嫌だ、延々と気を抜く間もない旅を強いられ疲れ果てる可能性が高い。それでも、あてもなく遠くまで行くのか?」
シュツルムの説明を聞き終えるか否かで、ルンベール子爵が口を開いた。「シュツルム殿の言う通りだ。見知らぬ土地をこの人数で移動するのは、危険が多すぎる。犠牲も増えるだろう。一時的に危険を冒してルカナンへ行くか、遠くの安全な場所を探して彷徨うか、二択になる。私は、事態が早く収束する可能性が高いルカナンを選ぶよ。状況が落ち着けば、ヨーデルに戻るのも容易いはずだ。」
シュツルムの説明を聞いていたルンベール子爵は、納得したように頷いた。
すると、それまで反対していた者たちも、顔を見合わせ、「まあ、近い方が安全かもしれないわね」「遠いのは体力も心配だし」と、次第に納得したように頷き始め、結局はシュツルムの提案通り、ルカナンへ向かうことに決まった。決定すると、彼らはすぐに動き出す。
「では、参りましょう」ルンベール子爵の静かな号令で、一行は歩き始めた。シュツルムは、往路とは異なる、人目を避けるような細い道を選んで進み始めた。
歩いていると、彼らの視界の端に、土煙が上がっている様子が見えて来た。ラガン王国の軍隊だ。一番手前に見える軍団からの距離は約二キロメートル。あの地点からヨーデルまでは、おそらく一時間もかからないだろう。丘の上から見える、延々と続く大軍の進軍を前に、彼らは改めて逃亡の現実を突きつけられたのだ。そして、塔に残してきた仲間たちの安否を気遣う声が上がり始めた。「マリィさん、あの人たちは……どうなってしまうのでしょうか?」問いかけられたマリィの表情は曇った。「そうね……どうなるのかしら。私にも、はっきりとしたことは言えないわ」と、痛ましいほど正直に答えるしかなかった。皆、言葉にはしないものの、最悪の事態を想像していた。
押し寄せる大軍を避けるため、シュツルムを先頭にした二十五名の隊列は、二時間もの間、踏み跡もない荒れた道を進んでいた。あの大軍を目撃した事で、遭遇の危険よりも、こちらの方がまだましだという事を理解していたからだ、誰もが口を開くことを躊躇わせ、ただひたすらに足を進めていた。シュツルムは、自分のペースを落とし、慣れない道に苦労している修道女たちがなんとかついてこられるように、注意深く歩いていた。それでも、普段歩き慣れない険しい道に、修道女たちの顔には疲労の色が濃く滲んでいた。遅れ始める者が出始めたのを確認すると、シュツルムは低い声で言った。
「仕方ねぇ。十五分だけ、休憩だ。」
そうマリィに告げると、マリィはすぐに息を切らせている修道女たちの元へ駆け寄り、休めることを告げる。その光景を眺めながら、シュツルムは意外そうに呟き。「しかし、マリィがあんなに面倒見の良い女だったとはな。」
シュツルムの言葉に、ルーレシアは意味深な笑みを浮かべて言った。「そうね。修道女としての生活も長かったから、すっかり板についたみたいね。」
「ルー、お前はどうなんだ?」シュツルムが問い詰めると、ルーは涼しい顔で答え。「あら、それはお互い様でしょう?」ルーレシアの言葉には、グラティア教からあっさりと離れたシュツルムらに対して、「あなたたちも私と同じようなものでしょ」という皮肉めいた感情が込められていた。
そうして短い休憩を取っていると――「!」ルーレシアがまるで獲物を察知した獣のように、鋭く顔を上げたのだ。彼女は素早く立ち上がり、周囲の茂みや木々の間を、まるで風のように視線を走らせ始める。
その異様な行動を見て、シュツルムは訝しげに眉をひそめ、「どうした、ルー?」と声をかける。まだ周囲の異変を感知できていないシュツルムに対し、ルーレシアは低い声で、しかしはっきりと告げた。「敵よ。六名、来てるわ。北西方面から扇型で接近中。」
