双方に迫る影
その167
鋼鉄の凱歌と、心に落ちた深き影
【王都アンヘイム 王宮 - 謁見の間】
トルーマンが去った後の大ホールは、もはやロスコフ・ワーレンへの羨望、賞賛、そして熱狂の渦に包まれていた。
引きこもりがちだった一人の天才は、この日初めてリバンティン公国の**“英雄”**となったのだ。
興奮冷めやらぬ貴族たちを連れ、一行は王宮の広大な敷地内に設えられた特設闘技場へと舞台を移した。
ゲートの向こうの檻の中では、二つの頭を持つ巨大な虎――A⁺ランクの猛獣**『ツーヘッドタイガー』**が、**グルルル……**と地を這うような唸り声を上げている。
「――さあ、誰から行くんだい?」
ロスコフが騎士たちに問いかけると、**「俺だ!」**と魔導アーマーの右手を高々と上げたのはケルギギスだった。
彼は昨夜の賭けで、見事この栄えある一番手の権利を勝ち取っていたのだ。
ケルギギスが駆る【セントリス】が、総重量300キロを超えるとは思えぬ軽快な足音を立てて闘技場の中央へと進み出る。そのあまりに滑らかな動きに、観客席から「おおっ……!」とどよめきが起こった。
「――それでは試合を開始する! Ready… GO!」
審判員の力強い合図と共に、檻のゲートが**ゴゴゴゴゴ……**と轟音を立てて開かれた!
「グオオオオオオオオッ!!」
解き放たれたツーヘッドタイガーが、一直線に魔導アーマーへと突進する!
ドッッッッッッッ!!!
二つの巨大な質量が、凄まじい衝撃音と共に激しくぶつかり合った!
誰もが魔導アーマーの腕が、あの強靭な牙によって食い千切られると思った、その時だった。
「―――遅い!」
魔導アーマーの内部から、ケルギギスの歓喜に満ちた声が響く!
鋼鉄の拳が虎の口内を抉り、その喉笛を**ブチンッ! ブチンッ!**と容赦なく内側から引き千切ったのだ!
「ぎゃゃぁ~~~~~ッ!」
猛獣の断末魔の絶叫。
そして間髪入れずに抜き放たれた巨大な両手剣が、**ズバッ!**とその巨体をいとも容易く真っ二つに断ち切った。
シーン……。
信じられないほどの静寂が、闘技場を支配した。
やがてその静寂は、一人の貴族の「素晴らしい!」という叫びを皮切りに、地鳴りのような爆発的な歓声へと変わった!
その後も、クーガーが駆る【イグニス】がA⁺ランクの猛獣**『グレートバッファロー』**をまるで熟練の騎手のように乗りこなし、その首を刎ねるという離れ業を見せつける。
そして、ついに最後の戦い。
マスターナイト、ゲーリックが駆る漆黒のカスタム機。
その相手として現れたのは、悪名高き奴隷商【フェドゥス・サンギニス】から王が特別に買い付けたという、A⁺⁺ランク最強の猛獣**『コングチャンピオン』**だった。
予期せぬトラブルで急遽マルコも参戦することになり、二体の魔導アーマーがその巨獣と対峙する。
「ごあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!」
コングチャンピオンの、鼓膜が破れるかのような咆哮。
だがゲーリックとマルコの連携は、それを遥かに上回っていた。
ゲーリックの剣が敵の注意を引きつけ、その隙をマルコの剣が深々と脇腹を貫く!
