静寂の戦端
その158
―静寂の戦端
その夜、ハルマッタンの村を包む静寂は偽りのものだった。
月明かりの下、二つの影がまるで闇から滲み出すように、村を流れる川のほとりへと現れた。
【第一の作戦:橋の見張りを“消す”】
「……二人。橋の下に一人、対岸の茂みに一人だ」
エイゼンは物陰からささやくように言った。彼の**《穿影の瞳》**は、暗闇さえも透過し敵の位置を正確に捉えている。
「手練れだ。普通の兵士じゃねえ」
その隣で、ロゼッタが【烈風剣】を静かに抜き放った。
「私が橋の下を。あなたは対岸を」
「了解だ」
フッ……と、ロゼッタの身体が夜風に溶けるように音もなく動き出す。橋の下で見張りの男が寒さに身を震わせた、その瞬間。彼の背後に霧のようにロゼッタが現れ、柄頭での的確な一撃が男の意識を刈り取った。
ほぼ同時刻。対岸の茂みでもう一人の見張りが、ふと奇妙な違和感に気づいた。
(……おかしい。さっきまで聞こえていた虫の声が、完全に止んでいる……?)
その思考が、彼の最後のものとなった。
彼の意識の“影”に潜り込んでいたエイゼンが、その思考が警戒へと変わるまさにその一瞬を**“盗み取った”**のだ。男の反応がコンマ数秒遅れる。
その致命的な隙を突き、エイゼンの短剣が背後から音もなくその首筋に深々と突き立てられた。
二人の見張りは、悲鳴一つ上げることなく闇の中へと消えた。
【第二の作戦:食料庫の物資を“盗む”】
村の反対側。村人たちの共有の食料庫として使われている石造りの大きな建物の屋根に、三つの巨体が音もなく舞い降りていた。
「……ここだな」
グリボールが、その重厚な扉に手をかける。
**ギ……。**と、錆びついた蝶番が、微かな音を立てた。
「……グリボールさん、静かにって言われたでしょう」
タンガが、呆れたように小声で窘める。
「**わかっておるわい。**お主こそ、勢い余って壁の一つでもぶち抜くんじゃないぞ」
グリボールはそうぼやくと、扉の隙間から、そのゴツい筋肉質の体を巧みに内部へと滑り込ませた。
扉の隙間から三人は内部へと滑り込んだ。内部には村人たちから徴収されたであろう大量の小麦袋や塩漬けの肉樽が積まれている。
だが、彼らが運び出そうとしたその時、食料庫の隅の暗闇から「グルル……」という低い唸り声が聞こえた。
そこには見張りとして配置されていたのであろう一体の「成り果て」が、その光のない瞳でこちらを睨みつけていた。
「ちっ……! やはり、いやがったか!」グリボールが咄嗟に**《地砕きの魔斧》**を構える。
だが、タンガがその肩を静かに押さえた。
「……待って、グリボールさん。こいつは……俺が」
タンガは武器を構えず、ただその両の拳をゴキリと鳴らしただけだった。成り果てが獣のような咆哮を上げて飛びかかってくる。その瞬間、タンガの身体が僅かに沈み込んだ。
ドンッ!!
彼が踏み込んだ床の石畳が蜘蛛の巣状に砕け散る。**《穿界者の残響》**の力は、彼に大地そのものと一体化するような絶対的な重心を与えていた。
成り果ての突進を、彼はまるで大樹のようにその場で受け止め、カウンターの拳が成り果ての顎を下から撃ち抜く。
ゴキャッ!