するとシュツルムは、舌打ちをして顔をしかめた。「おいおい、こんな藪の中を通って隠れてきたってのに、もう敵か。この苦労に意味はなかったのかよ。」
そう悪態をつきながらも、彼の目は既に警戒の色を帯び始めていた。
「嘆く暇はないみたいよ」ルーレシアは、薄く、だが確かな自信を滲ませた笑みを浮かべると、音もなく茂みの中に姿を消した。シュツルムは、近くにいる者たちに素早く敵に包囲されたことを告げ、防御態勢を固めるよう指示を出すと、自身も獲物を追う獣のように、素早く藪の中へと身を躍らせた。敵に囲まれたことを知ったマリィは、一瞬顔を青くしたが、すぐに修道女たちを落ち着かせるように、優しく声をかけながら中央に集めた。そして、彼女たちの周りを、信頼できる神官戦士と聖騎士たちに頼み、背中を預けられるような強固な防御陣形を築いた。デサイアに対しても、危険な前線に出ることを許さず、修道女たちと同じように中央にいるよう指示すると、マリィ自身も決意を秘めた目で敵を睨みつけ、短剣を握りしめながら藪の中へと飛び込んでいく。
藪の中での最初の激しい接触は、ルーレシアが背後から忍び寄り、敵の首筋に突き刺した鋭い短剣の一撃によって幕を開けた。 弱った敵の攻撃を掻い潜り、心臓を目掛けた渾身の一突きが見事に決まると、ルーの短剣は、抵抗する間もなく敵の心臓を深々と貫く。
プシャアアッ!生温かい鮮血が勢いよく噴き出す。一人目を倒したと確信したルーレシアは、次の敵へと移動しようとした。しかし、心臓を短剣で貫かれたはずのその相手は、信じられないことに、まるで操り人形のように倒れなかったのだ。「……!?」ルーレシアは、その異様な光景に目を見開き、何かがおかしいと肌で感じた。念のため、彼女は絶対仕留められるだろう技を使用する。
ルーレシアは、まるで跳ねるように高く跳躍し、先ほど短剣を突き刺したにも関わらず倒れない奇妙な敵の背後へと音もなく着地した。彼女は左手を伸ばし、油断なく相手の脂ぎった髪の毛を掴み、ぐっと引き寄せる。そしてその勢いを利用し、右手にしっかりと握られた短剣を、今度は躊躇なく敵の首筋へと深々と突き刺した。刃が骨を砕き、肉を切り裂く鈍い音が生々しく響く。そのまま彼女は体を旋回させ、短剣を軸にグルっと一周、刃を喉元から反対側へと引き裂いた。鮮血が噴き出し、周囲の草木を赤く染め上げる。さらに、背後から容赦のない強烈な回し蹴りを敵の首に叩き込む、するとまるで熟れた果実が落ちるかのように、敵の首は胴体からねじ切れ、もぎ取られた。
ルーレシアは、もぎ取った生首を血だらけの手で持ち上げ、その虚ろな双眼を冷たい眼差しで見つめ、完全に息絶えたかどうかを確認。「完全にしんでるようね」そう呟くと、満足したように小さく頷く、確かめ終わると彼女は、首をまるで価値のないゴミのように地面に投げ捨てた。「これでようやく、死ねたでしょ」そう冷淡な声で言い残し、彼女は次の獲物、まだ息のある敵を探す行動に移る。
藪の中、シュツルムは、ルーレシアから教えられた方角に潜む敵を慎重に追っていた。息を潜め、茂みの隙間から覗き見た敵の姿に、彼は一瞬眉をひそめた。軍の制服を着た兵士ではない。全身に禍々しい模様の刺青が彫り込まれ、ギラギラとした狂気を宿した瞳を持つ、まさに常軌を逸した人間たちだった。だが、敵であることに変わりはない。
シュツルムは暗殺者だ。彼の信条は、敵に気づかれる前に致命的な一撃を与えること。暗殺の基本中の基本――イロハのイから始まる鉄則を、彼は忠実に守ろうとした。忍び寄り、音もなく背後から近づき、研ぎ澄まされた短剣を握り締める手に力を込めた。そして、躊躇なく敵の首筋へと突き刺す。ブツリ、という微かな感触と共に、温かい血が彼の指を濡らす。「よし」シュツルムは、確かな手応えを感じ、すぐに近くにいる別の敵に意識を移した。そちらを睨みつけ、次の攻撃の機会を窺った、その瞬間だった。背後から、先ほど首筋を刺したはずの男が、唸り声を上げながら巨大な鉈を振り下ろしてきたのだ。一瞬、回避が遅れたシュツルムは、鋭い刃が左耳を掠めるのを感じた。ザクリ、という嫌な音と共に、耳の一部がもぎ取られ、鮮血が噴き出した。「ぬああああ!」致命傷ではないものの、激痛と出血にシュツルムは思わず叫んだ。体勢を崩しながら、彼は同時に二人の狂人と戦わなければならない状況に追い込まれてしまったのだ。
