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北の地の首都『スタンハーペン』

今回の前書きは、この世界の悪魔の詳細です。


悪魔階級の提案(下位から上位へ)



レッサーデーモン(Lesser Demon)    

最下級の使い魔。群れで行動し、命令に従うのみ。地性は低いが執念深い。

  

インプ(Imp)

小型で狡猾。情報収集や妨害工作に長ける。人間界への潜入も得意。


ミドルデーモン(Middle Demon)

戦闘能力を持つ中級悪魔。下位を統率し、局地的な支配を担う。


グレーターデーモン(Greater Demon)

高度な知性と魔力を持つ。領域を支配し、契約や儀式に関与する。


アークデーモン(Archdemon)

地獄の侯爵・公爵級。複数の領域を束ね、悪魔軍団を指揮する。


プリモルデーモン(Primordemon)

原初の悪魔。神々に匹敵する力を持ち、世界の根源に関与する存在。


アビスロード(Abyss Lord)

深淵の王。宇宙的恐怖の化身であり、存在するだけで現実が歪む。


               その162



鉄屑たちの逆襲


エイゼンが“鉄屑の”キグナスに依頼を叩きつけてから、二日目の夜。


アンヘイムの貴族街とは正反対に位置する、最も猥雑で法の光さえ届かぬ**“どん底”**と呼ばれる地区。そこでは、エイゼンが蒔いた金貨が静かに、しかし確実に根を広げていた。安酒場の隅では拷問が、娼館の閨では枕営業が、そして裏路地では浮浪児たちがゴミを漁り、トルーマン公爵に関するあらゆる情報が「鉄屑たち」の元へと集められていく。


キグナスの元には情報の濁流が押し寄せていた。彼はそれを熟練の手下たちに捌かせ、無数の断片を吟味・整理させ、一つの意味ある形へと組み立てさせていく。やがて真実らしきものが朧げに姿を現したが、彼らは自らの領域を心得ており、それ以上踏み込むことはなかった。


そして、運命の三日目の夜。

キグナスは、エイゼンの待つ工場の裏の酒場にその巨体を現した。その顔には疲労と、そして大仕事をやり遂げたプロの満足感が浮かんでいる。

「……見つけたぜ、旦那」

キグナスは、テーブルの上に一つのボロボロになった古い航海日誌をドンッと置いた。

「トルーマンの奴が若い頃、貿易船に乗ってた時期がある。その時の船医が書き残した日誌だ。……そいつが今じゃ、この“どん底”でアヘン中毒の哀れな医者崩れになっててな」


キグナスは、その日誌のあるページを開いた。そこには黄ばんだインクでこう記されている。


『――若君トルーマンが船内で流行り病に罹患。高熱にうなされ、意識朦朧。もはや、神に祈る他なし』


だが、その数日後のページ。


『――奇跡。若君、回復の兆し。だが、様子がおかしい。以前の快活さは消え、どこか陰鬱とし、利き腕であったはずの右腕を全く使われぬようになった。まるで**“別人に成り代わった”かのようだ。そして、あの夜、船倉の奥で聞いた、あの“異形の声”**は、一体……』


エイゼンは、その日誌を静かに手に取った。

指先が古びた紙に触れた瞬間、彼の《穿影の瞳》が数十年前の“記憶の残滓”を捉え、その脳髄を焼いた。

「……ぐっ……!」

エイゼンは短く呻き、こめかみを指で押さえた。ただの残留思念ではない。あまりに強烈な情報が、彼の精神に直接流れ込んでくる。恐怖、絶望、そして……人間ではない、**“何か”**がいる気配。それは船医が感じた恐怖の追体験に留まらなかった。彼の瞳は、その先の“影”を垣間見ていた。

(……これは……巨大な祭壇か……? 無数の魂が、一つの器に……? ラガンの奴ら、まさか……!)


