裏切りのシギル
歯車は、静かに狂い始めた。
信じていた仲間が残したのは、空になった台座と、消えた伝説の影。
その痕跡が指し示すのは、遥か北の帝国。
これは、失われたものを取り戻すための、絶望的な旅路。
そして、愛という名の最も純粋な狂気が、水面下で静かに牙を剥く、始まりの物語。
その160
【ロスコフ31歳と11ヶ月目 - 首都アンヘイム】
時は、流れた。
エイゼン率いる『特別調査室』の暗躍により、トルーマン公の妨害工作は未然に防がれ、北部のグラティア教の動きも沈静化。ロスコフの魔導アーマー開発は、大きな障害もなく、驚異的な速度で進んでいた。
アンヘイム郊外に、大きな**「魔導アーマー専用工場」が、その威容を現しつつあった。まだ建設途中ではあるが、その中心部にはロスコフが発明した革新的な自動シギル刻印機が据え付けられている。だが、その機械はまだ静かに沈黙したままだ。これを本格的に稼働させ、魔導アーマーの量産体制に入るためには、彼の故郷であるワーレン領の鉱山から、膨大な量の鉄、石炭、そして希少な魔晶石や黒鉄鋼を、安定的かつ定期的にこの工場へと運び込むための、新たな供給ルート(サプライチェーン)**を確立する必要があった。
それこそが、ロスコフが多忙な研究の合間を縫ってまで、故郷へと帰還する最大の理由の一つだったのだ。
既に、ゲーリックたち騎士団が駆る、初期量産型とも言うべき試作機が五体、その巨体を完成させていた。誰もが、このプロジェクトの成功を信じて疑わなかった。
――あの事件が、起きるまでは。
それは、月さえも雲に隠れた漆黒の夜だった。
工場の警備システムが完全に沈黙し、巡回の兵士たちはまるで深い眠りに落ちたかのようにその場に崩れ落ちている。そして夜が明けた時、そこに在ったはずの五体の魔導アーマーのうち、最新の改良が施された三号機が、跡形もなくその姿を消していたのだ。
「……馬鹿な。一体、誰が……」
現場に駆け付けたロスコフは愕然とした。外部から侵入された形跡は一切ない。警備システムを沈黙させ、兵士たちを眠らせ、そしてあの200キロを超える鋼の巨躯を音もなく運び出す。そんな芸当が可能なのは、このプロジェクトの内部構造に精通し、かつ、高度な秘術を操れる人間だけだ。
だが、最も不可解なのはそこではなかった。
「……ありえない」
ロスコフは、三号機が置かれていた台座に残る微かな魔力の残滓に触れ、戦慄した。
「……これは……起動した痕跡だ……!」
魔導アーマーは、事前に登録された特定の搭乗者でなければ絶対に動かせない。三号機の搭乗者として登録されていたのは騎士ケルギギス。その彼自身は今も兵舎で眠っているという。他人が動かすことは不可能なはず。それなのに、誰かがこの三号機を**「起動させ、自らの足で歩かせて」**連れ去ったというのか。
(……ケルギギス以外の誰かが、シギルの登録を書き換えた? いや、そんな権限を持つのは僕と、エクレア叔母様だけだ。……そして、出来る可能性があるのはレザリアさんだけだ。あるいは、全く未知の方法で、登録を強制的に上書きするような、高度な秘術が……?)