そして逆上した巨獣の渾身の一撃を、ゲーリックは**ズドンッ!**とその首を刎ねることで完全に沈黙させたのだ。
「「「うおおおおおおおおおおおおっ!!!」」」
闘技場はもはや熱狂の坩堝と化していた。
「勝てる! これなら必ずや、ラガンにも勝てるぞ!」
国王アルフレッドIII世は興奮を隠せず、ロイヤルボックスで満足げに叫んだ。
お披露目会は、大成功のうちに幕を閉じた。
その後の祝賀会でロスコフの周りには、先程までとは打って変わって魔導アーマーを融通してほしいと懇願する貴族たちの長い列ができていた。
その人波が少しだけ途切れた時、ロスコフの元へ懐かしい顔が次々と訪れた。
西部の盟友リズボン・アンドリュー公爵とカール・リッツ侯爵。そして妻アンナの義理の弟であるルシアン・ハルマッタン伯爵。
「ロスコフ殿、見事でしたわ。貴方と貴方のお祖父様の夢、確かにこの目で見届けました」
リズボンの温かい言葉に、ロスコフも自然と笑みがこぼれる。
だがその和やかな雰囲気は、ルシアンが何気なく口にした一言によって凍り付いた。
「姉上もなんだか人が変わられたようです。まるで昔のリーゼ姉様のようで……」
リーゼ。
その、忘れることのできない少女の名。
「そういえば、ルシアン殿。リーゼさんはお元気ですか?」
ロスコフの純粋な問いに、ルシアンは目を丸くした。
「え……? ロスコフ様はご存じなかったのですか?」
「知らなかったとは、一体何が……?」
「―――リーゼ姉さまは、もうとっくの昔に亡くなられましたが……?」
ドクン。
ロスコフの心臓の音が大きく跳ねた。
「な……なんだって……!? リーゼさんが、死んだ……!?」
彼は隣に立つ最愛の妻へ、問い詰めるように視線を向けた。
「アンナ……。アンナは知っていたのかい……?」
「……はい……」
アンナは小さく俯き、その瞳に美しい涙を浮かべながら、絞り出すようにそう答えた。
「どうして……なぜ僕に知らせてくれなかったんだい?」
「……ごめんなさい、ロスコフ様……。あなたを悲しませたくなかったから……。それにリーゼからも生前に、あなたにだけは知らせないでほしいと頼まれて……」
そのあまりに悲しい告白に、ロスコフはそれ以上何も言うことができなかった。
彼はただ、この辛い話を一旦打ち切ることしかできなかったのだ。
こうして魔導アーマーのお披露目会は、リバンティン公国に新たなる希望の光を灯すと同時に、ロスコフ・ワーレンという一人の男の心に、決して消えることのない深い、深い影を落として幕を閉じたのだった。
英雄の祝祭と、秘められた死の衝撃
【お披露目会 数日後 - ワーレン邸】
リーゼの死。
その衝撃的な事実は、ロスコフの心に深い影を落とした。
なぜ、知らせてくれなかったのか。アンナに対する僅かな不信感と怒り。
彼は数日間、自らの書斎に閉じこもり、誰とも顔を合わせようとはしなかった。
だが、ある朝、彼はまるで何かが吹っ切れたかのような穏やかな顔で書斎から出てきた。
そして心配そうに彼を迎えたアンナを、ただ優しく抱きしめた。
「……すまなかったね、アンナ。君を責めるようなことをして」
彼は悟ったのだ。
なぜリーゼが、自分にだけ死を知らせないでほしいと願ったのか。
おそらく、あの活発で太陽のような彼女は、自分が病に蝕まれ弱っていく姿を、楽しい思い出だけを共有した年下の少年に見せたくなかったのだろう。
そしてアンナは、ただその最愛の妹の最後の我儘を守り通しただけなのだ、と。
これ以上この件に触れることは、天国のリーゼと今目の前にいるアンナ、その両方を傷つけることになる。
ロスコフはこの日を境に、二度とリーゼの名を口にすることはなかった。
その言葉にしないあまりに深い優しさと、全てを察する聡明さ。
アンナは改めて自らが愛した男のその魂の気高さに、身も心も震えるほどの恋をした。
(ああ……。この人こそが、私の……私たちの、唯一の王)
彼女はロスコフの胸の中で静かに、そして強く、彼を世界のあらゆる悪意から守り抜くことを改めて誓った。
鋼鉄の盟約と、忘却の底の悲劇
【魔導アーマー工場 - 紋様の刻印室】
ブウウウウウン……。
シギル刻印機の低い駆動音が、神聖な儀式のように静かな部屋に響き渡る。
部屋の中央にはリバンティン中から選び抜かれた屈強な騎士たちが、上半身裸のまま緊張した面持ちで椅子に座っていた。
彼らの背後でその作業を監督しているのは、あの悪夢の呪いから回復したレザリアだった。
彼女の顔にはまだ時折影が差すが、その瞳には秘術師としての揺るぎない光が戻っていた。
「――動くな」
彼女の凛とした声。
刻印機のレーザーの先端が、騎士の広大な背中に触れる。
ジジジジジジジ……!
