『グラティア教』の脅威 その5
前回の続きです、グラティア教が影で行っていた破廉恥な行い、
自分にもその行為を手伝う事を求めて来たローリーに対しレクシアは・・・
その38
時刻は真夜中。
それは、グラティア教が地下で密かに行う「裏ミサ」の時間であり、タロットの部隊が死の毒ガスを散布する時刻でもあった。
ラバァルは、この部屋という安全地帯で、情報の鍵となるレクシアを確保しつつ、外で行われる殺戮の時を静かに待っていたのだ。
レクシアの部屋を後にしたラバァルが向かった先は、死の静寂に包まれた聖堂だった。
ラーバンナーからの報告に疑いを持ったわけではない。だが、暗殺者としての本能が告げていた。「死体を確認するまで、仕事は終わっていない」と。
聖堂の重い扉をくぐると、腐臭と香が混じり合った独特の空気が鼻をついた。
その薄暗がりから、二つの巨影が音もなく浮かび上がる。【死刑執行人】。全身を分厚いプレートメイルで覆った彼らは、まるで動く鉄の城塞だ。
(……やはり、残っていたか)
ラバァルは内心で舌打ちした。彼らが放つ威圧感は、ただの兵士のそれではない。幾多の命を奪ってきた者特有の、血生臭い気配だ。
静まり返った聖堂に、鎧の擦れる重厚な金属音と、石畳を踏みしめる鈍い振動だけが響く。
逃走ルートを瞬時に検索するが、どの未来予測も「交戦不可避」と弾き出す。ならば、ここで排除するのみ。
二人の執行人が、獲物を追い詰めるように間合いを詰めにかかる。
ラバァルは背後でナイフの柄を握り込むと、予備動作を極限まで消した投擲を行った。銀閃が闇を裂いて飛ぶ。
だが、バナージと呼ばれた男は、飛来する凶器を鋼の手甲で軽々と払い落とした。
キンッ!
硬質な音が響くのと同時、バナージは雄叫びを上げて突進を開始した。
(並の使い手ではない。あの巨体でこの反応速度か)
分析する間もなく、後方ではもう一人の男イベロンが重型ボウガンを構えている。近接と遠距離の同時攻撃。並の戦士ならば数秒で肉塊に変わる状況だ。
しかし、ラバァルの思考は氷のように冷え切っていた。
バナージの大剣が頭上から轟音と共に振り下ろされる。ラバァルは紙一重でそれを躱すと、同時に飛来したボウガンの矢の軌道を完全に見切り、なんと矢の枝部分を素手で掴み取った。
そして、大剣を振り下ろして体勢が低くなっていたバナージの足甲――そのわずかな隙間へ、掴んだ矢の鏃を全力で突き立てた。
「ぬぐぉっ!」
苦悶の声を上げ、巨体が揺らぐ。その刹那、ラバァルの短剣が閃いた。バナージの首筋、鎧の継ぎ目にある動脈を、外科手術のような正確さで抉り抜く。
噴き出す鮮血には目もくれず、ラバァルは既に次の獲物へと疾走していた。
相棒が倒されたことに動揺し、イベロンが次弾の装填にもたつく。その一瞬の隙を見逃すラバァルではない。
死の距離まで肉薄し、慌ててショートソードを抜こうとしたイベロンの手首を蹴り上げる。武器を弾き飛ばされ、体勢が崩れたところへ、ラバァルは体重を乗せた踏みつけを膝関節へ見舞った。
グシャリ。
不快な骨の砕ける音が響き、イベロンが崩れ落ちる。
激痛に顔を歪めながらも立ち上がろうとするが、重すぎる鎧が仇となり、ラバァルの追撃を避けることはできない。顔面への容赦ない蹴りが何度も叩き込まれ、鉄仮面の下から血が滲み出る。
「ま、待て! 助けてくれ! 何でもする!」
かつて多くの者を処刑し、貴族からも恐れられた男が、今や涙と鼻水を垂らして命乞いをしている。
ラバァルはその顔を見下ろし、眉一つ動かさなかった。
「……騒ぐな」
冷徹な一言と共に、短剣がイベロンの眼窩へ深々と突き刺された。
プシュッ……。
生々しい音と共に、男は痙攣し、やがて動かなくなった。ラバァルは二人の死体の頚動脈を念入りに切り裂き、確実な「死」を与えた。これは残虐趣味ではない。戦場における最大のリスク――「敵の生存」をゼロにするための、必要な作業に過ぎない。
障害を排除した彼は、地下へと続く隠し扉の重い石像を動かした。
対毒用のスカーフを口元に巻き、地下階段を降りる。そこは皆同じ修道衣を着用した無数の信者たちの墓場となっていた。
折り重なるように倒れた数百の信者たち。タロットの毒は、慈悲深く、そして平等に彼らに死をもたらしていた。苦悶の表情を浮かべる者、祈りのポーズのまま事切れた者。
その中に、微かに痙攣している男がいた。ラバァルは膝をつき、介抱するふりをして耳元で囁く。
「おい、しっかりしろ。何があった」
「うう……司祭様……ミサを……ラガン兵と寝た女に、裁きを……」
男はそこまで言い残すと、糸が切れたように事切れた。
