北部の問題
その157
運命的な出会いを果たした茶会の翌日。
ワーレン邸の雰囲気は和やかなものから一変し、地下工房は再び鉄と魔力、そして天才たちの情熱が渦巻く熱い戦場へと戻っていた。
議題は魔導アーマーの核心――その全身に刻み込まれる秘術紋様『シギル』の設計について。
「――つまり、理想を言えば、搭乗者が鎧を着ているという感覚さえも失うほど、完璧に、滑らかに、この巨体を動かしたいのです」
ロスコフは設計図を指し示しながら熱っぽく語った。まるで赤子の柔肌のように、思考と動きが直結する究極の追従性を。
そのあまりに理想主義的な言葉に、エクレアは眉間に深い皺を刻んだ。
「……馬鹿を言うでない、ロスコフ様。それはもはや『操縦』ではない。人の魂と鉄の身体を完全に『同化』させるということに他ならん。そんなシギル、前代未聞じゃ!」
「ですが、それが実現できなければ、この『鉄の巨人』はただの鈍重な的になるだけです!」
こと研究となると決して自説を曲げない頑固さは、今は亡き祖父フォルクス・ワーレンそのものだった。世代の違う二人の天才は設計図を挟んで一歩も引かぬ激論を交わし、レザリアやラージン、そしてノベルでさえ、その神々の戦いのような議論には口を挟むことさえできない。
やがて根負けしたのはエクレアの方だった。
「……もぉぉう! その変なところでだけガンコなのは、本当にフォルクス様そっくりじゃわい! 分かった、分かったから、その子供みたいな目で儂を見るでない!」
彼女はやれやれといった様子で両手を挙げ、降参のポーズを見せた。「……やってみるだけ、やってみるわい。だが、失敗しても儂のせいではないからの!」
こうして、エクレアとレザリアによる前代未聞のシギルの彫り込み作業が始まった。それは気の遠くなるような、精密さと集中力を要求される神業だった。ジジ……、という極小のレーザー光が鋼鉄の表面を焼き切る微かな音だけが工房に響き、空気は熱せられた金属の匂いと、高密度の魔力がオゾンとなって弾けるピリピリとした匂いで満たされていた。
一体の試作機の腕部に全てのシギルを刻み込むだけで数日を要し、ほんのわずかな指先のブレで高価な鋼材がただの鉄屑と化す失敗が何度も繰り返された。
「……これでは埒が明かん」
その様子を見ていたロスコフは、新たな課題に直面していた。「一体完成させるのにこれほどの時間がかかっていては、あと二年と六ヶ月という期限には到底間に合わない。それに、エクレア叔母様たちへの負担があまりに大きすぎる……」
量産化。それは彼がこれまで考えもしなかった、しかし避けては通れない壁だった。
すると、ロスコフの脳裏に新たな天啓が閃く。
「……そうだ。手で描くから時間がかかるのだ。ならば……エクレア叔母様に描いていただいた完璧なシギルの『原本』を、寸分違わず自動で鋼鉄に転写するための、新たな**『仕掛け(カラクリ)』**を創り出せばいいのでは……?」
そのあまりに突飛な発想に、ノベルは目を見開いた。
「侯爵……それはもはや秘術の領域ではない。全く新しい、『工学』の領域ですよ……!」
次々に生まれる新たな課題と、それを乗り越えんとする天才たちの狂気的な探求。工房の時間は、外の世界とは全く違う速度で流れていった。
そして、そんな濃密な日々が一ヶ月ほど続いた、ある日のこと。
ワーレン邸の門に、潮の香りと鉄火の匂いを纏った五人の冒険者たちが姿を現した。長く危険な旅を終え、タンガたちがついに帰還したのだ。
彼らがもたらす情報が、この工房という聖域を再び現実の、そしてより危険な戦いへと引き戻すことになることを、この時のロスコフはまだ知らなかった。
その夜、ワーレン邸の書斎は工房とはまた違う冷たい緊張感に包まれていた。テーブルの上には、エイゼンが海賊のアジトから持ち帰った一枚の羊皮紙が広げられている。
「――これが、奴らのアジトで見つけた指令書だ」
エイゼンは淡々と、しかし重い口調で報告を始めた。
「指令によれば、次の標的はワーレン領の鉱山そのもの。内部の協力者と連携し、坑道を爆破、水没させよ、とある。さらに、捕らえた幹部から情報を“抜かせてもらった”結果、奴らはラガン王国に拠点を置く巨大海賊団の支部であり、総合奴隷商【フェドゥス・サンギニス】とも繋がっていることが判明した。そして、この指令を出している黒幕……その紋章は、間違いなく南部のトルーマン公爵のものだった。つまり、トルーマン公はラガン王国と内通している、と見て間違いない」
