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運命の再開

再会は、いつも突然だ。

一人は、国家の存亡を背負い、孤独な研究にその魂を燃やす天才。

もう一人は、仲間との絆だけを頼りに、世界の裏側を駆け抜けてきた英雄。

貴族街の壮麗な邸宅と、裏路地の薄汚れた酒場。

交わるはずのなかった二つの物語が、一つの友情を軸に、今、交差する。

それは、嵐の前の、束の間の休日。

そして、水面下で蠢くいくつもの思惑が、やがて世界を揺るがす巨大な渦となっていく、その始まりの物語である。



               その153




【同日深夜 - ワーレン侯爵邸】


夜会から戻ったリッツ侯爵は、その足でワーレン侯爵邸の書斎を訪れていた。


当のロスコフは、夜会での出来事などまるで意に介さぬ様子で、羊皮紙に数式を書き殴っている。その集中力は、もはや祈りにも似ていた。

「……というわけだ、ロスコフ。トルーマン公の不満は、もはや限界に近い。他の保守派貴族たちも、同様の疑念を抱き始めている。それに加え、北部ではグラティア教が不穏な動きを見せているようだ」


リッツ侯爵の報告に、ロスコフは初めて顔を上げた。その瞳は、まだ数式の宇宙から帰還していない。


「グラティア教……? すみません、カール。寡聞にして、存じ上げないのですが」


その、あまりに純粋な返答に、リッツは天を仰ぎ、深いため息をついた。


「……君という男は、本当に……。いいか、ロスコフ。君が今進めていることは、もはや君一人の研究ではない。国家の存亡を賭けた、巨大なまつりごとなのだ。設計図だけを見ていては、足元を掬われるぞ」


リッツは、真剣な眼差しで、盟友を見据えた。


「君には、君の世界を守るための『目』と『耳』が必要だ。敵が誰で、何を考え、どう動こうとしているのか。それを知らずして、このアンヘイムという巨大な都市で生き残ることはできん」


彼は、ロスコフの忠実な執事エスターへと視線を移す。


「エスター殿。貴殿から、侯爵殿にお進言申し上げてくれ。このアンヘイムの裏を知る、信頼できる情報屋を何人か確保すべきだと。そして、いざという時に、我々の手足となって動ける、腕の立つ傭兵もな。費用は、政務院に支払ってもらえ。」


リッツの言葉に、ロスコフは、初めて事の重大さを理解したかのように、静かにペンを置いた。

研究に没頭するだけでは、守れないものがある。そして、自分にはない現実的な視点で、このプロジェクトを守ろうとしてくれる、かけがえのない友がいる。


その事実に、彼は静かに頷くしかなかった。


「……カール。いつも、感謝しています。エスター、そのように手配を」


それは、一人の発明家が、国の運命を背負う戦略家としての「必要性」を、初めて自覚させられた瞬間だった。

だが、心の奥底で、彼はまだこう呟いていた。

(……しかし、この数式の方が、よほど世界の真理に近い気がするんですよね……)