おぞましい骨の砕ける音と共に、成り果ては一言の悲鳴も上げることなくその場に崩れ落ち、塵となって消えていった。
「……よし。続けよう」
タンガは何事もなかったかのように、再び小麦袋を担ぎ上げた。
その夜、ハルマッタン領主の館では、見張りの兵士が二人忽然と姿を消し、そして食料庫の備蓄がごっそりと減っていることに、誰もまだ気づいてはいなかった。静かな村を舞台とした心理戦の駒は、まず冒険者たちによって着実に進められたのだ。
―追う者
作戦開始から三日目の夜。ハルマッタンの村を包む空気は、目に見えて張り詰め始めていた。毎夜音もなく消える見張り。毎夜理由もなく減り続ける食料。領主の館に詰めるグラティア教の兵士たちの間には、得体の知れない「何か」に対する疑心暗鬼と恐怖が濃い霧のように立ち込めていた。
そして、四日目の夜。ついにエイゼンが予測した通り、**“動き”**がでた。
【西の橋】
物陰で息を殺していたタンガとグリボールの目に、それは飛び込んできた。館の方角から一人の伝令と思しき男が、馬を駆って猛烈な速度で橋を渡っていく。
「……来たな!」タンガが逸る気持ちを抑えきれずに腰を浮かせた。「追うか!?」
「待て、馬鹿もの」グリボールが、節くれだったぶっとい腕でタンガの肩をぐっと押さえつけた。
「エイゼンの指示を覚えておらんのか。『西の橋から現れた伝令は、ただ見過ごせ』と言っておったじゃろう」
「な、なんでだよ!」
「儂が知るか。だが、それが作戦と言うもんじゃろ」
タンガは悔しそうに唇を噛み締めながらも、闇の中へと消えていく伝令の背中をただ見送るしかなかった。
【東の橋】
ほぼ同時刻。東の橋を見張っていたエイゼンとロゼッタの前に、もう一人の伝令が現れた。だが、その様子は西の男とは明らかに違っていた。彼は馬を使わず、徒歩で、まるで何かに怯えるかように絶えず周囲を警戒しながら足早に橋を渡っていく。
「……ビンゴだ」エイゼンの口元に笑みが浮かんだ。「こっちが本命か」
「簡単な陽動さ。派手に馬を飛ばした西の伝令はただの“囮”。本物の重要情報を運んでるのは、こうして地味に動くこっちの男の方だ」
エイゼンはロゼッタに向き直った。「俺はこいつを追う。ロゼッタさんはここでもう少し様子を見て、異常がなければタンガたちと合流してくれ。よろしく頼む」
「……分かったわ。気をつけて」
エイゼンは答えなかった。彼は既に、伝令の男が残した**“影の残滓”を捉え、その身を夜の闇に完全に溶け込ませていた。追跡はまるで影を追う影のようだった。エイゼンは決して男に近づかず、付かず離れずの距離を保ちながら、ただ男が残していく微かな魔力の痕跡と記憶の“影”だけを道標として追っていく。それが《影穿のアーキス》**である彼にしかできない、完璧な追跡術だった。
伝令の男は村を出ると、森の中の獣道さえない場所を迷いなく進んでいく。やがて彼は苔むした巨大な岩壁の前で足を止め、岩肌に刻まれた微かな紋様に手を触れて何事か呪文を唱え始めた。
ゴゴゴゴゴ……。
重い音を立てて岩壁の一部が内側へとスライドし、地下へと続く暗い入り口が現れた。
(……ここか。親玉の鼠の巣は)
エイゼンは木の上からその光景を静かに見下ろしていた。
伝令の男が中へと消え、岩壁が再び閉じるのを確認すると、彼はその場所に仲間たちだけが分かる微かな印を残した。そして、一度も振り返ることなく再びハルマッタンの村へとその身を翻した。彼の仕事は追跡まで。ここから先は仲間全員で、華麗に、そして確実に“お宝”をいただくための「最高の仕事」の時間だった。
―最高の仕事
エイゼンが仲間たちと合流し、敵本拠地の場所を告げたのは、夜が最も深くなる刻だった。
廃屋に集った一行の顔には疲労ではなく、これから始まる「仕事」へのプロフェッショナルな高揚感が浮かんでいた。
「――作戦はシンプルだ」エイゼンは土間に描いた新たな地図――岩壁のアジトの入り口を指し示した。「壁を開ける呪文は、俺の“瞳”が既に盗んである。問題は中だ。おそらくはハミルトンで見た成り果てどもがうじゃうじゃいやがるだろう。そして奥には、今回の“ターゲット”である指揮官クラスがいるはずだ」
彼は仲間たちの顔を見回した。
「リバック、グリボール、タンガ。お前たちが壁だ。何が出てこようと正面から叩き潰せ。パトリックはその後方から支援。ロゼッタは遊撃。俺は“影”に徹する。いいな?」
「「「応ッ!!」」」
【グラティア教 北部拠点 - 深夜】
苔むした巨大な岩壁の前で、エイゼンは伝令の男が唱えていた古の言葉を静かに紡いだ。
ゴゴゴゴゴ……。
重い音を立てて岩壁が内側へとスライドし、地下へと続くカビ臭い階段が現れる。
「――行くぞ!」
タンガの雄叫びを合図に、一行はその暗闇へと突入した!
