律恩の宗主vs
その166
最終楽章:律の創主と、女神の覚醒
【恩寵塔 最上層 - 天空の牢獄】
中層での血を吐くような死闘を終え、一行がたどり着いた最上層は、もはや“塔”と呼べる代物ではなかった。黒曜石の床が果てしなく広がり、頭上には本物の星々が、まるで誰かの不吉な瞳のように瞬いている。空間は凍りつくような静寂に包まれていたが、その空気の密度は異常なほどで、息をするだけで肺が軋むようだった。
そして、その中央に設えられた祭壇の上──それは安置されていた。絶対零度の蒼い光を放つ、巨大な氷の結晶。『永久氷獄コキュートス』。その周囲には霜の刃が空間を裂くように浮遊し、黒曜石の床に触れるたび、微細な亀裂が走る。目には見えぬが、魂の存在そのものを拒絶するような強力な結界が、氷塊の周囲に張り巡らされていた。
「……エクレア様……」マルティーナの唇から、絞り出すような悲痛な声が漏れる。だが、足は一歩も踏み出せない。結界は、器の存在そのものを拒んでいた。無力感が、彼女の心を深く抉る。
「……埒が明かん」ついにゲオリクが動いた。その巨躯を覆う拳に、灼熱のオーラが瞬く間に纏われる。「―――破ッ!!」
ズウウウウウウウウウウンッ!!!塔全体が激しく揺れるほどの衝撃が走り、埃が天井からパラパラと舞い落ちる。しかし、結界は揺らぎさえしなかった。「……!?」ゲオリクの顔に、初めて明確な驚愕の色が浮かぶ。それは、己の力を絶対と信じてきた“闘神”が、初めて理不尽な壁に直面した戸惑いだった。
「無駄骨だ、“闘神”──」空間の律そのものを震わせるような声が、どこからともなく響いた。「その結界は、儂が刻んだ“律”ですら破れなんだ。それ以上の力を掛ければ、中の者は“器”ごとチリに還るぞ──」
空間の奥行きが反転し、祭壇の背後に漆黒の裂け目が生じる。そこから、一人の男が滑るように現れた。【律恩の創主/魂契の源霊】──「五芒星」の一角。彼の足元には、空間の震源が静かに集束していた。
「……貴様が今回の黒幕か」ゲオリクが【スカイブレイカー】を顕現させながら問うた。「黒幕か。面白い」律恩の創主は楽しそうに、だがどこか見下すような目で言う。「儂はただ歪んだものを正しき形に“調律”しているに過ぎんよ。……さて」
彼が指を鳴らすよりも早く、シャナの槍先とロゼッタの剣先から放たれる闘気が、彼の張った結界の“律”に触れ、バチバチと小さな火花を散らす。
「……ほう。なるほど、これらが**“雑音”**か。しかし此処から先の余興にはちと役不足」そう呟くと、律恩の創主はパチンと指を鳴らした。途端、空間に黒い亀裂が走り、シャナ、リバック、ロゼッタの三人はその裂け目へと吸い込まれ、姿を消してしまったのだ。
それを見たマルティーナが、たまらず叫ぶ。「シャナ!」その声には、仲間を喪った痛みと、自身の無力さに対する絶望が滲んでいた。
「案ずるな。少しの間別の“次元”で遊んでいてもらうだけだ」律恩の創主は、マルティーナの心の動揺など気にも留めない様子で冷酷に言い放つ。
残されたのはマルティーナとゲオリクの二人だけだった。「さあ始めようか、古き神の残骸よ」律恩の創主が光で編まれた巨大な天秤を顕現させる。「お前の“力”と儂の“律”。どちらがこの世界の真理に相応しいか……決着をつけようではないか」
**ゴオオオオオオッ!**とゲオリクの闘気が爆発した!それは、静かに燃え盛る怒りの炎だった。
最初に動いたのはゲオリクだった。神速の踏み込みから放たれるスカイブレイカーの一撃。それは山脈さえも両断する、純粋な“力”の奔流だった。だが、律恩の創主は動かない。その天秤がスッとゲオリクの眼前に滑り込み、斬撃を受け止めるのではなく、その“力”という概念そのものを“計量”し、無に還した。キィン、と澄んだ音だけが響き、ゲオリクの一撃は虚空に消える。
ゲオリクの眉がわずかに動く。力任せでは通用しない。彼は即座に戦術を切り替える。今度は力ではない。剣が持つ権能そのもの、空間を断ち切る一閃を放つ!だが律恩の創主は、ただ静かに片手を横に振るだけだった。『ここでは、空間は断裂しない』。まるで世界の法則がそう宣言したかのように、ゲオリクの斬撃は創主の手前で掻き消えた。
ゲオリクは悟った。小細工は通用しない。ならば、と。闘神は、その存在そのものを、一つの巨大な質量と化し、一切の躊躇なく突貫した!
