『グラティア教』の脅威 その8
ようやくルカナンでの仕事も終わりを迎えようとしていたのだが、
そんなラバァルの元に、神が現れ・・・
その41
(前半):狂乱の夜と、無慈悲な矢の雨
ルカナンの夜空が、不気味に赤く染まっていた。
無数の松明の炎が揺れる中央広場から、焦げ付いた油の臭いと、数万の人いきれが混じり合った独特の悪臭が風に乗って漂ってくる。
指示を受けたラバァルの部下たちは、黒装束に身を包み、騒然とした群衆の中を影のようにすり抜けていた。彼らの標的は、群衆を扇動するエミル司祭を中心としたグループだ。
一方、執政官庁舎では、ハイル副指令の下へ次々と急報が飛び込んでいた。
元タートス領を統治するこの場所へ向かい、二万を超える民衆が怒涛のように押し寄せているという知らせは、副指令が予め配置していた見張りにより、かなり早い段階で届いていた。
「二万……!」
報告を聞いたハイル副指令は、険しい表情で腕を組み、呻くように言った。
「ここルカナンで、二万もの民衆を動員できるまでに信者の数を膨らませていたと言うのか!」
傍らに控えるロイド参謀も、信じられないといった面持ちで呟く。
「信じられん……たった十年余りの月日で、ここまで深く浸透するものなのか」
ハイル副指令は苛立ちを隠せない。
「ハイル副指令、今はもう、嘆いていても仕方がありませんよ。それより、押し寄せる民衆をいかがなさるおつもりなのですか?」
ロイドの冷静な問いに、ハイルは小さく息をつき、気を取り直した。
「うむ、すまんなロイド。……そうだな」
「こちらに駐留する兵の数は、現在およそ五千です。残りの兵は元タートス領全体に散らばっており、即応できません。如何いたしましょう」
ロイドの言葉に、ハイル副指令は決然とした表情で頷いた。
「ルカナンにいる全ての兵を呼び出し、応戦させよう。ここに来た者たちに、甘い顔はできん」
「分かりました。……やって来た民衆は、敵とみなして攻撃します」
ロイドは力強く頷いた。躊躇いはない。
「うむ。ラガン王国にたてつくグラティア教信者に、容赦する必要はない」
ハイル副指令の冷酷な命令が下された。
執政官庁舎の前には、瞬く間に鉄壁の陣が敷かれた。ラガン軍兵士五千名が、殺気立った表情で整列する。彼らにとって押し寄せる民衆は、もはや守るべき市民ではなく、排除すべき侵略者だった。
弓兵が矢をつがえ、重装歩兵が槍を構える。
空気は極限まで張り詰め、鎧が擦れる金属音だけが、不気味な静寂を破っていた。
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「グラティア神を称えよ!」
広場から溢れ出した群衆の先頭を進む男が、嗄れた声で叫んだ。
「グラティア神を称えよ!」「グラティア神を称えよ!」
その声は波紋のように広がり、数万の叫びとなって夜気を震わせた。興奮した群衆たちは、熱狂的な叫び声を上げながら、松明を高々と掲げ、足並みを揃えて行進していた。
その勢いに、後続の者たちも飲み込まれるように付いていく。
二万を超えた人々は、強烈な群集心理に支配されていた。「みんながやっているから正しい」「自分たちは巨大な力の一部だ」という高揚感と安心感が、彼らの理性を麻痺させ、無意識のうちに破滅への足を進めさせていた。
その狂乱の中心にいたのは、エミル司祭の部下たちを中心とした、熱心な狂信者たちだ。
そしてその中には、抜け殻のような表情をしたローリーも混じっていた。
彼女は、何か意味の分からない言葉を小さく呟きながら、まるで糸の切れた操り人形のように、ふらふらと群衆の流れに身を任せていた。
彼女の精神は、限界を超えて粉々に砕け散っていた。
自分が信じて尽くしてきたことが、結果として同胞である元タートス民を虐殺の場へと導いてしまった事実。そして何より、愛するレクシアを自らの手で刺し殺してしまったという思い込み。
後悔と怒り、自己嫌悪が入り混じり、常軌を逸したトランス状態へと陥っていた。