エイゼンの言葉に、既に仲間内での報告で事実を知っていたタンガも改めて怒りを込み上げさせ、ゴッと音を立てて拳を握りしめた。
「公爵ともあろうお方が、自らの国を売り渡すなんて……! 絶対に許せねえ! ロスコフ様、こんな売国奴、すぐに兵を出して裁くべきです!」
だが、その激昂を、ロスコフは静かな一言で制した。
「――その必要はありません」
全員の視線がロスコフに集まる。彼はまるで面白い芝居でも見るかのように、指令書を眺めながら穏やかに言った。
「トルーマン公は、そのまま泳がせておきましょう」
「なっ……! なぜです、ロスコフ様!」
タンガにはその判断が全く理解できなかった。ロスコフは、悪戯っ子のような笑みを浮かべる。
「水が濁っている時ほど、大物は姿を現しやすいものだよ」
タンガが混乱していると、隣で腕を組んでいたエイゼンがポンと手を打った。
「……なるほどな。そういうことか、ロスコフ様」
彼は口元に薄く笑みを浮かべると、彼の瞳が鋭く光った。
(泳がせて、偽の情報を掴ませる……敵の動きを、まるごと掌の上で踊らせるつもりか。
まさか、この侯爵様が一瞬の間に、そんな仕掛けを考えちまうとはな。……やるじゃねぇか)
だが、ロスコフの真意はエイゼンの深読みよりも、もっとシンプルで、そして冷徹だった。
(……ここでトルーマン公を断罪してしまうと確かに溜飲は下がるだろうが、それは最悪の一手だろう。彼を排除すれば、ラガン王国はより強力で“未知”の次の手を打ってくる筈。それよりも、動きの読める手駒をあえて盤上に残しておいた方が遥かに対処しやすい。そして何より……今、四公爵家の一角を崩せば国内は内乱に陥る。そうなれば資材の供給も何もかもが滞ってしまいかねない)
彼の脳裏に、未完成の魔導アーマーの姿が浮かぶ。
(……魔導アーマーが完成するまでは、何としても時間を稼がなければ。僕の……いや、この国の未来を賭けた研究の邪魔だけは、誰にもさせません)
ロスコフはエイゼンに向き直った。
「エイゼンさん。貴方たちには、これから私の『目』と『耳』になってもらいたい」
彼はトルーマン公の指令書を指差した。「彼らのような影に潜む者たちの動きを全て私に報告してください。そして、ワーレン家、ひいてはこの国の敵となる全ての脅威を事前に察知し、必要とあらばその芽を摘んでほしいのです」
それは、ワーレン家直属の諜報機関の設立を意味していた。
「へっ、任せてくれ」エイゼンは、その大役を待ってましたとばかりに引き受けた。「既に、このアンヘイムで使えそうな連中にはいくつか目星をつけてあるんでね」
こうして、エイゼンを長とする十数名からなるワーレン家直属の諜報部隊が、その日、密かに産声を上げた。
彼らが新たな任務に踏み出したその刻、ロスコフが開発した新型魔導削岩機が、ワーレン領の鉱山深奥で初めて轟音を響かせた。
光と影——その両輪が、今、確かに動き始めたのだ。
数日前から、ワーレン邸には奇妙な変化が起きていた。屈強な冒険者であるタンガとグリボールが、なぜか若い召使いに混じって庭師の手伝いや馬の世話をしているのだ。彼らは、小さなスコップを手に、慣れない手つきで花壇の手入れをする姿はどこか滑稽ですらあったが、もちろんそれは彼らの本当の姿ではない。エイゼンを長とする諜報部隊は「使用人」としてこの屋敷に溶け込みながら、アンヘイムの裏社会に静かに、しかし着実にその情報網を張り巡らせていた。
カラン、コロン……。
昼下がりの談話室に、音楽家ミスティーヌが奏でるリュートの軽やかな音色が響く。
そこへ、盟友カール・リッツ侯爵がロスコフを訪ねてやってきた。
「やあ、ロスコフ。相変わらず書斎に籠りきりかね?」
「カール、来てくれたのですね。ええ、少し面白い計算が閃いてしまいまして」
ロスコフはリッツを談話室へと案内し、客として滞在しているマルティーナを紹介する。
「カール、こちらをご紹介します。東のマーブル新皇国よりお越しの、マルティーナ王女殿下です」
その紹介を受けた瞬間、リッツはまるで時が止まったかのように、マルティーナの姿に釘付けになった。その憂いを帯びながらも決して気品を失わない、圧倒的なまでの美しさに。
彼は慌てて我に返るとこれ以上ないほど丁重な礼をし、ロスコフの方を向き、誰にも聞こえないように口パクでこう伝えた。
(……なんという、女神……! ロスコフ、紹介してくれ!)
