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『グラティア教』の脅威 その7

引き続きルカナンでの作戦になります。    

                 その40  



神人の咆哮と、歪んだ鏡像


 その頃。

 エミル司祭は憔悴しきったローリーと共に、聖堂の敷地内にある薄暗い簡素な施設の一室に身を潜めていた。

 聖堂の地下に毒が撒かれたという悪夢のような知らせは、瞬く間にエミルの元へも届いていた。昨日、影武者が執り行った深夜のミサに参加していた数百名の信者たち、そして地下の訓練施設にいた精鋭カスティガトルや神官戦士ミレス・サケルたち。彼らの多くが、見えざる死神の手によって命を落とした。

 現場からは呼吸器系を破壊する強力な毒ガスの痕跡が発見され、地下への立ち入りは厳禁とされた。生存者は皆無という絶望的な報告が、エミルの震える手元に積み上げられていた。


 さらに悪いことに、報復に燃える【死刑執行人】ピエトロ卿が暴走した。

 彼はエミルの制止を完全に無視し、残る二人の執行人と生き残ったカスティガトル全員を引き連れ、独断でルカナン執政官庁舎へと向かってしまったのだ。

 エミルはローリーと今後の対策について話し合った。生き残るための策、それは信者という名の「肉の壁」を作ること。今夜、ルカナン中央広場に臨時の大規模集会を開き、熱狂する信者たちを盾にしてピエトロ卿たちの支援――あるいは自分たちの逃走経路の確保――に利用しようと画策し、側近たちを各地へ走らせていた。


 そして、集会の準備が整いかけた頃。

 急ぎ足で駆けつけた側近により、最悪の一報がもたらされた。

「何だと……アンドレアス将軍の暗殺に失敗したのか!?」

 エミル司祭は、信じられないといった表情で声を震わせた。

「まさか、あのピエトロ卿が……無敵の執行人が、こんなにも早く敗北するだなんて……」


 その時だった。

 ドォンッ!

 扉が開かれた瞬間、室内の気圧が急激に変化し、鼓膜が圧迫されるような重圧が二人を襲った。

 現れたのは、【死刑執行人】の中でも特別な存在――“神人”と呼ばれる男、【ミケロス】だった。

 彼は言葉を発することなく、ゆっくりと室内へ歩み入る。重厚な鎧を纏っていないにも関わらず、その一歩一歩が空間を歪ませるかのような異様なプレッシャーを放っている。

「随分と困っておるようだな、エミル」

 腹の底に響くような低い声。

 エミルは弾かれたように立ち上がり、慌てて上座を空けて下座へ移動すると、床に額を擦り付けるように平伏した。

「こ、これは、【ミケロス】様。お待ちしておりました」

「報告を聞いたぞ。ピエトロが失敗したようだな」

「は、はい……そのようでございます」

「そうだな。それで、お前は何をしていた?」

 ミケロスの声から温度が消える。

「いえ、ですから信者を集め、支援しようと準備を……」

 言い訳をしようとした、その刹那。


「黙れ」


 ミケロスが短く言い放った瞬間だった。

 パリーンッ!!

 言葉に込められた不可視の衝撃波が室内を蹂躙した。すべての窓ガラスが一斉にヒビ割れ、砕け散る。

「ぐあぁッ……!?」

 エミル司祭は両耳を押さえてのた打ち回った。指の隙間から、鮮血がツーと流れ落ちる。ただの声ではない。「音」という名の暴力だ。

「聖堂の地下では多くの信者が死んでおる! 神官戦士も含めてだ! グラティア神にとって、これがどれだけの痛みか、貴様に分かるか!」

 ミケロスが片手を無造作に振るう。

 それだけで、エミルの体は見えない巨人の手に殴られたかのように吹き飛び、壁に激突した。

 ドガッ!

