古の大秘術
魂を救い、神の深淵に触れる章。運命が交差する。
その156
苦渋の撤退
カタン……。
シャナが、回収してきたオクターブの『天使の鎧』を、宿屋のテーブルにそっと置いた。主を失った白銀の輝きが、部屋に漂う重苦しい沈黙を、さらに際立たせる。
「……これだけだ」
リバックが、忌々しげに吐き捨てた。
アジトを制圧したとはいえ、得られた戦果はあまりに乏しい。黒い血の入った小瓶が数本と、この鎧のみ。敵の繋がりを示す文書も、次なる計画の手がかりも、何一つ見つからなかった。
「奴らにとって、ここはただの“前哨拠点”か“詰所”だったんだろうな」
リバックの冷静な分析が、場にいる者たちに、敵の底知れぬ恐ろしさを改めて突きつけた。
床では、布に包まれたオクターブが、獣のような唸り声――「グルル……」――を上げ続けている。
その姿を見つめていたマルティーナは、やがて苦渋に満ちた表情で顔を上げた。
「……一度、アンヘイムへ戻りましょう」
その声はか細く、しかし確かな決意を宿していた。
「このままでは、オクターブを救う手立てもありません。ワーレン邸に戻り、博識なノベルさんに相談してみたいのです」
それは、最も現実的で賢明な判断だった。
だが、シャナは静かに首を振る。
「マルティーナ様。でしたら、私だけはここに残り、調査を続けます。このまま奴らを放置しておくわけには……」
「馬鹿を言うな」
遮ったのはリバックだった。彼の声には、珍しく厳しい響きがあった。
「シャナ。君はマルティーナ様の従者だろう? オクターブがこの有様なのに、君まで離れて、マルティーナ様を一人にするつもりか?」
「それは……!」
シャナは言葉に詰まった。リバックの指摘は正論だった。主君を守るという、自らの最も重要な使命を、彼女は一瞬、忘れかけていたのだ。
張り詰めた空気を破ったのは、壁に寄りかかって黙っていたゲオリクの、どこか気の抜けたような声だった。
「……まあ、良いではないか」
彼は、まるで子供の喧嘩を仲裁するかのように、退屈そうに言った。
「無理に根の深い毒を穿り出す必要などあるまい。放っておけば、いずれ膿となって表面化する。そうなってから戻って、まとめて叩き潰せばよかろう」
その豪快すぎる意見に、シャナが食ってかかる。
「ですが、それではこの街の民に被害が……!」
その言葉に、ゲオリクの瞳が初めてシャナを真っ直ぐに捉えた。神として千年万年の時を生きてきた者だけが持つ、冷徹な静けさが宿っていた。
「……自惚れるな」
その一言で、シャナの言葉が凍りつく。
「我らとて、すべてを救うことなどできはせんのだ」
それは、神が語る無慈悲な真理だった。
神であっても、運命の奔流から零れ落ちる命をすべて掬うことはできない。すべてを救おうとすることこそが、神々の傲慢であり、世界の均衡を崩す愚行――ゲオリクはそれを知っていた。
シャナは唇を噛み締め、やがて小さく頷いた。
こうして、一行の進退は決まった。
彼らは、成り果てとなった仲間を連れ、そしてこの北部の地に巣食う、より大きな悪意の気配を背後に感じながら、一度アンヘイムのワーレン邸へと撤退することを決意した。
その道のりは、来た時とは比べものにならないほど、重く、そして暗いものになることを、誰もが予感していた。
黒き血の正体
ワーレン邸帰還 - 初日
アンヘイムのワーレン邸に、マルティーナ一行が帰還したのは、出立から四十五日が経過した、灰色の空が広がる午後だった。
