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五芒星

遥か南の地で流された血は、数ヶ月の時を経て、ついに帝国の空を赤く染めた。リバンティンでの敗北という報せが、グラティア教の本拠地がある帝国首都『スタンハーペン』に届いたのだ。深淵が、その口を開けようとしていた。

              その159




深淵のとが


血のように赤い夕暮れが、グラティア教の本拠地であるロマノス帝国の首都『スタンハーペン』を染め上げていた。リバンティン公国北部での惨めな敗報がこの地に届いたのは、エイゼンたちがアンヘイムへ凱旋してから、数ヶ月が過ぎた頃のことだった。



報告を携えてきたのは、エイゼンたちの追撃をかろうじて逃れた一人の斥候。傷つき、泥と恐怖に汚れ果てた彼は、あの禍々しい**【恩寵塔】**の中層に作られてある、『儀式の間』へと、まるで罪人のように引きずられていた。


**キン……**と、磨き上げられた黒い大理石の床が放つ冷気が、肌を針のように刺す。そこには十数名のインクイジトルとミレス・サケルたちが、まるで石像のように静かに彼を待ち受けていた。その中央に立つのは、彼らの上官である一人の大司教。彼の纏う純白の法衣だけが、周囲の闇の中で不気味に浮かび上がって見える。


「……それで? リバンティンの首尾は、どうなった」


大司教の声は、何の感情も温度も感じさせない、ただの音の連なりだった。


「は……はい! まことに、申し訳…ございません……!」斥候は床に額を擦り付け、恐怖で震える喉から声を絞り出す。「ラクリマ様は、討ち死に……。ミレス・サケルも、全滅……。拠点は…全て、破壊され……!」

(息をするな。呼吸すら、この方々の不興を買うやもしれぬ…!)斥候の心臓が、耳元で狂ったように鳴り響く。


「……そうか」


大司教は短く応じると、隣に立つミレス・サケルに、ただ一瞥を送った。それだけが合図だった。

ザッ……。

ミレス・サケルが機械的な動作で一歩前に出る。その衣擦れの音だけが、やけに大きく響いた。


「ひぃっ……! お、お待ちください……! 私は……命からがら……この報告を……!」

斥候の声は、まるで凍てついた空気に吸い込まれるように、誰の耳にも届かぬまま消えていった。

その場にいた者たちは、ただ沈黙の中で彼を見下ろしている

目に宿るのは、憐れみでも怒りでもない。

それは、感情の死骸のような冷たい光を宿していた。

斥候の膝が砕ける音が、場の静寂を裂いた。

彼の震える声は、まるで自分自身の死を読み上げる哀歌のようだ。



ザシュッ。

一閃。空気が裂ける音と共に、肉を断つ湿った響きが場を支配した。


斥候の首は、悲鳴すら許されぬまま、床へと転がる。


その眼は、まだ何かを訴えようとしていたが、すでに声は失われていた。

胴体から噴き出した血は、黒い大理石の床に醜く広がり、まるで神罰の印のような模様を描いて流れていく。


誰も動かない。誰も言葉を発しない。


塔に灯る静なる刃は、ただそこに在るだけで、命を断つ。

その一撃は、裁きではなく、世界の均衡を保つための儀式だった。



「……敗北の報告に、価値はない」

大司教は、足元に広がり始めた生温かい血の池を一瞥もせず、静かに告げた。「この件、私が直接、あのお方にご報告に上がる」


その言葉が発せられた瞬間、その場にいた全てのインクイジトルたちの身体が、ピシリと、凍てついたかのように硬直した。彼らの瞳に宿ったのは、死よりも深い、絶対的な恐怖の色だった。