もはや自分が何をしているのかも分からない。生ける屍のようにただ動いているだけだ。
だが、そんな彼女を突き動かす、唯一の明確な感情があった。
それは、この狂気の淵へと自分を突き落とした元凶――エミル司祭に向けられた、底知れないほどどす黒い怨念だった。
ローリーは、まるで磁石に吸い寄せられる鉄屑のように、ふらふらとした足取りでエミル司祭へと近づいていった。
その右手には、今もレクシアを刺した時の血が乾いてこびりついたナイフが握られている。
口元からは涎が垂れ、目は虚ろで、見るからに異常な形相をしている。だが、興奮の坩堝と化した群衆の中で、一人の女の異変になど誰も気づかない。
あれよあれよという間に、ローリーはエミル司祭の背後へと肉薄した。
エミル司祭は、群衆の熱狂に酔いしれ、高揚した声で「グラティア神を称えよ!」と連呼している。自分の背後に忍び寄る「死」の気配になど、微塵も気づいていない。
真後ろまで来たローリーは、渾身の力を込めてナイフを振り上げた。
「……ぁ……」
言葉にならない呻きと共に、彼女はナイフをエミルの背中へと深く、深く突き刺した。
ズブりッ!
肉を裂く鈍い音がした。
突然背中に走った焼け付くような激痛に、エミル司祭は悲鳴を上げる間もなく、傷口からどくどくと鮮血が溢れ出すのを感じた。
「ガハッ……なにを……」
振り返ると、そこには憎悪に歪みきったローリーの顔があった。
それはかつての忠実な部下の顔ではない。復讐鬼の顔だった。
ローリーは狂ったように何度も何度もナイフを振り下ろした。
ザシュッ! ズブッ!
容赦ない刺突。
周囲の信者たちは、何が起こったのか理解できず、群衆の圧力に押されて移動していく。
「た……す……け……」
エミル司祭は掠れた声で助けを求めたが、その声は熱狂した群衆のシュプレヒコールにかき消され、人波の底へと沈んでいった。
異変に気づいた少数の者も、雪崩のような人の流れに逆らえず、倒れた司祭に近づくことさえできない。
一方、エミルを刺したローリーもまた、ふらつく足元をもつれさせ、転倒してしまった。
一度地面に倒れれば、そこは地獄だ。
何千もの足が無慈悲に彼女を踏みつけていく。悲鳴を上げる間もなく、彼女の体は折れ、潰れ、あっけなくその命は圧殺された。
そんな混乱の中、ラバァルの部下たちは静かに「仕事」を始めていた。
事前に目星を付けていた扇動者たちに対し、影のように近づくと、躊躇なく急所にナイフや短剣を突き刺していく。
倒れる者には目もくれず、冷酷な能面のような顔で次の獲物へと移動する。
深淵山羊アビスゴートの一人が目撃したのは、刺されて倒れた信者が、次の瞬間には周囲の熱狂した群衆に飲み込まれ、跡形もなく消える光景だった。
前にいた者が倒れても、後ろから押し寄せる圧力には誰も抗えない。倒れた者を踏みつけ、骨を砕きながら前へ進むしかないのだ。
誰かが「刺された!」と叫んでみても、興奮しきった二万の群衆の耳には届かず、ただひたすら死地である執政官庁舎へと押し流されていくばかりだ。
「ラバァル、エミル司祭の周辺にいた者たちの多くは始末しました」
暗がりの中から、部下の低い報告が届く。
「ただ、エミル司祭を殺せたかどうかは、今のところ確認が取れていません」
「そうか。引き続きエミルを見つけ次第、殺せ」
ラバァルは冷酷な声で命じた。
「了解」
部下の声は短く、淀みがなかった。
「くそっ、奴は何処に……奴をやった確実な証拠が必要なのに」
ラバァルは苛立ちを隠せない。
「撤収した部下たちに聞いてみます」
「うむ。何か報告があったら、すぐに知らせてくれ」
ラバァルはまだ知らない。エミル司祭があっけない最期を迎え、ローリーと共に群衆の足元で肉塊と化している事実を。
扇動者たちが次々と消され、群衆の統率は失われていた。
だが、一度火がついた二万人の勢いは質量を持った暴風雨のようで、容易には止まらない。
とうとう、群衆の先頭がルカナン執政官庁舎の前に陣取ったラガン王国軍と接触した。
ヒュンッ! ヒュヒュヒュンッ!
