マルティーナの決意
折角周りから話を纏め、グラティア教信者に対して力づくでマーブルから押し出そうと、
目論んだのだが、父カイ・バーンに見抜かれ、兄モーブを引き抜かれて骨抜きにされてしまった、
そんなマルティーナが向かった先は。
その51
マルティーナが、重い足取りでやって来たのは、港町ヨーデルの外れに位置する一角だった。そこには、人の出入りも絶えて久しいような古びた倉庫が立ち並び、埃っぽさと潮風、そして何かの腐敗臭が混じり合ったような、独特の臭いが鼻をつく。
しかし、注意深く見渡すと、その倉庫群の中に一軒だけ、他とは明らかに異なる建物があることに気づいた。打ち捨てられたような他の建物とは違い、その倉庫だけは窓ガラスが嵌められ、古びてはいるものの、しっかりと修復されたドアが取り付けられている。
「きっと、ここね……。ふふ、あの方の言う通り、本当に場末の……お世辞にも綺麗とは言えない場所だわ」
マルティーナは小さく呟くと、意を決してその倉庫の玄関ドアの前まで歩み寄り、コンコン、と控えめにノックした。
すると、ややあってドアが内側から開き、中から一人の少年がひょっこりと顔を出した。
「はい、どなたですか?」
人懐っこそうな笑顔を浮かべた少年は、年の頃は12、3歳といったところだろうか。その屈託のない明るい表情に、マルティーナは少しだけ緊張を解けた。
「あの、失礼いたします。こちらにラバァル様というお方がお住まいだと伺って参りました」
「へえ、お姉さん、誰から聞いたの? ラバァルなら、確かにここにいるよ」
少年はラバァルを呼び捨てにしている。親しい間柄なのだろう、とマルティーナは察した。おそらく、彼が言っていた仲間の一人なのだろう。
「ラバァル様から、何か御用があるならここを訪ねるようにと……。恐れ入りますが、お取次ぎをお願いできますでしょうか」
「ふーん、そうなんだ。まあ、中に入って待ってなよ。あいにくラバァルは今、出かけてて留守なんだ。どこに行ったかは、おいらも知らないんだけどね」
少年はあっけらかんと言い、マルティーナを招き入れる。特に当てもなく訪ねて来てしまったマルティーナは、一瞬ためらったものの、彼の親切に甘えることにし、建物の中へと足を踏み入れた。
中は予想外に広く、そして驚くほど綺麗に片付けられていた。壁際には簡易なベッドがいくつも並べられており、彼らがここで集団生活を送っていることがうかがえる。
少年はマルティーナを奥にあるテーブルと椅子のスペースへ促した。勧められるまま椅子に腰かけると、すぐに少年がカップに入った温かい飲み物を持ってきてくれた。
「これでも飲んで、ゆっくり待っててよ。僕はニコル。ここの留守番係みたいなものかな。お姉さんの名前は?」
「ありがとう、ニコル君。私はマルティーナと申します。ニコル君は、ラバァル様とはどのようなご関係なのですか?」
「うん、おいらたちは……そうだな、兄弟みたいなもの、かな」ニコルは少し考えてから答えた。
「では、弟さんでいらっしゃるのね」
「うーん、それもちょっと違うかな。確かにおいらは16だから、ラバァルより一つ年下だけど、弟っていうのとは、また違う感じなんだ」
「えっ……?」
マルティーナは思わず目を見開いた。目の前の少年が16歳? しかもラバァル様がこの男の子の一つ年上ということは、17...だということなの? あの落ち着いた物腰と、深い洞察力を感じさせる言葉遣いから、てっきり二十歳は超えているものと思い込んでいたマルティーナは、隠しようもなく驚きの表情を浮かべてしまった。
「あれ、お姉さん、おいらの歳にびっくりした? そんなに子供に見えたかな」ニコルが悪戯っぽく笑う。
「い、いえ、そういうわけでは……ただ、ラバァル様の年齢が、想像していたよりもお若かったものですから……」
マルティーナがそこまで言いかけた時、
ガタン!