肉の焼ける僅かな匂いと共に、複雑で巨大なマスターシギルがその背中にタトゥーのように刻み込まれていく。
それは彼らが魔導アーマーという鉄の巨人と魂を交わすための、神聖な契約の証だった。
最初にその印を刻むのは、ロスコフの盟友であるアンドリュー公爵家とリッツ侯爵家から派遣されてきた精鋭の騎士たち。
そしてルクトベルグ公がその目で選び抜いた、王国軍の未来のエースたち。
レザリアは、その光景を静かな目で見つめていた。
(……師匠。必ずお迎えにあがります。この、ロスコフ様が創り出した希望と共に……)
そして彼女の祈りがもうすぐ現実のものとなろうとしていることを、この時のアンヘイムにいる者たちはまだ誰も知らない。
まだ遠い北西の港町ホークテイルでは、エクレア奪還という奇跡を成し遂げたマルティーナたちがアンヘイムへと向かう幌馬車の隊列へと、その身を乗り込もうとしていたのだ。
リバンティン公国に全ての「役者」が再び集結する日は、刻一刻と迫っていた。
鋼鉄の希望と、支配者の鳴らす開戦の警鐘
お披露目会という名の、公開処刑。
トルーマン公爵はアンヘイム郊外にある自らの邸宅に逃げ帰ると、その屈辱に顔を歪ませたまま、ただ一言命じた。
「――南へ帰るぞ。今すぐにだ」
三台の幌馬車が夜陰に紛れ首都を脱出する。まるで敗残兵のように。
一週間後、彼らはリバンティン公国との国境に近いラガン王国の小都市『ホスロー』にたどり着いた。
そこは今やアンヘイム侵攻のための西部方面軍事基地と化していた。土嚢が積まれ物々しい雰囲気の中、第四軍の兵士たちが鋭い視線を光らせている。
「――止まれ! 何者だ!」
検問で、トルーマン一行は槍を突きつけられた。
「……エリサ・ゾンハーグ様に至急お伝えしたい儀がある。道を開けていただきたい」
トルーマンがその身分を隠したまま告げる。
その言葉はすぐに、この地を治める司令官の耳に届いた。
「……リバンティンの貴族が、ゾンハーグ家の名を? 面白い」
現れたのは歴戦の古強者といった風格の男、パタロワ将軍だった。
「何の用だ、リバンティンの犬め。貴様のような輩がエリサ様に何の用件があるというのだ?」
そのあからさまな侮蔑の視線にトルーマンは唇を噛み締め、一つの金貨袋とゾンハーグ家の紋章が刻まれた通行証を差し出してみせた。
「……ふん」パタロワは金貨の重みを確かめるとそれを懐にしまった。「良いだろう、通れ。だが忠告しておくぞ。この先は無法地帯だ。いつ背中から飢えた狼に食われるやも知れん」
その忠告の意味を、トルーマンはまだ理解していなかった。
ラガン王国の、本当の「飢え」を。
悲劇は、ホスローを出て二日後に起きた。
街道を走るトルーマンの幌馬車隊に、どこからともなく現れた野盗の群れが襲い掛かったのだ。
彼らはただの追い剥ぎではない。飢えに駆られた獣そのものだった。
ヒュウウッ、と風を切る矢の雨。甲高い鬨の声。そして数で遥かに上回る野盗たちが、幌馬車の護衛兵たちへと一斉に襲い掛かる。
**ガキンッ!と数度は剣戟の音が響いたが、数の暴力はあまりに絶対的だった。
「ぎゃあああああっ!」
護衛の兵士たちは次々と引きずり下ろされ、武装を解かれ、衣服を剥ぎ取られ、そして“商品”**として手際よく縄で捕縛されていく。
トルーマンはその一部始終を、幌馬車の窓から歯噛みしながら見ていた。
長年自分に仕えてきた忠実な侍従たちの無残な姿。
助けたいというほんの僅かな情が、彼の胸をよぎる。
だがそれ以上に、**自らの命が惜しいという「恐怖」と、ここで死ぬわけにはいかないというラガン王国での己の未来への「執着」**が、その僅かな情をいとも容易く握り潰した。
彼らに何の価値がある?