門兵からの急報を受け、玄関前に現れた執事エスターは、一行のただならぬ雰囲気を一目で察した。
彼の視線は、やつれ果てた表情の冒険者たちを通り越し、四人がかりで運ばれている分厚い布に包まれた“何か”へと向けられる。
「……門兵の報告では、ただの帰還と……だが、この様子は……」
「グルル……グゥ……」
布の中から漏れる、獣のような唸り声。血と、得体の知れぬ腐臭が微かに漂う。
エスターは顔色一つ変えず、しかし背筋に冷たいものが走るのを感じていた。
「モーレイヌ」
隣に控えていた侍女長に、低く命じる。
「客室へ案内を。湯浴みと温かい飲み物の準備を。……それから、ミゲル先生を呼べ。怪我人がいるかもしれん」
「かしこまりました」
モーレイヌもまた、動揺を一切見せず、プロとしての動きを見せた。
他の使用人たちの視線も、布の塊へと釘付けになる。若い召使いモーターは怯え、古参のサーモンは黙々と荷物を運ぶ。彼は知っていた――この屋敷の主人が関わる事態は、決して“普通”ではない。
「――その『荷物』は、裏手の納屋へ」
エスターはリバックに静かに告げる。
「頑丈な鎖を用意させます。……よろしいですかな?」
リバックは、老執事がすべてを察していることを悟り、無言で深く頷いた。
ロスコフやノベルたちが書斎から駆けつけ、一行の悲劇的な旅と“荷物”の正体を知ったのは、それから間もなくのことだった。
翌日 - ワーレン邸の書斎
一夜が明け、少し落ち着きを取り戻したマルティーナは、ノベルを訪ねた。
彼女は北部で起きた出来事と、オクターブを蝕む“黒い血”について語り、調査の協力を依頼する。
「……これが、その」
ノベルは渡された小瓶を慎重に手に取り、水晶レンズ越しに覗き込む。
「なるほど。人間の血液で構成されているのは確かです。ですが……」
眉間に深い皺が刻まれる。
「構造が、あまりに歪だ。生命活動のためではなく、何か強力な“情報”を封じ込めるためだけに再構成されている……これは、酷い代物だ」
毒でも呪いでもない。もっと悪質で、未知の技術によって作られた“何か”。
「マルティーナ様。正体を突き止めるには、王立図書館の古文書も当たる必要があるかもしれません」
それから数日経っても調査は難航。資料の山にも、該当する記述は見つからなかった。
「……くそっ、これでは埒が明かない……!」
行き詰まったノベルは、地下工房でロスコフとラージンに相談を持ちかける。
ラージンが小瓶を手に取り、眉間に皺を寄せまじまじと小瓶の中の黒い液体を見た。
「............」
「……この邪気……ただの呪いではありますまい。魂そのものを汚染するような……」
その時、ロスコフがふと思い出したように言った。
「ああ、それでしたら、明後日来るエクレア叔母様に相談してみては? あの方なら、何かご存知かもしれませんよ」
氷門のエクレア
二日後。ワーレン邸の客間に、老婆が現れた。
【氷門のエクレア】――その存在は、ただ座っているだけで空気を支配する。
ノベルが経緯を説明し、小瓶を差し出す。
「……ふむ。貸してみな」
エクレアは小瓶を光にかざし、じっと睨みつける。
やがて「少し持っておれ」と返すと、椅子から立ち上がり、床の中央へ。
懐から白亜の水晶を取り出し、床に直接、複雑な紋様を描き始めた。
キィィィィ……キリリリ……。
水晶の先端が大理石を削る音が響く。
やがて完成したシギルの中心に小瓶を置き、瞳を閉じ、古の言葉を紡ぐ。
「――Revelare Nigrum!!」
ブォォォォン……!