ロスコフの脳裏に、最悪の可能性がよぎる。彼は、ここ数ヶ月、全く連絡が取れなくなっていた二人の秘術師の顔を思い浮かべていた。
【一週間後 - ワーレン侯爵領 リバイン村】
ロスコフは、アンナと共に数年ぶりに故郷の土を踏んだ。
表向きの目的は、工場で大量に消費される資源供給ルートの最終確認。だが、彼の本当の目的は別にあった。
「……父上、母上。エクレア叔母様と、レザリアさんは、どこに?」
両親との再会もそこそこに彼が問いかけると、父親である先代侯爵は困惑した表情で首を振った。
「それが……分からんのだ。ひと月ほど前、『新しいシギルの研究のため、しばらく山に籠る』と書き置きを残したきり、ぷっつりと……」
行方不明。
大陸にわずか8人しかいない秘術師。その中でも、秘術の深層に触れる者として知られる人物と、その技を継ぐ弟子が、同時に姿を消した。
その直後、アンヘイムでは魔導アーマーが一体、何者かに奪われている。
アンヘイムに戻ったロスコフは、すぐさまエイゼンを呼び出した。
「エイゼン。盗まれた魔導アーマーの件は一旦部下に任せてください。それよりも、最優先でエクレア叔母様とレザリアさんの行方を……!」
その主君の悲痛なまでの依頼に、エイゼンはただ静かに頷いた。彼率いる調査室の、本当の力が試される時が来たのだ。
調査は、困難を極めた。
だが、エイゼンの《穿影の瞳》は、常人が見逃す僅かな“影”を捉えていた。エクレアたちが使っていたという山小屋。そこに残された、微かな記憶の残滓。
「……ロスコフ様」
数日後、書斎で報告するエイゼンの声は重かった。
「エクレア様たちを攫った犯人は、外部の人間じゃありません。そして、この失踪事件は、アンヘイムでの魔導アーマー盗難事件と、完全に繋がっています」
「……どういう、ことですか」
「まず、アンヘイムの工場に残されたごく僅かな魔力の痕跡……そして、ワーレン領の山小屋に残された痕跡。この二つの魔力パターンが、完全に一致しました。犯人は、同一人物です」
エイゼンはそこで一度、言葉を切った。
「問題は、どうやってあの巨体を運び出したか、です。アンヘイムから北へ向かう街道で、不審な荷馬車の目撃情報を探りました。そして、一つだけ奇妙な報告が上がってきたのです」
彼は一枚の羊皮紙をテーブルに置いた。
「盗難事件があった日の深夜、北へ向かう街道を、『ありえないほど軽い音を立てて走る、一台の荷馬車』を目撃した者がおります。轍の深さも、まるで空荷同然だった、と」
「……空荷?」
「ええ。ですが、俺の《穿影の瞳》が、その報告に残された“記憶の残滓”から一つのシギルを特定しました。それは、『空間歪曲による、重量軽減のシギル』。魔導アーマーのような超重量物を、まるで空荷のように見せかけて運ぶための、高等な秘術です」
エイゼンは、ロスコフを真っ直ぐに見つめた。
「……そして、そのシギルを使える人間は、このリバンティン公国広しといえど、ただ一人しか、記録にありませんでした」
「……誰、なのですか」
「――【雷鳴嵐のレザリア】。彼女、本人です」
エイゼンのその言葉は、まるで死刑宣告のようにロスコフの書斎に重く響き渡った。
ありえない。信じられない。だが、エイゼンが提示した証拠は、動かしがたい事実としてそこに存在していた。
「……嘘だ」
ロスコフの声は、か細く震えていた。「彼女が……レザリアさんが、なぜ……?」
「分かりません」
エイゼンは静かに首を振った。「ですが、彼女の足取りを追うための手掛かりは掴みました。あの荷馬車が向かった先……それは、北。ロマノス帝国との国境へと向かう、古い街道です」
「……北部……?」
ロスコフの脳裏に、リッツ侯爵が語っていた不穏な噂が蘇る。北で暗躍する、グラティア教の影。
「ロスコフ様。俺たちは直ちに北へ向かいます。レザリア殿を見つけ出し、その口から真実を……」
「……待ってください」
ロスコフはエイゼンの言葉を遮った。その瞳には深い苦悩と、そしてまだ諦めきれない仲間への信頼の光が揺らめいていた。
「……何か、おかしいのです。彼女が、叔母様を裏切り、僕たちの研究を妨害する理由が、どこにもない。もし彼女が本当に裏切ったのなら、もっと……もっと、致命的なやり方があったはずだ」
彼は工房の設計図を思い浮かべていた。レザリアは魔導アーマーの核心を知る数少ない人間だ。彼女が本気で妨害するつもりなら、盗み出すなどという回りくどいことではなく、自爆装置を仕掛ける、あるいは動力炉を暴走させるだけで、このプロジェクトは再起不能のダメージを負っていたはずなのだ。