ここで彼らを助けようとして自分も捕えられれば、全てが終わるのだ。
彼は御者台に座る二人の侍従に向かって、ただ一言獣のように叫んだ。
「―――行けェッ!!」
その仲間を見捨てろという、あまりに冷酷な命令。
御者台に座る年配の侍従とまだ若い侍従は、一瞬だけ互いの顔を見合わせる。
ゴクリと乾いた喉が音を立てる。
その音一つに、彼らの全ての**「恐怖」と「覚悟」**が凝縮されていた。
(―――次は、俺たちだ)
年配の侍従が唇をギリッと血が滲むほどに強く噛み締めた。
そして彼は、背後で響き渡る仲間たちの断末魔の叫び声から無理やり耳を塞ぐように叫んだ。
「―――行けえええええええええええっ!!」
ビシッ! ビシッ!
若い侍従が涙を振り払い、その手に握る鞭を馬たちの尻にこれ以上ないほど強く、強く打ち付けた!
痛みと恐怖に馬たちが狂ったように嘶き、幌馬車は**ガタンッ!**と激しく揺れながら猛烈な速度で加速していく。
その間トルーマンは、幌馬車の窓から身を乗り出すようにして後方の光景をその目に焼き付けていた。
略奪の歓声と、もはや抵抗も虚しく獣の群れに蹂躙されていくかつての仲間たちの最後の叫び声。
彼はその全てを歯噛みしながら、ただ見つめ続けた。
そしてその光景が地平線の向こうへと完全に見えなくなるまで、彼は一度もその場から動かなかった。
【ロット・ノット - ゾンハーグ家 邸宅】
命からがらロット・ノットにたどり着いたトルーマンは、ゾンハーグ家の壮麗な、しかしどこか冷たい屋敷の一室へ通されていた。
彼の前にはエリサ・ゾンハーグが扇子で口元を隠し、値踏みするような目で座っている。
「……それで? 手ぶらで命からがら逃げ帰ってきた、と? 使えぬ男よのう」
エリサの絹のような声には、鋼のような棘があった。
「も、申し訳ございません!」トルーマンは床に頭を擦り付けた。「ですがこの目で確かに見たのです! ヤツらが**『魔導アーマー』と呼ぶ鋼鉄の巨人を!**
その、まるで生きているかのような滑らかな動きは、これまでの我々が知るどんな**“絡繰”**とも全く違います……!」
トルーマンは必死だった。彼はデモンストレーションの戦闘を見る前に退席しているが、彼が見たあの重そうな鉄の塊が騎士のように優雅に敬礼するという常軌を逸した光景だけでも、十分に脅威を伝える材料だった。
(……ワーレン家か。あの豊富な魔晶石の利権を背景に持つ北西の、少々風変わりな侯爵家が、これほどの牙を隠し持っていたとは……!)
彼女の脳裏に、ゾンハーグ家が持つリバンティン公国の貴族リストが瞬時に展開される。
ロスコフ・ワーレン、当主、齢33。特筆すべき軍功も政治的な発言もなく、ただ祖父の代から続く奇妙な「研究」に莫大な金を浪費しているという報告が数行あるだけだ。
エリサはこれまで、その報告をただの地方貴族の道楽と完全に侮っていた。
だがその「道楽」が今、ラガン王国の絶対的な軍事的優位を根底から覆しかねない**本物の「脅威」**として、その姿を現したのだ。
(……見誤っていたか)
エリサの扇子の奥の瞳が、スッと氷のように冷たく細められた。
次の瞬間、彼女の脳裏で思考が加速する。
――鉄の巨人が騎士のように滑らかな動きを見せた、と。
――名は『魔導アーマー』……魔晶石が関係しているのか? 魔力……ゴーレムの類か……?