情報の奔流から意識を引き剥がし、エイゼンは顔を上げた。その口元には、苦痛を捩じ伏せた獰猛な笑みが浮かんでいた。

「……こいつは、とんでもねえ“切り札”を手に入れたもんだぜ」


それはただのスキャンダルではない。一人の公爵の存在そのものを根底から揺るがす、あまりに危険で強力な**“爆弾”**だった。タイムリリミットは、あと数時間。この爆弾を手に、エイゼンはトルーマン公との最後のディールへと向かう。



公爵へのディール


タイムリミットは、あと数時間。法相院の査察官たちがワーレン邸の工場の門を叩く、その夜明けまでもう時間はない。


夜の闇よりも濃い影を纏い、エイゼンはトルーマン公爵邸の堅く閉ざされた正門の前に立っていた。門番に追い返されるが、彼は何も言わず、日誌の最も重要な一文を書き写した羊皮紙の切れ端を差し出す。


『――あの夜、船倉の奥で聞いた、あの**“異形の声”**は、一体……』


数分後。屋敷の扉は音もなく開かれ、エイゼンは主を待つ広大な書斎へと通された。やがて、夜着の上に急いでガウンを羽織ったトルーマン公が姿を見せる。その顔には狼狽の色が浮かんでいた。

「……何の用だね、こんな夜更けに。貴様は何者だ」

その声は虚勢を張ってはいるが、微かに震えている。


「――名乗る名はありませんよ。ただ、貴方様が失くされたはずの『思い出の品』をお届けに上がったまで」

エイゼンは懐からあのボロボロの航海日誌そのものを取り出し、それを手渡した。その表紙を見た瞬間、トルーマンの顔から完全に血の気が引く。

「な……ぜ、貴様が、これを……!」

「拾いものです。ですが、中身は実に興味深い」

エイゼンは日誌のあるページを口に出し伝えながら、トルーマンの目を真っ直ぐに見つめた。

「……貴方が病から回復された後、まるで**“別人に成り代わった”**かのようだ、と。船医はそう書き残している」


「……黙れ」

トルーマンの声が地を這うように低くなる。


「そして、僕の調べではこうです」エイゼンの《穿影の瞳》は真実の“影”を捉えていた。「――本当のトルーマン公爵は、あの船の上で既に死んでいた。そして、彼の身体を乗っ取ったのは……」


エイゼンはそこで一度言葉を切り、核心に踏み込んだ。

「ラガン王国が力の探求の果てに、“別の何か”に手を出していたとしても不思議ではない。……例えば、禁忌とされる『魂の移植』。ですが、貴方一人の延命のためじゃない。あなた方はもっと巨大な計画を進めているのではありませんか?」

エイゼンは、先ほど瞳で垣間見たおぞましいビジョンを言葉にする。

「無数の魂を集め、より優れた**“器”**へと移植し続ける……。そうやって、神にでもなろうとしているのか? いずれにせよ、今、私の目の前にいるお方は、もはや本物のトルーマン公爵ではないでしょう?」


シーン……。書斎に完全な沈黙が落ちた。

やがて、トルーマンはゆっくりと顔を上げた。その表情から狼狽の色は完全に消え、代わりに人間ではない、どこか冷たく無機質な侮蔑の笑みが浮かんでいた。

「……ククク……。面白い。実に、面白いぞ、ネズミ」

その声はトルーマン本人のものだったが、彼の喉の奥で、船医が聞いたというあの異形の声が、低く、不気味に共鳴していた。彼はもはや、隠すことさえしなかった。


「神だの悪魔だの、そんな非科学的なものではない。我らはただ、より優れた種が劣った種に取って代わるという、自然の摂理を少しだけ早めているに過ぎんのだよ」

「まさか、この秘密にたどり着く人間がリバンティンにいようとはな。……それで? そのくだらんお伽噺を誰かに話して、私を断罪でもしてもらうか? 誰も信じはせんぞ」


「ええ、でしょうね」エイゼンもまた、不敵に笑った。「私も、そんな面倒なことは望んでいません」

彼は懐から、トルーマンが法相院に提出した訴状の写しを取り出した。

「――これを、取り下げていただきたい。今すぐに」

「……ほう? 取引か?」

「いいえ。**“提案”**です」

エイゼンの声がさらに低くなる。「貴方が訴えを取り下げれば、この日誌は貴方にお返ししましょう。私も今夜のことは全て忘れる。……だが、もし夜が明けてもこの訴えが有効なままであったなら……この日誌の写しが、王宮だけでなく、アンヘイム中の全ての酒場と瓦版屋に届けられることになる」


