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『グラティア教』の脅威 その6

今回は、執政官庁内での戦いです。     

                   その39 




冷たい方程式と、血塗られた銀騎士


 執政官庁舎の正門をくぐると、そこには昨夜の喧騒とは異なる、張り詰めた空気が漂っていた。

 ラバァルは、昨日ラーバンナーがハイル副指令に手渡した封筒が、確かに効果を発揮していることを肌で感じ取っていた。本来ならば門前払いされるはずの身分でありながら、警備兵たちは無言で敬礼し、奥へと通したからだ。

 副指令官もまた、ラバァルがもたらす情報に何かを感じ取ったのだろう。多忙を極める公務の合間を縫い、極秘裏に謁見を許可したのだ。


 通されたのは、執務室のさらに奥にある、重厚な扉で閉ざされた無人の応接室だった。

 ラバァルとレクシアは、使い込まれた革張りのソファに腰を下ろし、静かに時を待った。廊下からは、兵士たちが慌ただしく行き交う軍靴の音が、遠雷のように響いてくる。

 やがて、重い扉が開かれた。

 現れたのは、ハイル副指令その人だった。眉間には深い皺が刻まれ、その表情には隠しきれない疲労の色が滲んでいる。彼は中断していた仕事を無理やり切り上げ、この場に駆けつけたのだ。

「何か情報を持って来たと聞いたが、手短に頼む。見ての通り、私は息つく暇もない」

 苛立ちを隠そうともせず、副指令はラバァルの向かいにドカリと腰を下ろした。

「貴重なお時間を頂き、感謝いたします。副指令」

 ラバァルは慇懃に頭を下げると、単刀直入に切り出した。

「早速ですが、グラティア教の信者がラガン軍兵士の中に現れ始めた、その『感染源』についてお話しします」

 そう言って、隣に座るレクシアに視線を送る。


 昨夜のうちに打ち合わせていた通り、レクシアは震える唇を開いた。

 彼女が語ったのは、聖職者という仮面の下で行われていた、あまりに冒涜的な布教の実態だった。肉体を武器とし、快楽を餌に、忠誠心ごと兵士を絡め取る手口。そして、その毒牙が高官にまで向けられようとしていた事実。

 彼女の告白を聞くハイル副指令の顔が、嫌悪に歪んでいく。

「……なんと卑劣な。それが聖職者のやることか」

 吐き捨てるような言葉に、ラバァルは冷静に頷いた。

「早急に対処していただきたい」

「ああ、重要な情報だ。感謝する」

 ハイル副指令は鋭い眼光をラバァルに向けた。

「だが、ただで情報をくれるわけではないのだろう? 見返りは何だ」

「現在我々は、エミル司祭の暗殺を計画しております。目的は、ルカナンにおけるグラティア教の完全な壊滅です」

 副指令が驚愕に目を見開く。

「何だと……それほどの計画を、貴様らだけで担っていたのか!」

「はい。ですが、我々の戦力だけでは対処しきれず、昨晩、やむを得ず『ある物』を使用しました」

「ある物とは?」

「毒です。呼吸器系を麻痺させ、肺を機能不全に陥らせるタイプのものを」

 ごくり。

 何の躊躇いもなく大量殺戮を告白する若者に、ハイル副指令は生唾を飲み込んだ。隣でレクシアの手が、恐怖に震えているのが視界の隅に入った。

「……それで、その毒を使って何をした?」

「聖堂の地下基地で行われていた、真夜中のミサで使用しました」

「規模は?」

「ざっと四百名」

 ガタンッ!