ズガアアアアアアアアンッ!!!スカイブレイカーの斬撃と天秤が、今度こそ正面から激突する!神速の斬撃の応酬が始まり、その衝撃だけで塔の最上層の壁がガラスのように砕け散り、眼下には遠くスタンハーペンの街並みが、まるで箱庭のように広がった。
戦いは拮抗しているかに見えた。だが、マルティーナは見てしまったのだ。ゲオリクの神々しい肉体に、その壮絶な打ち合いのたびに微かな亀裂が走っているのを。それを見た彼女の心臓が、恐怖で冷え切る。(……駄目……! このままではゲオリク様が……!)彼女の無力感が、再び胸を締め付ける。
その時、律恩の創主の冷たい視線がマルティーナを捉えた。「―――まずは、お前からだ、女神の紛い物め」光の天秤がゲオリクの猛攻を弾き返し、その矛先をマルティーナへと向けた!「『律違反の断罪』」
「マルティーナッ!!」ゲオリクの絶叫が響く。だが間に合わない。光の奔流が、彼女へと迫る。
(……ああ。これが、私の終わり……)マルティーナは静かに死を覚悟した。諦念が、意識を深く沈ませる。だがその魂の最も深い場所。彼女が誰にも明かさず、ひそやかに封じ込めていた一つの**“夢”**が、消滅の瀬戸際で鮮やかに姿を現した。――暖かな陽光が差す庭先。屈託なく笑う彼の顔。その腕の中の赤ん坊。そして、隣で微笑む自分自身の姿。それは、ごく平凡で、しかし彼女にとって何よりも尊い、人間らしい幸福の光景だった。
(……まだ、終われない)――この夢ひかりを、諦めるわけにはいかない……!その言葉にさえならなかった魂の叫び。それは、理屈を超えた、生への執着だった。
それが引き金だった。彼女の身体から凄まじい黄金の光の奔流が噴き出したのだ!
「―――その行いは、“律”に反する」その声はもはや、か弱きマルティーナのものではなかった。より気高く、神々しい女神の声。――だがその黄金の瞳の奥には、変わらずあの“夢”を、人間らしい幸福を掴もうとするマルティーナの確固たる意志が宿っていた。それが、彼女をただの器ではない、真の「半神」たらしめていた。
断罪の光が黄金の光に飲み込まれ霧散していく。光の中心でマルティーナの姿が変容していく。髪は白銀に輝き、瞳は黄金の光を宿し、背中からは巨大な純白の光の翼が広がっていた。第二段階“半神化”による律光領域(Sanctum Lucentia)の覚醒だった。
「……何……だと……?」律恩の創主の顔に初めて明確な動揺の色が浮かんだ。それは、彼が設定した世界の「律」を、根底から覆す異物への驚きだった。
覚醒したマルティーナ(セティア)はただその黄金の瞳で創主を見つめる。「―――この空間の“律”は、私が書き換えます」
キィィィィィィィン……!彼女の言葉に呼応し、創主が刻んだ空間の法則そのものに亀裂が走る。ゲオリクは足元の重力がねじ曲がり、光と影が一瞬逆転する悍ましい感覚に襲われた。
「……律が、応じた……?」創主の声が震え、空間が軋む。「この器……“女神”の枠を超えている……これは、再定義の兆し──震源の誕生だ」
その動揺の一瞬の隙。それこそが、ゲオリクが命を賭して待ち望んでいた唯一の好機だった。
「―――セェヤーーーーーーッ!!」**闘神の渾身の一撃。その瞬間、彼の肉体を走っていた亀裂が強く発光し、皮膚の下から黄金の闘気の炎が噴き出した!それは、己の全てを賭けた男の、最後の輝きだった。**スカイブレイカーが次元そのものを断ち切る蒼い閃光となって、律恩の創主のその心臓を確かに貫いていた。
「ぐ……おおおおおおおおっ!」だが律恩の創主は消滅しなかった。その身体は光の粒子となりながらも、自ら開いた空間の裂け目へと静かに撤退していく。裂け目に吸い込まれる直前、彼は光の天秤を固く握り締め、その縁に小さな白い光の楔を打ち込んだ。それは、敗北を認めつつも、次への布石を打つ、狡猾な策士の顔だった。