「エイゼン。これは、ただの裏切りではないのかもしれない」
ロスコフは、一つの可能性にたどり着いた。
「彼女は……誰かに、“操られている”……?」
その、あまりに突飛な仮説に、エイゼンは眉をひそめた。だが、彼はこの天才発明家が、時に常人には見えない真実を見抜くことを知っていた。
「……なるほど。相手は、レザリア殿のその類稀なる技術と知識をも、手に入れようとしている、と。……だとしたら、尚更急がねばなりません。それに……」
エイゼンは厳しい表情で続けた。
「彼女が敵の手に落ちたとなれば、我々の生命線であるワーレン領からの供給ルートも危険に晒されます。彼女はそのルートの詳細を知る数少ない人間の一人。グラティア教が次にそこを狙わない保証はどこにもありません」
方針は、決まった。
エイゼン率いる調査室の精鋭たちが、再びその牙を剥く。
だが、今回の任務はこれまでとは全く質が違っていた。追いかける相手はかつての仲間。そして、その背後にはグラティア教という、底知れぬ巨大な悪意が潜んでいる。
【数週間後 - リバンティン公国 北部街道】
追跡は、エイゼンの《穿影の瞳》をもってしても困難を極めた。レザリアは自らの痕跡を消す術に極めて長けていたのだ。街道のあちこちで偽の魔力の残滓を残し、調査チームを何度も欺いた。
「……ちっ! レザリアさん、完全に俺たちの動きを読んじまってる……!」
タンガが苛立ちを隠さずに吐き捨てる。
「いや……違うな」
エイゼンは、道端に残された微かな轍の“記憶”を探りながら首を振った。
「これは、彼女のやり口じゃねえ。あまりに、**“無駄がなく、機械的”**すぎる。まるで、誰かが書いた脚本通りに動かされているようだ」
その言葉に、ロゼッタがはっとした表情を見せた。
「……人形……?」
「ああ」
彼らが追っているのは、もはやあの快活な女性秘術師ではない。その抜け殻を被った、冷徹で計算高い、**“何か”**だった。
そして、追跡開始から一週間が過ぎた頃。
一行は、ロマノス帝国との国境に近い寂れた宿場町で、ついに決定的な手がかりを掴むことになる。
それは、町の片隅にある古びた集会場から、夜な夜な聞こえてくるという不気味な**「鉄を打つ音」と、そしてそこに運び込まれたという「巨大な、人型の荷物」**の噂だった。
彼らは、ついに裏切り者のアジトを突き止めたのだ。
だが、その扉の向こうに、どのような絶望が待ち受けているのかを、この時の彼らはまだ、知る由もなかった。
雷鳴のドール
その夜、国境に近い宿場町の古びた集会場を、六つの影が静かに包囲した。
内部からは、**トン……キン……**と、不気味な「鉄を打つ音」が規則正しく響いてくる。
「――突入する!」
エイゼンの合図と共に、**バァン!**と、頑丈な扉が内側へと吹き飛んだ。リバックの、シールドごと叩きつける荒々しい突撃だった。
広間にいたのは、四人の【ミレス・サケル】と二人の【インクイジトル】。
そして、その中央。
見覚えのある女性の姿。
「レザリアさん!」
タンガが叫んだ。
だが、彼女はゆっくりと顔を上げただけだった。その瞳には、かつての快活な光はなく、ただ命令を遂行する人形のような、空虚な光だけが宿っている。だが、その硝子玉のような瞳の奥底で、何かが悲鳴を上げているような、そんな錯覚さえ覚えた。
「……侵入者を、排除せよ」
彼女の、感情のない声が開戦の号令となった。
ミレス・サケルたちが一斉に襲い掛かる!
**ガギィンッ!とリバックの盾がその猛攻を受け止め、グリボールの魔斧がゴウッ!**と風を唸らせてその壁に風穴を開けた。だが、本命はその後方。二人のインクイジトルが、あの忌ましい音響攻撃を放たんとその指を構えた。
「――させないわ!」
ロゼッタの烈風剣が彼らの間に「無風の領域」を作り出し、その能力を完全に封殺する。その隙を突き、エイゼンとタンガが左右から挟み込むように二人を瞬く間に無力化した。
だが、その時だった。
「――危ないッ!!」
ロゼッタの悲鳴。
レザリアは、指先で虚空に恐るべき速度で紋様を描き始めていた。それは詠唱さえも必要としない、高等な秘術師だけが可能な空間への直接的なシギル描画。だが、その完璧に見える指の動きが、ほんの一瞬、微かに痙攣したのを、ロゼッタは見逃さなかった。
キィィィィン……!
彼女の指先が描き終えた瞬間、その宙に描かれたシギルがまばゆい雷光を放ち始めた!