不意に、重い玄関ドアが開く音が響き、二人は同時にそちらへ振り向いた。
ドアが開き、外套を羽織った二人の青年が入ってきた。一人は長身で鋭い目つきをしたエルトン、そしてもう一人が、マルティーナが探していたラバァルだった。
ニコルがすぐに駆け寄り、ラバァルに報告する。
「おかえり、ラバァル、エルトン! お客さんだよ。なんというか、すごく高貴な感じのお姉さん」
ニコルの言葉に、ラバァルはわずかに眉を動かし、室内に視線を移すと、椅子に腰かけていたマルティーナの姿を認めた。
「おや、これはマルティーナ王女。このような場末の隠れ家にようこそ。」
ラバァルは穏やかな笑みを浮かべ、マルティーナへと歩み寄った。
マルティーナは慌てて椅子から立ち上がる。
「ラバァル様、早速お邪魔してしまいましたわ」
少し頬を染め、もじもじとしながら、何かを話したそうにラバァルを見上げている。
「構いませんよ。立ち話もなんだし、もし他の方に聞かれたくない話なら、奥の部屋へ行こう。二人きりで話を伺いましよう」
ラバァルの気遣いに、マルティーナはこくりと頷き、少し嬉しそうな表情で彼に促されるまま奥の部屋へとついて行った。
二人を見送りながら、エルトンが呆れたように呟く。
「……ありゃあ、完全に惚れられたな、ラバァル」
「えっ、またなの?」ニコルが目を丸くする。
エルトンが、ニコルの言葉に反応した。「おいニコル、"また"ってどういう意味だ?」
「いやぁ、だってさ、ルカナンでもレクシアさんっていう綺麗なお姉さんと、なんかいい雰囲気だったみたいだしぃ……」
「お前、本当によく見てるな……」エルトンが感心したように言う。
「へへ。気になっちゃってね」
「まあ、ラバァルが人目を引くのは確かだな。特に、ああいうお姫様タイプには響くものがあるんだろう」
「いいなぁ、おいらにも素敵なお姉さんが訪ねて来てくれないかなぁ……」ニコルが羨ましそうにため息をつく。
「ばーか、お前にはまだ早い。あと10年は修行しろ」
「ちぇっ、見た目で判断するなよ!」
「はいはい、悪かった、悪かった」エルトンはニコルの頭を軽く撫でた。
二人がそんな軽口を叩いている間、奥の部屋では、マルティーナが塔トゥッリスでの出来事をラバァルに話し始めていた。父王カイ・バーンとの対立、兄である王太子の苦悩、そして自身の決意に至るまでを、順を追って説明した。
一時間以上、マルティーナの話に静かに耳を傾けていたラバァルは、やがて口を開いた。
「なるほど……カイ・バーン王は、実に見事な手腕で王太子の勢いを削ぎ、主導権を握り返した、というわけか」
「ええ……父にしてやられました。あの状況では、兄上が父に逆らうことなど到底できません。一度、ああなってしまっては、もう兄上のお力だけでは状況を覆すのは難しいでしょう。完全に動きを封じられてしまいました」マルティーナは悔しそうに唇を噛んだ。
「それで、王女はこれからどうするおつもりかな?」
「はい。こうなれば、もう兄上を待つのではなく、私自身が動くしかないと考えております。父のやり方に不満を持つ三将軍だけでも説得し、グラティア教の排除に乗り出そうかと……」
「ははは、それはあまり感心しないな。少しばかり短絡的すぎる」ラバァルは軽く笑って首を振った。
「えっ、ラバァル様まで、お止めになるのですか!」
「いや、戦うことを止めているのではない。ただ、正面から軍を動かすのは得策ではない、と言っている。ここはもう少し、頭を使った方が良い」
「頭、ですか……?」
「そうだ。カイ・バーン王は『こちらから兵を用いて攻めてはならぬ』と釘を刺したと言ったな?」
「はい、その通りです。先制攻撃は禁じられました」
「ならば、話は簡単だ。こちらから攻めるのではなく、"攻めさせれば良い"」
「えっ!? それは……罠を張り、兵を伏せておけと?」マルティーナは目を見開いた。
「その通り。こちらからの攻撃は禁じられていても、敵の攻撃に対する"応戦"まで禁じられているわけではないでしょう? それとも、攻め込まれた場合も、一切手出し無用と?」
「いえ、そのような指示はありませんが……。しかし、一体どこを攻めさせればよろしいのですか?」
「そうですね……まず、セティア側が反撃できる好機は限られています。その貴重な機会を最大限に活かし、グラティア教側に手痛い打撃を与えねばなりません」
「手痛い打撃……そのようなことが可能なのでしょうか?」
「可能ですよ。連中が飛びつかざるを得ないような、大きな"餌"を用意してやればいい。今のグラティア教の連中なら、容易く食いついてくるでしょう」
「大きな、餌……? 一体、何を用意すれば……」