 ハイル副指令は椅子を蹴る勢いで立ち上がりかけた。

「四百名だと!? 信者を四百人も毒殺したというのか!!」

 執務室の空気が凍りつく。だがラバァルは、まるで天気の話題でもするかのように言葉を続けた。

「一番の目的はエミル司祭の排除です。しかし、真の脅威は別にある。この街の『眼』です。民衆に溶け込んだ信者たちは、我々の行動を逐一上層部に通報している。彼らは市民でありながら、監視者であり通報者である、グラティア教のセキュリティそのものなのです」

「むぅ……ここはルカナンだぞ。民衆の中にそこまで多くの信者がいるというのか!」

「います。四百という数字も、氷山の一角に過ぎない」

 ラバァルの言葉に、副指令は呻き声を上げて頭を抱えた。

「それで、次はどうするつもりだ?」

「またミサは行われます。今度は必ず、エミル司祭と周辺の幹部を一掃したい。そのために必要な物があります」

「……何だ?」

「爆発物を融通していただきたい」

 副指令の目が点になった。

「まさか、それを使うつもりなのか?」

「はい。次は毒ではなく、物理的な破壊で確実に仕留めます。もちろん、聖堂ごと」

「無差別に殺すと!?」

「無差別ではありません。癌細胞を摘出する手術です。彼らを放置すれば、いずれルカナンは内側から腐り落ちる。あなたも見たでしょう? ラガン兵が、かつての仲間に剣を向けた光景を。あれが十倍、百倍に増えたらどうなりますか?」

 ラバァルの言葉は、冷たい刃となって副指令の胸に突き刺さった。

「危険な芽は、小さいうちに焼き払う。それが結果的に、最も多くの命を救うことになるのです」


 どう見ても十代の若造だ。だが、その瞳に宿る昏い光と、圧倒的なまでの覚悟が、歴戦の軍人であるハイル副指令をも気圧していた。

 その時だった。

「敵襲! 敵襲ーッ!!」

 廊下から、悲鳴に近い絶叫が飛び込んできた。けたたましい警報音が鳴り響く。

 ハイル副指令は弾かれたように顔を上げた。

「爆発物については……この件が片付いてからだ!」

 そう言い残すと、彼は慌てて部屋を飛び出していった。


 取り残された二人。

 レクシアは蒼白な顔でラバァルを見つめていた。元タートスの民を含む信者たちを、毒と爆薬で虐殺する計画。そのあまりの非情さに、彼女の心は千々に乱れていた。だが同時に、ラバァルの持つ凄絶な覚悟を知り、自分の甘さを突きつけられたようで、反論の言葉が出てこない。


 しばらく待ったが、騒ぎは収まるどころか激化し、副指令も戻らない。

「交渉は失敗だ。計画Bに移行する」

 ラバァルが立ち上がると、レクシアも慌てて続いた。

「待って、私も行きます!」

 通路に出ると、そこは戦場と化していた。走り回る兵士の一人を捕まえて問いただす。

「何があった!?」

「兵士の一人が、【アンドレアス将軍】の執務室で自爆しました! ハッパを使ったテロです!」

(……来たか)