ゴオオオオオオ……。


大司教はただ一人、恩寵塔の最下層——『恩寵の試練場』へと続く、終わりなき螺旋階段を黙々と下りていく。

壁に並ぶ松明の炎は、まるで地獄の底から吹き上げる瘴気に煽られ、不規則に揺らめき、影を歪ませる。

その光は、導きではなく、罪と記憶を暴く拷問灯のようだった。


上層から微かに届いていた聖歌の残響は、すでに闇に呑まれ、代わりに肌にまとわりつく湿った冷気が、衣の下の肉を這い回る。


壁の石からは、遠い過去の呻き声が染み出していた。


それは言葉にならぬ断末魔、神の波動に耐えられず砕けた異界のモノたちの、魂の残響。

この場は、神に選ばれなかった者たちの記憶が沈殿する、恩寵の影の墓所。

大司教は知っていた。

この階段を下りきった先に待つのは、試練ではない。

神の沈黙に触れる儀式の場と成っている事を。



大司教は、終わりなき螺旋を延々と降り続けた。

足はすでに感覚を失い、棒のように硬直し、膝は軋み、呼吸は浅くなる。

それでも彼は止まらなかった。

そしてついに——

最後の一段を踏みしめた瞬間、空気が変わった。

音が消えた。熱が消えた。

そこは、恩寵塔の最下層。


大司教は、息をするたびに自らの精神が削られていくのを感じた。

この場は、ただの空間ではない。


それは、神の恩寵が届かぬ場所——選ばれなかった者たちの記憶が沈殿し、腐敗し、祈りに変わることなく朽ち果てた場所。

黒水晶の尖端から滴る光は、光ではなかった。


それは、かつて神に触れようとして砕けた半神たちの断末魔の残響。

壁の奥から、誰かが囁いている。

いや、囁いていた“ような気がする”だけだ。


大司教は、足を止めた。

目の前に広がるのは、巨大な円形の祭壇だ。

その中央に、塔底に灯る静なる刃が、まるで時間そのものを封じるように、微動だにせず佇んでいた。

彼女の周囲には、血の模様が幾重にも重なり、まるで神罰の曼荼羅のように床を覆っている。


そして、大司教は悟った。

ここは試練の場ではない。

ここは、神の記憶が沈黙する場所なのだと。

中央にある、最も巨大な黒水晶の前に、その女性は、まるで闇そのものから生まれ落ちたかのように、静かに佇んでいた。

流麗な、しかし見る者を畏怖させる、禍々しい漆黒の鎧。その曲線は、女性的な肉体を妖艶に強調しながらも、あらゆる攻撃を拒絶する絶対的な硬度を誇っている。


見た感じ齢は、30代ほどに見える。だが、その瞳の奥に宿る闇は、千年の時さえも浅く感じさせるほどに、深く、そして冷たい。

エロティックでありながら、神聖であり美しく、しかし、残酷。


⟦✦《ネバ》✦⟧。

神人統括(Dominus Dei-Hominum)。第一恩寵使徒(Apostolus Gratiae Primus)。

【死刑執行人】神人と言われる者たちさえも、その御前では赤子同然となる、絶対的な支配者の一神。


大司教は、その広間の入り口で膝をつき、深く、深く、頭を垂れた。ここより先に進むことは、彼には許されていない。心臓の音が、ドクン、ドククンと、うるさいほどに耳に響く。ここで一つでも言葉を間違えれば、次の息を吸うことを許されぬまま、塵と化すだろう。



