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炎帝と呼ばれる秘術師

生贄の迷宮地下一階に戻された者たちは、一部だけではなく

迷宮に入った者たち全員だった、そして。




                その83





薄暗い迷宮の一角。リバックは、先ほど仲間達の前から一人で飛び去っていったシャナのことが、気になって仕方なかった。

「……おい、いいのか? シャナ殿は、一人でラバァルを探しに行ったんだぞ? 俺達も、手分けして探すべきじゃないのか?」

リバックは、当然全員でラバァル捜索に向かうものと思っていたため、ゲオリクに進路を阻まれたことに戸惑いを感じていた。彼は、シャナを追いかけようと一歩踏み出そうとしたが、ゲオリクの巨体が、まるで壁のようにそれを阻んだ。

「待て。我々には、他に優先すべきことがあるはずだ」

ゲオリクは、静かだが有無を言わせぬ口調で言った。

「優先すべきこと……? マルティーナ様を救うことより、優先すべきことがあるとでも言うのか?」

リバックには、ゲオリクの言葉の意味が理解できなかった。その時、ノベルがゲオリクの意図を察し、口を開いた。

「……巨人殿。その『やるべき事』というのは……もしかして、我々の本来の目的である、大精霊【ニフルヘイム】封印のことでございますか?」

「そうだ。マルティーナから、話は聞いておる。お主達の目的は、ニフルヘイムをアーティファクトへ封印し、故国を襲う終わりなき吹雪を止めること。それが、この迷宮に足を踏み入れた、最も優先すべき目的であると。そして、その達成には、もはや時間が残されていない、ともな。……相違ないか?」

ゲオリクは、確認するようにノベルを見た。

「……はい。おっしゃる通りです。私達がヨーデルを出発してから、既に多くの日数が経過しております。外の世界…マーブル新皇国が今、どのような惨状になっているか……想像するのも恐ろしい状況です」

ノベルは、苦渋の表情で頷いた。

「ならば、話は単純であろう。ラバァル捜索に時間を費やし、ニフルヘイム封印という本来の目的が果たせなくなれば、たとえマルティーナが助かったとしても、故国は滅びる。それでも良いというのであれば、儂は止めぬ。全員でラバァルを探すがよい」

ゲオリクの言葉は、冷徹な事実を突きつけていた。

「……巨人殿のおっしゃることは、よく理解できました。……その通りです。私達は、今、最も優先すべきことを為さねばなりません。ラバァル殿のことは……今は、シャナさんに託しましょう。我々は、この迷宮に降り立った目的…ニフルヘイムの封印を、目指すべきです」

ノベルは、苦渋の決断を下した。他の者達も、異論はなかった。

そうこうしていると、ゲオリクが、ふと通路の奥へと視線を向けた。彼は、かなり以前から、新たな気配が近づいてきているのを感知していたのだ。そして、そろそろ伝えても良い頃合いかと判断し、一行に告げた。

「……人間の気配が、こちらに接近しておる」

その声に、ロゼッタも即座に意識を集中させ、気配を探る。

「……分かりにくいけど……確かに、複数いるわね。2人……いや、3人……それ以上かしら?」

「誰なんだ? この迷宮に潜ったのは、俺達以外にはいないはずだが……?」

リバックが訝しむ。

「……敵か味方か、まだ分かりません。皆さん、不用意な攻撃は避け、まずは相手を確認してください」

ノベルは、冷静に指示を出した。

先に気配を察知し、こちらに近づいてきていたのは、暗殺者のラーバンナーとエルトンの二人だ、そして、彼らに続いていたBランク冒険者のソドン、アンバー、ティーバックの三人組だった。もちろん、彼らもまた、ノベル達の気配を未確認の敵として認識し、警戒しながら接近していた。

ラーバンナーとエルトンは、かなり実力を上げている暗殺者で、その気配を巧みに消していた。並の冒険者であれば、彼らの接近に気づくことすらできなかっただろう。

だが、相手が悪かった。闘神ゲオリクの感知能力は、人間のそれを遥かに超越している。そして、ゲオリクからおおよその位置を示唆され、意識を集中させていたロゼッタの鋭敏な感覚もまた、彼らの存在を捉えてしまったのだ。