「ひぃぃ……ッ!」

 悲鳴を上げるエミルを、ミケロスはゴミ屑を見る目で見下ろした。

「愚か者め! 貴様はグラティア教徒全体に泥を塗った! 明日、本部に戻るが良い。裁きが待っておる」

 その言葉は、エミルにとって死刑宣告そのものだった。

 口の端から血を流し、這いつくばりながら彼は必死に食い下がった。

「あ、あの、ですが! 今晩、大規模集会を行う予定をしておりまして……!」

「それは構わん。集会はそのまま続行しろ。その後、そのまま本部へ連行する」

 ミケロスは冷徹に告げると、恐怖に凍りつくローリーを一瞥もしないまま、部屋を出て行った。


 残されたエミル司祭は、魂が抜けたように項垂れた。

 ローリーは、自分が全てを捧げて仕えてきた主人が、赤子のように扱われ、無様に転がされている光景を目の当たりにし、思考が停止していた。


 ミケロスが去ると、完全に力を失ったエミル司祭は、亡霊のような顔で呟いた。

「儂はもうダメじゃ……本部に戻れば、上位信徒たちの忠誠心を上げるための格好の生贄にされてしまう」

「生贄……?」

「ああ……生贄の儀式に使われるのだ。上位信徒たちの見ている前で、生きたまま腹を裂かれ、臓器を取り出される。それを信徒たちに回し食わせ、共有するのだ……」

 エミルの言葉に、ローリーの顔が恐怖で歪む。

食人カニバリズム……? それではグールと同じではありませんか!」

「グールなどとは違う! 神聖な行いだと信じられているのだ! 死に逝く者の臓器は、生きる信者たちの糧となり、グラティア神へと捧げられる……!」

 ローリーは生理的な嫌悪感を露わにした。

「そんな……人の臓器を食べるだなんて、気が狂っているわ!」

「かつては儂も、競うように参加し食しておった……。儀式で取り出された温かい臓器を食べれば、神の力の一部を分けていただけると信じておったからじゃ。……しかし、まさか儂自身が喰われる側になるとは……うう、食われたくない……痛いのは嫌じゃ……!」

「な、なんて身勝手な人……」

 ローリーは呆れ果てた。

「そうじゃ。どんなに綺麗事を言う者でも、人間とは本来身勝手なのじゃ。儂は正直なだけマシなのじゃ!」

 開き直ったエミルは、狂気に満ちた目で叫んだ。

「かくなる上は! 私がこれまで集めた信者たちを使って、執政官庁舎へと雪崩れ込ませる! 出来る限りの被害を与えて、その混乱の中で儂は死ぬ! それで教団への面目も立ち、生贄もなくなる! ローリーよ、出来うる限りの信者を集めよ!」