「……脅しか?」

「いいえ。**“結果報告”**です」

エイゼンは時計を一瞥した。「夜明けまで、あと二時間。……賢明なるご判断を」

彼はそれだけを言うと、日誌をテーブルに残したまま、悠々と書斎を後にしていった。


夜明けのディール


重い扉が閉ざされ、書斎にはトルーマンと時計の音だけが残された。

(……あの、ネズミが……!)

トルーマンの脳裏で、凄まじい速度の計算が火花を散らしていた。


今、この日誌が公になればどうなる? “トルーマン公爵”としての地位は失脚する。だが、問題はそこではない。

(……失脚すれば、ラガン王国にとって私は“使えない駒”となる。そうなれば待っているのは確実な**“処分”**だ。あのお方……エリサ様の壮大な計画の役に立てぬまま、こんな失態を晒して戻ることなど断じてできん……!)


ここで、あの忌々しい発明家もろとも自爆するか? いや、駄目だ。それでは何の得にもならない。どころか、ラガン王国における私の立場は、最下層の使い走り以下にまで落ちぶれるだろう。

ギリッ……!

彼は奥歯を血が滲むほどに強く噛み締めた。屈辱だ。だが、今は引くしかない。このネズミに一杯食わされたことを認め、一度この盤面から身を引く。そして、次なる機会を息を殺して待つ。それこそが唯一の、生き残るための選択だった。


【翌朝 - 法相院】


夜が明け、法相院の査察官たちがワーレン邸へ向かう準備を整えていた、まさにその時。トルーマン公爵からの血相を変えた早馬が駆け込んできた。

『――訴えは取り下げる! 全ては我が方の誤解であった!』

そのあまりに唐突な要求に、法相院は終日、大混乱に陥ったという。



【同時刻 - ワーレン邸 工房】


コンコン……。工房の扉が控えめにノックされた。

「……どうぞ」

ロスコフが顔を上げると、そこに立っていたのはいつもの飄々とした笑みを浮かべたエイゼンだった。彼は一枚の羊皮紙をロスコフの設計図の横にひらりと置く。それは法相院が発行した**『査察令状・取り下げ通知書』**だった。

「……エイゼンさん。これは……」

「言ったでしょう、ロスコフ様」

エイゼンはニヤリと笑った。「全て、終わらせてみせる、とね」

彼は工房に鎮座する未完成の魔導アーマーを見上げた。

「さあ、これで邪魔者はしばらくいなくなった。……思う存分、あなたの“夢”の続きを見せてください」


ロスコフは何も言わなかった。ただ、その手に握られた通知書と、目の前の悪びれもしない最高のトラブルメーカーの顔を交互に見つめながら、静かに、そして深くため息をつくしかなかった。

彼の嵐のような三日間は、こうして幕を閉じたのだ。





数字が語る未来


時は流れた。

トルーマン公との静かなる戦いに勝利してから一年近くが過ぎ、ロスコフは33歳の誕生日を迎えていた。


【リバンティン公国 首都アンヘイム - 魔導アーマー工場】


ゴオオオオオッ! ガッシャアアアンッ!!