蒼白い光がシギルから放たれ、小瓶が震え、黒い液体が蠢き出す。
そして、浮かび上がったのは――人の顔。
だがそれは、絶望と憎悪に歪みきった魂の残骸。見ているだけで精神が蝕まれそうな、あまりに“悲惨”な貌。
「ああああ……」
声にならない慟哭が、脳内に直接響き渡る。
「……どうじゃ、分かったか」
光が収まった後、エクレアはこともなげに言った。
「これが、その黒い血の“材料”よ。おぞましいほどの怨念が、この一滴に封じられておる」
ノベルの頭の中で、二つのピースが繋がる。
「……ありがとうございます、エクレア殿。理解できました。これは、呪いそのものを相手に“飲ませる”という、あまりに悪趣味な……! オクターブ殿を元に戻すには、この怨念の塊の様な魂を、彼の魂から引き剥がすしか……!」
エクレアは、にやりと獰猛な笑みを浮かべる。
「どれ、もののついでじゃ。その呪われし哀れな男を、この婆に見せてみい」
禁呪・黒き魂の解放
納屋の扉を開けると、暗闇の中で鎖に繋がれ、「グルルル……」と唸るオクターブの姿があった。
「……ふむ。これは、思った以上に根が深いようじゃな」
エクレアは一瞥すると、術師たちに向き直る。
「これより先は、我らだけの領域じゃ」
その声は、凛とした響きを持っていた。
「よいか。呼吸一つ、瞬き一つですら術式に影響を及ぼすやもしれん。少しの物音も立てるな。死にたくなければな」
納屋の扉が、重く閉ざされる。
外では、マルティーナたちが休んでいた。ただ一人、ゲオリクだけが窓辺に立ち、尋常ならざる魔力の渦を神の感覚で捉えていた。
(……ほう。あの老婆、やるものよな)
納屋の中では、すでに儀式が始まっていた。
エクレアは懐から色の違う水晶チョークを数本取り出し、そのうちの一本を弟子レザリアに投げ渡す。
「レザリア。儂の線を追え。寸分違わず、じゃぞ」
「は、はい、師匠!」
エクレアは床にシギルを描き始める。それは、現代の術師が呪文で瞬時に展開するものとは異なる、一本一本の線を手ずから描いていく古の描画法だった。
キィィィィ……。
エクレアが赤い水晶で外周の『炎』の門を描き始めると、その内側に、レザリアが青い水晶で『雷』の門を重ねて描いていく。師の描く線から放たれる魔力の圧力に、レザリアは歯を食いしばり、全神経を集中させて指先を動かし続けた。
やがて描き上げられたシギルは、先ほどの解析用のものとは比べものにならないほど複雑で、巨大で、そして禍々しい気を放っていた。
「……叔母様、これは……!?」
ロスコフが、その紋様の持つあまりの危険性に気づき、声を上げる。
「まさか……『四界の門』のシギル!? 失われた禁呪ではなかったのですか!?」
「黙っておれ」
エクレアは一喝する。
「禁じられておるのは、力なき者が手を出すからじゃ。儂は、使うべき時に、使うだけよ」
やがて、オクターブを中央に取り囲むように、巨大な四重の魔法円が完成する。
エクレアはそれぞれの術師に役割を命じた。
- 「レザリア、『雷』の門を律せよ」
- 「ラージン殿、『炎』の門にて生命の灯火を」
- 「ノベル殿、『風』の門で結界を」
- 「そして、ロスコフ様……『氷』の門にて、彼の思考を時ごと凍結させていただきたい」
それは、大陸最高峰の才能が集結して初めて成立する、神の領域に踏み込むかのような大儀式だった。
全員が配置に着くと、エクレアは両手を天に掲げる。
「―――《Exsolvere Animae Nigrum》!!」
禁呪が、紡がれた。
ゴオオオオオオオオッ!!
四つの門から凄まじい魔力の奔流が吹き荒れ、納屋全体が激しく揺れる!
「グギャアアアアアアアアアアッ!!」
オクターブの身体から噴き出した黒いオーラが、人の顔のような形を取り、ケタケタと嘲笑いながら彼の魂を食い尽くそうとする。
「今じゃ、ロスコフ様!」
エクレアの叫びに応え、ロスコフが『氷』の門に意識を集中させる。彼は呪文を紡がない。ただ目を閉じ、その全神経をオクターブの精神へと接続させる。
彼の内なる〖共鳴〗の力が、魂の“振動”そのものを捉え、その活動を絶対零度の静寂へと誘っていく。
キンッ!
空気が凍る音がして、オクターブの時間が停止した。
その隙を突き、エクレアの指先から放たれた純白の光の糸が、オクターブの魂と黒い怨念の間に、強引に割り込んでいく。
「ぐ……おおおおおおおおっ!!」
エクレアの顔が、凄まじい負荷に苦痛に歪む。魂の分離と再生――それは、世界の理そのものに喧嘩を売るに等しい、あまりに危険な御業だった。
その瞬間、分離した怨念の一部が結界の外へと溢れ出そうとする!