 エミルは自暴自棄に叫んだ。

 ローリーの胸に、冷たい絶望が広がる。

「ですがエミル司祭様! それでは多くの信者たちが……タートスの民たちが殺されてしまいます!」

「ええい! 今更何を言っておる! こういう時こそ、神のお役に立てさせるのだ!」

「そんな! これは生贄になりたくないという、あなたの我儘でしょう!」

 ローリーは初めて声を荒げた。

「そうじゃ! しかし、この行いはグラティア神の役に立つ! ラガン軍に打撃を与えるのだからな! こんな立派な死に方は他にない! 必ずやバルハラに行けるだろう!」


 その瞬間、ローリーの中で何かが壊れた。音のない崩壊だった。

 ようやく、この男の本心が見えた。虐げられた元タートス民の幸福など、初めから欠片も考えていなかったのだ。タートス王家の復興という約束も、全ては嘘。

 騙されていたのだ。自分の人生の全てを懸けた忠誠は、この卑小な老人の保身のために利用されていただけだった。

「……分かりました。では、今夜の準備を手伝ってまいります」

 ローリーは感情を押し殺し、能面のような顔で答えた。

「うむ。その前に、いつものように女性信者を三名、儂の私室へ寄越すのだ。最後にたっぷりと楽しんでおくとしよう。頼んだぞ、ローリー」

 死を前にしてもなお、性欲と支配欲に塗れた命令。

 ローリーは爪が食い込むほど拳を握りしめ、深々と頭を下げてその場を後にした。


 ローリーが出ていくと、一人残されたエミル司祭の恐怖は頂点に達していた。

 生贄。腹を裂かれる痛み。喰われる恐怖。

「嫌じゃ……儂は喰う側じゃ……喰われる側ではない……っ!」

 彼は狂ったように部屋の隅へ這っていき、祭壇の供物入れを漁った。そこにあったのは、儀式用に乾燥させた干し肉のような供物だった。

 エミルはそれを鷲掴みにし、獣のように貪り食い始めた。

「むぐっ、んぐっ……儂は喰う側じゃ! まだこちら側じゃ!」

 老いたあごを動かし、唾液と食べカスを撒き散らしながら咀嚼する。そうでもして「捕食者」としての自分を確認しなければ、発狂しそうだったのだ。その姿は、聖職者とはかけ離れた、老醜そのものだった。


 



 一方、自室に戻ったローリーは、震える手で隠してあった強い酒を取り出し、一気に煽っていた。

 今まで信者に行ってきた数々の悪行。その罪の意識を消すため、彼女の体はアルコールなしではいられない状態になっていた。

 だが、今の絶望は酒でも薄まらない。

 たっぷりと酒を飲み、意識を混濁させながらも、彼女の体は染み付いた義務感に従って動き出した。女性信者など用意する気はなかった。ただ、地獄へ道連れにする信者たちの元へ向かわなければならないという強迫観念だけがあった。

 ふらふらと外へ出る。

 視界の端が歪み、世界が溶けているように見える。かつて自分が騙し、不幸に追いやった人々の亡霊が、路地の影から手招きをしている気がした。


 ローリーは千鳥足で、ルカナン中央広場へと向かって歩き出した。

 しばらくの後。

「ローリー」

 背後から声をかけられた。

 酒の臭いをぷんぷんさせ、絶望のおりをまとった背中がピクリと反応する。

「ローリー、何をしているの、こんな所で」

 声の主はレクシアだった。ラバァルと別れ、親友を決死の覚悟で探しに戻ってきたのだ。

 彼女はローリーの異様な様子――焦点の合わない瞳、乱れた衣服、漂う強烈な酒精――を見て、尋常ではない事態を悟った。


 ローリーはゆっくりと振り返った。

 泥酔と絶望によって歪んだ脳髄が、視覚情報さえも書き換えていく。

 彼女の目には、そこに立っているのが親友のレクシアではなく、顔の歪んだ悪魔のように映っていた。

 かつて自分が守ろうとした無垢な王女の姿はそこにはない。あるのは、自分を裏切り、嘲笑うかのような歪な像だった。

「……あ……ああ……レクシア……」

 掠れた声。

「ローリー、あなた一体……?」

 レクシアが心配そうに近づこうとした、その時。

 ローリーの濁った瞳の中で、レクシアの顔がグニャリと歪み、口元が嘲笑の形に裂けたように見えた。

(『ごめんね、ローリー』)

 耳に届いたはずの謝罪の言葉が、脳内ではおぞましい嘲りに変換される。

(『あなたは無様ね、ローリー。一生騙されて、惨めに死んでいくのよ』)


 ブワッ!

 ローリーの全身から、どす黒い殺気が噴き出した。

(黙れ……黙れッ! 私を笑うな!)

 彼女の手が懐へ滑り込み、隠し持っていた護身用のナイフを引き抜く。

 躊躇いも、迷いもなく。

 彼女は獣のように猛然と突進し、そのまま歪んだ幻覚の胸へと切っ先を突き立てた。

 グサッ……!