与えられた3年という時間。

その最初の5ヶ月は、夢の実現への助走であると同時に、数多の陰謀が蠢き始める、嵐の前の静けさでもあった。



【翌日 - 首都アンヘイム】


神聖モナーク王国を出立してから、数ヶ月。

長い旅路の末、タンガたち一行は、ついにリバンティン公国の首都アンヘイムの壮麗な市門をくぐった。


「まあ……! なんて、活気のある街なのでしょう!」


マルティーナが、その光景に目を輝かせる。ハミルトンとはまた違う、商業都市ならではの喧騒と、人々の熱気が、そこにはあった。


だが、タンガの目には、そんな華やかな街並みは映っていなかった。


彼の視線は、ただ一点。

幼い日に聞いた、友の家の場所だけを探している。


「こっちだ! 間違いない!」


タンガを先頭に、埃まみれの、しかし誰もが一目でただ者ではないと分かる一行が、貴族街の一角に立つ、ひときわ壮麗な邸宅の前にたどり着く。


掲げられた紋章は、間違いなくワーレン家を示すものだった。


「ようし……!」


タンガは、逸る心を抑えきれない。


堅く閉ざされた門扉を、力任せに叩いた。

「ごめんください! 俺だ、タンガだ! ロスコフ様はいらっしゃるか! 開けてくれ!」


その、あまりに無遠慮な、しかし敬意だけは込められた呼びかけに、屈強な門番たちが、怪訝な表情で槍を構える。

「何者だ、貴様ら! 侯爵様の名を、軽々しく口にするでない!」


一触即発の空気が流れた、その時。


屋敷の扉が静かに開き、年配の執事が姿を現した。彼は、埃まみれの一行と、槍を構える門番たちを交互に見やると、その厳格な表情を一切崩さずに、タンガに問いかけた。

「失礼ながら、お名前をお伺いしても? 侯爵様のお名前をご存知のようですが、アポイントメントは承っておりません」


その冷静で隙のない対応に、タンガはたじろいだ。

「あ、ああ……俺は、タンガだ! ロスコフ様とは、その……昔、領地で!」


「タンガ様、と」


執事は、その名を静かに反芻した。彼の記憶には、その名は無い。だが、侯爵の名をこれほど親しげに呼ぶからには、ただの冒険者ではあるまい。そして何より、その後ろに控える者たちの、ただならぬ雰囲気及び出で立ちを、執事は見逃さなかった。


「……承知いたしました。侯爵様に、タンガ様と名乗る方がお見えであると、お伝えしてまいります。門内にて、今しばらくお待ちを」


執事は、門番たちに目配せして槍を収めさせると、一行を門の内側へと招き入れ、再び静かに屋敷の扉の向こうへと消えていった。


そのやり取りの全てを、書斎の窓から、ロスコフは静かに見つめていた。

執事が口にした、懐かしい名前に、彼の心臓が大きく跳ねる。


(……タンガ……? まさか、あの……)


昨夜、リッツ侯爵との会話の後、彼が渇望したもの。

それは、この複雑な政治の世界で、腹の内を探り合うことなく、ただ背中を預けられる、絶対的な信頼。


それが、神の気まぐれか、あるいは運命の必然か。

全く予期せぬ形で、自らの元へとやって来てくれたのだ。


彼がこの世で最も信頼し、そして共に義兄弟の誓いを交わした、たった一人の**「親友」**という、最高の形で。


ロスコフの口元に、研究者でも、交渉人でもない、ただの少年に戻ったかのような、純粋な笑みが浮かんでいた。



【再会の夜会】


(……タンガ……? まさか、あの……)


執事が口にした懐かしい名前に、ロスコフの心臓が大きく跳ねた。


書斎の窓から見下ろすと、そこには、最後に会った時から少しも変わらない、太陽のような笑顔を浮かべた親友の姿があった。


あの、ハイメッシュ島での悪魔ドミネートとの死闘の後、強さを求めて旅立つと言って、自分の元を去っていった親友。彼がいなくなった後、どれほど寂しく、心にぽっかりと穴が空いたような日々を過ごしたか、ロスコフは今も忘れてはいなかった。