「……くっ、ぬかったわ。しかし理解した」次元の彼方からその声だけが響いてきた。「……“写し身”の覚醒による一時的な“律”の上書き。そして過剰適合した“闘神”という名のイレギュラー。……見事な一撃だった」彼の声にはもはや傲慢な響きはなかった。諦念と、新たな脅威への認識が混じり合う。「――だが忘れるな。世界の“理”は我らの元にある。次はないぞ、女神の分身よ」
その声が消え去った時、後に残されたのは、絶対的な静寂だった。**覚醒したマルティーナはまだ黄金の光を放ち続けていた。彼女の視線は空間の中央に安置された『永久氷獄』に静かに注がれる。その蒼い氷塊は彼女の律光領域の祝福を受け、その表面から微かに、しかし確かに白い湯気を立ち上らせ始めていた。それは、かすかな希望の息吹だった。**そしてその彼女の前に、闘神ゲオリクが静かに膝をついていた。疲労困憊の体で、しかしその表情には、達成感と、主への敬意が深く刻まれていた。
氷獄からの脱出
次元の裂け目が完全に閉じ、恩寵塔の最上層には、まるで全てが終わったかのような絶対的な静寂が戻ってきた。
フウウウウウウ……。覚醒したマルティーナの身体から、黄金のオーラが潮が引くように収まっていく。その頭の中では、世界の理を書き換える女神の冷徹な声と、あの方との暖かな庭先の夢が、まるで嵐の後の波のように、一瞬交錯した。(……私は、どちらを望むのだろうか……)その問いは、力の反動による激しい頭痛と、鉛のように重い疲労感にかき消された。彼女は、まだ人間としての自分と、女神としての自分との間で揺れ動いている。
消耗しきった身体を支えきれず、その場に崩れ落ちそうになったマルティーナ。スッ……。その華奢な身体を、ゲオリクの岩のような腕が優しく支えた。その手には、先ほどの激戦の荒々しさは微塵もない。「……感謝、します……ゲオリク様……」マルティーナの掠れた声に、深い安堵が滲む。
「……見事であった、我が主よ」ゲオリクの低い声には、確かな労いと、誇らしさが込められていた。
二人の視線が祭壇の中央、未だに蒼い光を放ち続ける氷の結晶へと向けられた。「……エクレア様……!」マルティーナが衝動的に駆け寄ろうとするが、ゲオリクがその肩を静かに押さえた。「ならぬ。まだあの結界は生きている」その言葉には、確かな経験と、主を守る者の冷静な判断があった。
その言葉を証明するかのように、床に再び空間の裂け目が開き、そこからシャナ、リバック、ロゼッタの三人が、まるでゴミのように吐き出されるように転がり出てきた。「ぐっ……! ここは……!?」次元の狭間での辛酸を舐めさせられたような苦悶の声が漏れる。
最初に動いたのはシャナだった。「マルティーナ様! ご無事で……!?」彼女はそこで言葉を失った。マルティーナの身から放たれる、かすかな黄金のオーラ。その神々しさに、彼女は畏敬の念を抱かずにはいられなかった。
「ええ、シャナ。私は大丈夫です」マルティーナの言葉には、まだ微かな疲労の色が残っていたが、その瞳には確かな意志が宿っていた。
やがてリバックとロゼッタも状況を把握した。律恩の創主の姿がないこと、そして目の前の氷塊。「……あの化け物は……どうなったのです?」リバックの声には、疲労と同時に、敵への警戒がまだ残っていた。
「……退けました。ですが、エクレア様は、まだ……」マルティーナの声に、安堵と、新たな使命感が混じり合う。その言葉を聞き、リバックは改めてその氷塊を睨みつけた。彼は氷塊へと慎重に歩み寄り、そのスパイクシールドを結界へとズンッと押し当ててみる。バチチチチチチッ!激しい火花が散り、リバックの巨体が見えない壁に押し返された。「……くそっ! やはり駄目か!」彼の苛立ちと、限界への焦りが募る。