ロゼッタは、暗闇の中に浮かび上がった人影…その特徴的な動きから、相手が誰であるかを確信した。

「待って! ラーバンナー!?」

ロゼッタは、直接話したことはなかったが、ラバァルの傍によくいたこの男のことは、覚えていた。

暗闇の中から、突然自分の名が呼ばれたことに、ラーバンナーは驚き、足を止めた。

「……誰だ!? なぜ、俺の名を知っている!?」

「私よ! Aランク冒険者のロゼッタ! あなたも知っているでしょう、ラバァルと同じパーティにいた!」

ロゼッタが名乗ると、ラーバンナーはさらに驚いた。

「……ロゼッタだと? Aランクパーティの……? ストップ! ちょっと待て! あんた達は、とっくに転移装置で先へ行ったはずだ! なぜ、こんな場所にいる!? それに……もしラバァルが一緒なら、とっくに俺達の位置を特定して、先にちょっかいを出してきてるはずだ。ラバァルはどうした!?」

「……残念だけど、ラバァルは……行方不明なの」

ロゼッタは、沈痛な面持ちで答える。

「……なんだって!? ラバァルが行方不明だと!? 一体、何があったんだ!?」

ロゼッタはラーバンナーの声に、心配の色は感じなかった。

ラーバンナーがロゼッタと話し始めると、後続のエルトン達も追いつき、その場に集合して来た。ロゼッタは、彼らに、これまでの経緯…ヨトォンとの遭遇、ラバァルの追跡、そして自分たちがこの場所へ転移させられたことなどを、大まかに説明した。


「……ラバァルが、そんな化け物を、たった一人で追って行ったってのかよ……!」

エルトンは、信じられないといった表情で呟く。

「……まあ、心配すんなって、エルトン。ラバァルのことだ。そう簡単には死にやしねえ」

ラーバンナーは、あまり心配してない様子だ。エルトンの方も、そんなラーバンナーを見て「それもそうだな」...と、頷いている。


そんな会話をしているところへ、ノベル、リバック、そして回復したテリアルとベラクレスが合流してきた。

「ラーバンナー殿、エルトン殿、それに皆さん。ご無事でしたか。どうして、ここに?」

ノベルが尋ねる。

「……いや、実は俺達にも、さっぱり分からんのだ。転移装置の近くでキャンプを張っていたら、突然、目が覚めたらこの場所にいた。それで、周囲を調査していたら、エルトンが向こうの方に奇妙な光が見えるって言うんでな。それに近づいていったら、あんた達に出くわした、ってわけだ」

ラーバンナーが説明する。

「……その光というのは……恐らく、女神セティア様のことでしょう」

ノベルが静かに言った。

「女神……セティア……?」

ラーバンナー達は、その言葉の意味を測りかねる。

「ええ。……今は、マルティーナ王女殿下のお体を、一時的にお借りになられているのです」

ノベルが説明していると、その当人達…巨人騎士ゲオリクの肩の上に、人形のようにちょこんと座る、光り輝くマルティーナ(セティア)が、静かに近づいてきた。

ラーバンナー達は、その巨大な騎士と、その肩に乗る、神々しいまでに輝く存在を見て、息を呑んだ。暗殺者として闇に生きる彼らにとって、その光はあまりにも眩しく、そして美しかった。誰もが、ただ無言で、その異様な光景を見つめるしかなかったのだ。

「……それで、ノベル殿。これから、どうするかは決まっているのか?」

しばらくして、ラーバンナーが現実的な問いを発した。

ノベルは、決意を込めて答える。


「はい。私達は、まず、本来の目的である【ニフルヘイム】の封印を優先することにしました」

「……ニフルヘイムだと? だが、ここは……俺達が先ほどまで探索していた限りでは、間違いなく『生贄の迷宮』の地下1階のはずだ? また、一から潜り直すつもりなのか?」

ラーバンナーは、自分たちが把握していた情報を元に、疑問を呈した。それを聞いたノベルは、驚いて聞き返す。

「……地下1階……!? それは、間違いありませんか、ラーバンナー殿!?」

「うむ、間違いない。俺達は、一度探索した場所には、必ず目印を残していく。その目印を、さっきいくつか見つけたんだ。ここは、間違いなく、俺達が最初に探索した地下1階の区画だ」

