マーブルへの道
ラバァルたちは、ルカナンに戻ったのだが、ある事に気が付き、仕事を探す為
執政官庁を訪れる事に・・・
その45
腐臭の森と、冷たい契約
四時間後。
所在が途絶えたナムたちの行方を捜索していた【灰色影】のダナン副長の隊は、森の奥深くで異様な臭いを嗅ぎつけた。
鼻孔を突き刺すのは、甘ったるい腐敗臭と、鉄錆のような強烈な血の匂い。
彼らは無言で目配せし、慎重に歩を進めた。
木々の間から見えてきたのは、地獄の残飯のような光景だった。
原型を留めない肉塊が、森のあちこちに散乱している。木にへばりついた臓器、押しつぶされた手足。
その中心に、頭部の無い女の死体が転がっていた。ナムだ。
そして、その数メートル先には、まるで熟した柘榴のように砕け散った頭部の残骸が……。
「……何だ、これは」
ダナン副長は息を呑んだ。
これは「暗殺」ではない。「破壊」だ。
ナムほどの使い手が、一方的に虐殺され、ゴミのように捨てられている。しかも、その破壊痕には、人間業とは思えない圧倒的な怪力の痕跡があった。
ダナンは即断した。
「引き返すぞ。奴らを追うのは危険すぎる。この“異常”をアビト様に伝えるのが先決だ」
彼らは追跡を断念し、逃げるように暗殺団エシトン・ブルケリィの基地へと引き返していった。
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ダナンからの報告は、アビトと共に、総帥であるル・モーン、そして三人の相談役にも迅速に伝えられた。
ナムを含む精鋭部隊が、一人の生存者もなく全滅したという事実。
会議室には鉛のように重い沈黙が漂っていた。
アビトは詳細な報告書――ナムの死体の惨状が記された紙片――を握りつぶし、震える声で言った。
「……これは、ただの反逆ではありません」
彼の脳裏には、ナムの魂が無残に喰い荒らされたかのような、得体の知れない悪寒が走っていた。
「ダナンの報告によると、ナムの頭部は粉砕され、部下たちは大蛇に絞め殺されたかのように圧死、四肢バラバラで散乱していたとのこと。……ラバァルは、我々の知らぬ“何か”を使っています」
それは、組織がタブーとしてきた「人外の力」への恐怖だった。
ル・モーン総帥が眉をひそめる。
「つまり、奴はもはや制御不能な怪物だと言うのか?」
「はい。放置すれば、奴はこの組織そのものを食らい尽くすでしょう」
アビトは深い自責の念と、それ以上の危機感を込めて宣言した。
「私が出なかったことが、今回の失敗に繋がりました。……この汚名を雪ぐため、そして組織の生存のため、今回は私を含む【灰色影】全員で討伐に向かいます」
アビトは立ち上がった。その瞳には、単なる怒りを超えた、生存本能に根ざした殺意が宿っていた。
ラバァルたちが向かったと推測されるルカナンへ。
森の木々が、死神たちの出撃に呼応するようにざわめいた。
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それから十日が過ぎ去っていた。
ラバァルたちは、冷たい風が吹き抜ける荒野をひたすら歩き続けていた。
乾いた土を踏みしめる音が、一行の足音と共に寂しく響く。
なぜ彼らがこんな場所にいるのか。話は五日前に遡る。
タロットとバッシュを埋葬し、ルカナンへと戻る道中。
ラバァルは歩きながら、悲しむ暇もなく冷徹な計算を続けていた。
(ルーの使徒化で戦力は回復した。だが……)
彼が直面していたのは、感情的な喪失以上に深刻な、現実的な問題だった。
金がない。
失われた装備の補充、追っ手を迎え撃つための潜伏場所の確保、そして何よりも九人の大所帯を養う食費。
組織からの補給を絶たれた今、「金」こそが彼らにとって最も緊急な生存戦略となっていたのだ。
街の喧騒の中、行き交う人々の活気に反して、彼らの懐は致命的に寒かった。
すぐに金を稼ぐ必要がある。
ラバァルはレクシアへの挨拶も後回しにし、すぐにルカナン執政官庁舎を訪ね、ハイル副指令に仕事を斡旋してくれと頼み込んだ。
そして翌日、彼は再び執政官室へと通された。
部屋にはインクと古文書の埃っぽい匂いが漂っている。
そこにはアンドレアス将軍とハイル副指令、そして見慣れぬ男――ブレネフ参謀の三名が待ち構えていた。