だが、そこで彼らが目にしたのは、ただの成り果てどもの巣窟などではなかった。広大な地下空間。そこは明らかにハルマッタン領主の館を乗っ取った先遣隊とは規模の違う、本格的な前線基地だった。
松明の光に照らし出された広間には二十体を超える「成り果て」どもが蠢き、その周囲を**四人の【ミレス・サケル】**が鉄壁の陣形で固めている。
そして、その最奥。玉座のような椅子に一人の男がゆったりと腰かけていた。彼が纏うのは他の審問官とは明らかに意匠の違う、より豪奢な黒鉄の法衣。そして、その仮面はまるで泣いているかのような奇妙なデザインが施されていた。
「――ネズミどもが、よくも嗅ぎつけたものだな」
男が立ち上がった。その声はまるで墓場の底から響いてくるかのように、冷たく重い。
「イグナ様がハミルトンで“神の使い”に敗れただけでなく、ノクスとミレナまでもが貴様らのような地の底を這う虫けらに討たれたと聞き、冗談かと思っていたが……。どうやら真であったらしい」
その言葉にタンガたちは戦慄した。同僚の死を語るその声には、悲しみや怒りではなく、ただ出来の悪い駒を処分したかのような冷たい侮蔑しか感じられない。
「我が名はラクリマ。『嘆きの審問官』だ。貴様ら異端者が我が同胞たちに与えた苦痛と屈辱……その全てを貴様らの魂に刻み込んでから、主に捧げてやろう」
目の前の敵は、ハミルトンで戦った者たちと同格の筈なのに。動きはより洗練され、放つ圧は段違いだ。こちらが動く前に、ラクリマが先に動いた。
戦闘の火蓋は、ラクリマによって切って落とされた!
「グギャアアアアッ!?」
彼の号令一下、成り果てどもが一斉に襲い掛かってくる。だが、その壁の前に三人の男たちが立ちはだかった。
ズガアアアアンッ!!
リバックのスパイクシールドが先頭集団を吹き飛ばし、その隙間にグリボールの**《地砕きの魔斧》**がゴウッと風を唸らせて叩き込まれる。グシャッ!という鈍い音が響き渡り、数体の成り果てが肉塊へと変わった。
「―――お前たちの相手は我らだ」
四人のミレス・サケルが驚くほどの連携を見せ、リバックとグリボールの猛攻を巧みに捌いていく。
その背後で、ラクリマは指を鳴らすような単純な攻撃ではなく、その仮面へと手をかけた。
「さあ、嘆きの声を聞くがいい。お前たちが忘れた、あるいは忘れたふりをしている、魂の慟哭をな……!」
仮面の目の部分から、黒い涙のような瘴気が溢れ出し、空間に**“音のない絶叫”**が響き渡った!それは耳で聞こえる音ではない。魂に直接響く、精神汚染の波動だった。
「ぐっ……!?」
タンガの動きが、一瞬鈍る。脳裏に、鉱山で命を落とした親友スペアーの最後の姿が、鮮明に蘇ったのだ。
グリボールもまた、かつて守りきれなかった戦友たちの顔が浮かび、斧を振るう腕がわずかに震えた。
「―――集中しろ!」
その精神汚染の中、ただ一人、リバックだけが微動だにしていなかった。彼の胸に埋め込まれた**《堅律の心核》**が、世界の理に干渉しかねないほどの精神攻撃に対し、絶対的な防御障壁を形成していたのだ。彼の咆哮が、仲間たちの意識を現実へと引き戻す!