ラガン軍は容赦なく矢を放ち始めた。
雨のように降り注ぐ死の矢。
武器を持たない民衆など、ただの的だ。悲鳴が上がり、阿鼻叫喚の地獄絵図が繰り広げられた。
次に、重装備の歩兵部隊が前進を開始した。彼らは巨大な盾を並べて壁を作り、隙間から槍を繰り出して、押し出されてくる信者たちを機械的に、まるで草刈りのように虐殺し始めた。
前の者たちは必死に逃げようとするが、後ろからあふれてくる二万の圧力に押し戻され、ラガン兵の鋭い刃に自ら串刺しになりに行くしかない。
「あれでは、前の者たちは助からん。どの段階で、我先に逃げ出し始めるか……」
ラバァルは高見から、冷めた目でその惨状を観察していた。感情はない。ただ今後の参考にするための戦術的観察だった。
そうしていると、ラーバンナーが息を切らせて駆け寄ってきた。
「ラバァル! エルトンが、エミル司祭が群衆に踏み潰されるのを見たと言っています!」
遠くの殺戮音を背に、ラーバンナーが叫ぶ。
「なに? それは本当か?」
ラバァルの声に驚きが混じる。
「はい、確かに見たと」
「分かった。エルトンと一緒にその辺りを調査してくれ。証拠が必要だ」
「了解」
ラーバンナーは指示に従い、死体の海と化した広場へと向かっていった。
数時間後。
群衆の大部分が殺戮され、生き残った者たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていた。
エミル司祭の死体を探しに向かったラーバンナーたちは、無数の死体が折り重なる中から、辛うじてエミルの特徴的な首飾りを見つけ出し、持ち帰った。
「体の方は数多くの者に踏みつけられ、原型を留めていませんでしたが、衣服とこの首飾りから、間違いなくエミル司祭だと判断しました。これでどうだ、ラバァル?」
疲労困憊のラーバンナーが差し出す血塗れの首飾り。
「うむ、間違いないだろう。……これで終わったな」
ラバァルは短く告げた。
「これを持って帰ろう」
彼は部下たちに宿へ戻るよう指示を出した。
本来ならすぐに本部へ帰還すべきだが、瀕死の重傷を負ったレクシアを置いていくことはできなかった。半日だけ時間稼ぎをする。
ラーバンナーは疑問に思ったが、ラバァルの決定に深く頷き、仲間たちを連れて撤収していった。
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そんな中、ルカナンでの布教活動が完全に崩壊した瞬間を、白い駿馬に跨がり、静かに見下ろしている者たちがいた。
【死刑執行人】の神人と呼ばれる二人、【ミケロス】と【ジョナサン】だ。
「愚かなエミル司祭の大失態のために、ここまで成長させたルカナン支部を放棄せざるを得なくなってしまったな」
ジョナサンが低い声で問いかける。
「しかし、何者があのような大量殺戮を仕掛けたのだ?」
ミケロスは鼻で笑った。
「お主は何者かの計略だと考えているようだが、あれは自暴自棄になったエミル司祭が、なりふり構わず信者を犠牲に自爆したに過ぎん。それに、アンドレアスはもうグラティア教の信仰を許さんだろう。信者を使い調べることもできん」
「おのれ……神を恐れぬ野人共め」
ジョナサンが怒りを滲ませる。
「いずれ決着をつける時も来よう。その時、ロマノス帝国軍はこの地を通り、ラガン王国を蹂躙することになる。今はマーブル新皇国へ向かい、エンドン司祭に手を貸すのだ」
「そうだな、ミケロス」
二人の神人は、ルカナンから北東へ六百六十キロ離れたマーブル新皇国の首都『ヨーデル』を目指し、夜の闇を裂くように馬を走らせた。
しかし、後に「ルカナンの惨劇」と呼ばれるこの夜には、人外の者たちの姿も現れていた。
肉体が滅び、戦場に漂う無数の魂。それを収穫するためにやって来たのだ。