「させませんよ……!」
ノベルもまた、魔法を唱えてはいなかった。彼の学者の目は、荒れ狂う魔力の奔流の中に、無数の『解』を見ていた。
指先が虚空に数式を描き、結界の綻びを“発生する前”に予測し、シギルに指示を与えて封じ込めていく!
全ての術師が、己の極致で役割を果たし、せめぎ合う。
永劫とも思える時間が過ぎた。
やがて、最後の怨念が光の中に霧散し、納屋を支配していた凄まじい魔力の嵐が、嘘のように凪いだ。
カタン……。
エクレアの持つ水晶が、力なく床に落ちる音が響く。
彼女の「……さて、上手くいったかのう?」という言葉を合図に、納屋を支配していた緊張の糸が、ぷつりと切れた。
ノベルはその場にへたり込み、大きく息を吐いた。ラージンもレザリアも、全身から力が抜けたように壁に寄りかかっている。ロスコフだけが、まだ精神を接続していた名残か、ぼんやりと虚空を見つめていた。
床の中央では、黒いオーラが完全に消え去ったオクターブが、静かに寝息を立てていた。
その身体はまだ悍ましい成り果ての姿のままだが、その表情は、苦悶から解放された穏やかなものに変わっていた。
「……エスターを呼んでください」
我に返ったロスコフが、静かに言った。
「彼に、客室の準備を。ミゲル先生にも診ていただく必要があります。……ああ、それから、モーレイヌに、着替えと温かい毛布を」
やがて、執事エスターの指示のもと、眠るオクターブは慎重に担架に乗せられ、屋敷の中へと運び込まれていった。
謝と、繋がる運命
バタバタバタッ!
突然、静かだった二階の廊下が、複数の慌ただしい足音と、押し殺したような話し声で騒がしくなった。
「何事かしら!?」
自室で休んでいたマルティーナとシャナは、弾かれたように顔を見合わせると、同時にドアを開けた。
その目に飛び込んできたのは、数人の屈強な召使いたちに担架で運ばれていく、一人の男の姿だった。その顔は蒼白だが、苦悶の色は消え、穏やかな寝息を立てている。
「――オクターブッ!!」
マルティーナが、驚きと安堵の入り混じった声を上げた。
その声に、一行を先導していた執事のエスターが、静かに振り返り、深くお辞儀をした。
「マルティーナ様、ご心配には及びません」
その声は、落ち着き払っていた。
「ロスコフ様を始め、エクレア様たちが、シギルを用いて彼の呪いを解かれたご様子。今は気を失われておられますが、呼吸も脈も、実に穏やかでございます」
その言葉に、マルティーナとシャナは、安堵からか、膝から崩れ落ちそうになるのを必死でこらえた。
一行は、オクターブを客室の一つへと運び込み、ベッドへと寝かせていく。慌てて後を追ったマルティーナは、その穏やかな寝顔を見て、ついに堪えきれずに涙を流した。
「……オクターブ……。なんて、心配ばかり……」
彼女は、涙を拭うと、決然とした表情でエスターに向き直った。
「エスター様! 私の大切な家臣を、救っていただいたのです! 是非、ロスコフ様たちに、一言お礼を申し上げたい。至急、お会いさせてはいただけませんか!」
その、王女としての気品と、一人の主君としての切実な要求に、エスターは静かに頷く。
「皆様、今は談話室でお休みになっておられますが、構いますまい。……では、こちらへ」
コンコン……。
暖炉の火が穏やかに揺れる談話室の扉が、控えめにノックされた。儀式を終えた術師たちが、アンナの淹れた紅茶で疲労を癒しているところだった。
ロスコフは妻のアンナに目配せすると、彼女は優雅な仕草で立ち上がり、扉を開けた。
「どうしましたの、エスター?」
「はい、奥様。マルティーナ様が、ロスコフ様たちに是非ともお礼を、と」
その言葉に、ロスコフは立ち上がると、まだ事情を知らないエクレアとレザリアに、小声で知識を吹き込んだ。
「叔母様、レザリア。彼女は、滅びたマーブル新皇国の、最後の王女様です」
その一言で、二人の表情が引き締まる。
「どうぞ、お入りください」
アンナに案内され、マルティーナが部屋へと入ってきた。彼女は、そこにいる面々――ロスコフ、若々しい老婆、美しい女性、そしてノベルとラージン――を見回すと、その場で深く、深く、頭を下げた。
「ロスコフ様! エスター様から、お聞きしました……! 私の大切な従者、オクターブの呪いを、解いてくださったと……! 本当に、なんとお礼を申し上げればよいか……!」
その、なかなか上がらない頭に、照れたロスコフは慌てて手を振った。
「い、いえ! 僕だけの力ではありません! ここにいる皆の、そして何より――」
彼は、ふんぞり返って紅茶を飲んでいる、エクレアを指差した。
「――この叔母様の力なのですよ。【氷門のエクレア】とは、このお婆さんのことでして」
その瞬間、エクレアの持つティーカップが、ピシリと音を立てた。
「……ロスコフ様。今、誰をお婆さんじゃと、言うたかのう……?」
その地を這うような声に、ロスコフの顔が引きつる。
プッ……!