――そして何より、あの卑しいトルーマンが手柄の一つも立てずに尻尾を巻いて逃げ帰ってきた……。
もしその鉄巨人が本当に実戦投入できるレベルのものであったなら?
そして、あの魔晶石の利権を握るワーレン家が本気でそれを**“量産”**し始めたなら……?
ラガン王国とリバンティン公国との、絶対的であったはずの軍事バランスが根底から覆る、その可能性は……。
ゾクリ。
彼女の長年の政治闘争で研ぎ澄まされた**「危険感知」**の能力が、けたたましく警鐘を鳴らしていた。
時間がない。
敵にこれ以上、時間を与えてはならない。
パチン。
彼女はその手に握る扇子を鋭い音を立てて閉じた。
「―――お下がりなさい」
その声は、先程までの貴婦人のそれとは全く違う。
部屋の空気を一瞬で凍てつかせるほどの冷たい殺気と、絶対的な決意を宿したラガン王国評議会の、真の支配者の声だった。
トルーマンはその豹変ぶりに、ただ蛇に睨まれた蛙のように震え上がることしかできなかった。
開戦前夜:鋼鉄の巨人への恐怖
【ロット・ノット - 評議会】
「―――今すぐに、アンヘイムを攻め落とすべきです!」
ゾンハーグ家の当主、エリサの甲高い声が、評議会の議場に響き渡った。
彼女は、トルーマンというリバンティン公国の南部を治める公爵を配下に置いていた、その**「密偵」**から得た信憑性の高い情報を自らの言葉として、そしてその脅威を最大限に増幅させて語り始めた。
「先日、アンヘイムで開かれた奴らの技術展示会……その席で、リバンティン公国は恐るべき**“切り札”を、出してきました!**」
エリサは、芝居がかった身振りで続けた。
「奴らはそれを**『魔導アーマー』**と呼んでおります! 鋼鉄の巨人が、まるで生身の騎士のように優雅に、そして滑らかに動くのです!」
エリサはそこで一度言葉を切ると、議場にいる武骨な将軍たちへと挑むような視線を向けた。
「……考えてもご覧なさい。もしその鋼鉄の巨人が、我らが誇る**重装歩兵団の“壁”**に突撃してきたら? 我らの兵士たちの槍や剣は、果たしてその分厚い鋼鉄の装甲を貫くことができるのでしょうか?」
彼女の声が、静まり返った議場に響き渡る。
「……あるいは逆に、その巨人が我らの騎馬隊と同じ速度で戦場を駆け巡り始めたら? どんな名馬も、その鋼鉄の質量の前では赤子の手をひねるように薙ぎ払われるだけでしょう」
それは具体的な戦術を語っているようで、その実、聴衆の脳裏に最も効果的に絶望的な光景を植え付ける、完璧な心理話術だった。
魔導アーマーは、ラガン王国軍の**「壁(歩兵)」を崩し、「矛(騎馬隊)」を砕く**。つまり、前線を完全に蹂躙する力を持っているのだ、と。
「……前線が崩壊すれば、その後方にいる我らの攻城兵器部隊や指揮官たちがどうなるか。……もはや申し上げるまでも、ありますまい」
そのあまりに衝撃的な報告に、議場は騒然となった。
ラバァルが不在のため代理で出席していたベルコンスタンは、その報告を冷静に、しかし深い関心を持って聞いていた。
(……鋼鉄の巨人。そんな物が本当にあるのなら、我が主なら間違いなく興味を持たれるだろうな)
だが、今は感心している場合ではない。
ベルコンスタンの冷徹な頭脳が、即座に計算を弾き出す。
(……もしその報告が真実であるならば。そして、その兵器が量産可能であるならば……。時間を与えれば与えるほど、我がラガン王国が不利になることは明白)
彼は、決断した。