シュツルムは、確かに自分の短剣が深く突き刺さったはずの男が、まるで何事もなかったかのように動き続けていることに愕然とした。さらに、自身の耳を失うほどの傷を負わされ、もう一人の敵も容赦なく襲い掛かってくる。
一瞬にして、彼は圧倒的に不利な状況に陥ってしまったのだ。
「やべぇな、こんなおかしなのが出てきやがるとは、全くツイてねぇ。」
シュツルムは、飛び散る鮮血を拭いもせずに悪態をつく。
そんな独り言も途切れる間もなく、彼の視界に飛び込んできたのは、大柄なシュツルムから見ると背丈の低い、まるで原始人のような粗野な姿をした小汚い男だった。両手には、緑色の毒々しい光沢を放つ、いかにも毒が塗られていると主張するようなシミターが握られていて。男は奇声を上げながら、信じられない速さでシミターをブンブンと振り回し、襲い掛かってきた。刃が空気を切り裂く音、かすっただけでも致命傷になりかねない鋭い斬撃を、シュツルムは必死の形相で避け、地面を蹴って跳躍、体勢を崩しながらも辛うじて一回転して躱しきる。しかし、男は獲物を逃すまいと執拗に追いかけてきて、一瞬たりとも気を抜く隙を与えてくれない。その猛攻と同時に、最初に首筋に短剣を突き刺したはずの、全身タトゥーの男もライトスピアーを構え、狙いを定めて突いて来る。シュツルムは咄嗟に身を捻ったものの、避けきれず、スピアーの穂先が肩に深く突き刺さってしまう。「ぬああああ!くそったれ!」激痛が走り、思わず叫んで痛みに耐える。
シュツルムは痛みに顔を歪めながらも、反射的に肩に突き刺さったスピアーを掴み、力を込めて相手を引き寄せた。そして、至近距離で渾身の頭突きを相手の顔面に叩き込む。すると骨が砕ける鈍い音と共に、男はぐらりと大きく体勢を崩した。その隙を見逃さず、シュツルムは肩からスピアーを引き抜き、今度はその切っ先を、狂ったように斬りかかってくる原始人のような小男に向け、迷うことなく突き刺した。スピアーの穂先は、まるで豆腐のように男の頭部を貫き、脳漿と血が飛び散る。シュツルムはスピアーを握った片手のまま男を持ち上げ一気に地面に叩きつける、ドバンと言う音とビチャっと言う音がして、その男は動かなくなっていた。
息つく間もなく、シュツルムは再び体勢を立て直し、まだ動ける変異体のタトゥー男の方へと向き直った。男はよろめきながらも、まだこちらに向かって来る様だ、その根性には恐れ入ったが、シュツルムは躊躇なくスピアーを突き出し、男の胸、腹部、喉と、何度も突き刺した。「オラオラオラァ!」シュツルムは叫びながら、これでトドメを刺す為スピアーを突き刺し続け、完全に動きが止まるまでその手を緩めなかった。八回ほど突き刺しただろうか、ようやく男が完全に動かなくなったのを確認すると、シュツルムは荒い息をつきながらスピアーを引き抜き。
「いててて……初っ端から酷い目に遭った……」左耳を失い、肩には深い傷を負ったシュツルムは、容易に動くことすらままならない状態だったが、それでも周囲の状況を気にかけ、声を絞り出した。「しかし、他の連中は無事なのか……?」激しい戦いを終えたばかりの彼の顔には、深い疲労と仲間への心配の色が浮かんでいた。