「なるほど……。これは……とんだ、振り出しに戻ってしまった、ということですか……」

ノベルは、しばし黙考した。そして、何かを思いついたように顔を上げた。


「……ですが、ラーバンナー殿。まだ、迷宮の『外』へは出ていないね?」

「……うむ、そうだ。俺達も、ここに転移させられてから、それほど時間は経っていない。最初はどこだか分からずに探索していただけだったから」

「……分かりました。ならば、一度、この迷宮の入口…我々が入ってきた場所へ、戻ってみましょう。何か、変化が起きているかもしれません。話は、それからです」

ノベルの提案に、異論は出なかった。一行は、迷宮の入口があった方向へと、エルトンを先頭に戻り始めた。

「入口は、こっちのはずだ」

迷宮の入口があった場所まで戻ると、そこには、以前は存在しなかったものが、出現していた。それは、壁に開いた、高さ3メートルほどの、薄紫色をした不安定な『ゲート』だった。ゲートの中心は漆黒の闇で、その周囲が紫色のエネルギーで渦を巻いている。セティア(マルティーナ)が放つ神々しい光がなければ、薄暗い迷宮の中では、その妖しい輝きはもっと際立って見えただろう。だが、今は、ただ不気味な黒い渦として、彼らの目に映っていた。

「……これが……ゲート?」

ベラクレスが呟く。一行は、その渦巻く力場に注目した。よく見ると、ゲートの周囲にある小さな石ころや埃が、その中心へと、ゆっくりと吸い込まれているのが分かった。

「……このゲート、微弱だが、吸引力もあるようだ」

リバックが指摘する。

そのゲートを、巨人騎士ゲオリクが鋭い視線で見つめていた。

「……ふむ。この奥に、強大なエネルギーを持つ『何か』が存在するのは、確かだ。それが何かまでは断定できぬが……恐らく、お前達が探している、大精霊ニフルヘイムであろうな」

ゲオリクは、バルモント翁から聞いた話を思い出す。

「バルモント翁は、こう言っておられた。ニフルヘイムが内包するエネルギー量は、万全の状態の儂…闘神ゲオリクの力を以てしても、遥かに上まわるエネルギーの源泉だと。……さて、ヴァンデッタとの戦いで力を消耗した今の私で、どこまでやれるか……」

ゲオリクは、決して悲観しているわけではなく、ただ淡々と、現状の戦力と敵の力量を分析し、事実を述べただけだった。

だが、その言葉を聞いたノベルは、ゲオリクほどの存在がそこまで言う相手に、自分達が挑まねばならないという現実に、改めて身震いする。


「……ゲオリク殿ほどの御方が……このゲートの奥にいる存在を、それほどまでに……」

「おい、ノベル。お前、もしかして、入口に戻ればこれがあると、最初から見当をつけていたのか?」

リバックは、入口へ戻ろうと言い出したノベルの真意に気づき、尋ねた。ノベルが、一度外へ出たいのではなく、このゲートの出現を予測していたのだとしたら……。

(……相変わらず、限られた情報から、的確な推測をする奴だ)

リバックは、ノベルの洞察力に改めて感心した。

ニフルヘイムへと続くと思われるゲートを発見したことで、一行の目的は定まった。だが、ゲオリクは厳しい現実を突きつける。

「……好都合ではある。だが、今のこのメンバーのままでは、たとえ中に入ったとしても、ニフルヘイムを封印することなど、到底できまい。……マルティーナの話に出ていた、『切り札』となる者を、呼び出すことはできるのか?」

「……! 【炎帝ガーベラン】のことですね!」ノベルが答える。

「うむ、確か、そのような名だったな」

「ラージン殿! ガーベラン様を、ここへ呼び出すことは可能でしょうか!?」

ノベルは、国家魔術師のラージンへと視線を向けた。

ラージンは、ゲートの奥から感じられる、計り知れないほどの冷気の力に、ゴクリと生唾を飲み込みながらも、覚悟を決めた表情で答えた。

「……間違いなく、この中に、ニフルヘイムがいる、ということでよろしいのじゃな?」

「はい。私の知識と、ゲオリク殿の感知能力が、共に『この奥だ』と示しております」

「……ガーベラン殿との契約は、一度きり。もし、これが間違いであれば、二度と我々に力を貸してはくれぬであろう。……それでも、良いのじゃな?」

ラージンは、最後の確認をする。

「……私達には、もう後がありません。ここで切り札を使わずして、一体どこで使うというのですか、ラージン殿!」

ノベルは、強い口調で訴えた。

ラージンは、ふぅー、と大きく息を吸い込むと、頷いた。

「……分かった、ノベル殿。……呼び出そう」

ラージンは、そう言うと、懐から特殊な触媒を取り出し、ガーベランを召喚するための、複雑な呪文を唱え始めた。


「《ヴォクス・メア、アド・テ、ガーベラン……》」(我が声よ、届け、ガーベランに……)