その時、ゲオリクが静かに氷塊へと歩み寄った。**(……この結界を破るには、己の理性を振り切るほどの純粋な“力”を解放するしかない……だが、その代償は……)**彼はその巨大な両の手で氷塊そのものをそっと包み込むように触れた。「―――ぬんっ」低く唸り、決意を固める。
ゴゴゴゴゴゴ……!ゲオリクの身体がミシミシと音を立て、さらに巨大化していく!身長が3メートルを超え、4メートルに迫ろうかという、まさに「神」のサイズへと。その光景にシャナは息を呑んだ。岩盤のように隆起した彼の腕の筋肉が、まるで光り輝く神の鎧のように見えたのだ。それは、己の身を削ってでも、主の願いを叶えようとする忠義の現れだった。
ギギギギギ……!結界が悲鳴を上げる。だがゲオリクはその抵抗を、純粋な「力」だけで無理やりねじ伏せていく。
バキイイイイイイイインッ!!!ついに結界がガラスのように砕け散った!そしてゲオリクはエクレアを包む氷塊そのものを祭壇から**ズシンッ!**と引き剥がしたのだ。「……行くぞ」彼はその巨大な氷塊を軽々と肩に担ぎ上げた。その背中には、かすかな疲労と、しかし揺るぎない決意が宿っていた。
塔からの脱出は時間との戦いだった。主を失ったとはいえ、内部には未だに無数のミレス・サケルや成り果てどもが蠢いていた。
「―――道を開けろ!」リバックの盾が全ての攻撃を受け止め、敵の壁を粉砕する!だが彼は短く喘いだ。その盾には無数の斬り傷と呪詛の痕が刻まれている。限界を超えて戦い続ける彼の肉体には、確かな疲労が見て取れた。
「―――風よ、薙ぎ払え!」ロゼッタの烈風剣が竜巻となって追っ手を吹き飛ばす!しかしその竜巻も塔の壁を削り取るほどの抵抗を受け、彼女の額には汗が滲む。歯を食いしばり、痛みに耐えるその姿は、一人の戦士としての限界を迎えつつあった。
「―――貫け!」そしてシャナの槍がその竜巻の中心を一筋の赤い閃光となって貫いていく!彼女の瞳には、マルティーナを守り抜くという強い意志が宿っていた。
やがて一行はボロボロになりながらも、ついに塔の光り輝く正面玄関へと転がり出た。彼らの体は傷つき、疲労困憊であったが、その瞳には、仲間を救い出した確かな喜びと、次なる旅路への決意が宿っていた。
女傑の段取り
深夜のスタンハーペン。一行は建物の影から影へと息を殺しながら、アイリーンの待つ宿屋を目指す。ゲオリクが氷塊を担いだまま音もなく屋根から屋根へと跳躍し、その後をシャナたちが滑るように続く。時折、布で覆われた氷塊から漏れ出る微かな蒼い光と、周囲の空気をじんわりと温めるほどの湯気が、彼らの奇跡的な戦果と、その過酷な道のりを物語っていた。
やがて一行はアイリーンがランプの灯りを一つだけ灯して待つ、あの裏路地の宿屋の裏口へとその身を滑り込ませた。
バタン……。裏口の扉が閉ざされた瞬間、張り詰めていた緊張の糸がプツリと切れ、シャナもリバックもロゼッタもその場にずるずるとへたり込んだ。極度の疲労と安堵が、彼らの体を一気に蝕む。
「―――お帰り、あんたたち」厨房の奥からランプを手に女主人アイリーンが姿を現した。彼女は眠らずに、ずっと彼らの帰りを心配し、待ち続けていたのだ。
彼女の視線は、一行のボロボロの姿と、ゲオリクが静かに床に降ろした巨大な氷塊を交互に見つめていた。その瞳には、もはや訝しむ色は一切ない。代わりに宿っていたのは、驚愕と心の底からの**「感謝」と「賞賛」の光だった。それは、これまで数々の修羅場を潜り抜けてきた女傑が、初めて心から感銘を受けた瞬間の表情だった。**「……何か分からないけど、やってくれたようだね。あの忌々しい“塔”で」