「……恐れながら申し上げます、⟦✦《ネバ》✦⟧様」


彼は、震える声を喉の奥に押し込めながら、リバンティンでの一件を報告した。

一言一句、間違えぬよう、まるで神罰の刃に触れぬよう言葉を並べる儀式のように、丁寧に、慎重に。

その場に響くのは、彼の声と、⟦✦《ネバ》✦⟧の沈黙だけ。

空気は重く、言葉は刃の上を歩くような緊張を孕んでいた。

彼は知っていた。

一語でも誤れば、その場に灯る静なる刃が、世界の均衡のために彼を断つことを。



イグナの敗北。ヴァルド、ノクス、ミレナ、そしてラクリマの死。拠点の壊滅。

しかし報告が終わっても、ネバは、何も言わなかった。


ただ、その美しい指先で、自らの漆黒の鎧の籠手を、**コツ……コツ……**と、静かに爪弾いているだけ。

その、心臓の鼓動と重なる規則正しい音が、大司教の精神を、じわじわと締め付けていく。


やがて、ネバはその音を止めると、初めてその血のように赤い唇を開いた。


「……それが、すべてか」


⟦✦《ネバ》✦⟧の声は、囁きにも似ていた。

だがその響きは、空間の奥底にまで染み渡り、神界と人界の律を震わせる波動を孕んでいて

その振動だけで、大司教の膝は、音もなく崩れる。


彼の精神は、言葉の重みに耐えきれず、沈黙の刃に斬られたかのように裂けていく。

ネバは、再び指を動かすことはなく、ただ、視線だけが、報告者の魂の奥底を見通しているかの様に大司教は感じていた。しかしその瞳は、裁きではなかった。

それは、世界の均衡を測る天秤のような沈黙だといえるだろう。


大司教の脳裏に、【責任者】を連れて来なさい。 そうイメージが浮かび上がる、

すると、大司教は、素早く思考、この問題の責任者と言えばあのお方だろうと解釈。


ネバ様にとって、地の底の虫けらどもが何をしようと、それは取るに足らない些事。問題なのは、その虫けらごときに、自らの配下である**「神の使い」**たちが、立て続けに敗れたという、神罰の威光が揺らいだ事実。


大司教は、ブルブルと震えながら、玉座の間に備え付けられた、黒い水晶の通信盤に手を伸ばした。

「……至急……! 恩寵導主、アグナス様を、こちらへお呼びしろ……! ネバ様が、お待ちである、と……!」


どれほどの時間が、過ぎただろうか。


コツ……コツ……。

広間の奥から、一つの足音が響いてきた。


現れたのは、豪奢な法衣に身を包んだ、一人の老人。恩寵導主【アグナス】。今回のリバンティン侵攻作戦の、最高責任者だった。

彼の後ろには、先ほどの大司教が、顔面を蒼白にさせながら、まるで亡霊のように控えて下をむいたままだ、これから何が起こるのか、想像し、見ない振りを決め込んでいたのだ。


「……ネバ、様。お呼びと、伺い……」

アグナスは、広間の中央で膝をつき、深く頭を垂れる。


ネバは、初めて、その場所からゆっくりと動き出した。

ヒールの音が、**カツン……カツン……**と、静寂の中で不気味に響く。彼女が動くたびに、まるで冬の夜空のような、冷たく澄んだ香りがふわりと漂った。それは決して人のものではなく、魂を内側から凍てつかせる神性の香りだった。


彼女は、アグナスの目の前で足を止めると、その美しい指先で、彼の顎をくい、と持ち上げた。

「アグナス」

その声は、蜜のように甘かった。


「あなたは、私の可愛い子供たちを、どこへやったのかしら?」

「そ、それは……! 予期せぬ、抵抗が……!」

(…ああ、そうだ。この方はいつもこうだ。慈母のような優しさで問いかけ、そして、次の瞬間には…)アグナスの脳裏に、かつて同じように粛清された同僚の最後の姿が一瞬よぎった。


アグナスの言い訳は、無意味だった。

「そう」

ネバは、うっとりと、微笑んだ。

「なら、あなたも、彼らと同じ場所へ、還してあげるわね」


次の瞬間。

ブシャアアアアアアアッ!!!

アグナスの身体が、何の予兆もなく、内側から破裂した。


肉と、骨と、血が、まるで熟れた果実のように弾け飛び、周囲の黒水晶を、グロテスクな模様で染め上げる。生温かい血飛沫が、後ろに控えていた大司教の顔を汚した。


「ひっ……! あ……ああ……!」

その、あまりに唐突で、あまりに無慈悲な粛清を目の当たりにして、大司教は腰を抜かし、その場で失禁した。熱い液体が法衣を濡らす感覚すら、今の彼には認識できなかった。


だが、恐怖は、まだ終わらない。


ネバは、その血飛沫を一滴も浴びていない、純白の指先で、床に散らばる“アグナスだったもの”の肉片を一つ、静かにつまみ上げた。


それは、まるで宝石でも拾い上げるかのような、優雅な所作だった。


そして彼女は、それを震える大司教の口元へと、ゆっくりと差し出した。


「さあ、お食べなさい」


その声は、まるで母親が子に食事を与えるかのように、優しかった。


だがその優しさは、神罰の余韻に満ちた静寂の中で、狂気にも似た慈愛として響いた。

大司教の喉は、拒絶の言葉すら発せず、ただ震え続ける。


彼はそれを悟ったが、体が固まったまま拒否していた。


それは命令ではない。

これは、**神の律に触れた者への儀式的な“受容”**なのだと.....。


そんな大司教に、ネバは、ただ自然に、当たり前の様に。 


「あなたの、不出来な主人の、最後の欠片よ。……残さず、綺麗に、いただくの、良いわね?」

言葉は、出なかった。


大司教の喉からは、**「ひっ……ひっ……」**という、空気が漏れるような、引き攣った音しか出てこない。恐怖が、声帯を完全に麻痺させていたのだ。


彼は、ただ涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、芋虫のように、必死に後ずさろうとする。だが、その身体は、まるで床に縫い付けられたかのように、動かなかった。