「人間にしておくには惜しい」
漆黒のローブを纏った異形の存在――【アンラ・マンユ】が、低い声で呟いた。
「気に入りましたか、アンラ・マンユ?」
傍らに立つ、妖艶な女【アエーシュマ】が甘い声で問う。
「そうだな」
「ふふふ、珍しいですわね。あなたがお気になさるなんて」
「奴のことより、お前の役割に集中しろ。こちら側に本体で来ると大量のエネルギーを消費してしまう。得るモノよりも多くなっては本末転倒だ。ここでの時を無駄にするな」
アンラ・マンユの声には、絶対的な威圧感が込められていた。
「分かってる。これだけの量は久しぶりだし」
アエーシュマは死体の山を見て、妖しく舌なめずりをした。
「くっくっく……儂は、あの聖職者たちと遊ぶ方が面白そうじゃ」
背後で不気味な笑い声を上げ、もう一人の神【ドラウグ】が上空へと飛び去っていく。【死刑執行人】の後を追っていったようだ。
「もうドラウグったら、また遊びに行ってしまったわ」
「奴に構うな。いても役に立たん」
アンラ・マンユは冷淡に言い放つと、興味深げな視線を地上の一点――ラバァルのいる方向へと向けた。
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上空の異形など知る由もないラバァルは、戦いが終わり静まり返った執政官庁の病棟にいた。
レクシアが眠る個室だ。
部屋には消毒液と微かな薬草の香りが漂っている。薬が効いているのだろう、穏やかな寝息を立てて眠るレクシアの頬にそっと手を当て、生きている温もりを確かめる。
ほんのり暖かいその感触に、ラバァルは心底安堵し、深く息をついた。
「すまん……起こしてしまったか」
ラバァルの声に、レクシアがゆっくりと瞼を開けた。
「いえ……あなたが居るのを感じて、嬉しく思ったわ」
虚ろながらも優しい瞳。
「そ、そうか……それなら良かった」
「うん」
レクシアは幸せそうに微笑んだ。
ラバァルは、彼女が眠っている間に起こった惨劇――ローリーの死や、二万人の虐殺――については何も語らなかった。今はただ、静かに回復して欲しかったからだ。
短い言葉を交わし、そろそろ帰ろうとしたラバァルの手を、レクシアは名残惜しそうに強く握った。
「明日も、来てくれる?」
「ああ、必ず来る」
約束を交わし、ようやく手が離れた。
ラバァルは静かに病室を後にした。
夜の静寂を切り裂く「人外の戦い」と、精神世界での「悠久の拷問」、そして神との契約。
これらを淡泊な進行ではなく、骨の髄に響くような痛覚と、圧倒的な絶望感を伴う映像的な文章で描き切りました。
(後半):砕け散る刃と、悠久の地獄巡り
夜の帳が完全に下りたルカナン。
人気のない暗い石畳の道を、ラバァルは一人、隠れ家である宿へと急いでいた。
周囲に響くのは、草むらで鳴く虫の声と、遠くで巡回する夜警の重い足音だけ。
だが、その静寂が唐突に歪んだ。
ゾワリ。
うなじの毛が逆立つような、異質な気配。
ラバァルは瞬時に足を止め、戦闘態勢に入った。両手にはすでに愛用の短剣が握られている。
闇の中に目を凝らし、気配の主を探る。
「ほぉ……気配を完全に消した私を感知したか。素晴らしい素質だ」
背後から、低い、だが鼓膜の奥底まで響く声が聞こえた。
「何者だ?」
ラバァルは警戒度を最大に引き上げ、振り返りざまに問う。
そこには、漆黒のローブを纏った人型の「闇」が佇んでいた。
「私の名は【アンラ・マンユ】。死と破壊を司る者だ」
その声には、生物としての格の違いを見せつけるような、絶対的な圧力が宿っていた。
「死と破壊を司る者が、俺に何の用だ? 殺しに来たのか」
ラバァルの声に、隠しきれない敵意が混じる。
「殺しに来たのなら、お前にはその瞬間の記憶さえないだろう。そうではない。交渉に来たのだ」