ラバァルは周囲を見渡し、祭壇の中央で倒れているエミル司祭らしき男の死体を確認した。顔立ちは資料と酷似している。だが、所持品を探ると出てくるのは安物の模造品ばかりだ。
(……影武者か)
ラバァルは即座に結論づけた。本物はまだ生きている。
一方、朝の光が差し込む聖堂の旧館では、レクシアの心が音を立てて砕け散ろうとしていた。
「……えっ? 私が、高級娼婦の真似を……?」
親友であり、共に支え合ってきたローリーからの提案は、あまりに惨く、信じがたいものだった。
「レクシア様、これは亡き祖国のためなのです。ラガン軍の高官を籠絡し、彼らを入信させる。そのために、あなたの美しい体が必要なのです」
ローリーの瞳は、狂信的な光で濁っている。そこにはかつての優しさはない。あるのは目的のためなら友さえ売り渡す、歪んだ正義だけだ。
「嫌……そんなことできない……」
「時間がありません。エミル司祭様も期待しておられます」
拒絶しようとするレクシアの背後で、扉が開いた。入ってきたのは、死んだはずのエミル司祭――その本人だった。
レクシアは恐怖に弾かれたように一礼すると、逃げるように部屋を飛び出した。背後で、エミルがローリーを褒める声が聞こえた気がした。
行き場を失ったレクシアが辿り着いたのは、酒場「ランナウェイ」の前だった。
まだ開店前の静けさの中、彼女はベンチに座り込み、空を見上げていた。
王女としての誇り、修道女としての慎み。それら全てを否定され、汚泥にまみれることを強要される現実。昨夜、ラバァルに抱かれた記憶だけが、唯一の鮮やかな色彩として残っている。
(私にはもう、帰る場所なんてない……)
絶望が涙となって溢れ出しそうになった時、視界に人影が現れた。
「レクシア、待たせたな」
ラバァルだった。戦いの硝煙の匂いを消し去り、いつもの爽やかな笑顔でそこに立っていた。
レクシアは迷わず彼に駆け寄り、その胸に飛び込んだ。
「ラバァル……っ!」
その体は小刻みに震えている。ラバァルは驚きつつも、彼女の背に腕を回し、宥めるようにさすった。その掌の温もりが、冷え切ったレクシアの心を溶かしていく。
開店準備中の薄暗い店内で、レクシアは声を震わせながら事情を話した。ラガン高官への枕営業、ローリーの変貌、そして信者獲得の陰謀。
「なるほど。ラガン兵への浸透工作は、そうやって行われていたのか」
ラバァルは冷静に情報を咀嚼する。彼の中で、点と点が線で繋がった。
「君は、戻るつもりか?」
「……戻りたくない。でも、私にはもう行くあてが……あそこにはローリーもいるし……」
俯くレクシアを見て、ラバァルは瞬時に計算した。
彼女を返せば、敵の手駒として利用されるか、口封じに殺される。逆に手元に置けば、教団内部の情報源として活用できる。
だが、打算だけではない何かが、彼を突き動かした。
彼は、彼女の震える手を自身の大きな手で覆った。
「俺と一緒に来い」
「え……?」
レクシアが顔を上げる。
「問題ない。これからは俺が守る」
その言葉は、冷徹な計算の結果でありながら、同時にラバァル自身も気づかない微かな情動を含んでいた。
レクシアの瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。それは絶望の涙ではなく、救済の涙だった。
「……お願いします。私を連れて行って」
ラバァルが頷くと、周囲の客たちが口笛を吹き、新しいカップルの誕生を祝って杯を掲げた。
隠れ家である安宿に戻ると、ラーバンナーが待っていた。
「おや、お姉さん。また会いましたね」
「こいつとは一緒になることにした。家族のようなものだ」
ラバァルのぶっきらぼうな紹介に、レクシアは恥じらいながらも幸福そうに微笑んだ。
だが、甘い時間は長くは続かない。ラーバンナーの報告が、空気を一変させた。
「ルカナンにはまだ五十名以上の信者兵と神官戦士が潜伏しています。ですが、肝心のエミル司祭の足取りが掴めません」
「やはり隠れたか……」
ラバァルが眉をひそめた時、レクシアがおずおずと口を開いた。
「あの……私、今朝あの方に会いました」
その場の空気が凍りついた。ラバァルが鋭い視線を向ける。
「本当か? どこでだ」
「聖堂の旧館です。ローリーとの話の後、すれ違いました。間違いありません」
ラバァルとラーバンナーは顔を見合わせた。
影武者は死んだ。だが、本物はまだ旧館に潜み、次の策謀を巡らせている。
「……灯台下暗しか」
ラバァルは立ち上がった。その瞳には再び、獲物を狩る冷徹な猛禽の光が宿っていた。
「行くぞ。決着をつける」
最後まで読んでくれありがとう、続きを見かけたらまた宜しく。