バチ! バチバチバチバチッ!
シギルの中心に空気が圧縮され、青白い光が一点へと収束していく。
「**『ユピテルの雷撃』**ッ!!」
ドゴオオオオオオオオオオオオンッ!!!
神の怒りそのものとでも言うべき極大の雷の槍が、リバック目掛けて放たれた!
「ぐっ……!?」
リバックは咄嗟に盾を構える。だが、エイゼンが絶叫した。
「避けろ、リバック! それは、防げねえ!」
リバックはその警告を信じ、寸でのところで横へ跳んだ。雷撃は彼がいた場所を通り過ぎ、広間の壁を**ズガアアアンッ!**と、巨大なクレーターを残して完全に消滅させた。
「……ちっ!」
レザリアは無言のまま機械的に、今度はその両手を蝶が舞うように動かし始めた。彼女の指先が宙を滑るたびに、その軌跡に五つの小ぶりだが寸分違わぬ形状のシギルが**シュン! シュン! シュン!**と次々と空間に浮かび上がる。
キィン! キィン! キィン! キィン! キィン!
五つのシギルが砲門のように一斉に青白い光を宿し、そして、放たれる。
シュババババババババッ!!
無数の**『ラディウス・マギクスII』**が、雨あられと冒険者たちに降り注いだ!
ガン! ガン! ガン! ガンッ!
リバックの盾がその光線を弾き返し火花を散らす。だが、あまりの連射速度に彼は防戦一方となり、じりじりと後退させられていく。
「……彼女、おかしいわ!」
ロゼッタが風の刃を放ちながら叫んだ。「あの魔法障壁……『レプルシオ マジカII』! 私の攻撃が、三度も弾かれた!」
「ああ、それに、動きが……」
エイゼンの《穿影の瞳》が、その違和感の正体を見抜いていた。
「……単調すぎる。まるで、誰かにプログラムされた人形のようだ。攻撃パターンに、癖がある……!」
「――ならば!」
タンガが吼えた。「その動きが止まるまで、殴り続ければいいだけだ!」
ドドドドッ!
タンガとグリボールが左右からレザリアへと突貫する!
だが、レザリアはその動きを冷静に見据え、自らの足元に最後のシギルを展開した。
「――我が身は、聖域なり」
キィィィン!
彼女の周囲に不可視の障壁が展開される。二人の渾身の一撃がその障壁に阻まれ、**バキンッ!**と凄まじい音を立てて弾き返された。
「ぐはっ!?」
吹き飛ばされる二人。万事休すか。
だが、それこそがエイゼンが待っていた唯一の隙だった。
「――今だ、パトリック!」
レザリアがその強力な防御シギルを展開し、完全に油断したその一瞬。後方で静かに祈りを捧げていた僧侶パトリックの全身から、眩いばかりの、しかし一切の攻撃性を持たない**“聖なる光”**が放たれた。
「『聖域鎮撫』!!」
それは攻撃ではない。ただ、その場にいる全ての者の闘争心を強制的に鎮めるための、上位の精神干渉魔法。
「……なっ!?」
レザリアの身体から一瞬だけ力が抜けた。その瞳に、ほんの一瞬だけ、人間らしい「困惑」の色が浮かぶ。
「……ぁ……わたしは……?」
その、声にならない声。
コンマ一秒の隙を、ロゼッタは見逃さなかった。
風のように駆け抜けレザリアの懐に潜り込むと、彼女は剣ではなく、その**柄頭をレザリアのうなじにゴンッ!**と的確に叩き込んだ。
「……ぁ……」
レザリアは短い呻き声を上げると、糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。
戦闘の後、一行はアジトの内部を調査する。
だが、そこに魔導アーマー三号機とエクレアの姿はなかった。
残されていたのは、一枚の輸送記録。
『――“素材”及び“サンプル”は、予定通り、本国へ移送中』
「……そんな……」
その報告を聞いたロスコフは歯ぎしりした。
「帝国本国だと……? もはや、我々の手出しができる領域ではない……!」
その後、一行は帝国本国への追跡手段を探った。
だが、成果は得られなかった。
帝国首都との距離は、地図上で二千キロ近くある。だが、実際には数カ月を要する旅路――それも、無事にたどり着ける保証などない。
相手は大陸最大の国家。魔導アーマーを擁し、情報網は鉄壁。
侵入は不可能に近く、生きて帰れる見込みも薄い。
追跡手段を得るまでもなく、彼らは最善策として引き上げを決断した。
ワーレン邸までは、急ぎ足でも十二日を要する距離があり、ここでまごまごしてはいられなかった。
帝国の影を背に、情報の断絶と焦燥を抱えながら進む旅路――それは、器の再構築に必要な“沈黙の時間”でもあったのだ。
それから十二日後、再びワーレン邸。
アンヘイムのワーレン邸に、重い沈黙が落ちる。