マリィは、息を潜めて茂みの中へ足を踏み入れた瞬間、予期せぬ人影が目の前に現れ、思わず息を呑んだ。心臓が跳ね上がり、咄嗟に後ろへ飛び退き、体勢を立て直す。手に握られた短剣の柄を強く握り締め、刃先を警戒するように相手へと向ける。先が分からない茂みの中で、相手の姿を捉えようと目を凝らした。
その時、奥の方から、聞いたことのない奇妙な動物の鳴き声のような、喉が引き攣れるような呻き声が聞こえてきた。マリィが音のする方へ視線を向けると、異様な姿の男がぬっと現れた。
「ケ゛ケ゛ケ゛ケ゛ケ゛……グルゥ……ゴボッ……」
男は、まるで喉の奥から絞り出すような、意味の分からない音を発しながら、マリィに何かを問いかけているようだ。マリィはその異様な姿に、全身の毛が逆立つほどの気持ち悪さを感じ、目を丸くして驚愕した。
男は、まるで牛の鼻輪のように巨大な金属製のリングを口に嵌めていたのだ。それは、両方の頬を丸くくり抜いた穴に通して固定されているようで、どうやって正常に発音しているのか、マリィには想像もできなかった。口の中の空気は常に漏れ出していて、唾液も制御できないのだろう垂れている。それに、こんな状態でまともに食事をとることなど、到底不可能に思えた。マリィは、その痛々しい姿に一瞬同情を覚えたが、男はそんなマリィの困惑など意にも介さず、ゆっくりと、しかし確実に距離を詰めてきている。じめじめとした茂みの空気と混じり、かすかに獣のような、あるいは腐敗臭のような、不快な匂いが鼻をついた。マリィは、警戒を解かずに短剣をさらに強く握りしめて突撃のカウントを唱えていた。
マリィは、心の中で三つまでカウントを数え終えると、覚悟を決めて短剣を前に突き出した。迷いは捨て、狙いを定めて踏み込み、「えいっ!」と気合を込めて突撃し、刃を相手へと突き出した。彼女は、暗殺団での過酷な試練に耐え抜き、厳しい訓練を乗り越えてアサシンの称号を授与された身だ。その短剣捌きは、熟練の域には及ばないまでも、並の者よりは遥かに洗練されている。渾身の力を込めた一撃は、狙い違わずおかしな男へと迫った。
マリィの放った短剣は、男の太い腕に深々と突き刺さった。鈍い音と共に、男の皮膚を裂き、筋肉を断つ感触がマリィの手に伝わる。男は、苦痛に顔を歪ませながらも、まるで獲物を睨む猛獣のようにマリィを鋭く睨みつけ、威嚇する……。マリィは、その異様な迫力に冷や汗をかきながら、じりじりと後退していく。その時、背後から頼もしい足音が聞こえ、セバスともう一人の聖騎士トーヤが素早く前に出て、マリィを庇うように立ち塞がった。二人の聖騎士は、その異様な風貌の男に対し、警戒の色を露わにしながら、それぞれの武器を構える。
「一体なんだお前は、その気味の悪い姿は!」セバスが眉をひそめ、嫌悪感を露わにしながら言い放った。トーヤもまた、槍の穂先を男に向け、いつでも攻撃に移れるよう身構えている。すると、口に巨大なリングを嵌めた男は、喉の奥から絞り出すような奇妙な音を発した。「フンガ…フガ…フンフン…フカガッ…!」必死な様子で何かを話しているようだが、その言葉は全く理解できない。セバスとトーヤは、それぞれ愛用のロングソードと槍をしっかりと握り締め、男の次の動きを警戒した。
その時、彼らの足元から、地面を揺るがすような重々しい足音が響き渡った。
皆が息を呑んで見つめる先には、息をのむ程の巨体の男が、地響きを立てながら近づいてくる。その男の背丈は二メートルを遥かに超え、先ほどまで異様な存在感を放っていた口にリングの男ですら、まるで小さな影のように見劣りする。その姿を見た瞬間、マリィたちは悟った。あの意味不明な音は、この巨人の様な男を呼び出すための、異質な言語だったのだと。巨人の堂々たる歩みからは、周囲を圧するような、威圧感がひしひしと伝わって来る。
リング男の前に躍り出て来た巨人、彼は自分を睨みつけて来る者たちに対し
「おまいら、皆殺す!ぶち殺す、死んでも殺す!殺してからも、何度でも殺す!