「……ヴェルミナス環は、ゾンハーグ家の提案に賛成いたします」
その一言が、全てを決めた。
既に代替わりしたスタート・ベルグ家のミゲルも、ベスウォール家も、今やこの評議会で最も発言力を持つベルコンスタンの判断に、異を唱えることはない。
―――可決。
ラガン王国のリバンティン侵攻が、正式に決定された瞬間だった。
トルーマンという一人の敗残者がもたらした凶報が、ついに二つの国を後戻りのできない全面戦争の泥沼へと引きずり込んだのだ。
王の愉悦と、払えぬ影
【同日夜 - ロット・ノット 王宮】
評議会が熱狂と、そして開戦への決意と共にその幕を閉じた後、国王ラ・ムーンVI世は自らの私室で祝杯を上げていた。
「……ククク……ハハハハハ! 見事だ! 実に見事だぞ、エリサ!」
王はゴブレットに満たされた血のように赤いワインを一気に呷った。
父の代より、いや祖父の代よりラ・ムーン王家が渇望し続けたリバンティン公国への本格的な侵攻。その大義名分と評議会の承認を、あの老獪な女狐が見事に、もぎ取ってきたのだ。
彼は、その火付け役となったエリサをこれ以上ないほどに高く評価した。
だが、その愉悦の只中で、一つの拭いきれない**“染み”**が彼の心を苛んでいた。
ヴェルミナス環。そして、その未だに顔さえ見せぬ謎の主、ラバァル。
「……ドブネズミめ……!」
評議会というこの国の最高意思決定の場に、主君自らは出席せず、ベルコンスタンなどという得体の知れない部下を代理としてよこす。
そのあまりに傲慢で王家を軽んじた振る舞いに、ラ・ムーンVI世のプライドは深く傷つけられていた。
だが、もはや王の権威をもってしても、あの男をどうすることもできない。
エリサ・ゾンハーグでさえ、あの男の名が出るとあからさまに顔を曇らせ、その話題を避ける始末。
かつて最も信頼していたはずの宰相アルメドラは、あの男の手によって政治犯収容施設サイオンの最も暗い独房へと送り込まれ、今やその生死さえも定かではないのだ。
(……下手にあの男を刺激すれば、その牙はいつか、この玉座にまで向けられるやもしれん……)
そして何よりも、王家が陰ながら信仰する古き神の一柱、あのアエーシュマ様がこうお告げになられたのだ。
『―――あの男には、関わるな』と。
一体、あの男には何があるというのか。
ラ・ムーンVI世は、その底知れない恐怖を思考の奥へと無理やり押し込めた。
今は考える時ではない。今は、勝利の美酒に酔う時だ。
「……そうだ。エリサを呼べ」
王は侍従に命じた。「今宵、ささやかな祝宴を開く、と。……彼女からの、さらなる“嬉しい知らせ”を期待している、とな」
彼は全てを、あの有能な女狐に任せることにした。
ラバァルという不気味な影から目を逸らすように。
そして、これから始まる輝かしいはずの戦争の、その先に待つ本当の結末から、目を逸らすように。
集結の狼煙
評議会での決定は、瞬く間にラガン王国全土を駆け巡った。
それは長きにわたるリバンティン公国との冷戦の終わりと、熱い血を流す戦争の始まりを告げる狼煙だった。
そして、その狼煙に最初に呼応したのは、西部国境に展開する王国最強の矛、三個軍団だった。
ゴゴゴゴゴゴゴ……。
これまでそれぞれの駐屯地で牙を研いでいた兵士たちが、一つの目的地を目指し、その重い足取りを進め始める。
目指すは、小都市ホスロー。パタロワ将軍率いる第4軍が駐留する、この侵攻作戦における最前線基地。
ガタガタガタガタ……!
