『グラティア教』の脅威 その4
ラバァルたちの潜入は成功した。ラガン王国の心臓部たる執政官庁で、彼らはグラティア教の暗部、カスティガトルたちの非道な行いを白日の下に晒したのだ。だが、安堵の時間は一瞬で終わる。陽動として外にいるはずだったカスティガトルの姿は、忽然と消えていたのだ。タロットたちを安全に逃すための時間稼ぎは失敗。背後に迫るであろう追手の足音を感じながら、ラバァルは新たな一手を探ることを余儀なくされた。追い詰められた状況で、彼は一体どんな策を繰り出すのか――。
その37
夜襲と策謀の果てに
石造りの回廊には、むせ返るような鉄錆の臭気が澱んでいた。
案内役の兵士ブラウンに先導され、ラーバンナーは地下牢へと急ぐ。先ほど連行されたばかりのラバァルを解放するため、ハイル副指令から直々に下された命令書を懐に忍ばせていた。
牢の格子越しに、ブラウンが番兵へ声をかける。
「ハイル副指令の命だ。その男を出してくれ」
番兵は訝しげに眉を寄せたが、上官の名を聞くや否や、無言で腰の鍵束を鳴らした。ガチャリ、と重い金属音が響く。
「……何があったんだ? 上で騒ぎが起きていたようだが」
鍵を回しながら、番兵が声を潜めて尋ねた。ブラウンは苦虫を噛み潰したような顔で、吐き捨てるように答える。
「グラティア教だ。来て間もないというのに、兵士の中に信者が紛れ込んでやがった。ローウェル戦士長を含め三人が殺られたよ。……ここまで血の匂いが降りてくるほどにな」
騒乱が鎮圧された直後の、張り詰めた静寂。兵士たちの瞳には、見えざる隣人への疑心暗鬼と警戒の色が宿っていた。
「お前たちも気をつけろよ。甘い言葉で近づいてくる連中にはな」
その忠告に、ラーバンナーは軽く手を挙げて応じる。
「ご安心を。我が家系は代々、豊穣神シャダーンの一筋ですから。得体の知れないカルトが入り込む隙間などありませんよ」
「ならいい。さっさと連れて行ってくれ」
重厚な鉄扉が開かれると、ラバァルが姿を現した。地下の陰鬱な空気など意に介さず、彼は大仰に背伸びをしてみせる。
三人が庁舎の外へ出た頃には、騒ぎを聞きつけたカスティガトル(断罪官)たちは、引潮のように姿を消していた。
「なんとか間に合ったな」
薄暗い空を見上げ、ラバァルが独りごちる。その横顔には、焦燥も安堵もなく、ただ無機質な事実の確認だけがあった。
「一体、あの封書には何が書いてあったのです?」
ラーバンナーがおそるおそる問うと、ラバァルは平然と言い放った。
「知らん。俺も中身は見ていない」
「……はい? 中身も知らずに渡せと命じたのですか?」
「そうだ。『対処不能な事態に陥った時に渡せ』と命じられていた切り札だ。丁度良い機会だと思って使ってみた」
あまりにあっけらかんとした物言いに、ラーバンナーは絶句した。あの極限状況で、中身の知れぬカードを切ったというのか。
「勘弁してくださいよ……。もし効果がなかったら、どうなっていたんです?」
「こうして今はここにいる。『もしも』という仮定に意味はない」
ラバァルは冷徹に切り捨てた。その判断の速さと、結果のみを重んじる非情さに、ラーバンナーは背筋が薄ら寒くなるのを覚えた。
「それより次の手だ。消えた連中はどこへ向かった?」
「それは……自分たちの拠点へ戻ったのでは?」
「ああ。ならば獲物はタロットたちの網にかかる。俺たちは奴らをここに釘付けにすることには失敗したが、次の手はある。俺はこれより、俺にしかできないことをする」
「あなたにしかできないこと?」
「レクシアの元へ行く」
「今からですか?」
「彼女はエミル司祭と直で繋がっている修道女だ。情報の宝庫だよ」
ラバァルの瞳の奥に、猛禽が獲物を狙う時のような鋭い光が宿る。
「……彼女を利用するおつもりですか」
「グラティア教という沈みゆく船から引き抜いてやるだけだ。結果として利用することになっても、命が助かれば文句はあるまい」
「……言い方は色々ありますね、ラバァル」