アンヘイム郊外の工場は今や24時間体制で稼働する巨大な戦争機械と化していた。溶鉱炉の炎は夜空を赤く染め、鋼鉄を叩く音は来るべき開戦の秒読みのように絶え間なく響き渡る。

現在、稼働可能な魔導アーマーは600体。


「……まだ、まだ、足りません」

ノベルは机に広げられた膨大な計算式を指差した。「エイゼンたちの諜報と過去の軍事データを元にシミュレートした結果、ラガン王国が投入してくると予測される兵力は、総勢20万」

その数字にロスコフは静かに頷いた。

「アンヘイムに籠城した場合、耐えられるのは最大でも14日間。この期間を耐えきり、敵の兵站を断ち切れば勝機は見えて来るでしょう」

「……問題は、そのための損耗率ですね」

「ええ」ノベルは続けた。「初日の損害は約100体。その後も一日平均80体の犠牲は避けられない。結論は明白です。前線に500体を維持し続けるには、予備と修理中の機体を合わせ、開戦時に最低でも1000体が必要となります」


「……はい」ロスコフはアンヘイム市街地の地図を広げた。「そして、そのための**『野戦病院(修理工場)』**は、現在、王宮の西地区でルクトベルグ公の協力の下、急ピッチで建設を進めています。問題は、やはり機体そのものの数になります」


一日最大10体のペースで生産しても、残りの400体を揃えるには最低でも40日。開戦の日は刻一刻と迫っている。

ロスコフの顔には深い疲労と、そしてもう一つの憂いが浮かんでいた。

(……マルティーナ様たちは、今……)

ロマノス帝国へ旅立った彼女たちから何の連絡もないまま、一年以上が過ぎていた。


それだけではない。軍事だけでなく、政治という名の戦場もまた彼の神経をすり減らしていた。先日も、とある有力貴族が「激励」と称してこの工場を訪れた。その顔に浮かんでいたのは、戦争への危機感よりも、ルクトベルグ公に与えられた特権への嫉妬と、戦後の権力構造を見据えた冷たい計算の色だった。この鉄の城壁の内側に、見えざる敵はいないと言い切れるのか。その疑念が、重くロスコフの心にのしかかっていた。




【6ヶ月前のマルティーナ一行】


氷獄の玄関口


錆びた錨が海底の泥を掴む重い音と共に船は揺れを止め、マルティーナ一行はついにロマノス帝国の北の玄関口『ノルアーク』の土を踏んだ。肌を刺す海風は氷河の匂いを運び、乾いた雪が彼らの旅装を白く染めていく。


活気ある商港を想像していたシャナの目に映ったのは、陽気さとは無縁な灰色の光景だった。湾内に停泊しているのは衝角を備えた巨大な軍艦ばかりで、道行く人々の瞳には他者を試すような冷たい光が宿っている。

彼らが宿を取った港の酒場もまた軍人向けの質実剛健な作りで、出された食事は塩辛い魚介のシチューと硬い黒パンだけだった。


ロゼッタがいくつかの銀貨と引き換えに、首都スタンハーペンまでの情報を手に入れたその夜。

真夜中を少し過ぎた頃、異変が起きた。


規則正しく、そして無感情な軍靴の音が、宿屋の周囲の石畳を固めていく。

その音は、まるで器を封じる儀式のようだった。


窓の隙間から外を覗いたシャナの顔色が変わる。

「……囲まれているじゃない」


宿屋の周囲は松明で煌々と照らされ、

胸にグラティア教の紋章を刻んだ黒鎧の憲兵たちが、闇の中から浮かび上がっていた。


密告者は、もはや明白だった。

この港町の住人の誰もが――

グラティアの**“目”であり、“耳”であり、“器の監視者”**であることが、今、確信へと変わっていた。



「……無駄よ。ここで派手に動けば、首都に入る前に大騒ぎになる」風の流れで外の様子を感じ取っていたロゼッタが制する。

「ここは逃げるしか、無いでしょうね」シャナがマルティーナへと向き直った。

「……皆を信じます。行きましょう」


マルティーナの決断を受け、リバックが全員に安物の巡礼者の外套とフードを配った。首都に入るために必要だと買っておいた、質素で目立たず、色褪せた布。マルティーナはそれを受け取ると、躊躇いなく髪を束ねていた絹のリボンを解き、指に嵌めていた、今は亡き王国の紋章が刻まれた指輪をそっと外した。高貴な身分も、失われた故国の象徴も、全てこの色褪せた布の下に隠す。ロゼッタが教える、俯き加減で歩幅を狭めた巡礼者らしい歩き方を、彼女は静かに真似た。その姿に、一行は言葉にならない覚悟を見た。