ネバの瞳が、スッと細められた瞬間。

彼の身体は、見えない力で完全に拘束され、彼の口が、意思に反して、ゆっくりと、**ギギギ……**と音を立てて開かれていく。


その口の中に、ネバは、アグナスの肉片を、そっと滑り込ませた。

ゴクリ、という、生々しい嚥下音。鉄臭い味と、ぬるりとした感触が、彼の精神を完全に破壊した。


「……そう。いい子ね」

ネバは、満足げに微笑んだ。


「さあ、床にこぼれた分も、全て、綺麗になさい。」

拘束が解けた大司教は、もはや正気ではなかった。


彼は、もはや人間としての尊厳を完全に放棄し、ただ生存本能だけに従って、四つん這いになり、床に散らばった、かつての上官の、ぐちゃぐちゃの、びちゃびちゃの亡骸を、犬のように、必死に、舐め取り始めた。


その、あまりに悍ましく、冒涜的な光景を、ネバは、心底楽しそうに、ただ、見つめていた。

彼女にとって、リバンティンで何が起きたかなど、どうでもいい事だった。

ただ、自らの支配下で起きた「不協和音」を、自らの手で、最も美しい「調律」にかけること。

それだけが、彼女の、最高の愉しみだったのだ。



工房のハーモニーと、影の織り手


タンガたちが北部での死闘を終え、アンヘイムへと帰還した頃、ロスコフの地下工房は、かつてないほどの熱気に満ちていた。未来を鍛造する炉のように、希望と活気が渦巻いている。


ゴウン……ガコンッ!

「――クーガー! 右腕の上げすぎだ! バランスを考えろ!」


「す、すみません、ゲーリック隊長!」

庭での基礎訓練を終えた、マルコ、クーガー、ケルギギスの三人の騎士が、ついに完成したそれぞれの専用機に乗り込み、最終調整を行っていた。マスターナイトであるゲーリックが駆る試作一号機に続き、新たに三体の鉄の巨人が、その巨躯を揺らす。


彼らの顔は、少年のような興奮と、国の未来を担うという、騎士としての誇りに輝いていた。

「……ふむ。魔力の循環は、実にスムーズですな。シギルの配置が、これほどまでに効率的とは……」


工房の隅で、その光景を眺めていたラージンが、感嘆の声を漏らす。彼の目は、鉄の巨体ではなく、その内部を流れる、美しい魔力の奔流を見透かしている。


「ですが、ロスコフ殿。この稼働時間ですと、実戦では半日もつかどうか……。魔晶石のエネルギー効率に、まだ大分と改善の余地がありそうですな」


「はい、そうなんです、そこが課題となっていますが、先にする事が多くて手が回っていなかったんです。」

ロスコフは、山のような計測データを前に、嬉々として頷いた。


(やはり、高純度の魔晶石ほど、回復時間も早い。僕が持つ、あの二つの**『大魔晶石』**を使えば、理論上は何十倍も長く、稼働が可能になるはず……。だが、あの“心臓”に見合う“身体”を作る鉱石を見つけ集めなければ、まだまだ、先にやる事がある)


試作機の調整、量産化のための工場建設の準備、そして、自動シギル刻印機の開発。


やるべきことは、山積みだった。ロスコフは、まさに、てんてこ舞いの状態だったが、その顔には疲労よりも、充実感が満ち溢れていた。


それは、彼がもはや、一人ではないからだ。


「侯爵。こちらの計算式ですが、失われた古代文明の文献にあった**『反動相殺の術式』**を応用すれば、関節部への負荷を、さらに12%は軽減できるかと存じます」


王立図書館から戻ったノベルが、新たな知見を差し出す。彼の協力がなければ、このプロジェクトは、とっくに暗礁に乗り上げていただろう。


コンコン……。

「あなた。また、夢中になってますのね」


そこへ、アンナが、銀のトレイに乗せた紅茶を運んでくる。


その穏やかな光景を、アンナは心から愛していた。

ロスコフを助ける者たち――ノベルも、ラージンも、彼女にとっては、夫の偉業を助ける、愛すべき協力者なのだ。


(……ただ一人、あのシーフを除いては)