「良く戻ったな、ラバァル。そちらの者は参謀のブレネフだ。お前が仕事を欲していると聞いてな、丁度よい案件がある」
アンドレアス将軍が重々しく切り出した。
「はい。手持ちの資金が苦しく、お金になるのなら是非」
ラバァルは即答した。生きるためだ、選り好みはしていられない。
「詳細はブレネフが説明する」
ブレネフ参謀がカツカツと音を立てて前へ進み出た。鋭い眼光を持つ知性的な男だ。
「私がブレネフだ。今から依頼する仕事は極秘任務。守秘義務は絶対だ」
「承知しました」
ラバァルは静かに頷いた。
ブレネフは地図を広げ、説明を始めた。
内容はこうだ。ラガン王国は隣接するマーブル新皇国との戦争準備を進めている。マーブル国内では、グラティア教と光の女神セティアを信仰する土着勢力との対立が激化しており、ラガンとしてはこの混乱に乗じて介入したい。
「君達にやって貰いたいのは、混乱に油を注ぎ、拍車を掛けることだ」
ブレネフの声には冷徹な響きがあった。
「具体的には、教徒たちの争いをマーブル王家を巻き込む内戦レベルにまで発展させ、グラティア教徒を暴走させて王家に弾圧させる。……目を瞑って居られなくするのだ」
ラバァルは瞬時に理解した。
「つまり、汚れ仕事ですね。マーブルの首都『ヨーデル』へ向かい、テロを誘発しろと」
「そうだ」
ラバァルは眉一つ動かさずに受け止めた。
それは、ルカナンでの大量殺戮と同じ構図だ。政治的な目的のために、信仰を利用し、民衆を犠牲にする。
常人なら忌避するだろう。だが、今のラバァルにとって、それは倫理的な問題ではなく、単なる「任務の難易度」の問題でしかなかった。
生き残るために必要な金を稼ぐ。そのために泥を被る覚悟は、とうにできている。
「分かりました。それで、経費は前払いで頂けますか? 正直、遠征費すらありませんので」
ラバァルはドライに要求した。
「心配するな。必要経費は出す。物資も支給しよう」
アンドレアス将軍が保証する。
「助かります」
安堵するラバァルに、ブレネフが釘を刺した。
「それと……これは噂レベルだったのだが、マーブルには『セティアの眷属』と呼ばれる守護者が存在するという伝承がある。神など象徴に過ぎんが、多くの信仰を集めた象徴は厄介な力を持つ。注意してくれ」
「神、か……」
ラバァルは口元に微かな笑みを浮かべた。
神という存在を見たどころか、話もしたし、魂を融合させてもいる自分にとっては、あまりにタイムリーな話題だった。
「そんなにおかしかったか? もちろん、神など実在しないが」
ブレネフが怪訝そうにする。
その瞬間。
ラバァルの中から、どす黒く重い気配が「漏れた」。
ゾワリ。
執政官室の空気が一瞬で凍りつき、重力が増したような錯覚に襲われる。
「神は居ますよ、ブレネフ参謀」
ラバァルの言葉には、実体験に基づいた絶対的な確信と、人智を超えた冷徹な理屈が込められていた。
ブレネフは息を呑み、言葉を詰まらせた。
(こいつ……一体何者だ? ただの子供ではない……)
背筋に冷たい汗が伝うのを感じた。
「……敵に回さぬよう、努力します」
気配を消し、ラバァルはいつもの少年の顔に戻っていた。
ルカナンから北東へ三百キロメートル。
ラバァルたち【深淵山羊】の九名は、見知らぬ荒野をひたすら歩き続けていた。
南国育ちの彼らにとって、この地の気候は凶器に等しかった。
標高が上がるにつれ、風景から色彩が失われていく。吐く息は白く濁り、摂氏五度前後の鋭利な冷気が、衣服の隙間から忍び込んで体温を容赦なく奪い去る。
肌を刺す風。悴んで感覚を失う指先。地面は凍てつき、歩くたびにジャリッ、ジャリッという乾いた音が響く。
目的地であるマーブル新皇国の首都『ヨーデル』はさらに寒く、雪さえ降るという。
不休の行軍により、仲間たちの足取りは鉛のように重くなっていた。顔には疲労の色が濃く滲み、無言の隊列には荒い呼吸音だけが響く。
ラバァルは足を止めた。
「皆、聞いてくれ」
白い息を吐きながら、彼は振り返った。
「慣れない寒さが堪えているのは分かる。だが、無理をして病気になられては元も子もない。次の村で長めの休憩を取る。体調管理も任務のうちだ」
その言葉に、凍りついていた仲間たちの表情がわずかに緩んだ。
「了解です、ラバァル」
安堵の声が漏れる。以前のラバァルなら、限界まで行軍を強いたかもしれない。だが今の彼には、部下の命を預かる者としての「温かみ」が備わりつつあった。