裏口の鍵を音もなく破壊し、一行は闇の中へと滑り出す。背後から響く誰何の声と走り出す軍靴の音を振り切り、彼らはノルアークの街明かりから逃れ、首都へと続く巨大な軍用道路の闇の中へと姿を消したのだ。


幾度となく、騒ぎにさせぬよう巡回の兵士をやり過ごすため遠回りしながら、寒い夜中にノルアークを脱出して4日後には、スタンハーベンの外壁が見えて来た、しかし、道行く人々は皆、グラティア教徒ではないかと思え、迂闊に言葉を交わすことさえ出来ないでいた、暫く途方に暮れていたが、シャナが見つけた廃屋に入り込み、そこで寒さを凌ぐしかなかった。  



偽りの祝祭


天空の牢獄は、あまりに堅固だった。

マルティーナたちがロマノス帝国の首都スタンハーペンの城壁を遠巻きに眺めるしかできない無為な日々が、さらに一ヶ月過ぎようとしていた。

鉄壁の警備網と、街全体を覆う息が詰まるほどの狂信的な空気。いかなる策も、この巨大な要塞の前では無力に思えた。


「……もう、これ以上は時間の無駄だ」

焦燥が仲間たちの間に重く漂い始めたある夜。隠れ家に戻ってきたロゼッタが、膠着状態を破る一つの情報をもたらした。

「――『皇帝祭』。一週間後、このスタンハーペンで三日間にわたって最大の祭りが開かれるらしいわ」

それは旅の商人に扮して情報収集をしていた彼女が掴んできたものだった。

「祭りの間は帝国全土から巡礼者や商人が集まる。当然、警備の目も普段よりは**“内向き”**になるはず。……これほどの好機、他にないわ」


彼女は懐から、スリの技術を駆使して「拝借」した本物の手形を元に複製した、完璧な偽造手形を取り出した。

「これを使い、私たちは地方の商人団に紛れ込んでスタンハーペンに潜入する」

あまりに大胆な提案にシャナは即座に反対したが、リバックの「危険を冒してでも前に進むべき時もある」という言葉と、マルティーナの静かな決断によって、計画は可決された。


一週間後。皇帝祭の熱気に浮かれるスタンハーペン。

マルティーナたちは巡礼者の質素なローブでその気品を隠し、武装したリバックとシャナは商人団の用心棒として隊列に紛れ込んだ。城門は人の波でごった返していたが、ロゼッタの予測通り、衛兵たちの関心はもっぱら祭りの警備に向けられており、偽造手形は簡単な確認だけでその役目を果たした。

ついに、彼らは敵の心臓部へと足を踏み入れたのだ。


だが、街の空気は彼らが想像していた祝祭の華やかなものとは全く違っていた。

ゴオオオオオン……。

街の至る所から不気味なほど荘厳なグラティア教の聖歌が響き渡り、道行く人々の瞳には狂信的な光が宿っている。一行が裏路地の安宿を探して歩いていると、路地の向こうで衛兵たちが一人の物乞いを捕らえ、「不敬だ!」と叫びながら殴りつけていた。周囲の市民はそれを見ても眉一つ動かさず、まるで当然のことのように通り過ぎていく。偽りの祝祭の裏に潜む、無慈悲な恐怖。その全ての視線は、畏敬と恐怖を込めて街の中心に聳え立つ【恩寵塔】へと吸い寄せられていく。

一行は塔が見える裏路地の安宿に部屋を取った。ここが彼らの新たな「戦場」となる。



宿屋の女主人


スタンハーペンに潜入してから、二ヶ月が過ぎた。

だが、事態は何一つ進展していなかった。【恩寵塔】の警備は鉄壁。シャナが夜陰に紛れて外から様子を窺うのが精一杯だった。マルティーナはほとんどの時間を薄暗い宿屋の一室で息を殺して過ごすしかなかった。