アンラ・マンユの声には、人間を嘲弄するような響きがあった。
「交渉だと?」
「そうだ。お前には見込みがある。これまでのお前の過去、全て見させてもらった。そして今のお前の戦い方……多くの者を躊躇なく殺すための冷徹な采配、実に美しい」
言葉の一つ一つが、ラバァルの内臓を撫で回すような不快感を伴って響く。
「……」
ラバァルは沈黙したまま、筋肉をバネのように収縮させた。
「そう疑うな。私はこれでも神だ。どこにいようが、死と破壊が行われる場のことは手に取るように分かる」
絶対的な自信。
「神だって……?」
「【ヴェルディ】……お前を見込んで言う。この物質界における、私の『代行者』となれ」
聞き慣れない名と、突拍子もない提案。
「物質界? 代行者になれだと?」
「そうだ。私と契約せよ」
甘美な誘惑の如く、闇が囁く。
だが、ラバァルの答えは決まっていた。
「冗談言うな! お前のことなんて全く知らん! 騙されんぞ、悪魔め!」
叫びと共に、ラバァルは弾かれたように跳躍した。
神速の踏み込み。
右手の短剣が、アンラ・マンユの無防備な首筋へと吸い込まれる。渾身の力を込めた必殺の一撃。
刃先がローブごしに皮膚へ触れた、その瞬間だった。
パァンッ!!
爆発音が響き、ラバァルの手首に強烈な反動が走った。
見れば、鋼鉄製の短剣が、まるでガラス細工のように微塵に砕け散っている。
「なっ……!?」
手応えの消失に驚愕しながらも、ラバァルは止まらない。即座に左手の短剣を逆手に持ち替え、心臓めがけて突き出した。
バギンッ!
鈍い破砕音。
今度もまた、体に触れた瞬間に刃が粉々に弾け飛んだ。欠片が夜空にキラキラと舞う。
「偶然じゃないのか……」
ラバァルが目を見開く。
アンラ・マンユは動いてすらいない。ただそこに「在る」だけで、物理攻撃を拒絶している。
「くっくっく……分かったか、ヴェルディ。人間如きの武器では、私の体に傷をつけることなどできん」
「化け物め……ッ!」
ラバァルはバックステップで距離を取りながら、腰に差していた投擲用ナイフをすべて引き抜いた。
人間離れした速度で腕を振るう。
シュシュシュシュッ!
夜の静寂を切り裂き、五本のナイフが流星となってアンラ・マンユへ殺到する。
カキン、カキン、カキン、カキン、カキン……
虚しい金属音だけが響いた。
ナイフは、アンラ・マンユの皮膚の数ミリ手前で見えない壁に阻まれたかのように弾かれ、無惨に地面へと転がった。傷一つ、服の綻び一つ与えられない。
「くぅ……何て奴だ。本当に神だと言うのか……」
すべての攻撃が無効化された。
ラバァルは即断した。「勝てない」。
ならば逃げるのみ。
彼は一瞬の隙を突き、脱兎のごとく駆け出した。
五歳の時から毎日欠かさず走り続け、鍛え抜かれた脚力が地面を蹴る。常人には視認さえ困難な速度で闇を疾走し、風となってルカナンの市街地を抜け、郊外へと走り続ける。
はぁ、はぁ、はぁ……。
肺が灼けるほど走り、距離を稼いだ。
「ここまでくれば、撒けたはずだ……」
冷たい夜風が火照った体に心地よい。
だが、その安堵は一瞬で氷点下の恐怖へと変わった。
「何を遊んでおる、ヴェルディ。私から逃げおおせるとでも思ったか?」
耳元で囁かれたような近さ。
ラバァルは総毛立ち、慌てて振り返った。
そこに、先程まで数キロ彼方にいたはずのアンラ・マンユが、まるで最初からそこにいたかのように佇んでいた。
息一つ乱さず、衣擦れの音さえ立てずに。
「……」
ラバァルは絶句した。
戦っても勝てない。逃げても追いつかれる。完全なる詰み(チェックメイト)。
彼は逃走を諦め、肩の力を抜いた。
「やれやれだぜ……。それで、代行者とは?」
抵抗を放棄し、諦念混じりに先程の言葉の続きを促す。