「決まっている。彼らが最も欲しているもの、セティア教の信者たちだ。近いうちに、対グラティア教を掲げた大規模な信徒集会を開けばよい。もちろん、その場には万全の警護体制を敷き、襲撃してきた敵を確実に殲滅できるよう、信頼できる王国兵士を伏せておく必要があるが……準備はできるか?」
「信者の方々を……囮にせよ、と仰るのですか?」マルティーナの声が震える。
「もちろん、気が進まないのであれば、やめておくべきです。ですが、何もしなくても、いずれ信者たちはグラティア教の標的となるでしょう。どうせ危険に晒されるのであれば、彼らの力を借り、反撃の狼煙とする方が、建設的だとは思いませんか?」
「うぅ……信者の皆さまにもしものことがあれば、私には……」マルティーナは顔を伏せた。
「何を迷っている? マルティーナ王女! グラティア教と戦う覚悟は、もう定まったのではなかったのか! あなたの父君、カイ・バーン国王は、信者が数百人犠牲になろうとも、それは国を守るための"必要経費"だと言い切ったのでしょう? それこそが、国を背負う者の覚悟です。その覚悟を持たぬ者が、いくら正論を述べたところで、所詮は子供の理想論と見做されても仕方がない」ラバァルの声には、厳しい響きがあった。
「……はい。ラバァル様のおっしゃる通りです。私の覚悟が、まだ足りませんでした」マルティーナは顔を上げ、涙を堪えてラバァルを見つめた。
「一つ申し上げておきますが」ラバァルは少し声のトーンを和らげた。「あなたはまだ、国の全責任を負う王ではありません。何もかも一人で背負い込もうとする必要はない。ですが……」
「……いいえ。私はやります。信者の方々を集めてみせます、ラバァル様」マルティーナは決然と言い切った。
「……まるで、俺がけしかけたみたいになってしまいましたな」ラバァルは苦笑した。
「いいえ、違います。ここに来て、ラバァル様にお会いできて、本当に良かった。私に足りなかったものが、はっきりと分かりました。これより、私はその準備に取り掛かります」
「お待ちください。その前に、一つお願いがあるんだが」
「なんでしょうか、ラバァル様?」
「うむ、今から俺と一緒に、ヨーデルの正門近くにある憲兵隊の駐屯所まで来ていただけませんか?」
「もちろんですわ! 喜んでお供させていただきます」
アジトを出た二人は、ヨーデルの正門近くにあるマーブル憲兵隊の駐屯所へと向かった。建物の前で、ラバァルはマルティーナに頼みごとをした。
「マルティーナ王女、お願いというのは、あそこの司令官に私を紹介していただきたいのです。近いうちに、彼らの力を借りることになるかもしれません。お願いできますか?」
「まあ、そのようなことでしたら、お安い御用ですわ!」
少しでもラバァルの力になれることが嬉しいのか、マルティーナはぱっと表情を明るくし、率先してラバァルを伴い駐屯所の中へと入っていった。
衛兵に事情を話し、司令官の執務室へと案内される。廊下を進むマルティーナに気づいた憲兵たちが、「王女殿下がお見えになったぞ!」と慌てたように声を上げ、周囲に知らせる。
その声を聞きつけ、執務室から恰幅の良い壮年の男が慌てて駆け付けてきた。彼がここの司令官、ヨーゼフのようだ。
「これはこれは、マルティーナ王女殿下! このような埃っぽい所へ、ようこそおいでくださいました。本日は、如何なる御用向きでございましょうか?」ヨーゼフは深々と頭を下げた。
「ご苦労様です、ヨーゼフ司令官。実は今日は、私が大変お世話になっている方をご紹介しに参りました。そして、この方のお力になっていただきたく、お願いに上がったのです。ヨーゼフ、どうかお願いできますでしょうか?」
「お待ちください、王女殿下。まずは、その方をご紹介いただかねば、お話が進みませぬ」
「ええ、そうでしたわね。失礼いたしました。こちらの方が、ラバァル様です」
ラバァルが一歩前に出て、ヨーゼフに向き直る。
「はじめまして、司令官殿。ラバァルと申します。今回は私がマルティーナ王女にお願いして、ご紹介の労を執っていただきました。近い将来、貴殿ら憲兵隊のお力をお借りしたい儀がありまして」
「ラバァル様、と仰いましたな。して、我々がどのような形でお力になればよろしいので?」ヨーゼフは値踏みするようにラバァルを見つめた。
「はい。実は、私、とある暗殺組織に命を狙われている、という確かな情報を得まして。いつとは断定できませんが、近々、暗殺者の集団がこのヨーデルに現れる可能性が高いのです。その際に、憲兵隊の皆様のお力添えをいただきたいと考えております」
「なんですと!? 暗殺組織……それは一体、どこの手の者で、何の目的で?」ヨーゼフは驚きを隠せない。