そのあまりに分かりやすい盟友の反応に、ロスコフはくすりと笑うと、近くで刺繍をしていたシャナにわざと聞こえるように話しかけた。
「そういえばシャナさん。先日伺いましたが、マルティーナ様は今も独り身でいらっしゃるとか?」
その言葉にリッツの目が期待に満ちてキラリと光る。だが、その視線を受けたマルティーナはただ「ふふふ」と鈴が鳴るような、しかしどこか意味深な笑みを浮かべただけで、すっと立ち上がり、刺繍の続きをするために部屋の隅へと静かに移動してしまった。
シーン……。
そのあまりに鮮やかな「お断り」の空気に、ロスコフはがっくりと肩を落とす盟友の肩をポンと叩いた。
「……やれやれ。どうやら、フラれてしまったようだね、カール」
そこへ、絶妙なタイミングでアンナが紅茶を運んできた。
「カール様、お久しぶりですわ。旦那様がいつもお世話になっております」
その完璧な笑顔と非の打ち所のない所作に、リッツは失恋の痛みを忘れ、慌てて居住まいを正した。彼女の存在は、まるでこの場の気まずさを予見していたかのように、荒れた空気を静かに、そして完璧に調和させていく。
紅茶を一口飲み、落ち着きを取り戻したリッツは本題を切り出した。彼の表情から先程までの華やいだ空気は消え、一人の侯爵としての険しい貌が浮かび上がる。
「……ロスコフ。宮廷で良からぬ噂が流れ始めている」
彼は声を潜めた。「北の、ルクトベルグ公の領地でだ。王家に反旗を翻す勢力が現れ始めたらしい」
「なんだって!?」
「まだ小さな火種だ。だが問題は、今の『公』がそのルクトベルグ公自身だということだ。彼は行政のトップとして首都を離れるわけにはいかん。自らの領地で起きた反乱を、自ら鎮圧しにいけないのだ。この状況に、他の公爵家……特にトルーマン公あたりがほくそ笑んでいるのは、想像に難くない」
リッツの言葉に、ロスコフの表情も険しさを増していく。
南のトルーマン公とラガン王国の繋がり。そして、北で始まった原因不明の反乱。
ワーレン邸に流れていた束の間の穏やかな時間は、終わりを告げようとしていた。このリバンティン公国という大樹を内外から蝕む病巣は、彼らが思うよりも遥かに深く、そして広く、その根を広げ始めていたのだ。
―北への派兵
リッツ侯爵が北の不穏な噂を運んできてから数週間が過ぎたが、その間もロスコフの研究室(聖域)は止まることを知らなかった。
ゴウン……ゴウン……。
夜の闇に包まれたワーレン邸の広大な庭で、試作一号機が重厚な音を立ててその一歩を踏み出す。
「――右腕の反応速度、良好! だが左脚への伝達に0.2秒の遅延があるぞ、侯爵!」
機体の内部から、ナイトマスターであるゲーリックの興奮と冷静さが入り混じった声が響く。
ロスコフは隈のできた目の下で、しかし爛々と輝く瞳で手元の計測器の数値を睨みつけていた。
工房の奥では次の二号機、三号機のフレームが組まれ、その隣ではエクレアが描いた完璧なシギルの原本をレーザーで焼き付けるための自動刻印機が、カション、カションと試運転の音を立てている。全てが同時進行で、限界を超えた速度で進んでいた。
「もう、あなたったら! また無茶をなされて……!」
アンナの心配そうな声も、この時の彼の耳には届いていなかった。
そんな狂気的な研究の日々を中断させたのは、『公』ホフラン・ルクトベルグ公爵の突然の来訪だった。
表向きは魔導アーマーの進捗確認。だが、その顔に浮かぶ深い疲労と焦燥の色は、彼が別の問題を抱えていることを雄弁に物語っていた。
「……お困りのようですね、公爵」
ロスコフの全てを見透かしたような問いに、ルクトベルグ公はついに堰を切ったように悩みを打ち明けた。自らの領地である北部で王家に反旗を翻す勢力が現れ、それにグラティア教が関わっている可能性が高いこと。そして、自らは『公』として首都を離れられず、身動きが取れないという苦しい現状を。
全てを聞き終えたロスコフは、静かに、しかし確信を持って言った。
「……分かりました。その件、私の方で調査いたしましょう」
その夜、ワーレン邸の談話室に冒険者たちが集められた。ロスコフは北部で起きている反乱とグラティア教の影、そしてオクターブを成り果てに変えた「黒い血」の悍ましい正体について、全ての情報を共有した。