「ようやく無駄なことだと悟ったか。賢明だ」
アンラ・マンユが満足げに頷く。
「私の代行者になると言うことは、物質界において、私の代わりに死と破壊を齎す者になれと言うことだ」
「……」
重すぎる言葉に、ラバァルは押しつぶされそうになりながらも沈黙を守る。
「な~に、お前にとって悪い話ではない。私と繋がりを持てば、『力』の一部がお前に現れる。それを使えば良い。ただし……身の丈に合わぬ力に手を出せば、お前の肉体はその力に飲み込まれ、塵と化すだろうがな」
脅しと甘言を同時に囁く神。
「ラバァルよ、我が力を使いこなし、死と破壊を行うのだ」
「力の抑制……その力を使い、死と破壊をやれだと……」
ラバァルは思考を巡らせる。
自身の過去を振り返れば、そこにあるのは常に血の匂いと硝煙、そしてと破壊の連続だった。今所属している暗殺団の任務も、突き詰めれば同じこと。
結局のところ、やることは変わらないのではないか。
「その通りだ、ヴェルディ」
アンラ・マンユが思考を読んだかのように告げる。
「お前は常に死と破壊の中に生きてきた。何か変わったことを求めている訳ではない。これからもお前に降り注ぐであろう死と破壊を、私と『共有』する。そういうことだ」
「共有するだと?」
「そうだ。これからお前の周りで死者となった者の魂を、残らず食らうが良い。その魂エネルギーは、お前と融合した私にも共有されることになる」
「魂を食らえだと……」
常軌を逸した提案に、ラバァルは眉をひそめた。
「くっくっ……私と契約すれば、それらを見ることも、破壊することもできる。もちろん、自分の魂に吸収することだってできるぞ」
邪悪な響き。
「どうせ他に選択肢はないんだろ?」
「その通りだ」
拒否権など最初からない。
「で、具体的にどうやる?」
ラバァルは腹を括った。
「なぁに、今からお前の魂と、私という存在を融合させる。……この融合は、お前が死んでも取り消すことはできんがな」
「死んでも取り消せないだと……」
永遠の呪縛。
「不服か?」
赤い瞳が射抜く。
「呪いの類か?」
「私は神だと言っただろう。人間や悪魔が使う呪いなどとは次元が違う。魂のレベルでの融合だ」
傲慢な宣告。
「融合……。何があっても、絶対離れられないと?」
「知りたいか。まぁ良かろう。先程も言ったが、これに主従関係はない。ただの融合だ。だが、一つだけ取り消す方法はある」
アンラ・マンユが口角を歪めた。
「やる前に教えといてくれ」
「単純なことだ。私より強くなれば良い」
「ん? 待て、さっき言っただろ、力の上下はないと……馬鹿にしているのか?」
「馬鹿にした訳ではない。ただ事実を述べただけだ。私を超えた存在になるしかない……まあ、無理だろうがな」
涼しい顔で言い放つ神。
ラバァルは溜息をついた。
これまでも理不尽な暴力、絶望的な死線をくぐり抜けてきた。今更、神様つきの人生になったところで、死と破壊が日常であることに変わりはない。
「分かった、合意しよう」
「素晴らしい! 良く決心した! 嬉しいぞ、ヴェルディ!」
「その呼び方は辞めてくれ。俺の名はラバァルだ」
「お前がどう思おうが、それは無理だ。その名前は、世界を創造された『全てなるお方』が名付けたのだ。それを消すことは、お前が消えることを意味する」
「……?」
意味が分からない。
「全はそのお方が変化した一部に過ぎん。そしてそれぞれに役目が与えられておる。……だが、ここではラバァルと呼ばれているのか。気にするな、私と話せるのはお前だけだ」
「仕方ないのか……それで?」
「では始めよう」
アンラ・マンユがラバァルの瞳を覗き込む。
ラバァルがコクリと頷いた、その瞬間。
世界が反転した。
アンラ・マンユが闇のように溶け、ラバァルの体内へと侵入してくる。
ズプリッ!!