焦りが毒のように一行の心を蝕んでいく。

その張り詰めた空気を唯一和らげてくれたのは、この宿屋の女主人、アイリーンという48歳の未亡人の存在だった。彼女はマルティーナたちがただの巡礼者ではないことを見抜いていたが、何も聞かず、ただ黙って温かい食事と寝床を提供してくれていた。


ある夜、マルティーナが思い切って尋ねると、アイリーンは静かに、そして力強い目で言った。

「……あんたたちの目だよ。あんたたちの目には、あのグラティア教の連中とは違う、本物の“覚悟”ってもんが宿ってるからね」

その夜、アイリーンは自らの過去を語り始めた。

かつて帝国第一軍の名将**『サーヴァント』将軍に仕えていたこと。夫もその精鋭部隊の一員だったこと。そして、グラティア教が実権を握るクーデターの際、皇統の血を引く幼いヴェルディ王子**を逃がすため、全てを捨ててこの裏路地で息を潜めて生きてきたことを。

「……あいつらは、神の名を騙るただの人殺しさ。私は、あいつらを心の底から憎んでいるのさ」

その告白は、マルティーナたちとこの女主人との間に言葉を超えた固い絆を生んだ。マルティーナは、彼女が口にした「サーヴァント将軍」という名が、今後の鍵になるかもしれないと、静かに心に刻んだ。


だが、状況は変わらない。

「……もう、待てません! このままではエクレア様が……!」

シャナが焦りに耐えきれず声を荒らげた。


その時、これまで壁際で石像のように沈黙を保っていたゲオリクが、初めてその重い口を開いた。

「……ふん。この程度の時も待てぬとは」

その声はシャナの焦りを有無を言わせぬ力で制した。彼は目を閉じ、腕を組んだまま微動だにしない。だが、その精神は研ぎ澄まされ、常人には感知できぬものを捉えていた。


(……この塔……途方もない力が渦巻いておる。天辺には忌々しい気配が一つ、いや違う何だ?、ここからでは分からん、遥か地底の奥底……そこにもう一つ、さらに古く、巨大な何かが確かに存在しておる……)


地底のプレッシャーを感じ取った瞬間、ゲオリクの皮膚の下で、**鋼のように鍛え上げられた筋肉が幾何学的な紋様を描いて硬質化し、一瞬だけ鈍い光沢を放っては消えた。**彼の全身の筋肉が強張り、血が沸騰するような太古の戦闘衝動に駆られる。彼はそれを、深く静かな呼吸で抑え込んだ。

彼だけが、恩寵塔から放たれている極僅かだが、得体のしれないプレッシャーを感じ取っていた。


「機会というものは、いずれ必ずやってくる。慌てず騒がず、その一瞬を見極めろ。それこそが、強者の戦い方というものだ」

“闘神”はただ待っているのではない。敵の呼吸を読み、必殺の一撃を放つための「隙」を測っているのだ。


さらに時は過ぎ、マルティーナはついに意を決して、アイリーンに自分たちの本当の目的を打ち明けた。

「――私たちは、【恩寵塔】に入らなければならないのです」

その言葉を聞いた瞬間、アイリーンの顔から血の気が引いた。

「……やめときな。あそこは人間の行く場所じゃない」

彼女は声を潜めた。「年に数回、グラティア教は有力な信者だけを招いて、塔の中層で秘密の**『夜会』**を開くらしい。それ以外の方法で塔に入る術はない。……だがね」

アイリーンの瞳に深い恐怖の色が浮かぶ。

「……あの塔は、一度入ったら二度と出ては来られない。入ることはできても、出ることは誰にもできやしないんだよ……!」


それはあまりに絶望的な情報だった。だが、その情報をマルティーTナは静かに受け止めていた。彼女の瞳にもう迷いの色はない。

ゲオリクの言う通り、**“機会”**は確かにやって来たのだ。

たとえ、それが片道切符の旅であったとしても。



二つの潜入計画


【スタンハーペン ― 宿屋・地下室】


「……あの塔は、一度入れば二度と出られない。入ることはできても、出ることは――誰にも、できやしないんだよ……!」


アイリーンの声はまるで封印の呪句のように空気を凍らせた。彼女の瞳に宿る、魂を抜き取られたかのような虚ろな光。マルティーナは、その光こそが塔で『恩寵』を受けた者の末路だと知っていた。だからこそ、この旅が『片道切符』であると覚悟していた。