彼女は、エイゼンの存在を、確かに感知していた。彼の持つ、あの“影”を視る瞳は、いずれ自分たちの秘密にたどり着くかもしれない、危険な力。通常であれば、影の中で、静かに始末するところだ。


だが、彼もまた、今はロスコフの役に立っている。ならば、生かしておきましょう、そう考えていた。


そのため、アンナは、全てを知りながら、知らないふりをすることに決めている。


その夜。

自室に戻ったアンナは、眠る夫の寝顔を静かに見つめていた。


そして、誰にも気づかれぬまま——その本性を現す。


彼女の指先からは、金色の、しかし誰の目にも見えない、無数の光の糸が、静かに紡ぎ出されていく。


“運命の糸”。


スルスル……。

それは、世界の構造に触れる者だけが操れる、未来の織り手の技。


アンナは、ロスコフの未来に絡みつこうとする、トルーマン公の「妨害」の糸を一本、見つけ出す。

その糸は、黒く、冷たく、ねじれた意志を孕んでいるのが彼女には分かった。


すると彼女は、何の躊躇もなく、自らの金糸を絡め、ぷつりと、それを断ち切ったのだ。

音はなかった。

だが、世界の律が一つ、静かに書き換えられた瞬間だった。


キラキラ……。

次に彼女は、ロスコフの研究が成功へと向かう「幸運」の糸を、より強く、太く、編み直していく。


それは、世界の理を司る三柱の神の一柱——**制約の神⟦≡《ヴェイル》≡⟧**の領域に、真っ向から喧嘩を売るに等しい、あまりに危険な禁忌の御業だった。

下手をすれば、世界の法則に反逆したとして、彼女自身が——ある日突然、誰にも知られることなく、存在していた痕跡すらも残らず、理の底に吸い込まれてしまうかもしれない。


それでも、アンナは糸を紡ぐ。


(ああ、私の愛しい人。貴方の未来を脅かす小石は、すべて私が取り除いてあげます。

この身が⟦≡《ヴェイル》≡⟧に裁かれ、塵と化そうとも——貴方さえ、輝いてくれるなら……)


なぜ、そこまでするのか。

高位の悪魔である彼女が、なぜ、たった一人の人間のために、自らの命の炎を削り、存在そのものを危険に晒すのか。


その答えは、彼女自身にも、分からなかった。ただ、この愛しい男の、幸せな未来を創るためならば、自分の全てが燃え尽きても構わない。

その、信じられないほどの衝動だけが、彼女を突き動かしていた。




『諜報部』始めました


エイゼンたちが北部での任務を完遂し、アンヘイムに帰還してから、数日後のこと。


ワーレン邸の玄関に、一台の、ひときわ豪華な馬車が乗り付けた。降りてきたのは、『公』ホフラン・ルクトベルグ公爵その人だった。


書斎に通された公爵は、ロスコフに対し、これまでの人生で最も深く、と言っても過言ではないほど、その頭を下げた。


「……ワーレン侯爵。君には、なんと礼を言えばいいか……。君が派遣してくれた、あの勇士たちのおかげで、北の反乱分子は完全に鎮圧された。我が領地の、そしてこの国の危機を救ってくれたこと、心より感謝する」


その、あまりに真摯な礼に、ロスコフは少し照れたように言った。


「いえ、公爵。礼を言うべきは、僕ではなく、実際に動いてくれた彼らですよ」

彼は、控えていたエイゼンたちを、公爵に紹介した。


ルクトベルグ公は、薄汚れた(しかし、とてつもなく腕の立つ)冒険者たち一人ひとりの顔をじっと見つめると、その能力を高く評価し、そして、全く予想外の提案を口にした。


「……そこで、だ。ワーレン侯爵。君には、この国の行政の中心である**『政務院』**に、正式な事務所を設立していただきたいんだよ」


「……は?」

「君の研究は、もはや君個人のものではない。国家の最重要機密だ。その情報管理と、君自身の警護、そして国内外の不穏分子を調査するための、公式な機関が必要だと判断した」