彼女は震える手でマルティーナの手を固く握りしめた。「……ありがとう。本当にありがとう、お嬢ちゃんたち。あんたたちは、私たちが誰一人として成し遂げられなかったことを、やってのけてくれたんだ」彼女の目から、それまで張り詰めていた心が解き放たれるように、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは、長年の苦しみと、叶えられた願いへの純粋な感動の涙だった。
「……さあ。こんな夜更けにろくなものはないけどね」彼女は涙を乱暴に拭うと、厨房の暖炉に再び火を入れた。「冷えただろう。温かいスープでも作ってやるよ」この女傑は、この瞬間に自らの全てを賭けてでも、この「英雄」たちを無事にこの国から脱出させることを心に誓ったのだ。その決意は、熱いスープの湯気のように、宿屋の空間を満たした。
そして夜。アイリーンは旅の携行食を差し出し、きっぱりと言った。「――今夜、出発しな。幌馬車は一台用意した。北門の外、ノルアーク港へと続く街道の森の中に待機させてある」彼女の言葉には、一切の躊躇がない。
「……しかし、どうやって警備を……」シャナの問いに、アイリーンはニヤリと笑った。「北門の今夜の警備隊長は**“話の分かる”**男なのさ。……まあ、昔ちょっとした“貸し”があってね」その目には、長年生きてきた人間の、知恵と狡猾さが宿っていた。
深夜、一行は再び闇の中へと身を投じた。ゲオリクが布で覆った巨大な氷塊を慎重に担ぎ上げている。
やがて北門が見えてきた。隊長らしき男が**「止まれ!」と鋭い声を上げた。その声には、建前としての厳しさと、しかしどこか人間的な揺らぎが感じられた。**マルティーナが一歩前に出る。フードを目深に被りながら、震える声で合言葉を囁いた。「……アロヘロナ……」
その言葉を聞いた瞬間、隊長の険しかった表情が僅かに揺らいだ。それは、過去の記憶が呼び起こされた証だった。(――命懸けで守り抜くと誓った、あの夜の約束か)彼の脳裏には、忘れかけていた人間的な義理と人情が蘇る。マルティーナは続ける。「……アイリーンより、ことづかって参りました」
隊長はしばらく黙っていた。その沈黙は、葛藤と、しかし最終的な決断の証だった。やがて深いため息をつくと、部下たちに顎をしゃくった。「―――よし、通せ」
「た、隊長!?」部下たちの驚きの声が上がる。
「いいから通すんだ! ……今夜は妙に霧が深い。……俺の目には何も見えんかった。……いいな?」その有無を言わせぬ声には、部下を巻き込むことへの人間的な配慮と、しかし決意が込められていた。兵士たちは不承不承ながらも道を開ける。一行は深く頭を下げると、足早に門の外、夜の闇の中へと姿を消していった。
ノルアーク港へと続く街道沿いの森の中。そこには一台の頑丈な幌馬車が静かに彼らを待っていた。御者が手綱を一度だけ鳴らすと、幌馬車はゴトゴトとゆっくりと、しかし着実に北へと動き始めた。
スタンハーペンからの脱出。それはあまりに多くの、名も知らぬ人々の善意と覚悟によって成し遂げられた奇跡だった。彼らは再び海を目指す。故郷ではない、リバンティン公国という新たな「帰る場所」へと。そこには、ただの目的ではなく、未来への希望が待っている。
お披露目会の前夜
【ロスコフ33歳、半ば - 首都アンヘイム】
その年の秋、首都アンヘイムの空気は、まるで火薬庫のように張り詰めていた。南から連日のように届く悲惨な報せ。ラガン王国の傭兵団【ブラッドレイン】による非人道的な蹂躙は、トルーマン公爵領の村々を焼き払い、難民の波はついに首都の城壁にまで押し寄せようとしていた。城壁の外からは、難民たちの微かな泣き声や、不安を煽るように城門を叩く音が、貴族たちの夜会のワイングラスの音や敗北主義的な囁きに混じって聞こえてくる。
貴族たちの夜会ではもはや華やかな話題などどこにもない。「……もはやこれまでではないか」「ラガン王国相手に我らのような小国が勝てるはずがない」敗戦の色濃い囁きは、沈みゆく船の船底から響く不吉な軋み音のようだった。