最初に噴き出したのは、レザリアだった。
「ふふっ……あはははは!」
その快活な笑い声につられるように、ラージンも、ノベルも、そしてロスコフさえも、笑い声を上げた。
その、あまりに温かい、心地よい雰囲気に、先程まで悲壮感を漂わせていたマルティーナの口元にも、自然と笑みがこぼれ、温かい気持ちになっていた。
それからは、マルティーナも席に加わり、アンナが淹れ直してくれたお茶を飲みながら、話に花が咲いた。
話の中で、ラージンが、かつてマーブルで国を救ってくれた、大陸最強の秘術師の話を切り出した。
「……【炎帝ガーベラン】という、それは見事な御仁がおられましてな……」
その名を聞いた瞬間、レザリアが「えっ」と声を上げた。
「ガーベラン兄さん(にいさん)!? それ、私の兄弟子ですよ!」
その言葉に、今度はマルティーナたちが驚愕する。
「ええっ!?」
そして、全ての視線が、一人、涼しい顔でクッキーを頬張っている、エクレアへと集まった。
エクレアは、一同の視線を受けると、やれやれといった様子で、言った。
「……あの放蕩息子が、またどこぞで、面倒事に首を突っ込んでおったようじゃのう」
ラージンが、ニフルヘイムとの戦いの顛末を語ると、エクレアは、ただ静かに、しかしどこか誇らしげに、その話に耳を傾けていた。
全く異なる場所で、全く異なる冒険をしていた者たち。
その運命の糸が、一人の気まぐれな天才を介して、この日、この場所で、確かに結ばれた瞬間だった。
黒き血の深淵
マルティーナが安堵の表情で部屋を辞した後、談話室には再び穏やかな、しかしどこか満たされた沈黙が戻った。偉業を成し遂げた達成感と、新たな繋がりがもたらした温かさが、暖炉の火と共に部屋を満たしていた。
だが、彼らが対峙した『悪』の根は、まだ残っている。その事実を、この部屋にいる誰もが忘れてはいなかった。
重い沈黙を破ったのは、ノベルだった。
「……エクレア殿。一つ、よろしいでしょうか」
彼は、学者としての探究心を抑えきれないといった様子で、身を乗り出した。
「先程の儀式で、我々はあの黒い血を『呪い』として扱いました。ですが、私の分析では、あれは単なる呪いとは構造が異なります。あれは一体、何なのですか?」
その問いに、エクレアは楽しげな表情をすっと消し、深い溜息をついた。
「……学者よ。それは、知らぬ方が幸せなことやもしれんぞ」
その重い口調に、部屋の空気が再び張り詰める。
「じゃが……お主らは、既にその深淵に片足を突っ込んでおる。知らぬままでは、いずれ魂ごと喰われることになるやもしれんな。よかろう、儂の知る限りの**『推論』**を話してやるわい」
エクレアは、カップを置くと、まるで忌まわしい記憶を辿るかのように、ゆっくりと語り始めた。
「まず、あれを『呪い』と考えるから、本質を見誤る。あれはな、グラティア教の狂信者どもにとっては、**『聖遺物』であり、神に捧げるための『供物』**なのじゃ」
「供物……ですって?」
ノベルが、信じられないといった表情で問い返す。
「うむ。それも、極めて質の悪い代物じゃがな」
エクレアは、目を細めた。「このような穢れた術には、古来より位階があるものじゃ。術の理から推察するに……その価値は、人の魂から搾り取れる“絶望の濃度”で決まるはずじゃ」
彼女の言葉に、誰もが息を呑んだ。
「一番質が低いのは、おそらく**『数の絶望』。民衆が抱く病や貧困、あるいは戦の恐怖。そういった、広く浅い苦しみから集めたものじゃろう。呪いとしては希薄じゃが、数を揃えるには都合がよい。奴らにとっては使い捨ての『下級品』**といったところか」