「――無駄よ!」
我に返ったロゼッタが、唇を噛み切り、その痛みで精神を集中させると、【烈風剣】で「無風の領域」を形成し、魂を蝕む波動を無理やり掻き消した。
だが、その一瞬の隙は、ラクリマにとって十分すぎた。彼はロゼッタが結界を維持するために動けないことを見抜き、その指を鳴らそうとする。
「――悪いが、あんたの“選択肢”は、もう無いぜ」
いつの間にかラクリマの背後の“影”からエイゼンが姿を現していた。**《影穿のアーキス》**の権能が、審問官の次なる一手――音響攻撃という未来の可能性を一つ封じる。その短剣が、深々と審問官の背中に突き立てられた。
「が……はっ……!?」
そして、親友の記憶を侮辱されたタンガの怒りが、頂点に達した。
「てめえだけは、俺が叩き潰す……これで、終いだァッ!!」
ドゴオオオオオオオンッ!!
タンガの拳が体勢を崩したラクリマの身体を、背後の玉座ごと完全に粉砕した。
主を失ったミレス・サケルたちが動揺した、その一瞬。
リバックの盾が二人を拘束し、グリボールの魔斧が残る二人をまとめて両断していた。
シーン……。
後に残されたのは静寂と、塵となって消えていく敵の残骸だけだ。
「……さて、と」
エイゼンは司令室と思わしき部屋へと足を踏み入れた。そこには一枚の羊皮紙が残されていた。それは、この北部地域に点在するグラティア教の他の「伝道所」や「信者のリスト」を示した、極秘の内部文書だった。
「ああ。だが、まだ仕事は終わっちゃいねえ」エイゼンは仲間たちに向き直った。「俺たちの本来の目的を忘れるな。ハルマッタン伯爵家の解放だ。この情報を手土産に、あの館に戻るぞ」
―秋風に揺れる館
【翌日 - ハルマッタン領主の館】
ヒュー……と、収穫を終えた麦畑を冷たい秋風が吹き抜けていく。空は高く雲一つないが、その日差しにはもう夏の力強さはない。冬の訪れを予感させる寂寥とした空気が、ハルマッタンの豊かな大地を包んでいた。
再び、あの壮麗な館の門前に一行は姿を現した。だが、その雰囲気は昨日までとは全く違っていた。エイゼンの手には、討ち取った審問官ラクリマの、あの**『嘆きの仮面』**が冷たい秋の日差しを浴びて鈍い光を放っている。
「―――開門しろ! 貴様らの本隊は昨夜、我々が殲滅した! これ以上の抵抗は無意味だ!」
リバックの城壁さえも揺るがすかのような大音声が、静かだった領地に響き渡った。
館の内部がにわかに騒がしくなる。窓という窓から黒衣の兵士たちが弓を構えるのが見えたが、彼らの間には動揺が走っていた。本隊との連絡が昨夜から完全に途絶えている。そして、目の前の者たちが掲げる仮面は紛れもなく、あの恐るべき審問官様のもの……。
その膠着状態を破ったのは、エイゼンの次なる一手だった。彼は懐から取り出した極秘文書を門番の一人へと投げ渡す。
「それを見ろ! お前たちの仲間がどこでどのように活動しているか、我々は全て把握している! お前たちの雇い主――グラティア教は、もはやお前たちを守れん!」
それは完璧な心理戦だった。自分たちの情報が全て敵に筒抜けであるという事実が、兵士たちの戦意を根元からへし折ったのだ。
カラン……。カラカラ……。
誰かが最初に弓を落とした。その乾いた音が合図だったかのように、あちこちで武器を捨てる金属音が連鎖していく。
やがて館の重い扉が、ギィィ……とゆっくりと開かれた。中から出てきたのは、憔悴しきった表情のアンナの弟ルシアンだった。武器を捨てていく兵士たちと、門の外に立つ屈強な冒険者たちを交互に見やると、その瞳に信じられないという光と、そして安堵の色がゆっくりと広がっていった。
「……姉、上の……使いの方々、か……?」
その声が合図だったかのように、館の奥から年老いた執事がよろめくようにして駆け出してきた。
「ルシアン様! ああ、ルシアン様……! よかった、ご無事で……!」