そして、彼はエイゼンたちに向き直った。

「その事務所を、君たちの新たな拠点として、自由に使ってほしいのだ。国が、君たちを正式に雇用する。どうだろうか?」


シーン……。

その場に、気まずい沈黙が流れた。

国の諜報員。安定した給料。それは、普通の人間にとっては、願ってもない申し出だろう。


だが、相手は、自由を愛し、スリルに生きる、A級冒険者たちだ。

ロスコフは、困ったように、タンガたちへと視線を向けた。


「……と、いうことなのだが。皆は、どうしたい?」


その問いに、即座に答えたのは、エイゼンだった。


「――謹んで、お受けいたします」

その、あまりに食い気味な即答に、今度は仲間たちが「はぁ!?」と声を上げた。


「おい、エイゼン! 俺は、そんな堅苦しい仕事はごめんだぜ! ロスコフ様の側で、用心棒してた方が、よっぽど……」


タンガが、不満を露わにする。

だが、エイゼンは、そんな親友の肩を、ポンと叩いた。


「おいおい、タンガ。いつまでも、この居心地のいい屋敷で、ロスコフ様にくっついてるだけじゃ、本当の意味でお役には立てねえぜ? それに……」


彼は、何か企んだ時に見せる、悪そうな笑みを浮かべた。

「聞いたか? **『予算は、国がバックアップする』**ってよ。つまり、俺たちの“仕事”は、金が、使い放題ってことだ……!」


その言葉に、グリボールの目がギラリと光り、パトリックでさえ、ゴクリと喉を鳴らす。


その雰囲気に負けたのか? 


「……わ、分かったよ! 行けばいいんだろ、行けば!」

タンガは、子供のように唇を尖らせながらも、その提案を受け入れた。


こうして、ここに、リバンティン公国史上、最も異色で、最も腕の立つ、しかし最も規律という言葉を知らないであろう、**『ワーレン侯爵付・特別調査室』**が、爆誕した。


メンバーは、室長のエイゼン、現場指揮官のタンガ、武力担当のグリボール、そして後方支援兼お目付け役のパトリック。さらに、エイゼンが裏社会からスカウトした、腕は立つが素性は聞かないでくれ、という男女10名の諜報員たち。


会計や書類仕事ができる人間が、一人もいない、という致命的な欠陥を抱えながら。


(……ノベルさん、やっぱり来てくれませんかねえ……)

ロスコフは、これはやばいと考えていた、しかしもうokを出してしまった後なので今更断る事は出来ない、頭脳担当に断られたことを思い出し、これから始まるであろう、凄まじい量の予算申請書と、始末書の山を想像して、一人、遠い目をするだけだった。



影の庭師たち


エイゼン率いる『特別調査室』が発足して以来、ワーレン邸は、二つの顔を持つようになった。

昼の顔は、国家の未来を担う、革新技術の開発拠点。


そして、夜の顔は、国内外のあらゆる脅威を探り出す、諜報機関の本部。


エイゼンたちが掴んでくる、トルーマン公の不穏な動きは、逐一ロスコフの元へと報告された。だが、彼の指示は、常に同じだった。


「――泳がせておいて。彼が、どのような“切り札”を隠し持っているのか、全て見極めるまでね」


だが、トルーマンという、目に見える脅威以上に、ロスコフを悩ませていたのは、もっと厄介な、目に見えない圧力だった。


魔導アーマーの存在は、まだ極秘のはず。だが、情報に鋭敏な、力ある貴族たちの間では、既に**「ワーレンが、国家予算を食い潰し、何か途方もないものを創っている」**という噂が、真実味を帯びて広まり始めていた。