その沈黙を破ったのは、これまで静かに話を聞いていたマルティーナだった。
「――私が行きます」
その声は静かだが、鋼のような意志を宿していた。
「マルティーナ様!?」
シャナが驚きの声を上げる。ロスコフもまた、慌てて彼女を説得しようとした。
「いけません、王女殿下! 相手は帝国そのものです! あまりに危険すぎる!」
だが、マルティーナは静かに首を振った。
「エクレア様には、私の家臣が命を救われたのです。その御恩をお返しするのが、人の、そして王族としての筋というものです」
その、あまりに強く、そして気高い決意。
その場にいた誰もが言葉を失い、彼女を止めることができないと悟った、その時だった。
「――ならば、我々も、お供しましょう」
その重々しい声の主は、これまで黙って話を聞いていたリバックだった。彼はその銀色の巨体をゆっくりと立ち上がらせると、マルティーナの前に進み出て、恭しく膝をついた。
「王女殿下の、その気高き御心。我ら冒険者が、見過ごすわけにはいきません。いかなる道であろうと、その盾となりましょう」
「……リバックさん……」
その隣に、ロゼッタもまた静かに並び立った。彼女はリバックとは少し違う、冷静な、しかし確かな熱を帯びた瞳でマルティーナを見つめる。
「それに、これはもはやマルティーナ様だけの問題ではありません。ハミルトンで、そしてこのリバンティン北部で……グラティア教がどれほど人の心を弄び、平和を踏みにじるかを、私たちはこの目で見ました」
彼女は、その手に握る【烈風剣】の柄をぎゅっと握りしめた。
「この邪悪を、このまま放置しておくことなどできない。……それに、何より」
彼女は少しだけ悪戯っぽく微笑んだ。
「大陸でも高名な秘術師の奪還劇。これほどの“大仕事”、見逃すわけにはいかないでしょう? 冒険者として、血が騒ぎますわ」♬
その、あまりに心強い申し出に、ロスコフはもはや言葉を失い、ただ深く、深く、その頭を下げることしかできなかった。
こうして、絶望的かと思われたエクレア奪還の旅は、最強の「盾」と最強の「剣」という、二人の頼もしき守護者を得て、その幕を開けることになったのだ。
悪魔の夜想曲
ロマノス帝国へ連れ去られたエクレアと魔導アーマー三号機。その絶望的な報せに、ロスコフはただ歯ぎしりすることしかできなかった。マルティーナが恩を返すためにと、危険な旅に身を投じるのを引き留めることさえも。
彼は己の無力さを噛み締めながら、今できること――魔導アーマーの開発に、これまで以上に没頭することでその悔しさを紛らわせるしかなかった。
だが、彼の妻は違った。
アンナ・ワーレン。
夫の計画を遅らせ、その顔に憂いの影を落としたグラティア教の行いは、彼女にとって――自らの誇りを踏みにじられたも同然だと感じていた。
(よくも……よくも、私の旦那様に、こんな恥をかかせてくれたわね……)
アンナは静かに命じた。
ベロニカ、エクレアを――連れ戻しなさい。
だが、その命令はあっさりと断られてしまう。
「無茶を。今の、この魂のリズムの一貫性の低い器では、グラティア教へ潜入したところで返り討ちに遭うのが関の山だ」
契約上、自滅行為に等しい命令には、ベロニカも従う必要はないのだ。
アンナは苛立ちを隠さなかった。だが、彼女は諦めない。
夫の誕生日が訪れ、彼が32歳になった日。アンナは心からの笑顔で彼を祝福しながらも、その頭脳は恐るべき計画を既に完成させていた。
(……見つけたわ。ベロニカ、あなたのための、最高の“器”を)
その夜。夫の穏やかな寝息を愛おしげに見つめた後、アンナは侍女トレビア(ベロニカ)を伴い、音もなくワーレン邸を飛び立った。目指すは遥か南、ラガン王国の首都ロット・ノット。彼女たちが舞い降りたのは、新市街でもひときわ退廃的な雰囲気が漂う、貴族たちの社交場だった。
ターゲットはすぐに見つかった。
男の名は、マクシム・デュラーン。評議会の一角を担う中堅貴族。年齢は57歳。だが、その容姿は40代にしか見えず、その瞳の奥には老獪な野心と尋常ならざる生命力が渦巻いていた。
(……面白い。この男、ただの人間ではないわね。魂の形が、歪んでいる)
アンナの悪魔の瞳は、彼が総合奴隷商【フェドゥス・サンギニス】と繋がり、その禁忌の秘術によって若さを保っていることさえも見抜いていた。
(ただ生命力が強いだけではない。あの男の魂は、あらゆる“契約”と“欺瞞”を喰らって肥え太っている。その歪みこそが、グラティア教の神聖な結界をすり抜けるための、最高の“鍵”となる……!)