ラージンは、全神経を集中させ、繰り返し呪文を唱え続ける。

数分の時間が、長く感じられた。ラージンが詠唱を続けていると、ニフルヘイムへと続くと思われる紫色のゲートの傍らに、もう一つ、今度は燃えるような緋色の、コンパクトなサイズのゲートが、空間を歪ませながら開かれたのだ。

一行は、固唾を飲んで、その新たなゲートに注目する。やがて、その中から、一人の男が、堂々とした足取りで姿を現した……。


その男は、精悍な顔つきと、威厳に満ちた体躯を持っていた。鋭い眼光を放ちながら、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。ロゼッタは、その男の姿に、思わず目を奪われた。

まず目に入ったのは、手入れの行き届いた顎髭。綺麗に整えられたその髭は、彼が自身の身だしなみに細心の注意を払う人物であることを示唆していた。

次に、その服装。深みのある、美しい紺碧色のローブを身に纏い、その指には、魔力を秘めているであろう、いくつもの豪奢な指輪が嵌められている。ローブには、金糸で天体図や古代ルーン文字と思われる複雑な刺繍がびっしりと施されており、一目で高価な、そして強力な魔法の品であることが分かった。

そして、足元。銀の装飾が施された、上質な黒革製のブーツ。そのどれもが、彼の洗練されたセンスと、只者ではない雰囲気を醸し出していたのだ。

(……なんて……気品のある、それでいて力強い……)

ロゼッタは、この男が、噂に聞く【炎帝ガーベラン】その人であると、直感的に理解した。

ガーベランは、ラージンの前まで来ると、周囲の状況を一瞥し、そしてニフルヘイムへと続くゲートから漏れ出す冷気を感じ取り、にやりと笑みを浮かべた。

「……これは、驚いた。まさか、本当に、かの大精霊【ニフルヘイム】へと続くゲートにまで辿り着くとはな。……ラージン殿。どうやら私は、あなた方の実力を、少々見誤っていたようだ。……非礼を、お許し願いたい」


ガーベランは、意外にも素直に、自らの不明を認めた。

ラージンは、ガーベランが召喚に応じてくれたことに、まずは安堵し、感謝の意を示した。

「いえいえ、ガーベラン殿。よくぞ、お越しくださいました。……転送ゲートを、これほど自在に操られるとは……このラージン、長年生きてまいりましたが、そのような御仁にお会いしたのは、初めてでございます」

「……実を申せば、こちらも、世間の噂…【炎帝】などという大層な異名を、少々過大評価ではないかと、疑念を抱いていた次第。……どうか、我々の非礼もお許しいただきたい」

二人は、互いの実力を認め合い、短い挨拶を交わした。

そして、すぐに本題へと入る。どうやって、大精霊ニフルヘイムを封印するか、その具体的な作戦の打ち合わせが始まった。

「……我々の現在の戦力は、ここにいる者達が全てです」

ラージンが、ガーベランにメンバーを紹介していく。ガーベランは、一人一人の顔を冷静に観察していたが、やはり、彼の視線も、巨人騎士ゲオリクと、その肩に乗る、神々しい光を放つマルティーナ(セティア)の姿に、強く引きつけられた。