「その者共は、ラガン王国からやって来ます。目的は、私の暗殺、および、それによるマーブル新皇国内の混乱を引き起こすことにあるようです」
「失礼ですが、ラバァル様は、なぜそのような組織に狙われる羽目に?」
「先日、ルカナンにて、その暗殺団と少々厄介な因縁ができてしまいまして。事の発端は、グラティア教がどのようにして軍内部に信者を増やしているか、その手口を知人の元タートス人の女性から聞き出したことにあります。私はその情報をマーブルの軍関係者に通報したのですが、それが彼らにとって都合が悪かったらしく、襲撃を受けてしまったのです。我々は何とか返り討ちにし、このヨーデルまで逃れてきました。ここなら安全かと思ったのですが……彼らが追ってきているとの知らせが、信頼できる筋から入ったのです」
「軍関係者に信者が……? 一体、どのような手口で……?」ヨーゼフは眉をひそめた。
「はい。信者の女性を使い、言葉巧みに兵士を誘惑し、アジトへ連れ込んで洗脳している、と聞いております」
「なんと破廉恥な……!」敬虔なセティア教徒であるマルティーナは、思わず憤りの声を上げた。
「ええ。ですが、ルカナンではその手口が功を奏していたようです。誑かされた兵士たちがグラティア教の信者となり、執政官庁で騒ぎを起こしているのを、私もこの目で目撃しました」
「なんですと! それは真でございますか!」
「間違いありません」ラバァルはきっぱりと断言した。
「なんと……。このマーブルでも日増しに増えるグラティア教徒に、どうしてセティアの信者がこうも容易く寝返るのかと、ずっと不可解に思っておりましたが……そういう裏があったとは……」ヨーゼフは顎に手をやり、深く考え込んだ。グラティア教の浸透に関する長年の疑問が氷解したことで、彼はラバァルに対して強い信頼感を抱いたようだ。「……分かりました。ラバァル様、もしもの時には、我々マーブル憲兵隊がお力になりましょう」
「ありがとうございます、司令官殿。感謝いたします。その時が来ましたら、改めてご相談に上がります。その節は、よろしくお願い申し上げます」
こうして、憲兵隊司令官ヨーゼフとの協力関係を取り付けたラバァルは、マルティーナと共に駐屯所を後にした。
「ご協力、感謝いたします、王女」
「いいえ、お役に立てて嬉しいですわ。……ですが、驚きました。ラバァル様たちがラガン王国のご出身だったなんて……」
「ええ、かなり南の……平均温度が30℃近くある所ですよ」
「まあ……。では、ここは随分と寒いでしょう」
「そうですね。正直に言って、かなり堪えます」ラバァルは肩をすくめた。
「ところで……先ほど仰っていた、ルカナンで知り合った女性とは、どのような方なのですか?」マルティーナは少し探るような目でラバァルを見た。
「ああ、彼女とは……レクシアと言いますが、随分と昔、まだ幼い頃に海賊に捕らえられ、同じ船で運ばれていた時に知り合いました。その後、長い間、互いに消息も知らなかったのですが、ルカナンで偶然再会しまして。しかし……色々とあり、今は互いに別の道を進むことになりました」ラバァルは少し遠い目をして語った。
「そう……別の道を……。でも、ラバァル様も海賊に捕まっていたのですか?」
「ええ。幼い頃に海賊に襲われ、叔父たちとはぐれてしまって……。その後、マーヤという女性に拾われ、しばらく育てられたのですが、結局は奴隷として売られるために船に乗せられました。その船でレクシアと出会ったのですが、その船も巨大生物に襲われ沈没し、三名で漂流することになったのです」
「……まあ……。なんとお声がけして良いか……想像を絶するようなご経験を……」マルティーナは言葉を失った。
「ふふ、今思い返しても、ろくな目には遭ってないよな。ですが、まあ、それも自分の力ではどうにもならなかったことだからな」ラバァルは自嘲気味に笑った。
「……分かります。そのお気持ち、私にも分かりますわ」マルティーナは静かに頷いた。
やがて、別れの時が来た。
「それでは、ラバァル様、私はこれで失礼いたします」
「ああ。くれぐれも、無茶をして命を落とさぬようにな」
「はい!」
マルティーナは力強く返事をすると、別れ際に、ためらうことなくすっとラバァルに歩み寄った。そして、彼の驚く間もなく、その唇に自身の唇を軽く重ね。
「――お慕いしております、ラバァル様」
そう言い残すと、彼女は頬を染めながらも凛とした足取りで去って行った。
突然の出来事に、ラバァルはただ呆然とその場に立ち尽くし、マルティーナの後ろ姿を見送るしかなかった。
最後まで読んでくださりありがとう。