「……くれぐれも、気をつけてください。相手は人の心を持った悪魔です」
その依頼に、最初に名乗りを上げたのはタンガだった。
「面白え! やってやろうじゃねえか!」
エイゼン、グリボール、パトリックも頷き、話を聞いていたリバックとロゼッタもまた立ち上がった。「我々も行こう。ハミルトンでの借りもある」
こうして、タンガ、エイゼン、パトリック、グリボール、リバック、ロゼッタの六名からなる、第二の調査団が編成された。
その出立前夜、アンナが心配そうにエイゼンに声をかけた。
「……エイゼン。北部には、私の実家であるハルマッタン伯爵邸もございます。もしお近くを通られるようでしたら、少しで構いません。両親の様子を見てきてはいただけませんでしょうか……」
「アンナ様、そのご依頼、しかと承りました」
エイゼンは恭しく応じ、翌朝、一行は北へと出発した。
【リバンティン公国 北部 - ハルマッタン伯爵領】
アンヘイムを出立してから数週間。
長い旅路の末、一行が最初に訪れたのはアンナの故郷、ハルマッタン伯爵領だった。そこは聞いていた通り、広大な麦畑と豊かな牧草地が広がる肥沃な農業地帯だ。
だが、その中心にある村の空気は、彼らが想像していたのどかな田園風景とはあまりにかけ離れていた。村の入り口に立つ見張りたちの目はよそ者への警戒心で濁り、畑仕事から戻る村人たちはどこか怯えたように足早に家路を急いでいる。カタン……コトン……と水車が回る長閑な音だけが、この村に漂う不穏な空気との奇妙な対比を生み出していた。
一行は身分を隠して領主の館へと向かい、門前でエイゼンが代表して名を告げる。
「――奥方様のご依頼で参った者だ」
やがて門の内側から現れたのは、アンナの弟であるという、まだ若さの残る青年ルシアン・ハルマッタンだった。だが、その顔に姉の使いを歓迎する色は一切なかった。
「……姉上の? 何のようだ。見ての通り、我々は今取り込み中なのだが」
そのあまりに冷たく、敵意さえ感じさせる声。そして彼の背後、館の窓という窓に立つ、黒い衣の男たちの影。
エイゼンは瞬時に悟った。
(……こいつは、思ったより根が深いぜ)
この館は既に、何者かに**“乗っ取られている”**、と。
―囚われの伯爵家
エイゼンは瞬時に悟ったが、ルシアンの態度は敵意というよりも、何かを必死に隠し、そしてこちらを遠ざけようとする「拒絶」に近いものだった。その瞳の奥には、恐怖と助けを求めるような微かな揺らぎが見える。
「……エイゼン、どうする?」背後からタンガが声を潜めて尋ねる。彼の**《流れ感知》**能力が、ルシアンの言葉とは裏腹の、恐怖に満ちた心の振動を捉えていた。
エイゼンは右手を挙げて仲間を制した。ここで強引に押し入るのは最悪の手だ。相手は伯爵家の人間を人質に取っている可能性が高い。
「失礼いたしました、ルシアン様」
エイゼンは態度を一変させ、恭しく頭を下げた。「奥方様からは、ただ皆様がお元気であるか、その顔を見てくるだけで良い、と。……お元気そうなお顔を拝見できて安心いたしました。我々はこれにて失礼いたします」
そのあまりにあっさりとした引き際に、ルシアンの顔に一瞬だけ困惑の色が浮かんだ。エイゼンはそれに気づかぬふりをして、仲間たちと共に静かにその場を去っていった。
その夜。村はずれの廃屋に身を潜めた一行は、今後の対策を練っていた。
「どういうことだ、エイゼン! あのまま帰っちまっていいのかよ!」タンガが納得いかないという表情で詰め寄る。
「馬鹿野郎。あそこで騒ぎを起こせば、伯爵一家の命が危なかったかもしれねえんだぞ」
エイゼンは、昼間の光景を反芻しながら分析を進めていた。
「……妙だ。奴らの目的がただ伯爵家を皆殺しにすることなら、もっと早くにやれたはずだ。それをせずああして生かし、外部との接触を絶たせている……。まるで、伯爵家を何かの『盾』にしているみてえだ」
彼の**《穿影の瞳》**が、昼間に見た黒衣の男たちの“記憶の残滓”を探る。