「……失礼ですが、ラージン殿。……あちらにおられる、巨大な騎士殿と、その肩に乗っておられる光り輝くお方は……いったい、何者ですかな?」

ガーベランは、隠すことなく、率直な疑問を口にした。

「……やはり、あなたほどの御方でも、気になりますか」

「はい。……ええ、非常に」

「あちらの巨人騎士は、ゲオリク殿。この迷宮の奥深くで、我々が出会った、古の闘神でございます。そして……その肩にお乗りになられているお方は……」

ラージンは、一呼吸置いて、告げた。

「……光の女神、セティア様、ご本人にございます」

「……なっ!? 女神……セティア……だと!?」

さすがの炎帝ガーベランも、その説明には驚愕の色を隠せない。彼は、ラージンの顔をまじまじと見つめ、冗談ではないことを確認すると、さらに問い詰めた。

「……その説明は……冗談ではなく? あのお方が、本当に……あの、光の女神セティアだと、そうおっしゃるのですか?」

「はい。間違いございません、ガーベラン殿」

「……馬鹿な……! 女神が、仲間にいるのであれば……! ラージン殿、なぜ、女神御自身に、ニフルヘイムの封印を頼まぬのだ!? その方が、よほど確実ではないか!」

「いえ……それが……色々と、複雑な事情がございまして……」

ラージンは、マルティーナの現状…自我が殻に閉じこもり、セティア自身も限定的な力しか行使できない状況を、ガーベランに丁寧に説明した。

「……なんと……。マーブルの王女殿下が、そのようなことに……。にわかには信じがたい話ですが……」

ガーベランは、初めて聞く事実に、強い興味と好奇心を刺激されたが、ラージン達が今はその話をしている場合ではない、という雰囲気を察し、深く追求するのはやめた。

「……分かりました。事情は理解した。……つまり、始めの契約通り、私が、あの大精霊【ニフルヘイム】を、例の器…『永劫の冬』に封印すれば、それで良いのだな?」

「はい。全ては、ガーベラン殿のお力にかかっております」

「……では、器となる、『空の永劫の冬』を、こちらへ」

ガーベランが手を差し出すと、一行の視線は、自然とマルティーナ(セティア)へと集まった。だが、彼女(?)は、そのことには全く関心を示さない。

その時、それまで黙って後方に控えていたオクターブが、何かを思い出したように、慌てて駆け寄ってきた。

「あ、あの! 空の『永劫の冬』ならば、ここに!」

彼は、出発前にマルティーナから預かっていた、『永劫の冬』の空の器…それを、これまでの様々な出来事の中で、すっかり失念していたのだ。彼は、懐から慎重にそれを取り出すと、ガーベランへと手渡した。

ガーベランは、水晶のような輝きを持つ、空の『永劫の冬』を受け取ると、目の高さまで持ち上げ、鋭い視線でそれを観察し始めた。これが、本当にあの大精霊を封じ込めるに足る器なのかどうか、その魔力構造や強度を、専門家として厳しく鑑定しているのだ。

しばらくの間、丹念に調べた後、彼は満足げに頷いた。

「……ふむ。確かに、これは……並のアーティファクトではない。大精霊の力を封じ込めるに足る、十分な容量と強度を持っているようだ。……問題ない」

鑑定を終えたガーベランは、空の『永劫の冬』を、ローブの内ポケットへと慎重にしまい込んだ。

「……さて。こちらの準備は整った。いつでも、ゲートの奥へ進むがよい」

ガーベランは、ニフルヘイムへと続くであろうゲートを前にしても、臆する様子を微塵も見せず、一行に入場を促した。

その堂々とした態度を、ゲオリクは静かに観察していた。

(……ふむ。どうやら、精神力だけは、他の人間共とは比較にならぬほど、鍛え上げられているようだな。……だが、所詮は人間。その身から漏れ出すエネルギーの総量は、他の者達と大差ないように見えるが……)

ゲオリクがそう考えていると、肩の上に乗るセティアから、再び思念が送られてきた。

《ゲオリク。よく見てごらんなさい。あの男の内なる力を》

「……ん? あの男に、何か特別なものが、あると?」

《あの者は、自らの魔力を、ただ放出するのではなく……『螺旋焔鎖らせんえんさ』状に編み上げ、その流れを完全に制御しています。あれは、尋常な技量ではありません》

「……人間の身で、そのような芸当が……可能だというのか?」

《ゲオリク。あなたは、人間という種族を、少々過小評価しすぎているようですね。彼らは、確かに個々の力は小さく、寿命も短い。……ですが、だからこそ、知恵を絞り、工夫を凝らし、我々よりも遥かに速いスピードで、進化を続けているのです》

「……セティアよ。あなたが、人間を好ましく思っておられることは、よく分かった。……しかし、力を使い果たした今の私と力を行使できぬあなた、そしてあの人間たちだけで、本当に、あのニフルヘイムを抑え込めると、そうお思いか?」

《……いいえ。正直に言って、難しいでしょう。それに、この戦いに、『セティア』として直接介入することは、今の私には許されていないのです》

「なんと……! やはり、何らかの制約が……?」

《ええ。……ただし、マルティーナの魂が消滅することは、私の望むところではありません。ですから……あのガーベランという者に、僅かばかりですが、私の『加護』を与えましょう。それが、間接的にマルティーナを守ることに繋がるはずです》