 ラバァルは瞬時に状況を理解した。昨夜の地下虐殺に対する、グラティア教からの報復だ。

 元々ラバァルがここに来た目的の一つは、自分たちが軍と繋がっているように見せかけ、敵の矛先を軍へ向けさせることにあった。

 放たれた矢は見事に着弾した。だが、それが招いた事態は、ラバァルの予測を遥かに超える混沌カオスだった。


 爆発があったとされる将軍の執務室周辺は、黒煙と焦げ臭い火薬の匂い、そして血の匂いで充満していた。

 煙の向こうに、異様な集団が見えた。

 白銀のフルプレートメイルに身を包み、兜のスリットから不気味な息遣いを漏らす男たち。【死刑執行人エクゼキューショナーズ】。

 彼らの足元には、ハイル副指令が無惨な姿で横たわっていた。

 そして奥には、全身血まみれのアンドレアス将軍が、二人の兵士に支えられながら必死に指揮を執っていた。

「何をしている! 敵の数は少ない! さっさと倒さぬか!」

 将軍の怒号が響くが、兵士たちは腰が引けている。

 無理もない。白銀の巨人たちは、巨大なメイスを軽々と振り回し、襲いかかるラガン兵を鎧ごと叩き潰していたのだ。人体がトマトのように弾け飛ぶ音が、断続的に響く。


 敵は白銀の鎧が三名。そして、ラガン兵の軍服を着た信者兵が複数。

 ラバァルは静かにレクシアへ囁いた。

「ここを動くな」

 そして、死地へとゆっくり歩き出した。

「あっ……!」

 レクシアが息を呑む。あんな化け物の群れに、生身で近づくなんて自殺行為だ。


 だが、ラバァルはまず、信者兵に狙いを定めた。

 雑踏に紛れるように自然な歩調で近づき、背後へ回る。気配を消した一瞬の動作で、短剣が急所を貫く。声も上げさせず、死体を崩れ落ちる前に支え、また次の標的へ。

 まるで庭の雑草を刈り取るような手際だった。

 すべての信者兵を音もなく始末すると、ラバァルは一度レクシアの元へ戻った。

「あなたは……本当に暗殺者なのね……」

 レクシアの声が震える。目の前で行われた「作業」のような殺人に、彼の本質を見てしまったからだ。

「そう言っただろう。だが、今の行いで助かった兵士もいる。何もしないのと同じだ」

「何もしないのと、同じ……?」

 独自の倫理観に、レクシアは言葉を失う。


 戦況は悪化していた。三人の【死刑執行人】によって、ラガン兵の死体だけが増えていく。

「おいおい、たった三名に何人やられてんだよ。ラガン兵ってのは案山子かかしの集まりか?」

 ラバァルの挑発的な声が響く。

「くっ、生意気な小僧! 大口を叩くなら、貴様がやってみせろ!」

 アンドレアス将軍が血を吐きながら睨みつける。

「もちろんだ」

 ラバァルは即答した。

「ならどうにかして見せろ!」

「ただではできん」

「……ほう? この土壇場で報酬の要求か。どれだけ厚かましい奴だ」

「命を懸けるんだ。対価は必要だろう」

 至極真っ当な正論に、将軍は一瞬言葉を詰まらせたが、すぐに頷いた。

「分かった。倒せたら、要求を一つ飲んでやる」


 そのやり取りを聞いていた執行人の一人、ピエトロ卿が、兜の奥から憤怒の視線を向けた。

「よくも我らの頭越しに舐めた口を……!」

「別に舐めちゃいねぇよ。ただの商談だ」

「それが舐めていると言うのだッ! 覚悟しろ小僧!」

 ピエトロ卿が、戦車のような勢いで突進してきた。右手の巨大メイスが風を切り、周囲の兵士を吹き飛ばしながら迫る。

「出来るだけ離れていろ」

 レクシアに短く告げると、ラバァルは弾かれたように駆け出した。


 正面衝突。

 に見えたが、ラバァルは衝突の瞬間に身を沈めていた。

 ピエトロ卿のメイスは大振りで威力はあるが、動作が遅い。ラバァルは紙一重で剛撃を躱すと、兜のスリット――視界確保のための僅かな隙間に、隠し持っていた目潰しの粉を吹き付けた。

「ぬ、ぐあああッ!」

 視界を奪われ、ピエトロ卿が片手を顔にやる。その隙を見逃すはずがない。ラバァルは体術を駆使して巨体の軸足を払い、三十キロ近い装備の重量ごと地面に転がした。

 ズガンッ!

 床が揺れるほどの衝撃。

 ラバァルは起き上がろうとするピエトロ卿の背後に回り込み、立ち上がる瞬間に顔面へ蹴りを叩き込む。

 ガシャーン!

 再び転がる鋼鉄の塊。

 重装歩兵にとって、一度転倒することは死に直結する。起き上がるのに時間がかかるからだ。ラバァルはその弱点を冷徹に突き、何度でも蹴り倒した。

「馬鹿な……この私が……こんな小僧に!」

 屈辱にまみれ、ピエトロ卿が半狂乱の雄叫びを上げる。

「この私を誰だと思っている――!」

「ただのウスノロだろ」

 ラバァルは冷たく言い放つと、相手が落とした聖なるメイスを拾い上げた。

「お前の武器だ。返してやるよ」

 そして、フルスイングで兜ごと頭部を殴打した。

 ガゴンッ!!