街道は、鉄と汗、そして土煙の匂いに満ちていた。
その中でもひときわ異彩を放っていたのは、ヘーゲンス将軍率いる第三軍の隊列だった。
かつて彼らの後ろ盾であったはずのデュラーン家の紋章は、どこにも見当たらない。
その代わりに彼らの掲げる旗には、ただ漆黒の不気味な蛇の紋様が描かれているだけだった。
主を失い、ロット・ノットの新たな闇の王【ヴェルミナス環】に、その魂ごと飲み込まれた沈黙の軍団。
彼らの隊列の最後尾からは、巨大な車輪が地を軋ませる重々しい音が響いてくる。
それは熟練の工兵たちが解体して運び込む、巨大な攻城兵器――**『投石機』**の部品だった。その城壁さえも粉砕するという巨大な木製の腕が、不気味な影を道に落としていた。
ザッ……ザッ……ザッ……。
寸分の乱れもない行軍の足音。
ヴェルミナス環の支援を受けるという謎多きディートフリート将軍の第五軍。
その先頭を行くのは、陽光を鈍く反射する分厚い鉄の鎧に身を包んだ重装歩兵団だ。彼らが森のように掲げる長さ5メートルにも及ぶ長槍の穂先が、まるでこれから始まる血の収穫を待ちわびるかのように、キラリと光る。
その両翼を固めるのはラガン軍の中核、ロングソードと巨大な盾を構えた屈強な兵士たち。
そして彼らの動きを援護するように、比較的軽装な射手と**弩兵**の部隊が、常に周囲への警戒を怠らない。
小都市ホスローは、もはやその原型を留めていなかった。
数日のうちに街の周囲には無数のテントが、まるで巨大なキノコのように次々と設営されていく。
**カン! カン! カン!**と野戦鍛冶が剣を打つ音。
**「酒だ! 酒を持ってこい!」**という兵士たちの荒々しい声。
そしてこれから始まる戦いへの恐怖と、それを上回る血への渇望が入り混じった異様な熱気が、街全体を陽炎のように包み込んでいた。
数万、十数万、そして最終的には20万にまで膨れ上がる、鋼鉄の津波。
その津波は今、ホスローという小さな器にその身を溜め込み、ただ一つの命令を待っていた。
北へ――。
あの豊かな、そしてまだ本当の戦争を知らないリバンティン公国を、飲み干せ、と。
その運命の命令が、下される日を。
開戦前夜の肖像
【ロット・ノット 新市街 - ゴールデン・グレイン商会】
「――急げ、急げ! 陽が暮れる前に、全て積み込んでしまえ!」
ロット・ノットの新市街にあるゴールデン・グレイン商会の広大な私有地は、熱気と土埃、そして金儲けの匂いに満ち満ちていた。
ガタガタガタ……!
数十台もの頑丈な幌馬車がずらりと並び、屈強な人夫たちが汗だくになりながら小麦や塩漬け肉の入った重い麻袋を次々と荷台へと放り込んでいく。
その光景を商会の主、マルティン・グレインは満面の笑みを浮かべて見下ろしていた。
戦争。それはある者にとっては悲劇だが、彼のような商人にとってはまたとない**「商機」**だった。
「いいか、お前たち! その荷は、ラガン王国の未来のためその命を投げ出して戦ってくださる勇猛なる兵士様方の大切な食料だ! 丁寧に、しかし迅速に積み込みなさい!」
彼の腹の底から響くような声が、活気ある仕事場にさらに油を注ぐ。
目的地は、北西の最前線基地ホスロー。
この荷が金貨の山となって彼の金庫に返ってくる日を想像し、マルティンの笑いは止まらなかった。
【ロット・ノット 旧市街スラム - 南地区】
一方、スラムの南地区でも多くの荷馬車が列をなしていた。
だが、そこに漂う空気は新市街のそれとは全く異なっていた。
ここは戦争景気に浮かれる場所ではない。これから始まる長い冬に備える、静かで、しかし切実な場所だった。
「――次の荷は第三倉庫へ。ジャガイモの袋は慎重に運びなさい。傷がついたらすぐに腐ってしまうわ」
指示を飛ばしているのはデサイアだった。
かつてはアビスゴートの一員として裏社会の経理を担っていた彼女。今やこのヴェルミナス環が管理する広大なスラム地区全体の食料備蓄と配給を担う最高責任者となっていた。
彼女の采配一つで、このスラムに住む数十万もの民の命が決まってしまう。