アンナはその男にゆっくりと近づいた。圧倒的な、妖艶な美貌。それはもはや人間が抗うことのできない、絶対的な引力だった。デュラーンは、その獲物を見つけた獣のようにアンナの元へとやってきた。
「……美しい。信じられないほどに、怪しく、そして謎めいている」
彼がグラスに酒を注ぎながら囁いた。その誘いにアンナは微笑み、部屋へと招き入れる。
だが、部屋に入った瞬間、デュラーンの表情から下卑た笑みが消えた。
「――お前は、何者だ」
いつの間にか、部屋の隅の影から仮面の男が姿を現し、アンナの背後に立っていたからだ。
「ふふふっ」アンナは楽しそうに笑った。「あら、気づいていたのね。でも、もう遅いわ。あなたたちは、もう、私のもの」
「何を言っている。この状況が、分かって……」
デュラーンの言葉が途切れた。彼の最強の用心棒、この街にある地下闘技場で三連覇者【レボーグ】。その仮面の男の背後に、いつの間にか一人の華奢な少女が立っていたのだ。
少女――トレビア(ベロニカ)の細い腕が、レボーグの首を、まるで葦の茎でも折るかのように背後から締め上げる。
「なっ……! レボーグが……!?」
ゴキッ、という乾いた音と共に、レボーグは白目を剥いて失神し、その場に崩れ落ちた。
「……お前たち、一体、何者だ……!?」
デュラーンの問いに、アンナは答えない。ただその美しい瞳で、彼をじっと見つめただけ。その瞳を見た瞬間、デュラーンの意識は底なしのルビー色の沼へと引きずり込まれていった。
「さあ、おやりなさい、ベロニカ」
ニヤリ、とトレビアの顔を歪ませ、ベロニカは最後の儀式を始めた。
三十分後。
デュラーンの身体は床に倒れ伏していた。そして、その抜け殻のようになった身体から一つの禍々しくも強大な魂が抜け出し、空になっていたトレビアの身体へと吸い込まれていった。いや、違う。トレビアの身体は、その強大な魂を受け入れると、みるみるうちに壮年の男――マクシム・デュラーンの姿へと変貌していったのだ。
「……ククク……素晴らしい! なんと心地よく動かせる……!」
デュラーンの姿となったベロニカは、自らの拳を握りしめ、その新たな身体の圧倒的な魂律一致度に恍惚の声を上げた。
「この魂なら……奴らの聖域に潜り込んでも、魂のリズムを探られることはあるまい。面白い……実に面白い器だ!」
「契約通り、シギル使いの婆さんを連れ戻してやろう。この力、試してみたくてうずうずする」
そう言うと、彼は闇の中へと消えていった。
そして、アンナは魂を抜かれ抜け殻となったデュラーンの身体の前に立つと、その隣で気絶していた男――レボーグの身体に手をかざした。
「あなたは、今日から、侍女トレビアよ。いいわね?」
秘術の印『ホタム・ソーディ』が輝き、レボーグの大人の体はみるみるうちに16歳の少女の姿へと**“圧縮”**されていく。
アンナは意識のない新しい「トレビア」を宙に浮かせると、急いでワーレン邸へとその身を翻した。
(いけない。そろそろ、私の旦那様が目を覚ましてしまうかもしれないわ)
ロット・ノットの薄暗い部屋には、デュラーン家の最強の用心棒であったはずのレボーグの、冷たくなった死体だけが静かに横たわっていた。
そして、マクシム・デュラーンという男は、この夜を境に、誰にも知られることなく、この世からその存在を抹消されたのだ。
南からの慟哭
マルティーナたちがエクレア奪還という絶望的な任務を帯びてロマノス帝国へと旅立ってから、季節は移ろい、既に三ヶ月の月日が流れようとしていた。その頃、首都アンヘイムの空気は日に日に不穏な熱を帯び始めていた。
原因は、南からだった。