ロスコフは、研究者でも、侯爵でもない、ただの青年の顔に戻っていた。

彼は書斎を飛び出すと、階段を駆け下り、自ら玄関の扉を開け放った。


「――タンガッ!」

「ロスコフ様!」


再会に、多くの言葉は必要なかった。

二人は、ただ固く、強く、互いの友情を確かめるように抱き合った。

「……遅かったじゃないか、馬鹿者め」

「へへっ、ごめん、ロスコフ様」

ロスコフは、タンガの背後で、その様子を温かく、あるいは訝しげに見守る、個性豊かな仲間たちへと視線を移した。どの一張羅も、ただ者ではない空気を放っている。


「……彼らが、君の新しい仲間...」

ロスコフの顔に、満面の笑みが広がった。

彼は、出迎えた執事のエスターと、侍女長のモーレイヌに、興奮を隠せない様子で命じる。


「エスター! モーレイヌ! 彼らは、私の特別なお客様だ! 今夜は宴だ、我がワーレン邸が誇る、最高のおもてなしを用意してくれ!」


その、主人の滅多に見せないはしゃぎように、二人の老練な使用人も、目を丸くしながらも、喜びに満ちた表情で深く頭を下げた。


ロスコフは、妻アンナの元へも急いだ。

「アンナ! 聞いておくれ、タンガが……あのタンガが、帰ってきたんだ!」

「まあ!」

アンナは、心底驚いたような、そして喜びに満ちた表情を作って見せた。


(――タンガ。あなたが、あの……)

彼女の脳裏に、今は亡き妹リーゼが、庭で楽しそうに語っていた、一人の少年の面影が蘇る。だが、そのことはおくびにも出さず、彼女は完璧な侯爵夫人として微笑んだ。

「そうですの。あなた様の、大切なご親友……。でしたら、私も心を込めて、おもてなしをさせていただきますわね」


その夜、ワーレン邸の大広間は、公式の晩餐会とは全く違う、温かく、そして賑やかな笑い声に満ちていた。

食卓には、メッローニ料理長が腕によりをかけて作った、豪勢な料理が並ぶ。


ロスコフは、まるで子供のように、タンガたちの冒険譚に目を輝かせて聞き入った。【ルビナ迷宮】での死闘、アークデーモンとの奇跡的な勝利。そして、神聖モナーク王国での、グラティア教との戦い。


「グラティア教……?」

その名を聞いた時、ロスコフの表情が初めて曇った。

「実は、その教団なら、このリバンティンでも、問題になり始めているんだ」


彼は、盟友リッツ侯爵から聞いたばかりの、北部での不穏な動きについて、タンガたちに語り始めた。強引な布教活動、地元住民との軋轢、そして、それに頭を悩ませる『公』ルクトベルグ公爵の姿。


これまで全く接点のなかった、二つの物語。

一つは、故郷を失い、大陸を放浪してきた者たちの戦いの記録。


もう一つは、国家の存亡を賭け、革新兵器を開発する者の、政治と陰謀の記録。

その二つの物語が、この再会の夜を境に、一つの巨大な奔流となって、世界の運命を大きく揺り動かし始めることを、この時、まだ誰も知らなかった。


タンガたちとの冒険譚に一区切りがつくと、彼は思い出したように、まだ紹介していなかった一行へと向き直った。


「そうだ、ロスコフ様! 紹介が遅れちまったけど、こちらは、遥か東の国、マーブル新皇国にいらっしゃった、マルティーナ王女様なんだ」

タンガは、悪びれもなく、しかし誇らしげにマルティーナを紹介する。

「神聖モナークのパットン王が、ロスコフ様の知り合いだって言うからよ、俺もロスコフ様のこと色々話しちまったんだ。そしたら、マルティーナ様が、一度会ってみたいっておっしゃってな。だから、連れてきちまった!」


その、あまりに無邪気な「だから」に、ロスコフも思わず笑みがこぼれた。

彼は、目の前に立つ、気品と、そしてどこか深い憂いを湛えた女性、マルティーナへと向き直り、丁寧にお辞儀をした。

「これは、ご丁寧に……。ロスコフ・ワーレンと申します、マルティーナ王女殿下。我が友人が、何かとご無礼を働かなかったか、心配です」


「いいえ、とんでもない」マルティーナもまた、優雅なカーテシーを返した。「タンガ様からは、貴方様の素晴らしいお話をたくさん伺いましたわ。お会いできて、光栄です、ワーレン侯爵」


その挨拶を皮切りに、マルティーナの従者たちが、次々とロスコフに紹介されていく。

だが、その中で、二人の存在が、場の空気を一変させた。


一人は、シャナ。

彼女がロスコフを見つめた瞬間、その瞳に鋭い緊張が走った。

(……この方は……!? この、内側から感じる、巨大なエネルギーの奔流は……!? まるで、あのニフルヘイムと対峙した時のような……いや、それとも違う、もっと穏やかで、しかし底知れない……。この方は、もしや、大精霊そのもの……?)