そんな沈みゆく船のような絶望の中に、一つのあまりに都合の良い噂が流れ始めていた。「―――聞いているか? 王家が密かに恐るべき新兵器を開発させているらしい」「ああ。『魔導アーマー』。鋼鉄の巨人が人の魂と共鳴し、神の如き力を振るう、と」それは、溺れる者が藁をも掴むような、最後の希望だった。
その噂の真偽を確かべく、そして最後の希望に賭けるべく、国王主催の「新兵器技術展示会」――事実上の魔導アーマーお披露目会には、リバンティン公国のほぼ全ての有力貴族たちがアンヘイムへと集結していた。彼らの顔には、疑念と期待、そして一縷の望みが入り混じっていた。
【お披露目会 前夜 - ワーレン邸 地下工房】
キィィィィィィン……。工房には、シギルを刻み込む最後の仕上げの音だけが、静かに、そして神聖な響きを帯びていた。明日、その姿を世界に現す五体の【セントリス】と十体の【イグニス】。その鋼鉄の身体は一点の曇りもなく磨き上げられ、まるで新たな生命の誕生を待つかのように、静かに出番を待っている。
その光景をロスコフはどこか夢見るような表情で見つめていた。彼の視線の奥には、3年前、あの公爵との契約から始まった狂気的なプロジェクトの全てがフラッシュバックする。数多の失敗、裏切り、そしてかけがえのない仲間たちとの出会い。その全てが、まるで血と汗の結晶のように、今、この十五体の鉄の巨人となって結実しようとしていた。それは、一人の天才が、人生の全てを賭けて成し遂げようとしている「夢」の到達点だった。
「……ロスコフ様」声をかけたのは、隣で作業を終えたノベルだった。「……いよいよですな」その声には、期待と、しかしどこか緊張が混じっていた。
「ええ」ロスコフは頷いた。彼の表情には、高揚感と、しかし同時に重い責任感が宿っていた。「明日、彼らはただの発明品ではなくなります。……良くも悪くもこの国の運命を左右する**“兵器”**として産声を上げる」彼の言葉には、自らが創り出したものが持つ、光と影の両面を理解している者の重みが感じられた。
その言葉にラージンが静かに付け加えた。「……そして我らもまた、ただの研究者ではいられなくなりますな」そう。明日を境にもう後戻りはできない。彼らはその発明品と共に、戦争という巨大な奔流の最前線へと、自らの意思で身を投じることになるのだ。それは、研究者としての純粋な探究心を捨て、人間として、この国の運命を背負う覚悟を意味していた。
鋼鉄の披露宴
【王都アンヘイム 王宮 - 謁見の間】
「一体何をしておるのだ、ワーレン侯爵はッ!」
王宮の広大な謁見の間の一室。リバンティン公国の行政の頂点に立つ『公』ホフラン・ルクトベルグ公爵は、苛立ちと冷や汗で上質な衣装が肌に張り付くのを感じていた。
眼下の広間では王が招集したリバンティン中の有力貴族たちが固唾を飲んで「その時」を待っている。だが主役であるはずの男と切り札であるはずの「それ」は、予定時刻を大幅に過ぎてもまだ姿を現さない。
【同時刻 - ワーレン侯爵邸】
その頃、全ての元凶であるロスコフ・ワーレン侯爵は、獣のような熱情の渦中にいた。
「あっん……もう、だめぇ……ん……」
アンナの甘く蕩けるような声が静かな寝室に響き渡る。
お披露目会のために用意されたズボンの生地がどうにも肌に合わず妻を探していたロスコフは、トイレから出てきたアンナのほんのり赤らんだ頬と甘い香りに、最後の理性の糸がぷつりと切れてしまったのだ。
(……今だけは、世界の運命も兵器の重圧も全て、アンナの中に溶かしてしまいたい)
極度の重圧からの逃避にも似たその衝動が、彼を突き動かしていた。
彼がその欲望の全てを解放し終えた頃、邸宅の外では完全武装の騎士たちと魔導アーマーたちが、最早諦観の境地でその主を待っていた。