荷馬車から下ろされていくのは、ヴェルミナスが直接管理する農地から集められた大量の食料。
それは戦場へ送られるものではない。
戦争が始まり物流が滞り、食料の値段が高騰した時、このスラムの民が飢えることのないようにするための**「命の砦」**だった。
デサイアの冷徹なまでの的確な指示の下、その砦は着実にその備えを積み上げていた。
【ロット・ノット - 王都守護庁】
カリカリ……カリカリ……。
王都守護庁の一室には、ラナーシャのペンが羊皮紙を走る音だけが静かに響いていた。
戦争はもう間もなくだ。
その巨大な嵐を前に、街の小さな犯罪の種は鳴りを潜めていた。おかげでここ数日の守護庁は、珍しいほどの平穏に包まれていた。
彼女は溜まっていた報告書を一枚、また一枚と片付けていく。
だが時折、その手がふと止まる。
そして無意識のうちにその手が、自らのまだそれほど目立ってはいないが、しかし確かな膨らみを帯び始めた腹部を優しく撫でていた。
その表情は王都守護庁の冷徹な隊長のものではない。
ただその身に宿る新たなる命を愛おしむ、一人の**「母」**の顔だった。
(……この子も、あの子たちのように元気に育ってくれるだろうか……)
彼女の脳裏に、夫のあの不器用な笑顔と、そして家で待つ二人の幼い子供たちの無邪気な寝顔が浮かんでいた。
このささやかな幸福を守るためならば。
彼女は再び剣を取ることを、少しも躊躇いはしないだろう。
たとえ、その腹に新たなる命を宿していたとしても。
ロット・ノットの三つの場所。三つの日常。
その全てが間もなく、戦争という名の巨大な炎に飲み込まれようとしていることを、まだ誰も本当の意味では理解していなかった。
運命の日
【開戦当日 - 首都アンヘイム 政務院】
その一枚の羊皮紙が政務院の重苦しい会議室にもたらされたのは、冷たい雨がアンヘイムの石畳を濡らす陰鬱な午後のことだった。
それはエイゼン率いる『特別調査室』が、その卓越した諜報網を駆使してラガン王国領内から命懸けで持ち帰った一枚の偵察報告書。
「―――間違いない。ホスローに集結しつつあります」
エイゼンの静かな、しかしその場にいる全ての者の心臓を鷲掴みにするかのような重い声が響き渡った。
「ラガン王国西部方面軍。第三軍、第四軍、第五軍。その全てが今、ホスローを拠点としてアンヘイム侵攻のための最終準備段階に入っている、と」
その報告に『公』であるホフラン・ルクトベルクの顔から血の気が引いた。
「……数は」
「……推定、20万」
シーン……。
会議室を墓場のような絶対的な沈黙が支配した。
20万。
それはリバンティン公国が国中の兵士をかき集めても、到底及ばない絶望的な数字だった。
「……ついに、来たか」
誰かが呻くように呟いた。
これまで噂として憶測として語られてきた「開戦」という言葉が、今、否定しようのない「現実」となって彼らの喉元に冷たい刃を突きつけていた。
その日の夜、ロスコフの工房にもその凶報は届けられた。
ノベルは報告を聞きながら、ただ自らが数ヶ月前に弾き出した、あのシミュレーションの結果を指でなぞっていた。
『――最も確率の高い兵力……総勢、20万』
そのあまりに正確すぎた予測に、彼は自嘲するように息を吐いた。
「……ロスコフ様」
ゲーリックが静かな、しかし覚悟を決めた目で主に問いかけた。
「……我らの出番は、いつに?」
ロスコフは何も答えなかった。
ただ、工房に並ぶ完成したばかりの鋼鉄の巨人たちを一体一体、その目に焼き付けるように見つめているだけだった。
彼の子供の頃からの「夢」が今、初めて本物の「死」の匂いを纏おうとしていた。
リバンティン公国は知ったのだ。
もう後戻りはできない。外交も駆け引きも、もはや意味をなさない。
ただ来るべき圧倒的な暴力の奔流を、その身をもって受け止めるしかないのだと。
その運命の日まで、あと、三日。
アンヘイムの空はまるで、これから流されるであろうおびただしい血の色を予感しているかのように、不気味なほど赤く燃えていた。
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