そして、もう一人。

ただそこに立っているだけで、空間そのものを歪ませるほどの存在感を放つ、“闘神”ゲオリク。


彼がロスコフを見た時、その千年の時を刻む瞳が、初めて興味の色に細められた。

(ほう……なるほどな。小僧が語っていた、大精霊と感応したという話……ただの比喩ではなかったか。この者の内には、確かに、この世界の理とは異なる、巨大な何かの“扉”がある)


その、人ならざる者たちが放つ、見えない力の交錯。

それを、ロスコフの後ろに控えていたアンナが、見逃すはずがなかった。


彼女の美しい微笑みはそのままに、その瞳の奥で、冷たい警戒の光が灯る。彼女が注目したのは、シャナではない。その力の根源であるマルティーナと、そして、自分と同質、あるいはそれ以上の、異界の匂いを放つ、すぐそこに立つ巨人。


(……まあ。この者たちは、一体? この人間界に、これほどまでの存在が揃うなんて。これもまた、私の旦那様の、抗いがたい運命に引き寄せられたということかしら)

アンナの視線が、ゲオリク、そしてマルティーナへと注がれる。

(そして、この巨神……。それに、あの女性も……まるで女神のような神聖さを秘めている。私の旦那様の物語を彩るには、この上なく、素晴らしい役者たちだこと)


奇しくも、ゲオリクもまた、アンナの本質を一瞬で見抜いていた。

(……悪魔、か。それもかなり高位....。なぜ、人の子と……? ……まあ、良い。我には関係のないことだ)

彼はすぐに興味を失ったかのように、再び静かなる守護者の貌に戻り、マルティーナの後ろに控えた。


そんな、水面下で繰り広げられる超常の探り合いなど露知らず、ロスコフとマルティーナの会話は弾んでいた。

マーブル新皇国の悲劇、大精霊ニフルヘイムの脅威。ロスコフは、特に「大精霊」という存在に、研究者として尽きることのない好奇心を刺激されていた。


「素晴らしい……! その生態、そして力の根源……是非、もっと詳しくお聞かせ願いたい!」

尽きることのない話題に、夜はあっという間に更けていく。長旅の疲れも相まって、冒険者たちは一人、また一人と、用意された豪華な客室へと案内されていった。


その夜、ワーレン邸の主は、かつての親友との再会と、新たな知的好奇心を満たしてくれる、謎多き王女との出会いに、心からの喜びを感じていた。


だが、彼の妻アンナは、眠る夫の横顔を見つめながら、静かに、そして冷徹に、新たな「役者」たちの価値を、値踏みしていた。

この出会いが、愛しい旦那様の物語を、どのような方向へと導いていくのか。

マルティーナという王女の存在は、彼の運命に、どのような彩りを与えるのだろう。

吉と出るか、凶と出るか。


(……どのような未来が待ち受けていようとも)

アンナは、眠る夫の頬を、愛おしげにそっと撫でる。

(私が、あなたを最高の結末へと導いてみせます。この身に宿る全ての力を使い、あなたのための、最も輝かしい運命を、私が織り上げてみせます……愛しい、私のロスコフ様)


彼女にとって、それは、自らの存在の全てを賭けた、ただ一つの、愛の誓いであった。



【『アンヘイムの休日』】


一夜が明け、ワーレン邸の豪華な食堂には、焼きたてのパンの香ばしい香りと、新鮮な果物の甘い匂いが満ちていた。長旅と戦いの疲れを癒した一行の顔には、晴れやかな表情が浮かんでいる。