「……聞こえましたか、エスター様」侍女長のモーレイヌが顔を真っ赤にしながら囁く。
「……聞こえなかったことにするのです、モーレイヌ」
エスターは鉄仮面のような表情を一切崩さなかったが、そのこめかみには一本の青筋がピクリと浮かんでいた。
鋼鉄の披露宴
【王都アンヘイム 王宮 - 謁見の間】
「一体何をしておるのだ、ワーレン侯爵はッ!」王宮の広大な謁見の間の一室に、『公』ホフラン・ルクトベルグ公爵の苛立ちに満ちた声が響き渡った。冷や汗で上質な衣装が肌に張り付く不快感が、彼の焦燥をさらに募らせる。眼下の広間では、王が招集したリバンティン中の有力貴族たちが、固唾を飲んで「その時」を待っていた。彼らの視線は、期待と、しかし長く待たされたことによる不満で揺れ動いている。だが主役であるはずの男と、この国の命運を左右する切り札であるはずの「それ」は、予定時刻を大幅に過ぎてもまだ姿を現さない。公爵の顔には、この状況を収拾できない焦りと、ロスコフへの苛立ちが入り混じっていた。
【同時刻 - ワーレン侯爵邸】
その頃、全ての元凶であるロスコフ・ワーレン侯爵は、獣のような熱情の渦中にいた。
「あっん……もう、だめぇ……ん……」アンナの甘く蕩けるような声が、静かであるはずの寝室に響き渡る。
お披露目会のために用意されたズボンの生地がどうにも肌に合わず、替えのものを探して妻を探していたロスコフは、トイレから出てきたばかりのアンナのほんのり赤らんだ頬と、甘く誘惑的な香りに、最後の理性の糸がぷつりと切れてしまったのだ。(……世界の命運も、兵器の重圧も、今だけは全て、アンナの温もりの中に溶かしてしまいたい) 極度の重圧からの逃避にも似たその衝動が、彼を突き動かしていた。それは、天才と呼ばれた男の、あまりにも人間的で、そして切羽詰まった弱さだった。
彼がその欲望の全てを解放し終え、ようやく我に返った頃、邸宅の外では完全武装の騎士たちと、出番を待つ魔導アーマーたちが、最早諦観の境地でその主を待っていた。彼らの間には、慣れきった諦めと、しかし今日という日の重要性を理解するが故の緊張感が漂っていた。
「……聞こえましたか、エスター様」侍女長のモーレイヌが顔を真っ赤にしながら、しかし好奇心を抑えきれない様子で囁く。
「……聞こえなかったことにするのです、モーレイヌ」エスターは鉄仮面のような表情を一切崩さなかったが、そのこめかみには一本の青筋がピクリと浮かんでいた。それは、彼女がどれほどこの状況に慣れていようとも、今日という日に遅刻した夫への、微かな、しかし確かな怒りの現れだった。
【再び - 王宮 謁見の間】
「皆様、どうか今暫くだけ私にお時間を!」ステージの上で『公』が必死の形相で時間を稼いでいた。額には脂汗が滲み、声には焦りがにじむ。だが南部のトルーマン公爵の容赦ない追及が彼を追い詰める。「話になりませんな、『公』! その『魔導アーマー』とやら、本当に存在するのですかな!?」その声には、公爵への不満と、状況への苛立ちが明確に表れていた。
会場が最も険悪な空気に包まれたその時、広間の入り口から、まさに「待ちに待った」というべき声が響き渡った。「―――ロスコフ・ワーレン侯爵様、ただ今お成りぃぃぃぃっ!」
全ての視線が入り口へと注がれる。そこに立っていたのは、涼しい顔で、まるで何もなかったかのように振る舞うロスコフと、その隣で完璧な淑女の微笑みを浮かべながらも、この重大な遅刻の責任を夫と共に背負う覚悟を決めた、アンナ夫人だった。彼女の瞳の奥には、夫の奇行への理解と、しかし彼を支えようとする強い意志が宿っていた。
「『公』、大変お待たせして申し訳ございませんでした」ロスコフの落ち着き払った声が響き、彼は合図を送る。