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一方その頃。
ラバァルたちを追う【灰色影】のアビト率いる本隊は、ようやくルカナンへと足を踏み入れていた。
街は日常の喧騒に包まれている。だが、その裏で死神たちが動き回っていた。
彼らはラバァルたちが残した微かな痕跡――宿の記録、目撃情報、残り香――を執拗に辿った。しかし、糸は途切れていた。すでに獲物は巣を去った後だったのだ。
「……チッ」
アビトは苛立ちを隠さず、石畳をブーツで踏みにじった。
「ラバァルたちがこの周辺に潜伏している可能性は極めて高い。お前達は三人一組になり、路地裏から地下水道まで徹底的に洗え」
彼の目には、焦燥と殺意が渦巻いている。
「ただし、戦闘は避けろ。見つけ次第、必ず知らせを戻せ。奴は……常識で測れる相手ではない」
アビトの脳裏には、ナムたちの無惨で見つかった死体報告が思い出されていた。
街の雑踏の中、灰色影の暗殺者たちは、一般人に紛れ、あるいは影と同化し、血眼になって獲物を探し回った。
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それから更に三日が経過した。
ラバァルたちは国境を越え、ついにマーブル新皇国の首都『ヨーデル』へと足を踏み入れた。
重厚な石造りの城壁を抜けると、そこは別世界だった。石畳の道には馬車が行き交い、異国の言葉と活気が溢れている。だが、空気は骨まで凍みるほどに冷たい。
彼らはまず、拠点の確保に動いた。
いつ終わるとも知れぬ長期任務。限られた軍資金を宿代で食いつぶすわけにはいかない。
彼らが選んだのは、街外れにある廃倉庫だった。
錆びついた扉を開けると、湿った土のカビ臭さと、長年放置された塵埃、そして微かな下水の臭気が鼻をついた。決して快適とは言えない。部下たちは顔をしかめた。
だが、ラバァルは即決した。
「ここにする」
理由は明確だ。人通りが少なく目立たない場所にあること。そして何より、この「悪臭」が人を遠ざける天然の結界になるからだ。
彼は六ヶ月分の家賃を前払いし、契約を済ませた。
拠点は確保した。次は生活環境の整備だ。
ラバァルはルーとマリィを連れ、買い出しのためにヨーデルの繁華街へと繰り出した。
「ルーとマリィを連れてきたのは、生活必需品の選定と……値段交渉を任せたいからだ。男所帯じゃ足元を見られる」
ラバァルの言葉に、マリィは自信満々に胸を張った。
「任せてください、ラバァル。値切り倒してみせますわ」
一方、使徒となり人外の領域に足を突っ込んだルーは、以前と変わらぬ静かな様子で淡々と周囲を観察していた。
そして――家具店でのことだった。
「うおっ!?」
突然、ラバァルが素っ頓狂な声を上げた。
「どうしました、ラバァル?」
ルーとマリィが驚いて駆け寄る。ラバァルは展示されていた木製ベッドの値札を指差して固まっていた。
「……正直に言うと、このベッドの値段に驚いたんだ」
「お高いですか?」
「高いなんてもんじゃない。俺達が今回、命を懸けて受ける報酬全額と、このベッド一台が同じ値段だぞ!?」
ラバァルは店員に向き直った。
「おい、もっと安いのはないのか? あるいはレンタルとか」
店員は困惑した営業スマイルを浮かべた。
「残念ながら……当店は高級家具店ですので」
「……そうか。店を間違えたようだ。大金持ちになったらまた来るよ」
ラバァルは肩をすくめ、店を後にした。
店を出てからも、ラバァルはブツブツと言っていた。
「あのベッド一台分か……俺達の命は」
その横顔を見て、ルーがふと漏らした。
「変わりましたね、ラバァル」
「ん?」
「以前はいつも無関心で、冷たい氷のような雰囲気でした。でも今は……ベッドの値段に熱くなって声を上げるなんて。人間らしくなりました」
ラバァルは苦笑した。
「そうだな。……俺は変わったのかもしれん」
アンラ・マンユとの融合。感情の開放。それは彼に「怒り」だけでなく、「嘆き」や「笑い」をも取り戻させたのだ。
マリィが深いため息をつく。
「予算のことを考えながら生きていくのが、こんなに辛いとは思いませんでしたわ」
「いっそ、何処かの貴族か大商人を襲った方が楽なんじゃないですか?」
ルーが物騒なことをサラリと言う。