(……あの連中……グラティア教の紋章を隠し持っていた。だがそれだけじゃない。あいつらの動きはただの狂信者じゃねえ。訓練された兵士の動きだ……)
「……分かったかもしれねえ」
エイゼンは仲間たちに向き直った。「奴らの狙いはハルマッタン伯爵家そのものじゃねえ。この豊かな土地と民衆……そして何より、この領地が持つ**『ルクトベルグ公爵領への入り口』**という、地理的な重要性だ」
つまり、奴らは伯爵家を生かしておくことでこの領地を穏便に支配下に置き、ここを拠点として、いずれルクトベルグ公爵領へ侵攻するための橋頭堡にしようとしていると俺は見る。
「……じゃあ、どうすんだよ! ここで何ヶ月も指を咥えて待ってるってのか!?」
タンガが焦れたように言った。
「馬鹿野郎。そんな悠長なこと言ってられるかよ」エイゼンは不敵に笑った。「“待つ”んじゃねえ。“待たせる”のさ。……俺たちが、奴らを動かすんだ」
彼は仲間たちを手招きし、廃屋の中央に集めると、その辺の木の棒で土間に村の見取り図を描き始めた。**《穿影の瞳》**によって一度見ただけで完璧に記憶された、驚くほど正確な地図が瞬く間に出現する。
「いいか、よく見ろ」エイゼンの棒の先が地図の上を滑る。「奴らの本拠点は丘の上の領主の館だ。村の入り口は一つ。そして村を囲む川の橋は二つしかない。つまり、奴らが外部と連絡を取るためのルートは極めて限定されている」
「今夜から動く。まずは橋の袂に潜む見張りを一人ずつ、音もなく**“消す”**」
「次に、館とは反対側にある村の食料庫。そこから徴収している物資を、毎晩少しずつ“盗み出す”」
「そして、奴らが攻略本隊と連絡を取るための伝令だ」
「……本隊?」グリボールが訝しげに問い返す。「この近くにそんなもんがいるのか?」
「ああ」エイゼンは頷いた。「考えてみろ。ここからラガン王国までどれだけ距離がある? いちいち本国まで伝令を走らせてちゃ幾日掛かる? 奴らはこの北部地域のどこかにもっと大きな拠点を構えているはずだ。ここはあくまで最前線基地に過ぎねえ」
彼は仲間たちの顔を見回した。
「……じわじわと奴らの目と耳を塞ぎ、兵糧を断つ。そうすりゃどうなる? 孤立した先遣隊は、焦って本隊に救援を求めるはずだ」
その繊細で危険な作戦に、グリボールが眉間に皺を寄せた。
「……おい、エイゼン。そいつは悠長すぎやしねえか? 俺たちの手で今すぐあの館を叩き潰した方が話が早えだろう」
その猪突猛進な意見に、パトリックが静かに首を振る。「いえ、グリボールさん。エイゼンの策が最も犠牲が少ないでしょう。ハルマッタン伯爵家の方々の命を考えれば、力攻めは最悪の一手です」
「……面白いわね」ロゼッタが土の地図の橋を指でなぞりながら口を開いた。「確かにこの作戦なら、敵に警戒させることなく静かに首を絞めていける。でも問題は最後の部分よ」
彼女はエイゼンを見つめた。「伝令を泳がせ、その後を追う……と言うけれど、もし相手が護衛付きの手練れだったら? あなた一人で対処できるの?」
その核心を突いた問いに、今度はリバックが腕を組んだまま重々しく口を開いた。
「……その時は俺が行こう。ロゼッタの風の加護があれば、俺の足音一つ気取られることはあるまい。お前が“影”を追うなら、俺が、その影を守る**“壁”となる」
彼の言葉は単なる比喩ではなかった。《城壁のグラディウス》**である彼の存在そのものが、不可侵の防壁なのだ。
その心強い申し出に、エイゼンは不敵に笑う。
「へっ、ありがてえな、リバックさん。だが心配はいらねえよ。俺の**《穿影の瞳》**の前じゃ、どんな奴もその“影”を引きずって歩くことになる。それに……」
彼の瞳が、蜘蛛のように静かに獲物を絡め取ろうとする策略家のそれに変わる。
「……ネズミを数匹始末するより、親玉の鼠の巣を根こそぎ叩く方が、よっぽど手っ取り早いだろう?」
それは当初の任務を遥かに超えた、敵本隊の殲滅までをも視野に入れた大胆で狡猾な作戦だった。仲間たちの懸念とそれを上回る信頼を受け、一行はこの静かな村を舞台とした、静かで熾烈な心理戦の幕を開けた。
最後まで読んでいただきありがとう、また続きを見かけたら読んでみて下さい。