おらは【ブラッド・レイン】!ブラッドレインは全てを殺す!分かったかぁ!」
その見た目の威圧感とは裏腹に、まるで駄々っ子のような、幼稚で喚くような言葉をバルカンは投げつけてきた。その言葉を聞いたセバスとトーヤは、一瞬顔を見合わせ、目と目で合図を送る、次の瞬間には同時に地面を蹴り上げ、巨体に向かって一直線に突撃。
セバスは研ぎ澄まされたロングソードを低く構え、バルカンの太い足首目掛けて袈裟斬りに斬りつけた。金属がぶつかり合うような鋭い音――カキンッ! 鈍い音が森に響き渡る。
ほぼ同時に、トーヤの持つ鋼の穂先を持つ槍が、もう一方の足の膝裏を狙って突き刺された。鈍い衝撃と共に、槍の穂先が硬い肉を裂き、骨にぶつかる重い音、ドスッ!
良くない音が耳に届いた。二人は攻撃を終えると、何が起こったのか信じられないといった表情で、素早く後ろへと飛び退いた。
「斬れてない!」セバスは、自分の剣の刃先を信じられないといった表情で見つめた。刃は確かにバルカンの足に当たったはずなのに、まるで岩を斬ったかのように、わずかな傷跡すら見当たらない。「こっちもだ!」トーヤもまた、槍の穂先を確認した。狙ったはずの膝裏は浅い傷しか入っておらず、逆に硬い骨に当たった槍の穂先が曲がってしまっている。
鋭利なはずの先端がくにゃっと曲がり折れかけているのが見て取れた。信じられないほどの硬さだ。こいつはいったい、何でできているんだ。二人の聖騎士の顔に、焦りの色が浮かび上がる。
一方、この大男の方は、膝にトーヤの槍が刺さり、チクリと痛みが出たのだろう、その強面を歪ませ、怒りの形相でトーヤをギロリと睨みつけた。その瞬間、彼の頭のてっぺんから、白い湯気が勢いよく立ち上り始めたのだ。まるで熱湯が沸騰しているかのように、濛々と立ち昇る湯気に、トーヤは目を丸くして、「何だこいつ、頭から湯気を挙げてやがる!」
信じられないモノを見たと言う様子で呟いた。そのトーヤの言葉に、隣に立つセバスが冷静な口調で答えた。「あれだけの巨体と硬さをしてる奴だ。普通の人間じゃないんだろ。最初に見た時からから化け物じみてたが、やはりな。」
二人は、目の前のこの相手がただの人間ではない、人外の存在であるという事実に改めて気づき、生半可な攻撃では通用しない、覚悟を持って対処しなければ、本当に殺されてしまうのだという危機感を強く実感したのだ。彼らの表情には、先程までの高揚感は消え、代わりに一層の警戒と決意の色が浮かんでいた。
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