 肉を裂く鈍い音と、手に伝わる生温かい感触が、一瞬だけ彼女を正気に戻した。

「っ……!?」

 レクシアは目を見開いた。胸元に熱い痛みが走る。見下ろせば、ローリーの手が握るナイフが、自分の胸に深々と埋まっている。

「ローリー、あなた……」

 信じられないという表情で、親友を見つめる。

 だが、今のローリーにはその驚愕さえも、侮蔑の眼差しにしか見えなかった。

 彼女は血走った目で絶叫した。

「レクシア様! あなたは一体何をなさっていたのですかぁーッ!」

 それは、長年溜め込んできた怒りと嫉妬、そして自分の人生を否定された絶望の爆発だった。

「あなたはタートスの王女なのですよ! その義務を忘れ、若い男と遊びに耽っていたのですか!? ラバァル君ですって!?」

 ローリーはナイフを引き抜き、レクシアを突き飛ばした。鮮血が飛沫となって舞う。

「一体、今、タートスの民がどれだけ苦しんでいるのか、あなたには分かっていないのですかぁーーッ!」

 喉が裂けんばかりの絶叫。

 胸を押さえて崩れ落ちるレクシアに、完全に理性を失ったローリーは、憎悪の言葉を浴びせ続けた。

 そして、吐き捨てるように背を向けると、血濡れのナイフを握りしめたまま、歪んだ世界の中へと独り歩き去っていった。


 残されたレクシアは、冷たい地面に倒れ込み、激痛に顔を歪めながら涙を流していた。

 胸の傷よりも、心が痛かった。

(ローリー……あなたがどれだけタートスのことを思っていたのか、分かっている。ごめんなさい……)

 視界が暗くなっていく。

(でも私は……民よりラバァルを選んだの。許して、ローリー……)

 薄れゆく意識の中で、彼女は誰かの足音を聞いた気がした。


「レクシア! おい! 死ぬな、レクシア!」

 ラバァルだった。血の匂いを嗅ぎつけた獣のような速さで、彼は駆け寄ってきた。

 倒れ伏すレクシア。その胸から溢れる赤を見て、ラバァルの思考が一瞬停止しかけた。

「ラバ……」

 彼女は微かに呟くと、そのまま深い闇へと沈んでいった。


ラバァルは心配する事よりも、一番す早くレクシアの命を助ける方法、 その事に思考を使った。


群衆の「集合精神ハイブマインド」: 個を失い、一つの巨大な生物のように呼吸する二万人の不気味さ、威圧感は、今まで感じたことのない未知のものだった。



(後半):血塗られた掌と、二万の複眼


 ラバァルは、血まみれのレクシアを抱きかかえると、弾かれたように走り出した。

 腕の中に感じる彼女の体温が、恐ろしい速さで失われていく気がする。胸の傷口から溢れる粘り気のある液体が、ラバァルの服を濡らし、生温かい不快感と共に焦燥感を煽り立てる。

「レクシア! おい! 死ぬな、レクシア!」

 ラバァルは叫んだが、その内面は奇妙なほど静まり返っていた。

 悲しみや混乱といった人間らしい感情は、幼き日の虐待と暗殺者としての訓練によって、心の深層で分厚い氷の下に封じ込められている。

 今の彼を支配しているのは、「彼女を死なせては損害だ」という冷徹な計算と、「所有物を傷つけられた」という生物としての本能的な怒りだった。


 彼は先ほど情報を得ていた、ラガン軍の救護兵がいる場所――執政官庁舎へ向かって、全力疾走した。

 肺が焼けつくような痛みを訴えるが、そんなものは無視だ。

 (五歳から毎日欠かさず走り回り、足腰を鍛えていたのは、今日のためだったのか)