「駄目だ」
ラバァルは即座に却下した。
「ここには長く潜伏する。下手に騒ぎを起こせば、本命の任務(テロ工作)に支障が出る。……どうしても金が尽きたら考えるがな」
「分かったわ。でも、ラバァルは考えすぎよ」
「タロットが死んでしまったからな。あいつの分まで、俺が頭を使わなきゃならない」
ラバァルの声に、一瞬だけ沈痛な色が混じった。
「副長の死……残念でした」
「……ああ。だが、いつまでも嘆いてはいられない。奴の仇は、暗殺団エシトン・ブルケリィを壊滅させて償わせる」
ラバァルの瞳に、どす黒い憤怒の炎が揺らめいた。その強烈な感情の奔流に、ルーとマリィは息を呑んだ。
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買い物を続けていた時だった。
ヨーデルの城門近くで、数人の子供たちが走り回っているのが目に入った。薄汚れた服を着た、スラムの子供たちだ。寒空の下、鼻水を垂らしながら元気に遊んでいる。
ラバァルは足を止めた。じっと彼らを見つめる。
「……あいつらは、使えるな」
「えっ?」
マリィが怪訝な顔をする間に、ラバァルは子供たちの輪へと歩み寄った。
「よぉ、お前ら。ここで何して遊んでるんだ?」
屈み込み、視線の高さを合わせる。
「なんだい兄ちゃん。ここで遊んでちゃ悪いんか!」
リーダー格の少年が警戒心を露わにする。
「いや、悪くない。かくれんぼか? 楽しそうだな」
「もちろんだよ! 兄ちゃんもやるかい?」
子供たちの警戒が少し解ける。
「そうだな。いっちょ混ぜてもらおうか。……ただし、ただの遊びじゃつまらない。賭けをしよう」
「賭け?」
子供たちが身を乗り出す。
「俺が鬼をやる。十分以内に全員見つけたら、俺の言うことを一つ聞いてもらう。もし見つけられなかったら……あそこの屋台の綿アメ、全員分ご馳走してやるよ」
彼は屋台を指差した。ピンク色のふわふわした菓子。
「やるぅーっ!」
甘い誘惑に、子供たちは一斉に歓声を上げた。
結果は明白だった。だがラバァルは、わざと時間をかけて探し、ギリギリで「負けて」やった。
十二分後。
約束通り綿アメを頬張り、口の周りをベタベタにした子供たちと、ラバァルは親しげに話し込んでいた。
「うん、分かった。もし、この特徴の大人を見たら、東のボロ倉庫に知らせに来てくれればいいんだね?」
少年が綿アメを舐めながら確認する。
「そうだ。頼めるか?」
「任せてよ兄ちゃん! そんなの楽勝さ!」
「兄ちゃんの頼みなら聞くよ!」
子供たちは砂糖の甘さに酔いしれ、胸を張った。ラバァルは彼らの頭を撫で、満足そうに笑った。
「期待してるぞ。情報を持って来たら、また褒美をやる」
子供たちが去った後、ラバァルはルーたちの元へ戻った。
「強力な諜報員を雇った。さあ、帰ろう」
歩き出しながら、ルーが小声で尋ねた。
「ラバァル……、どうして子供たちを?」
ラバァルは表情から笑みを消し、冷徹な指揮官の顔に戻って答えた。
「理由は三つある」
彼は指を折った。
「一つ、大人は余計な打算が働くが、子供は金や菓子で容易に動く。二つ、彼らは街の隅々まで入り込める」
そこで一拍置き、目を細めた。
「そして三つ目、これが一番重要だが……」
その声には氷のような冷たさが宿っていた。
「暗殺者は、子供を警戒しない」
「……!」
マリィがハッとする。
「プロであればあるほど、ターゲット以外の女、子供、老人を『無害な背景の一部』として認識から除外する傾向がある。アビトたちは、まさか鼻水を垂らしたガキが自分たちを監視しているとは夢にも思わないだろう。……その盲点を突く」
子供たちに優しく綿アメを与えたその手で、彼らを冷酷な捨て駒として盤面に配置したのだ。
優しさと、氷のような合理性。
その二面性に、ルーは改めてラバァルの底知れなさを感じ、背筋を震わせた。
その後、一行は大量の防寒着や工具を買い込み、廃倉庫へと戻った。
それから六日間。
倉庫の中には、槌の音と木材を切る音が響き渡り、急ごしらえの拠点作りが進められた。
外は小雪が舞い散る極寒の世界。だが、彼らの瞳には、来るべき戦いに向けた熱い炎が灯っていた。
静かなる戦争準備が、今、整いつつあった。
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