ラーバンナーは苦笑するしかなかった。
「お前は皆を酒場『ランナウェイ』に集めろ。タロットたちが使う毒の説明をして、対毒装備で支援に向かうんだ」
「了解した。頼んだぞ」
一人になったラバァルは、庁舎内で仕入れた情報を元に、迷うことなくレクシアの居室へと足を向けた。
手には、道すがら調達した安ワインが一本。彼は躊躇なく扉をノックした。
「……どなた?」
警戒を含んだ声と共に、扉がわずかに開く。隙間から顔を覗かせたレクシアは、訪問者がラバァルだと知るや、驚きに目を見開いた。
「やあ。早速会いに来た」
ラバァルは人好きのする笑みを浮かべ、有無を言わせぬ調子でワインボトルを押し付けると、強引に部屋の中へと滑り込んだ。
「ちょ、ちょっと待って! 中へは入らないで!」
「色々あったからね。君とワインでも飲みたくなってさ。駄目かな?」
勝手知ったる他人の家のように椅子へ腰掛けるラバァル。その強引なペースに毒気を抜かれ、レクシアは降参したように肩を落とした。
「……わかった、わかったわよ。飲みましょう。おつまみ、何か作るわね」
グラスの赤ワインが空になる頃には、ラバァルはレクシアをベッドへと押し倒していた。
抵抗する間もなく、薄い衣服が剥ぎ取られていく。
「待って! ダメよ! そんな……あなたはあんな子供だったのに……」
レクシアの脳裏に、かつて小舟で漂流した記憶が蘇る。あの時、震えていた無垢な少年。それが今、目の前にいる、雄の力強さを備えた男とどうしても重ならない。
「今はもう、大きくなった。問題ないだろう?」
「問題ないって……そんな……ダメ……」
「止められないよ。君の体だって、こんなに正直だ」
ラバァルの囁きと熱い吐息が、レクシアの理性を溶かしていく。
彼にとって、これは情熱的な求愛ではない。暗殺団エシトン・ブルケリィで叩き込まれた、対象の自我を解体し、精神を支配するための冷徹な技術だった。女としての悦びを与え、思考能力を奪い、依存させる。それは拷問よりも甘美な、洗脳への入り口。
「あん……そんなところ……」
拒絶の言葉とは裏腹に、熟練の手管によって彼女の体は熱を帯び、弓なりにしなる。
「……嘘……私、嫌じゃ、ない……」
口をついて出たのは、自分でも信じられない肯定の言葉だった。純粋な驚きと共に、聖職者としての倫理観が音を立てて崩れ落ちていく。
ラバァルはその瞬間を見逃さなかった。
「どうしても嫌なら言ってくれ。……だが今、嫌じゃないと言ったな」
かつての子供のような甘えは微塵もない。そこにあるのは、獲物を追い詰める狩人の冷酷な支配のみ。
レクシアは抗う術を失い、快楽の濁流に飲み込まれていった。ラバァルが施す秘伝の床技術は、彼女の理性を焼き尽くし、ただの雌としての本能だけを浮き彫りにしていく。
幾度も絶頂を迎え、意識が白濁していくレクシアを見下ろしながら、ラバァルは冷静に時計を確認した。
「そろそろだな」
時刻は真夜中。
それは、グラティア教が地下で密かに行う「裏ミサ」の時間であり、タロットの部隊が死の毒ガスを散布する時刻でもあった。
ラバァルは、この部屋という安全地帯で、情報の鍵となるレクシアを確保しつつ、外で行われる殺戮の時を待っていたのだ。
深夜、聖堂周辺。
神官戦士ミレス・サケル率いるカスティガトルと、タロット隊の激しい戦闘が繰り広げられていた。そこへ、ラーバンナーの部隊が背後から奇襲をかけ、挟撃によって敵を殲滅した。
「よく来てくれた」
返り血を浴びたタロットが声をかける。
「ラバァルの指示です」
「奴は?」
「……女性のところへ」
「なんだってぇ? 俺たちが命のやり取りをしている時にか!」
タロットは目を剥いたが、ラーバンナーの真剣な眼差しに、すぐに口をつぐんだ。
「……必要なこと、らしいです」
「チッ、なら仕方ない。俺たちは予定通り、地下への換気口に毒を注入する」
その頃、地下聖堂に潜入していた密偵ルーとバッシュは、異様な光景を目撃していた。