「ワーレン侯爵、一度、我らにもその『研究』とやらを、お見せ願えんだろうか?」

「ええ、ロスコフ様。我がバンクシー公爵家も、国の未来のためとあらば、協力は惜しみませんことよ?」


探りを入れるような、あるいは、甘い言葉でその秘密をこじ開けようとする貴族たちのコンタクトが、日に日に増していく。


だが、その全てを、完璧な微笑みと、非の打ち所のない貴族としての作法で、アンナは、実に巧みに捌いていた。


「まあ、皆様、ご心配には及びませんわ。我が主人は、ただ、父祖伝来の魔晶石の研究に、少しばかり夢中になっているだけでございます」


彼女は、全ての客を、決して不快にさせることなく、しかし、一切の核心に触れさせずに、煙に巻いて帰していく。


その完璧な立ち居振る舞いに、誰もが彼女を「理想の侯爵夫人」と賞賛した。


その、慈愛に満ちた微笑みの裏で、彼女が冷徹に、夫の「敵」を値踏みしていることなど、誰一人として知る由もなかった。



【深夜 - 首都アンヘイム 貴族街】


カツン……カツン……。

月明かりだけが照らす、静まり返った貴族街の石畳を、一人の少女の足音が、軽やかに響く。

侍女トレビア。齢16歳。

だが、そのあどけない少女の瞳の奥には、数千年の時を生きる、高位の悪魔**【ベロニカ】**の、冷たい知性が宿っていた。


彼女は、夜な夜な、こうして屋敷を抜け出していた。こちらの世界では頭となるアンナの、密命を遂行するために。


『――あの男は、ダメよ。彼の“運命の糸”は、いずれ、ロスコフ様のそれに、害をなす形で絡みついてくるわ』


アンナが下した、静かな死刑宣告。


ベロニカの標的は、最近、特に執拗にロスコフの研究を探っていた、ある子爵に向けられていた。

子爵邸の、堅牢な警備など、彼女にとっては無に等しい。彼女は、まるで影のように、音もなく敷地内へと侵入し、主の寝室の窓辺に、静かに舞い降りた。


**ス……**と、窓ガラスが、まるで最初からそこに無かったかのように、溶けるようにして消える。

眠る子爵の傍らに立ったベロニカは、その指先に、古語で編まれた、禍々しい光を灯した。


アンナと同じ、「秘密の印章」――『ホタム・ソーディ』。

「――来たれ、我が僕よ。新たなる“器”を、汝に与えん」


彼女の囁きに呼応し、床の影が、ズルリと、粘性を帯びて蠢き始めた。


影の中から、一体の悪魔が這い出してくる。ねじくれた角を持つ、グレーターデーモンだ。


だが、この世界での顕現は、彼の力を著しく制限する。「魂律一致度」こんりついっちどの低いベロニカの身体では、彼を長時間、この世に留めておくことさえできない。


だからこそ、新たな「器」が必要なのだ。


悪魔は、眠る子爵の身体に、まるで霧のように、静かに溶け込んでいった。


子爵の身体が、**ビクンッ!**と一度、大きく痙攣する。だが、それだけだ。


やがて、彼の寝息は、何事もなかったかのように、静かなリズムを取り戻しす。


確認が終わると、ベロニカの仕事も、終わった。


彼女は、子爵の魂の奥深くに、強力な「爆弾」を、確かに埋め込んだのだ。


それは、普段は眠り続け、誰にも気づかれることはない。だが、主であるアンナやベロニカが、ただ一言、命じるだけで、いつでもその宿主の身体を乗っ取り、内側から全てを破壊し尽くす、恐るべき僕に変えていたのだ。


しかし、ベロニカは今の身体に、確かな不安を覚えていた。


悪魔の力を使うたびに、器の損傷は激しくなっていたからだ。


そして彼女は、もう間もなく——この身体が使えなくなることを、はっきりと理解していた。


(……この身体も、そろそろ限界だな)

ベロニカは、自らの指先が、微かに黒い粒子となって崩れ始めているのを見つめた。

この「魂律一致度こんりついっちど」の低い人間の器では、彼女のような高位の悪魔の力を、完全に抑え込むことはできない。


力を使いすぎれば、この便利な器も、いずれは溶けて、跡形もなく消えてしまうだろう。

それは、力の代償としての崩壊。

そして彼女は、それを受け入れていた。

まだ、使えるうちは——この器を、使い切るだけだと。



彼女は、静かに、そして迅速に、その場を後にした。


ワーレン邸では、何も知らない侍女トレビアの妹、アメリアが、帰らない姉を心配して、まだ眠れずにいたことなど、知る由もなく。


ロスコフの輝かしい未来のため、その足元に広がる闇は、彼の知らないところで、夜ごと、静かに、そして着実に、深まっていた。






最後まで読んでくださりありがとう、また続きをみかけたら読んで見て下さい。

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