ラガン王国の非道な傭兵団【ブラッドレイン】による一方的な蹂躙から逃れてきた南部の民。彼らの数は今や数百人規模にまで膨れ上がり、ついに彼らの怒りと絶望は一つの巨大な奔流となった。
「公爵様を出せーッ!」
「我々を見捨てる気かーッ!」
リバンティン公国の行政の中心『政務院』の前。そこには土と埃に汚れ、その瞳に深い絶望と燃えるような怒りを宿した難民たちの姿があった。彼らは声を枯らし、拳を振り上げ、この国の為政者たちにその慟哭を叩きつけていた。
ザッ……ザッ……。
政務院を守る衛兵たちが、緊張した面持ちで盾を構え、その怒りの波をかろうじて押しとどめている。
「……おい、エイゼン。あれは、一体……?」
そのただならぬ光景を、少し離れた場所からタンガたちが腕を組んで見つめていた。
「……ああ。南で暴れ回ってるっていう【ブラッドレイン】の被害者たちだろうな」
エイゼンは苦々しい表情でデモ隊を眺めた。
「噂じゃ、とんでもねえ連中らしいぜ。ただ殺すんじゃねえ。人を嬲り、弄び、その悲鳴を聞いて楽しむ、人の皮を被った悪魔だ、とよ」
「ラガン王国のクソ野郎どもめ……!」
タンガの拳が、ゴキリと音を立てて握り締められる。
その時、グリボールが素朴な、しかし核心を突いた疑問を口にした。
「だが、南といえば、トルーマン公爵の領地が一番広いはずだ。あの公爵は、一体何を考えてやがる? 自分の民がこれほど苦しんでいるというのに」
その問いに、エイゼンは冷めた目で政務院の堅牢な建物を見つめた。
「……さあな。だが、俺の勘が囁いてやがる。あのトルーマンって野郎は、もうとっくの昔に、このリバンティン公国がラガン王国には勝てねえ、と踏んじまったんじゃねえのか」
国が、内側から腐っていく。その腐臭を、彼らはこの民衆の怒りの叫びの中に確かに感じ取っていた。
「ルクトベルグ公は、何をしているんだーッ!」
一人の農夫らしき老人が、その皺だらけの顔を涙で濡らしながら絶叫した。
「南のトルーマン公だけではない! この国そのものが、我々を見捨てるというのか!」
その叫びが引き金だった。これまで心の奥に押し殺していた民衆の不満が一斉に噴き出したのだ。
「そうだ! 俺たちの村を、畑を、取り返してくれ!」
「女房が! 娘が! あの獣どもに……! なのに、国は、何一つ……!」
「税金だけはきっちり取り立てて、いざという時には知らんぷりか!」
「トルーマンは、ラガンに魂を売った裏切り者だーッ!」
ルクトベルグ公への失望。トルーマン公への憎悪。そして、自分たちを守ってくれないこの国そのものへの、深い絶望。様々な怒号が渦を巻き、一つの巨大な「不信」という名の塊となって、政務院の堅牢な扉へと叩きつけられていた。
【政務院 - 『公』の執務室】
「ルクトベルグ公は、何をしているんだーッ!」
その、ガラスをビリビリと震わせる民衆の怒りの声は、政務院の最も奥にある『公』の執務室にまで確かに届いていた。
ホフラン・ルクトベルグ公爵は、分厚いカーテンの隙間から、眼下で渦巻く怒りと絶望の奔流を、苦々しい表情で見下ろしていた。
最初はトルーマン公への個人的な批難だった。だが、今やその矛先は自分自身に、そしてこの国そのものへと明確に向けられ始めている。
(…………これは、もう、そう長くは引き伸ばせんぞ……)
ラガン王国との全面戦争を避けるため、耐えに耐えてきた。だが、その忍耐が、逆に国内からの崩壊を招きかねない。彼の脳裏に、あの天才発明家の顔が浮かぶ。
(……頼むぞ、ワーレン侯爵。君の『鉄の巨人』だけが、この国に残された、最後の希望なのだ……!)