 皮肉な運命を感じながら、彼は風を切って石畳を蹴り続けた。


 血塗れの女を抱え、形相を変えて戻ってきたラバァルに、庁舎の門衛たちは一瞬ぎょっとした。だが、彼が先ほど【死刑執行人】を屠った若者だと気づき、無言で道を空けた。

「誰かーッ! 救護班を呼んでくれぇッ!」

 庁舎内に入った瞬間、ラバァルの喉が裂けんばかりの絶叫が響き渡った。

 その声に応じ、兵士たちが即座に反応する。

「こっちだ! 急げ!」

 間もなく救護班が担架を持って到着し、レクシアを乗せて走り出す。彼女はアンドレアス将軍も運ばれた、最深部の集中治療室へと運び込まれていった。


 


 重厚な扉が閉ざされ、治療が始まる。

 ラバァルは、廊下の冷たいベンチに座ることさえできず、檻の中の猛獣のように狭い通路を行ったり来たりしていた。

 廊下には、薬品特有のツンとする消毒液の匂いと、自分自身から発せられる強烈な血の匂いが漂っている。

 彼はふと、自分の両手を見つめた。

 べっとりと赤く染まっている。

 洗面所で洗い流そうとしたが、こびりついた赤色は容易には落ちず、爪の間にまで食い込んでいた。

 水に溶けて薄まる赤を見つめながら、ラバァルの口元に自嘲の笑みが浮かぶ。

(……傑作だな)

 この手は、数え切れないほどの命を奪ってきた「殺し屋の手」だ。つい先刻も、無慈悲に人の命を刈り取ってきた。

 その同じ手が今、誰かの命を救うために祈るように組まれ、震えている。

 殺す手と、救う手。

 その矛盾に、彼の凍りついた心が軋みを上げる。だが、流すべき涙はとうに枯れていた。


 永遠にも思える時間が過ぎた頃、ふいに扉が開いた。

 疲労の色を滲ませた治療師が出てくる。

「……良く担いで来られましたね。もう数分遅れていたら、出血多量で手遅れでした」

 治療師の重い言葉に、ラバァルは息を呑んだ。

「助かった、のか……?」

「ええ。心臓への直撃は避けていました。今は眠っています」

 ラバァルは天を仰ぎ、深く息を吐いた。

 安堵感が全身を駆け巡る。冷え切っていた彼の内側に、微かな温もりが戻ってくるのを感じた。


 しばらくして、ラバァルは病室へ入った。

 包帯を巻かれ、蒼白な顔で眠っていたレクシアが、気配を感じてゆっくりと目を開ける。

「……ラバ……」

 その瞳に生気が宿っているのを確認し、ラバァルは無言で頷いた。言葉はいらなかった。生きている。それだけで「任務」は成功だ。


 