「……なんと、悍ましい……」アンナが、思わず口元を覆った。
「じゃが、オクターブ殿が飲まされたこれは……」エクレアは、先程の記憶を辿るように続けた。「もっと、粘り気のある、熟成された絶望の匂いがした。あれは**『誇りの絶望』じゃ。元は高い地位や強い意志を持っておった者が、長きにわたって心を折られ、希望を完全に奪われた末に流す血……。より濃い呪いを宿す『中級品』**じゃな」
「そして、最たるものが**『聖性の絶望』**……」エクレアの声が、一段と低くなる。「王侯貴族や高位の神官など、民の希望をその一身に背負う者を捕らえ、その血筋が持つ誇り、民からの信頼、守るべき全てを目の前で奪い、陵辱する。魂そのものが腐り果て、聖なるものが穢れに反転する瞬間に生まれる、凝縮された憎悪と悲嘆……それこそが、奴らにとって最高の供物となるはずじゃ」
その、術の理に基づいたあまりに倒錯した推論に、ラージンでさえも顔を歪めた。
「そこまでして……奴らは一体、何を企んでいるのですか!?」
レザリアが、震える声で尋ねる。
「決まっておろう」
エクレアは、静かに、しかし恐ろしい真実を告げた。「奴らが崇める神……その信仰の根源には、我らの神々とは全く異なる理で存在する**『何か』がいる。古の禁書によれば、それは祈りや信仰では力を増さず、ただ、人の嘆き、苦しみ、そして魂が砕ける瞬間に放たてれる断末魔の叫びだけを糧とする、神性の側面……あるいは、その神威を支える恐るべき存在**がいると、そう記されておった」
彼女は、意図的に言葉を選びながら、その存在を直接的に語ることを避けた。
「黒き血とは、その得体の知れない“神性”に捧げるための、究極の生贄なのじゃ。奴らは、人の絶望を神の酒とし、魂の悲鳴を賛美歌として、自らの神を育んでおる」
「神を……育てるために……」
ロスコフの言葉に、エクレアは静かに首を振った。
「それだけではない。それこそが、奴らの真の狙いじゃ」
彼女は、窓の外の闇を見つめながら、続けた。
「黒き血を使い、この世界の各地で悲劇を撒き散らす。人々の魂を汚染し、土地そのものを嘆きで満たす。そうやって、この世界全体の理を、我らの神々が住まう『聖域』から、グラティアの神が降臨するにふさわしい**『地獄』**へと、書き換えておるのじゃよ」
「世界の……書き換え……!?」
ノベルが、愕然とした表情で立ち上がった。
「左様。我らが対峙しておるのは、単なる狂信者の集団ではない。世界の理そのものを転覆させ、彼らの神をこの地に降臨させんとする、神々の尖兵なのじゃ」
エクレアは、最後にこう付け加えた。
「奴らの教義の最奥には、常人には決して辿り着けぬ『星』のような位階があると噂されておる。もし、その領域にいる者たちが本気で神を降ろす気なら、さらに悍ましいものを混ぜるやもしれん。異界の神か、あるいは奈落の悪魔の血か……。そうなれば、もはや人の手には負えん代物となろう」
その言葉は、一行がこれまで対峙してきた敵の正体が、自分たちの想像を遥かに超える、巨大で、根源的な悪であることを、決定的に突きつけていた。
彼らの戦いは、もはや一つの国や組織を相手にするものではない。世界そのものの存亡を賭けた、神々の代理戦争の、最前線に立たされているのだということを、この夜、彼らは初めて知ったのだった。
最後まで読んでくださりありがとう、また続きを見かけたら見て下さい。