【政務院前 - タンガたちの視点】
その、政務院の内側で渦巻く焦燥など露知らず。
タンガたちはただ、民衆の怒りの声の中に、次なる「仕事」の匂いを、確かに感じ取っていた。
この国の南で、今、何が起きているのか。
タンガたちの『特別調査室』が、その闇の核心へと再び足を踏み入れることになるのは、それから間もなくのことだった。
量産される鉄の装甲
首都アンヘイムが南から押し寄せる民衆の怒りに揺れていた、まさにその頃。
郊外に立つ巨大な魔導アーマー工場の中は、未来を創り出す熱い槌音に満ちていた。
ガシャン! ウィィィン……。
カション、カション……!
そこは、かつてロスコフが身を縮めて作業していた、あの手狭な工房とは――もはや比較の対象にすらならなかった。
巨大な生産場では、数多の職人たちが、滑車と木枠で組まれた吊搬路に鎖で吊った鋼鉄のパーツを慎重に移動させながら、火花を散らして次々と組み付けていた。
その光景を、ロスコフとラージンは満足げな表情で、二階の司令室から静かに見下ろしていた。
「……素晴らしい。実に、素晴らしいですな、ロスコフ様」
ラージンが心からの感嘆を漏らす。彼の視線の先には、巨大なアームが鋼鉄の装甲にシギルを刻み込んでいく、自動刻印機の姿があった――その動きは、まるで原本をなぞるかのように、狂いなく滑らかだった。
「あの機械……エクレア殿の描かれた原本を、寸分違わぬ精度で複写しておりますな。そして、あの組み立てライン……とんでもないものを、お創りになった。これはもはや魔法ではない。まったく新しい、『技術』という名の奇跡ですぞ」
その最大級の賛辞に、ロスコフは少し照れたように、しかし誇らしげに頷いた。
「ええ。ですが、まだ改善の余地はあります。このペースを維持できれば、いずれは一日10体の生産も可能になるでしょう。……問題は、この鉄の兵士たちを、誰の手に委ねるか、ですが」
彼の脳裏に、リバンティン公国の複雑な派閥の地図が広がっていた。下手に公平に配分すればトルーマン公のような裏切り者の手に渡ってしまうかもしれない。かといって、王家と自分の配下にだけ配備すれば他の貴族からの嫉妬と反発は必至。
(……やはり、当面は我がワーレン家と王家直属の部隊にのみ、配備を限定すべきか……)
ロスコフが思考に沈む。その脳裏に、政務院の前で怒号を上げていた難民たちの姿と、報告書に記された南部の惨状が焼き付いて離れない。
(……だが、時間は、ない。ルクトベルグ公の焦燥が、肌で感じられるようだ……!)
ガチャン……ガキンッ……。
その時、会話を遮るように、完成したばかりの一体の『イグニス』が最終ラインに乗せられ、彼らの眼下をゆっくりと移動していった。鈍色の鋼鉄が、工房の光を反射してギラリと輝く。
「おお、出来ましたな、ロスコフ様」
ラージンが、まるで我が子を見るようにその完成品に目を細める。
ロスコフは悪戯っぽく笑った。
「ええ、見事な出来栄えです。……どうです、ラージン殿? 量産型ですが、記念すべき最初の搭乗者に、なってみませんか?」
そのあまりに突飛な提案に、老魔術師は慌てて首を振った。
「ご冗談を。この老いぼれの身体では、あの巨体を動かす前に、魂の方が擦り切れてしまいますわ」
彼は、逆にロスコフへと視線を向けた。
「……それよりも、ロスコフ様こそ。ご自身が生み出された、この奇跡の兵器に一度乗られてみてはいかがかな?」
その言葉に、ロスコフは少しだけ寂しそうに首を振った。
「……いえ。僕も、あなたと同じですよ。どうやら、創り出す才能と、それを乗りこなす才能は、全くの別物らしい」
自分たちは、搭乗者には向いていない。
二人の天才は、その事実を互いに痛いほど理解していた。
彼らは、ただの「産みの親」。この鉄の子供たちに命を吹き込み、戦場へと送り出すのは、また別の、選ばれた者たちの役目だった。
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