ズシン……!ズシン……!ズシン……!ズシン……!地響きと共に**“それ”**は現れた。全高230センチメートルを超え、重量は中で動かす人間と合わせ300kgを超える鋼鉄の巨人が四体。その巨体が進むたびに、低く持続的な魔導機関の唸りが床を震わせ、謁見の間のシャンデリアをわずかに揺らす。鋼鉄のボディに刻まれたシギルが、呼吸するように青白い光を一瞬だけ明滅させた。
「おお……!」「なんだ、あれは!?」「鉄の化け物……!」会場が驚愕と畏怖のどよめきに包まれる。誰もがその圧倒的な存在感に息を呑んでいた。
だが驚きはそれだけでは終わらない。四体の鉄の巨人はロスコフの前まで来ると、信じられないほど滑らかな動きでシュンッと片膝をつき、深々と敬礼してみせたのだ!そのあまりに人間的で、そして騎士道精神に溢れた動きに、会場の興奮は最高潮に達した!それは、単なる機械ではなく、意志を持つ存在であるかのような錯覚を抱かせた。
「皆様、大変お待たせいたしました! 今皆様の目の前に立つこの鋼鉄の巨人こそが、我が祖父の代よりワーレン家が追い求め続けた**“夢の結晶”。その名を【魔導アーマー】**と申します!」ロスコフの声には、長年の努力が実を結んだ確かな誇りと、そしてこの国の未来を切り開く者としての自負が込められていた。
だが頑固なトルーマン公はまだ食い下がった。「動くのは分かった! だがどうやって動いておるのだ! その秘密をここで皆に教えていただこうではないか!」その無粋で、研究者の誇りを踏みにじる言葉に、ロスコフの穏やかだった瞳の奥に、静かな怒りの炎が灯った。それは、彼の研究に対する純粋な情熱と、それを侮辱されたことへの、人間的な反発だった。
「……トルーマン公爵。貴方ほどの聡明な方ならばお分かりでしょう。そのようなことをすれば、これから戦うことになるであろうラガン王国にまでその貴重な情報が漏洩する可能性があるということを。……それとも」ロスコフはわざと会場中に聞こえるように、しかし明らかな含みを持たせて言った。「―――貴方は“わざと”その情報を敵国に流そうとでもしておられるのですかな?」
ザワッ……!会場の空気が一変する。それは、ロスコフの言葉が持つ、刃のような鋭さに人々が息を呑んだ瞬間だった。その瞬間、ステージ上の『公』が驚愕しつつも、即座にロスコフの意図を察し、トルーマン公を糾弾するかのような鋭い視線を貴族全体に送った。王はロイヤルボックスで**「うっしゃあ!」**と誰にも聞こえない勝利のガッツポーズを決めていた。彼の顔には、この窮地を乗り越え、自らの思惑通りに事が進むことへの、人間的な喜びと安堵が浮かんでいた。
「うっ……! き、貴様……!」トルーマン公爵の顔がみるみるうちに赤く染まっていく。怒りと屈辱、そして論破されたことへの苛立ちが、彼の表情を醜く歪ませる。「……失礼する! こんな茶番付き合ってはおれん!」そう吐き捨てると彼は踵を返し、足早に会場を後にした。その背中には、敗者の惨めさと、しかし未だ消えぬプライドが滲んでいた。
「あれぇ~? 帰っちゃうんですかぁ、トルーマン公爵ぅ?」ロスコフの子供のような、しかし毒の効いた追い打ちが、彼の背中に突き刺さる。それは、勝利者が見せる余裕と、しかしどこか人間的な意地の悪さを含んでいた。
トルーマンが去った後の大ホールは、もはやロスコフ・ワーレンへの羨望と賞賛の熱狂的な渦に包まれていた。一人の引きこもりがちの天才は、この日初めてリバンティン公国の**“英雄”**となったのだ。彼の顔には、安堵と、達成感、そしてかすかな高揚感が浮かんでいた。しかしその心の奥底には、この「英雄」の称号が、どれほどの重圧と代償を伴うのかを理解している者の、一抹の寂しさも潜んでいた。
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