数百人の信者が見守るステージ上で、男の信者が女の信者を激しく殴打していた。血を流し、倒れ込む女。しかし彼女はふらふらと立ち上がると、恍惚とした表情で再び男の前に進み出る。
再びの殴打。容赦のない暴力。
だが、周囲の信者たちは悲鳴を上げるどころか、割れんばかりの拍手を送っていたのだ。地下空間に満ちる狂気的な喝采。
(痛みこそが贖罪……自己犠牲こそが至高の愛、といったところか。狂ってる)
ルーは寒気を感じながら独白した。
「教義の名の下に行われる暴力か。理解できないわね。始めましょ」
ルーの合図で幻覚玉が投げ込まれる。視界が歪み、トランス状態にあった信者たちが奇怪な行動をとり始める中、密偵たちは脱出路を確保し、地上へ合図を送った。
パン、パン。乾いた信号弾の音が夜空に響く。
「情報通りだ。始めるぞ」
タロットの号令で、換気口へ毒の注入が開始された。
注入時は液体だが、数分で無色無臭の気体となり、呼吸器を麻痺させる猛毒。それは地下空間にいる数百の命を、慈悲なく奪う兵器だ。
タロットは、換気口から吸い込まれていく見えない死神の背中を見つめ、一瞬だけ目を閉じた。
(俺たちは人々をカルトから救ったのか、それともただの大量殺人者になったのか……)
その迷いを振り払うように、彼は撤退の指示を出した。
一方、地下で「死の旋律」が奏でられていたその裏で、旧館では別の「生の地獄」が進行していた。
本物のエミル司祭は、ローリーの手引きで集められた新たな女性信者たちに講釈を垂れていた。
彼女たちに与えられた役割――それは「売春工作員」。
ラガン軍の兵士を身体で誘惑し、洗脳部屋へと送り込むための捨て駒だ。
「君たちの尊い献身を、グラティア神は見ていてくださる」
エミル司祭の甘い言葉に、信者たちは陶酔の表情を浮かべる。
会合の後、エミルはローリーの腰を抱き寄せ、低く囁いた。
「もう待てんぞ、ローリー。早くレクシアを説得し、私の寝所へ連れてきなさい。元王女の体なら、ラガン軍の高官もイチコロだ」
ローリーは表情を強張らせた。
「それだけは……もう少し待ってください」
彼女はずっと、レクシアをこの汚れた役目から遠ざけようと、他の女性を犠牲にしてきた。だが、それも限界が近づいている。
エミルが部屋を出て行った後、ローリーは桶の水で自身の体を洗った。
冷たい水が肌を滑る。しかし、どれだけ洗っても、染み付いた背徳感と罪の意識は消えそうになかった。
(私ももう、後戻りはできない。……レクシア、ごめんなさい)
水面に映る自分の顔は、泣いているようにも見えた。
翌朝、空が白み始めた頃。
ラバァルは静かにベッドから起き上がり、服を整えた。
「待って。行っちゃうの?」
シーツにくるまり、レクシアが寂しげに声をかける。
「ああ。俺にはやるべきことがある」
「やるべきことって?」
「それは、聞かない約束だったはずだ」
ラバァルは短く答えると、振り返って微笑んだ。その笑顔は完璧な仮面だった。
「昼飯を一緒にどうだ?」
その一言で、レクシアの表情が花が咲いたように明るくなる。
「嬉しいわ! 私はエミル司祭様に報告があるから、それさえ終われば……」
「じゃあ、昼に酒場ランナウェイで」
「はい、必ず行きます」
部屋を出たラバァルは、背後で閉まるドアの音を聞きながら、冷たい目で回廊を見据えた。
(この高ぶりこそが、彼女を俺に縛り付ける鎖になる。……次は、エミルの生死の確認だ)
彼は一度も振り返ることなく、朝霧の中へと消えていった。
一人残されたレクシアは、自身の肌に残るラバァルの感触を確かめるように抱きしめ、小さく呟いた。
「信じられない……あの幼かった子と私が……」
元王女としてのプライド、聖職者としての戒律。それら全てが一夜にして瓦解し、代わりに「女」としての抗いがたい悦びが彼女を満たしていた。
彼女はまだ知らない。自分が巨大な策謀の渦の中心に立たされていることを。
最後まで読んでくれありがとう。 またつづきを見かけたら宜しく。