だが、その和やかな空気を破ったのは、やはりタンガだった。


「ロスコフ様! 俺、昨日の話にあった北部の様子を、ちょっくら見てくらあ!」


彼は、口いっぱいにパンを頬張りながら、まるで散歩にでも出かけるかのような気軽さで言った。

その言葉に、ロスコフは呆れたように眉を下げる。

「何を言っているんだい、タンガ。君たちは、昨日ここに着いたばかりじゃないか。もっとゆっくり寛いでいけばいい。そんなに焦ることはないよ」


そのブレーキに、エイゼンもすかさず乗っかった。

「そうだぜ、タンガ。お前のその猪突猛進癖は、ちったあ治せ。俺たちは、せめてあと二日、ここで骨休めさせてもらう。それに、大陸第三位とまで言われるこのアンヘイムの街並みを、この機会に見ない手はねえだろう?」


エイゼンの言葉に、他の冒険者たちも次々と頷き、一行はあと二日間、このワーレン邸に滞在し英気を養うことに決まった。


「では、私どもは、このリバンティン公国という国を見て回ることにいたしますわ」

マルティーナがそう提案すると、ロスコフは快く応じ、最高の案内役として、快活な笑顔が魅力的な音楽家ミスティーヌを紹介した。


その日から二日間、アンヘイムは、異邦からの珍しい客人たちで賑わった。

マルティーナ一行は、ミスティーヌの案内で首都の光の部分――壮麗な広場や歴史的な建造物を巡り、神への祈りではなく、国に尽くした先人たちへの感謝と敬意が捧げられている『建国記念殿堂』に、深い感銘を受けていた。


一方で、エイゼンたちは、この街の「裏側」へと、自ら足を踏み入れていた。


「……へっ、活気があるってのも、考えもんだな。人の欲望が渦巻いてる匂いがプンプンするぜ」

エイゼンは、裏路地にひしめく武具屋の店先で、怪しげな光を放つ短剣を値切りながら、独りごちた。


彼らが次に向かったのは、情報屋や傭兵たちが集う、薄暗い酒場『パンプキン』。

そこで交わされる会話は、貴族たちの夜会で語られるものとは、全く質が異なっていた。


「聞いたか? 南部のトルーマン公が、なりふり構わず傭兵をかき集めてるらしいぜ。ラガン王国への備え、ってことになってるが……」


「ああ。だが、妙な話だ。ワーレン侯爵領へ向かうはずだった、王家御用達の商船が、『海賊』に襲われて積荷をいくつか燃やされたらしい。面白いのは、金目のものは、何一つ盗まれなかったってことだ」


その断片的な情報が、エイゼンの頭の中で、一つの悍ましい絵図として組み上がっていく。

これは、ただの国境紛争ではない。

ロスコフのプロジェクトを妨害するための、計算され尽くした、国内からの妨害工作だ。


(……ロスコフ様は、相変わらずか。ロウ爺さんやレザリアみたいな化け物じみた手練れを従えていながら、こういう世界の汚ねえやり口には、とことん無頓着なんだからな)

エイゼンの脳裏に、かつてハイメッシュ島で共に死線を潜り抜けた、あの頃の光景が蘇る。ロウ爺さんの鉄壁の守りと、レザリアの圧倒的な破壊力。あれがなければ、自分たちは今頃、この場には居ない。ドミネートに魂を食われていただろう。


その夜、ワーレン邸に戻ったエイゼンは、タンガ、グリボール、パトリックを集めて、静かに告げた。

「……決めたぜ。俺たちは、ここに残る」


彼は、元々拠点にしていた港町ホエッチャへ戻るつもりだった。だが、かつての恩人が、あまりに無防備なまま、ハイエナの群れの中にいるのを見過ごすことはできなかった。


「ロスコフ様には、俺たちみてえな、汚れ仕事に慣れた奴らが側にいた方がいい。昔、ロウ爺さんたちに受けた恩を、少しは返さねえとな。それに……」

彼は、タンガの肩を叩く。

「お前を一人で、オオカミの群れに放り込むわけにはいかねえ」


その言葉に、グリボールも、パトリックも、静かに頷いた。


一方、ノベル、リバック、ロゼッタの三人は、全く別のものに心を奪われていた。

彼らが足を運んだのは、冒険者ギルドのリバンティン公国本部。その、神殿のように巨大で、大陸中の依頼が羊皮紙にびっしりと貼り出された光景に、三人は圧倒された。


「……すごいな。ここでなら、我々の報告も、正当に評価されるだろう」


ノベルは、自分たちが成し遂げた【ルビナ迷宮】の完全攻略と、ネームドのアークデーモン討伐という偉業を、正式に記録に残せる場所を見つけたことに、静かな興奮を覚えていた。