 嫌な音が響き、兜がひしゃげる。一度、二度、三度。

 ピエトロ卿の手足が痙攣し、やがて動かなくなった。


 ラバァルが止めを刺そうとメイスを振り上げた瞬間、殺気が肌を刺した。

 背後から鋭い風切り音。

 思考より先に体が反応する。ラバァルは跳躍し、空中で体を捻った。鼻先を何かが掠める。手槍だ。

 彼は回転の遠心力を利用してその手槍を空中で掴み取ると、着地もせずに投げ返した。

 ヒュッ!

 信じられない速度でUターンした手槍は、それを投げた別の執行人の脇腹へ、鎧の継ぎ目を縫って深々と突き刺さった。

「ぐ、はっ……!?」

 執行人が口から鮮血を吐き出す。

 動きが止まったその隙を、周囲のラガン兵は見逃さなかった。

「今だ! 殺せぇッ!」

 恐怖が殺意に変わった兵士たちが一斉に群がり、無数の剣を突き立てる。執行人は虫の息となり、鉄屑のように崩れ落ちた。

 残る一人も、数の暴力の前に押し切られ、絶命した。


「やれやれ。少数で来てくれて助かったな」

 ラバァルは血濡れのメイスを放り捨て、肩をすくめた。


 戦闘終了を確認したアンドレアス将軍が、兵士に支えられながら近づいてきた。

「見事だ、小僧! よくやってくれた」

「しかし、派手にやられましたね」

 ラバァルが将軍の傷だらけの体を見る。

「ふん、グラティア教め……ここまでやるとは、我々と全面戦争をする覚悟があるらしい!」

 将軍は血を吐きながらも、殺意に満ちた目で笑った。担架を持ってきた救護兵を「そんな物は要らん!」と怒鳴りつけ、自分の足でよろめきながら去っていく。

「後でわしの所へ来い。約束は守る」


 将軍を見送ったラバァルの元へ、ラーバンナーが駆け寄ってきた。

「ラバァル! エミル司祭が大規模な集会を呼びかけています。場所は中央広場です!」

「なんだと……?」

 ラバァルの表情が曇る。将軍暗殺が失敗した今、なぜ公の場に?

 隣にいたレクシアが、ハッとした顔で言った。

「私、ローリーに会いに行きます」

「は? 危険すぎる。理解できているのか?」

「……ラバァルだって、危険に飛び込んで行きました。私だけが逃げ続けるなんてできません」

 彼女の瞳には、かつてない強い光が宿っていた。

「あなたの行いで、タートスの民が大勢死にます。私は元王女として、それに耐えられない。……でも、私はあなたを……」

 レクシアの瞳が潤む。愛と、正義と、罪悪感。それらが彼女を引き裂こうとしていた。

「ごめんなさい……迷っているんです。あなたと行って良いのかと」

「……それは仕方ない。迷って当然だ」

 ラバァルは優しく言った。その言葉に救われたように、レクシアは微笑んだ。

「ありがとう。私はローリーと決着をつけます」

 彼女は背を向け、聖堂の方角へと走り去っていった。


 その背中が見えなくなるまで見送ったラバァルの顔から、先ほどの優しさが消え失せた。そこにあるのは、冷徹な暗殺者の仮面だけだ。

「ラバァル、エミル司祭の方、どうします?」

「十分に集まったところで、奴と周辺の幹部をまとめて消す。爆発物は手に入らなかった。手持ちの毒とナイフでやるしかない」

「……つまり?」

「無差別に巻き込むことになるかもしれん、ということだ」

 ラバァルは氷のような声で告げた。

 ラーバンナーは息を呑んだ。この男は、目的のためなら罪なき信者の死体の上を歩くことも厭わない。その背中に、一片の情けも感じ取ることができず、ラーバンナーはただ、背筋に冷たい悪寒が走るのを感じていた。













最後まで読んでくれありがとう、また続きを宜しく。 

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