彼の目からは涙がとめどなく溢れている。続いて侍女や召使いたちが恐る恐る顔を出し、やがてその場の状況を理解すると、あちこちで堰を切ったような泣き声が上がった。
だが、その歓喜はすぐに悲しみの色を帯びた。
「……執事殿。料理長のトーマスの姿が見えぬが……」
一人の侍女の問いに、老執事は顔を覆い嗚咽を漏らした。
「……トーマスは……。先日、逆らったとして連れて行かれたきり……。若いメイドのマリーも……もう……」
歓喜と悲嘆。解放の喜びに沸き立つ者と、失われた仲間の名を呼び崩れ落ちる者。そのあまりに生々しい光景に、タンガたちはただ黙って拳を握りしめるしかなかった。
やがて、館の奥からルシアンに支えられるようにして、一組の老夫婦が現れた。アンナの両親、ハルマッタン伯爵夫妻だ。
この数ヶ月の心労が彼らを一気に十年は老け込ませていた。だが、その瞳の奥の貴族としての誇りの光は消えてはいなかった。
「……見知らぬ、恩人たちよ」伯爵は震える声で、しかしはっきりと言った。「娘、アンナの……いや、このハルマッタン領の名において、諸君らに心からの感謝を」
こうして、一行はハルマッタン伯爵家を解放した。だが、それは手放しで喜べるような綺麗な勝利ではなかった。館の庭は手入れもされず、秋の枯葉がまるで墓標のように降り積もっている。彼らが守ったものと、守りきれなかったもの。その両方の重みを、一行は北の冷たい風の中に静かに感じていた。
そして、彼らの任務はまだ何一つ終わってはいなかった。
ハルマッタン家の解放はあくまで個人的な依頼。彼らの本来の目的は、この北部一帯で頻発しているという王家への反逆行為の根源を断つことだった。
その夜、ハルマッタン家の客室で、エイゼンはアジトから持ち帰ったあの極秘文書を広げた。そこにはグラティア教の伝道所の場所だけでなく、彼らに**「協力」している、あるいは既に「汚染」**されているであろう地方貴族のリストが記されていた。
「子爵家が二つ、男爵家が三つ……。どいつもこいつも、最近になって王家への納税を拒否したり、徴税官に暴行を加えたりと問題を起こしてる連中ばかりだ」グリボールがリストを指差しながら唸る。
「おそらくは……」パトリックが静かに言った。「彼ら自身か、あるいはその家族の誰かが人質に取られ脅されているか。あるいは、もっと最悪のケース……既にあの『黒い血』を飲まされているか……」
どちらにせよ、放置はできない。このままではルクトベルグ公の立場はますます悪化し、北部全体がグラティア教に侵され、反王家派閥の格好の餌食となってしまうだろう。
「……やるしか、ねえようだな」
タンガが拳を鳴らした。
その日から、一行の北部領地を巡る、静かなる「浄化行」が始まった。
彼らは決して軍隊のように正面から攻め入ることはしない。あくまで少数の旅の一座を装い、リストに記された貴族の領地へと一つずつ足を踏み入れていく。
最初の標的は、ハルマッタン領のすぐ隣、ある男爵の治める小さな村だった。エイゼンとロゼッタが吟遊詩人と踊り子として村に潜入し情報を集める。案の定、男爵は最近グラティア教に深く帰依し、館に閉じこもって領民の前に姿を見せなくなったという。そして館の警備は見慣れぬ**「黒衣の兵士」**たちに固められていた。
その夜。
ヒュンッ、と風が鳴ったかと思うと、館の屋根に立つ見張りが音もなく崩れ落ちる。ロゼッタの風のような一撃。
分厚い石壁を、ズズ……と、まるで豆腐のようにタンガの拳が静かにくり抜いた。彼の**《壁穿行》**は、もはや単なる壁抜けではなく、一点集中の破壊にも応用できた。
内部に侵入した一行が目にしたのは、やはり監禁されている男爵一家と、彼らを監視するミレス・サケル、そして数体の成り果てだった。
だが、一度経験した戦いだ。もはや彼らに迷いはない。
リバックの盾が突撃の進路を確保し、グリボールの魔斧が敵の陣形を粉砕する。そして、タンガとロゼッタがその首を確実に刎ねていく。戦闘は数分で終わった。