だが、彼の心を本当に捉えたのは、その隣に立つ、さらに巨大な建造物だった。


リバンティン公国、王立中央図書館。


「……これだ」

ノベルは、まるで恋い焦がれた女性にでも出会ったかのように、呟いた。

そこは、彼が長年書き溜めてきた、冒険の記録の全てを奉納するに相応しい、知の聖域だった。生贄の迷宮で出会った怪物たち、ルビナ迷宮に咲いていた未知の植物、神獣、悪魔、精神生命体……その全てを体系化し、一つの辞典として完成させる。それこそが、自分の冒険の、本当の終わりなのだと、彼は悟った。


その夜、ワーレン邸で、それぞれの決意が語られた。

エイゼンたちは、ワーレン侯爵家に仕え、タンガと共にロスコフを守るという。

そして、ノベルたちもまた、このアンヘイムに留まり、冒険の記録をまとめることを決めた。


ロスコフは、思いがけず手に入った、あまりに心強い協力者たちの申し出に、心からの感謝を述べた。

彼が知らないところで渦巻いていた陰謀の影と、それを打ち払うための光。

その両方が、この日、彼の元へと、同時に集結したのだ。


だが、そうした政治的な駆け引きや、人の心の機微は、カールや、あるいはエイゼンたち専門家に任せておけばいい。

ロスコフには、彼にしかできない、やるべきことがあるからだ。


その夜。

客人が寝静まった頃、ロスコフは、まるで何かに取り憑かれたかのように、邸宅の地下深くにある工房に引きこもっていた。

そこは、彼の聖域。雑音も、政治も、人間関係も、ここにはない。

あるのは、鉄と、魔晶石と、無限の可能性だけだ。


「……違う! ここのシギルの伝達効率が、まだ3%もロスしている……! これでは、僕が求める理想の反応速度には、到底届かないじゃないか……!」


彼は、巨大な魔導アーマーの腕部の設計図に、鬼気迫る表情で新たな数式を書き込んでいく。

その集中力は、もはや常軌を逸していた。


コンコン、と控えめなノックの音で彼を現実へと引き戻したのは、アンナだった。

「もう、あなたったら……。鉄の恋人ばかりに夢中で、私のこと、お忘れではありませんこと? ほら、美味しいお茶を淹れてまいりましたわ。少しだけ、私にもお時間をくださいな?」


「ん……ああ、アンナか。すまない、また時間を忘れていたよ」

ロスコフは、ようやく顔を上げると、ふにゃりとした子供のような笑顔を見せた。


アンナは、そんな彼の髪についた油の汚れを、愛おしげに指で拭う。

「もう……本当に、あなたはいけない人。少しは、私のことも構ってくださらなければ、寂しいではありませんか」


その甘い声に、ロスコフは彼女の腰をそっと引き寄せ、その肩に頭を乗せた。

「……すまない。でも、もう少しなんだ。もう少しで、祖父から受け継いだ夢が……僕たちの未来を守る、最高の盾が、完成するんだよ」


「存じております」

アンナは、彼の頭を優しく撫でた。

「だからこそ、です。最高の作品を創るためには、最高の休息が必要でしょう?」


彼女は、カップを彼の手に持たせると、自らもその隣に腰を下ろした。

工房に満ちる鉄と油の匂いの中で、二人だけの甘い時間が、ゆっくりと流れていく。

その穏やかな光景の裏で、彼女が、夫の未来を守るために、どれほどの「運命の糸」を静かに、そして冷徹に編み直しているのか。


そのことを、ロスコフはまだ、何も知らなかった。 





最後まで読んでくださりありがとう、また続きを見かけたら読んでみて下さい。

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