 レクシアの無事を確認したラバァルは、即座に思考を切り替えた。感傷に浸る時間はない。

 彼は同じ病棟の奥にある特別室へと足を運んだ。

 そこには、アンドレアス将軍がいる。

 ノックをして入ると、病室は外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。

 ベッドに横たわるアンドレアス将軍は、全身を包帯で巻かれ、痛々しい姿だった。だが、その眼光だけは衰えておらず、入ってきたラバァルを射抜くように見据えた。


「……来たか、小僧」

 将軍の声は弱々しいが、意識ははっきりしている。

 ラバァルはベッドの脇に立ち、単刀直入に切り出した。

「将軍。これから俺たちが行うことが理由で、もし政治的にラガン王国から攻撃されるようなことがあっても、アンドレアス将軍は俺たちに手を出さないでいてくれますか?」

 将軍の目が細められた。

「『手を出すな』とは、見て見ぬ振りをしろということか? ……それで、これから何をするつもりだ?」

「グラティア教エミル司祭と、その周辺の幹部たちの暗殺です」

 ラバァルは明言した。

 将軍は少し驚いたように眉を上げたが、すぐに低い声で問う。

「そのことでラガン本国が、お前たちを敵と見なすことはないのではないか? 奴らはわしを殺そうとしたテロリスト集団だぞ」

「これを行えば、扇動された信者たちが暴徒化し、この庁舎へ押し寄せる可能性が出てきます。その混乱の責任を、俺たちに問わないで欲しいのです」

 ラバァルの懸念に、アンドレアス将軍は腕を組んで考え込んだ。

「……ふん。既に奴らはここを襲撃し、わしに手傷を負わせた。今更信者が押し寄せたところで、それは奴らの暴挙に過ぎん。お前に責任を負わせるような真似はすまい」

「ありがとうございます。しかし、起こり得る最悪の事態に対し手を打っておくことは、部下たちを死なせないためにも、リーダーとしてやっておくべき俺の責任なのです」

 ラバァルの真剣な眼差しに、将軍は感じ入ったように深く頷いた。

「分かった。……わしは小僧、お前を気に入った。スルーなどと言わず、何かあったら頼って来い。面倒を見てやろう」

 予想外の申し出に、ラバァルは一瞬目を見開いたが、すぐに口元を緩めて頭を下げた。

「感謝します、将軍。ですが、俺たちに関わると将軍の立場が悪くなるかもしれません。その時の状況により、出来る範囲でお願いします」

「ふんっ、生意気な口を。……考え過ぎだ。ま、良かろう」

 将軍は鼻で笑い、続けた。

「それとな、ハイル副指令からだ。お前に礼がしたいと言っておったぞ」

「副指令……ご無事だったのですね」

 ラバァルの声が明るくなる。

「うむ、お前のおかげでな。……訪問してやると喜ぶだろう」

「では、これで失礼します」

「おう、死ぬなよ」

 将軍の力強い言葉に、ラバァルは小さく頷き、病室を後にした。


 


 次はハイル副指令の個室だ。

 コンコン。

「誰だ。……構わん、入れ」

 ラバァルが入室すると、簡易ベッドに身を横たえていたハイルは、その顔をほころばせた。

「おお、来てくれたのか」

「はい。ご無事だと聞き、直接確かめようと思いまして」

「うむ……まさか自陣のド真ん中で敵に襲われるとはな。不覚だったよ。迂闊にも武器なしで敵に接近を許してしまってな」

 ハイルは自嘲気味に笑った。

「俺が見た時は、【死刑執行人】の足元で倒れておられました。あのメイスの一撃を食らっていたら、確実に死んでいましたよ」

「はっはっは、咄嗟に身を投げ出したのと、当たり所が良かったのだろう。骨に異常はなかった、ただの打撲だ」

 ハイルは豪快に笑ってみせたが、その表情にはテロを許した悔しさが滲んでいた。

「安心しました。……では、俺はやることがありますから」

 ラバァルは踵を返そうとした。

 その背中に、ハイルの鋭い声が飛ぶ。

「……やるのか?」

 ラバァルは振り返り、力強く頷いた。

「はい。今夜、大規模な集会が開かれるそうです。そこで全てを終わらせます」

 ハイルの表情が険しく引き締まった。

「分かった。ならばこちらも、ただ座して待つわけにはいかん。また何が起こるか分からんからな」

 医者から絶対安静を命じられていたにも関わらず、ハイルはすぐに部下を呼びつけた。今夜の暴動に備え、庁舎の防衛ラインを固めるためだ。

「ラバァル、無茶はするなよ」

 その言葉を背中で受け止め、ラバァルは戦場となる夜の街へと消えていった。


 


 辺りが完全に闇に包まれた頃。

 ルカナン中央にある「憩いの広場」は、この世ならざる異様な空間へと変貌していた。

 無数の松明が焚かれ、夜空を赤々と焦がしている。パチパチとはぜる炎の音、人々のざわめき、そして汗と興奮、体臭が混じり合った濃厚な臭気が、広場全体に充満している。


 中央に設けられた簡素な木製のお立ち台。そこに立つエミル司祭が、声を張り上げている。

「ラガン王国軍は、我ら元タートスの民を奴隷だと思っている! 税に七〇パーセントもかける国がどこにある! 彼らは我らから富を吸い尽くし、用済みになれば飢え死にさせるつもりなのだ!」