その言葉に宿るのは希望ではなく確定された絶望。だがマルティーナはただ静かにそれを受け止めていた。その瞳にもはや迷いの色はない。

ゲオリクの言った通り――**“機会”**は確かに訪れたのだ。


「……皆さん。準備を」

その声は囁きのように静かでありながら、宿屋の薄暗い一室に刃のような決意を響かせた。

「今宵、私たちは――あの塔へ向かいます」



【同時刻 ― スタンハーペン 闇市場・地下水路】


ゴボ……ゴボ……。

腐水の音がまるで塔の心臓の鼓動のように響く。

その地下の隠れ家にはもう一つの集団がいた。彼らもまた恩寵塔への潜入を企てていた。


中心に立つのはダンディな男――だがその男は人ではなかった。

「――ベロニカ様」

その男こそ、かつてアンナによってマクシム・デュラーンの肉体を器として与えられた高位の悪魔【ベロニカ】である。


当初彼は単独で塔へ乗り込むつもりだった。だが知ってしまったのだ。

塔の最下層と最上層――その二箇所から放たれる、彼ほどの悪魔でさえ肌が粟立つほどの**“異質な波動”**を。

その波動に触れた瞬間、彼の皮膚の下を漆黒の魔力が走り、魔焔顕光まえんけんこうがざわっと浮かび上がった。

(……馬鹿な……体が、恐れている……? これは魂を喰らう力ではない。存在そのものを書き換える“律”……!)


彼は単独潜入を捨て眷属を集めることにした。そして数ヶ月の探索の果てに、魂律一致度10%に迫る四人の器をようやく見つけた。


「――準備はできた」


ベロニカの瞳にはもはや人間の魂はない。

集った四人の男女はすでに【グレーターデーモン】の禍々しい光を宿していた。その中の一人、かつては敬虔な神官だった男の器は、今や皮肉な笑みを浮かべ、その聖なる法衣を嘲るように着こなしている。


「……今宵、奴らは『夜会』とやらを開くらしい。警備の目は塔の“内側”へ向く。これ以上の好機はない、ぐはははは。」

ベロニカは不敵に笑った。

「――行くぞ。我らの“本当の宴”を始めるのだ」


交錯する器の拍動


その夜、スタンハーペンの空には不吉なまでに赤い月が浮かんでいた。


宿屋の一室でマルティーナが静かに祈りを捧げると、彼女の身から放たれる清らかな神暈光しんうんこうが、まるで水面に落ちた雫のように、神的な波紋となって広がった。


その微かな波紋は、遥か地下水路に潜む悪魔たちの肌を、陽光のようにチリチリと灼いた。

「……なんだ? この熱は……」

ベロニカは眉をひそめ、忌々しげに塔を見上げた。互いの存在を認識するには至らない。だが、塔の脅威と、それに対抗する聖なる光は、既に見えざる火花を散らし始めていた。


一方の集団は有力な信者を装い、偽造された招待状を手に恩寵塔の光り輝く正面玄関へと向かう。その招待状には、夜会がグラティア教の幹部たちによる「信者から搾取した魂のエネルギーを浴び、倒錯した快楽に溺れるための、冒涜的な儀式」であることが、美辞麗句で記されていた。


もう一方の集団は闇に紛れ、地下水路を通り塔の最も警備が手薄な汚れた裏口へと向かう。


光の道を行く王女とその守護者たち。

闇の道を行く悪魔とその眷属たち。


全く異なる二つの思惑。二つの潜入計画。

くしくも同じ「夜会」の夜に。

彼らの運命があの忌々しき塔の中で激しく交錯することになるのを――まだ誰も知らなかった。





最後まで読んでくださりありがとう、また続きを見かけたら読んでみて下さい。



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