何者かの極寒の手が、胸郭を突き破って内臓を直接握りしめたような感覚。
「がッ、あァアアアッ!?」
凄まじい激痛。
心臓を鷲掴みにされ、握り潰されるような、原初の苦痛が全身を駆け巡った。
ラバァルは地面に倒れ込み、エビのように体を丸めて悶絶した。
視界がホワイトアウトする。
これは、死だ。
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気づけば、彼はどこにもいない場所にいた。
物質界から意識が剥離し、夢の狭間のような歪んだ空間。
そこでラバァルを待っていたのは、想像を絶する拷問だった。
肉体はない。だが、痛みだけがある。
魂そのものをやすりで削られるような。熱した鉄を流し込まれるような。数千の刃で切り刻まれるような。
そして、終わらない。
死んで、生き返り、また死ぬ。その無限ループ。
一日、一年、十年……いや、百年?
苦痛の中で自我が摩耗していく。自分がラバァルであることさえ忘れ、自分が何者か、ここはどこか、考える力さえ失われていく。
ただ苦痛を受け続けるだけの「器」になり果てる。
底なしの暗闇へ、深く、深く沈んでいく。
物質世界での一瞬、精神世界での万年。
意識の消滅寸前。
深い暗闇の底で、ラバァルの根源にある「何か」が揺らいだ。
それは、幼い頃から受けた虐待、理不尽、大切な人を奪われた喪失。それら全ての経験によって圧縮され、無意識の底に封じ込めていたマグマのような感情。
怒り。憎しみ。怨念。そして生存への渇望。
(俺は……終わらない……!)
ドクンッ!
消えかけた魂の灯火が、爆発的なエネルギーとなって再点火した。
赤黒い炎が、彼の内側から噴出する。
ラバァルは仮想の暗黒空間を、己の意思の力だけでこじ開けた。蜘蛛の巣のように亀裂が走り、砕け散る。
パリーンッ!
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「はぁッ、はぁッ、はぁッ……!」
ラバァルは荒々しい息を吐きながら、現実世界で目を見開いた。
全身汗まみれだ。
だが、先程までの地獄のような苦痛は、嘘のように消え失せている。
彼はゆっくりと立ち上がった。
万単位の時間を地獄で過ごしたはずだが、夜の風景は何一つ変わっていない。
脳が混乱と記憶を統合していく。
目の前には、空気が揺らぐように透けた姿のアンラ・マンユが浮かんでいた。
「良く覚醒した、ヴェルディ。私は信じていたぞ。これでお前と私は融合を果たした」
その声は、心なしか満足げだった。
「……俺を、試したのか?」
ラバァルは低い声で唸った。怒りが滲む。
「試練を受けさせたのだ」
「馬鹿な! 一体どれだけの時間、苦痛と死を味わい続けたと思っている!」
「こちらの時間では、一瞬の出来事に過ぎん。……だが、詫びよう。あれを乗り越えられねば、お前の自我は崩壊し、私に吸収されるだけだったのだ」
神は涼しい顔で告げる。
「全くだ。俺より多くの死を体験した奴は、何処にもいないだろうぜ」
ラバァルは乾いた笑いを漏らした。
「そのお陰で、お前の器は大きく成長した。以前のお前に比べ、私から得られる恩恵も大幅に強化されたぞ」
「どんな力だ?」
ラバァルは警戒しつつも、探るような目を向けた。
「それは、発現しないと分からん。未知なるモノを自分で発見し、使いこなせ、ヴェルディ」
そう言い残すと、アンラ・マンユは幻のように闇へと溶け、消え去った。
残されたラバァルは、夜の静けさの中で一人立ち尽くしていた。
死と破壊の神との融合。
一方的に負債を背負わされたような、釈然としない結末。
だが、精神的に摩耗し尽くしたはずの心は、不思議なほど凪いでいた。体も軽い。
ラバァルは自分の手を見つめ、握りしめた。
(俺は、生き残った)
その事実だけを噛み締め、彼は宿へと足を向けた。
永い永い一日が終わろうとしていた。
最後まで読んでくれありがとう、また続きを見かけたら宜しく。