 拡声器もないのに、その声は広場の端までよく通った。憎悪という名の燃料が、民衆の心に火をつけていく。

「そうなる前に! グラティア教の教えに従い、ラガン軍をこの地から追い出そうではないか!」

「おおーーっ!!」

 地鳴りのような歓声が上がる。

「そうだ! ラガンを追い出せ!」

「ルカナンを取り戻せ!」

「グラティア神に栄光あれ!」


 かつてルカナンは人口五十万を誇る大都市だった。しかし十二年前の併合、そして続く圧政により、今や人口は二十万を割っている。

 その心の隙間に入り込んだのが、グラティア教だ。

 彼らは巧みに人々の心に入り込み、「かつての光の女神セティアは無力だ、お前たちを見捨てた」と吹き込んだ。今では、聖堂にそびえていた美しいセティア像は打ち倒され、代わりに異形のグラティア神像が崇められている。

 ごく一部の年寄りたちが、人目を忍んで懐に小さなセティア像を隠し持ち、震えながら祈るだけの街になってしまったのだ。


 そして今夜。

 エミル司祭の狂気に満ちた招集に応じ、信じられない数の人間が集まっていた。

 広場だけでなく、周囲の路地まで人で埋め尽くされている。松明の灯りが照らすのは、どこまでも続く人の波、人の頭、人の腕。

 信者たちに紛れて潜入したラバァルの部下たちも、この圧倒的な物量に顔を青ざめさせていた。

「おいおい、これじゃ身動き一つ取れないぞ」

 人混みをかき分け、ラーバンナーがラバァルの元へ近づいてくる。

「ラバァル! 凄い数です! これ全員が信者なのですか?」

「分からん。だが、こいつらを集めたのは間違いなくグラティア教だ」

 ラバァルは冷徹な目で群衆を見下ろした。

「……この混雑の中で、我々が持つ僅かな毒を使用しても、殆ど効果ありませんよ。せいぜい十数名殺せるかどうかです」

「そうだな。手持ちは僅かだ。限られた毒を有効的に使うには、少し待て。全体を把握できる場所へ移動する」


 二人は人混みを抜け、広場の北側にある古びた屋敷の屋根へとよじ登った。

 高い場所から見下ろすと、その光景は圧巻にして、おぞましいものだった。

 赤黒い炎の下でうごめく数万の群衆。

 ラバァルは一つの異変に気づいた。

 二万人以上いるはずの群衆が、まるで一つの巨大な生き物のように動いているのだ。

 呼吸のタイミング、拳を突き上げるリズム、瞬きの瞬間さえもが、不気味なほどにシンクロしている。

 個人の意思などそこにはない。あるのは「集合精神ハイブマインド」に支配された、二万の頭を持つ怪物だ。

 洗脳の完成形が、そこにあった。


 ラバァルは片目を閉じ、指で小さな四角形を作り、人数を概算した。

「……二万人を超えている」

 これだけの数が暴徒化し、執政官庁舎へとなだれ込めば、軍隊といえどもひとたまりもない。

「奴らの狙いは暴動だ。扇動している中心人物を叩く」

 ラバァルはラーバンナーに指示を出した。

 眼下の群衆の中で、特に声を荒げ、周囲を煽っている数名の男たち――巨大な怪物の『神経節』にあたる者たち――を指差す。

「あいつらだ。毒は使うな。接近して短剣で静かに始末しろ」

「了解しました」

 ラーバンナーが闇に消える。

 ラバァルは一人、より全体を見渡せる南側の高い時計塔の屋根へと、音もなく跳躍した。

 夜風が彼の頬を撫でる。

 その目は、獲物を狙う猛禽のように冷たく澄んでいた。二万の敵を前にしても、彼の凍りついた心拍数は一つも上がっていない。

 祭りの終わりは近い。








最後まで読んで下さりありがとう、また続きを見かけたらよろしく。

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