一行は同じようにして、リストに記された貴族の館を次々と解放していった。ある場所では当主が既に「成り果て」と化しており、パトリックが涙ながらにその魂を光へと還した。またある場所では、エイゼンの**《影穿の瞳》**が貴族に成りすましていたグラティア教の幹部の正体を、その“記憶の影”から見破った。
彼らの進軍は、もはや誰にも止められない。北部一帯に張り巡らされていたグラティア教の蜘蛛の巣は、その中心を失い、さらにその糸を一本、また一本と確実に断ち切られていったのだ。
全ての貴族を解放し終えた頃、北の空には冬の訪れを告げる最初の雪が舞い始めていた。一行は自分たちの仕事がようやく終わったことを知った。彼らは深々と頭を下げる貴族たちに見送られ、アンヘイ-ムへの長い帰路についた。その背中には、この北の地に束の間の平和を取り戻した、確かな英雄たちの風格が漂っていた。
―仮面の下の眼差し
【8日後 - 首都アンヘイム ワーレン邸】
全ての任務を終え、一行はついに依頼主であるロスコフの元へと帰還した。
書斎で彼らの報告を聞いていたのはロスコフだけではなかった。その隣には、夫を案じる妻としてアンナが静かに寄り添っていた。
タンガたちが語る、北部での死闘。ラクリマと名乗る新たなインクイジトルの脅威。そして、ハルマッタン伯爵家の解放。その完璧な仕事ぶりに、ロスコフはただ感嘆するしかなかった。
「……素晴らしい。本当に見事です、皆さん。君たちに頼んで、本当に良かった」
報告が終わると、アンナが優雅な仕草で一歩前に出た。その瞳は潤み、声は感謝と安堵に震えているように見えた。
「皆様……。私のわがままのようなお願いを聞き届けてくださり、本当に……。父と母、そして弟のルシアンは……どのような様子でしたでしょうか……?」
そのあまりに健気な姿に、タンガは慌てて言葉を返した。
「だ、大丈夫です、奥様! 皆さんご無事でした! ちょっとお疲れのようでしたけど……」
エイゼンもまた、館の様子や今後の復興について丁寧に説明を加えていく。
だが、その時、エイゼンの内なる**《穿影の瞳》**が、目の前の美しい貴婦人の“影”に、奇妙な不協和音を感知した。
(……なんだ……?)
彼女の言葉、表情、その潤んだ瞳。その全てが「家族を心から心配する娘」のそれであることに間違いはない。だが、彼女の魂の奥深く……その“影”は、凪いだ湖面のように全く揺らいでいないのだ。心配も、安堵も、悲しみも、何一つ感じられない、絶対的な静寂。
(……この人は、本当に……“心配”しているのか……?)
エイゼンがその不可解な感覚に眉をひそめた、まさにその瞬間。
アンナの愁いを帯びた瞳が、すっとエイゼンに向けられた。そして、ほんの一瞬だけ、その微笑みの奥に、全てを見透かしたかのような氷のように冷たい光が宿ったのを、エイゼンは見逃さなかった。
(……気づかれた……!?)
だが、それも一瞬のこと。アンナはすぐに心配そうな表情に戻ると、エイゼンに深く頭を下げた。
「エイゼン様。本当に、ありがとうございました。あなた様のような方が旦那様の側にいてくださって、私も本当に心強いですわ」
それは、完璧な侯爵夫人の振る舞いだった。エイゼンは何も言わず、ただ静かにその礼を受けた。
(……とんでもねえ人だ……)
彼は初めて、このワーレン邸の本当の支配者が、地下工房に籠る天才ではなく、その隣で微笑むこの美しき貴婦人なのかもしれないと、肌で感じていた。
エイゼンは北部で手に入れたグラティア教の内部文書をロスコフの机に置いた。
「これで、北の問題も大きく前進するはずですぜ、ロスコフ様」
彼らの長く、そして危険な旅はついに終わりを告げた。
だが、エイゼンにとっては、このリバンティン公国が抱える南北の脅威以上に、厄介で底知れない新たなる「謎」との、静かな戦いの幕開けでもあった。
最後までよんでくださりありがとう、また続きをみかけたら読んでみてください。