「ふむ……。ならば、私は、ニフルヘイムを抑えることだけに、集中できる、ということか」

《……そういうことです》

女神と巨人の、神々の領域での会話は、そこで終わった。

女神との会話を終えたゲオリクは、ゲートへ入る前に、改めて一行に向き直り、最後の確認と指示を始めた。

「……少し良いか。ゲートに入る前に、お前達に伝えておくべきことがある」

一行は、ゲオリクの言葉に、動きを止めて耳を傾ける。

ノベルが代表して促した。

「どうぞ、ゲオリク殿」

ゲオリクは頷き、重々しく話し始めた。

「見ての通り、私は闘神ゲオリク。そして、私の肩におられるのは、光の女神セティア様ご本人だ。……しかし、私は先のヴァンデッタとの戦いで、力の大部分を消耗してしまっている。今の力では、十分に休息していたのニフルヘイムには、遠く及ばぬだろう。そして、セティア様もまた、精霊との戦いに直接介入することはできぬ。マルティーナの自我が目覚めるまで、ここに残られることになる」

「……おっしゃりたいことは、分かりました。あなた方を当てにせず、我々自身の力で戦え、ということですね」

ベラクレスが、ゲオリクの意図を汲み取り、力強く答えた。他の冒険者達も、皆、覚悟を決めた表情で頷く。

「……うむ。分かっているなら良い。……それから、もう一つ。私の目から見て、この先の戦いについていけぬであろう者達には、悪いが、ここへ残ってもらう。中へ入っても、足手まといになるか、あるいは無駄死にするだけだろうからな」

ゲオリクはそう言うと、その青い瞳を輝かせた。すると、彼の意思によって選別された者達の体が、淡い青色の光に包まれ始めたのだ。

「……青き光に包まれし者達よ。そなた等は、ここに残るがよい。ゲートの先に待つのは、お前達の想像を遥かに超えた、絶対的な存在だ。誰も、他者を守りながら戦う余裕などない。それに、装備の貧弱な者は、相手の姿を見ることすらできずに、塵と化すであろう」

ゲオリクは、非情とも思える言葉で、戦力にならない者達に、ここで待機するよう命じたのだ。

その結果、青い光に包まれ、居残り組となったのは……

Aランク冒険者のノベル、ヒューイ、ダクソン、テリアル。

Bランク冒険者のソドン、アンバー、ティーバックの全員。

ラバァルの部下であるラーバンナーとエルトンおよびニコル。

そして、王国兵士達と、護衛のオクターブ。

……つまり、ガーベランを除けば、実質的に戦闘に参加できると判断されたのは、リバック、ロゼッタ、ベラクレス、そして魔術師ラージンの、僅か4名のみということだった。

居残り組とされ、愕然とするオクターブに対し、ゲオリクの肩の上から、セティア(マルティーナの体)の声(思念)が届けられた。

《……オクターブ。聞こえますね? あなたは、これまで通り、マルティーナを守護することに、全力を尽くしなさい。……僅かばかりの助力ですが、私から、あなたに新たな『装備』を与えましょう。……そして、もし、マルティーナが無事に目覚めたならば……その時は、彼女と共に、ゲートの中へ入りなさい。あなたの力が必要になるかもしれません》

その言葉と共に、オクターブの体に、眩い光が降り注いだ! 一瞬の後、光が収まると、そこには、先ほどシャナが纏ったものと同じ、白銀に輝く天使の鎧と戦装束を身に着けたオクターブの姿があった! 彼自身も、その突然の変化に驚き、自分の体を見下ろしている。

(……これも……女神様の……力……)

周囲の者達も、先ほどのシャナの変身と同様の奇跡を目の当たりにし、女神の力の片鱗を改めて感じ取った。

そして、その装備を与え終えると、マルティーナ(セティア)の体から放たれていた神々しい光は、急速に失われ、彼女の体は、再び意識のない、ただの人間としてのマルティーナへと戻り、ゲオリクの腕の中に、ぐったりと抱きかかえられた。

(……今は、ここまでか……)

ゲオリクは、意識を失ったマルティーナを、壊れ物を扱うかのように、そっとオクターブへと手渡された。

一行は、女神の顕現とその消失、そして仲間達の劇的な回復と変身という、立て続けに起こった超常現象を目の当たりにし、言葉を失っていた。そして、目の前に開かれた、大精霊ニフルヘイムへと続くであろう、不気味な紫色のゲートを、改めて見つめるのだった。


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