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お願いされる鋼のアルケミスト。

神罰を掲げる使徒が聖域を蹂躙し、古の闘神がその咆哮をもって応える時、遥か西の地では、もう一つの戦いが始まっていた。それは剣ではなく、知性を武器とした契約という名の闘争。一人の天才が、国家の存亡をその両肩に担った瞬間だった。

ハミルトンで灯された熾火と、リバンティンで交わされた密約。二つの地で始まった物語は、やがて一つの大きな流れとなり、英雄たちを導き、世界の運命を大きく揺り動かすことになる。

               その152



【鋼鉄と奈落のアルケミスト】――闘神、立つ


「さあ、始めようか。神罰の時間だ」


イグナ・デシデラの冷酷な宣告が、絶望となって戦場に響き渡った。タンガという若き獅子さえも一蹴された今、誰がこの神罰の使徒を止められるというのか。兵士たちの顔に浮かぶのは、諦観の色だけだった。


だが、そんな万策尽きたかのような空気の中、これまで腕を組み、ただ戦況を見守っていただけの巨人が、初めて静かに動いた。


“闘神”ゲオリク。


彼は、主であるマルティーナの方へ僅かに顔を向けると、多くを語らず、しかし有無を言わせぬ響きで告げた。

「……どうやら、出番のようだ」

その一言だけで十分だった。マルティーナは、その広大な背中に絶対の信頼を込めて、深く頷く。

「お願いします、ゲオリク様」

その声を聞き届けた瞬間、ドスン……と、大地が微かに震えた。ゲオリクが、ただ一歩、前に踏み出したのだ。彼はゆっくりと、しかし着実に、その巨躯をイグナへと向けて歩みを進めていく。


「ほう? 今度は、ただ図体がでかいだけの木偶の坊か。異端者どもは、他に芸がないらしいな」


イグナは、まだ目の前の巨人が内包する真の力に気づかず、嘲るように笑った。


次の瞬間、彼の常識は、物理的に粉砕された。


ゲオリクの姿が、その場から掻き消えたのだ。いや、違う。人間の認識が追いつかないほどの速度で、彼はイグナの懐深くまで踏み込んでいた。そして放たれたのは、あまりにも単純な、ただの右フックだった。


ゴッシャアアアッ!


肉と骨が、あり得ない角度に軋み、砕けるおぞましい音が戦場に響く。ゲオリクの拳はイグナの左頬を完璧に捉え、その身体を水平に、一直線に弾き飛ばした。砲弾のように飛翔したイグナは、広場の向こうにある建物の壁を突き破り、轟音と土煙の中に消えていった。その、あまりに現実離れした光景に、戦場の全ての者たちが言葉を失った。


やがて、我に返った兵士たちから、歓声が爆発した。

「おおおおおおっ!」「今のは、一体……!?」「あの大男がやったぞ! グラティア教のボスが、吹っ飛んでったぞ!」


その歓声の中、ようやく身体を起こしたタンガもまた、信じられないものを見たという表情で、ゲオリクの背中を見つめていた。自分が突っ込んだ時には何が起きたのかさえ理解できずに弾き返された相手を、たった一撃で、それも小細工なしの真正面からの殴り合いで粉砕してしまったのだ。悔しさよりも、純粋な驚きと尊敬の念が胸を満たしていく。

「……巨人のおっさん、マジかよ……スゲェ!」

彼は、子供のように目を輝かせ、次元の違う圧倒的な力の差を、素直に認めざるを得なかった。


だが、ゲオリクの表情に変化はない。彼はただ、土煙が上がる一点を、静かに見据えている。やがて、瓦礫の中から、一つの影がゆっくりと姿を現した。


イグナだった。彼の左頬はもはや顔としての原型を留めず、ぐしゃりと潰れていたが、その瞳に宿る狂信の炎は、痛みによってさらに激しく燃え上がっていた。

「……ちくしょう……! この野郎、油断したばかりに……!」

潰れた顔から、くぐもった声が漏れる。


「よくもやってくれたな、異端の巨人め! その痛み、この屈辱……百倍にして、貴様の魂に刻み付けてくれようぞ!」


イグナは天を仰ぎ、両腕を広げた。「来たれ! 我が身に宿りし神の御力! 異端を滅する、聖なる鉄槌をここに!」

彼の身体が、内側からまばゆい光を放ち始めた。皮膚が裂け、骨が軋み、筋肉が脈動する。それは、人間という「殻」を、内なる「神の使い」が食い破っていく、冒涜的な変態メタモルフォーゼだった。背中からは純白の翼が肉を突き破って生え、額の中心には世界を見下す第三の目が開かれる。その身体は見る見るうちに巨大化し、やがて6メートルを超える、神々しくも禍々しい三つ目の神人へと姿を変えた。


「我こそは、神の使徒! 異端を裁く、神罰の執行者なり!」


その神威に、並の兵士ならば恐怖で膝をつくだろう。だが、その光景を見てもなお、ゲオリクは微動だにしなかった。それどころか、彼の口元には、初めて獰猛な笑みさえ浮かんでいた。


「……ようやく、我の相手が出きそうな奴が出て来たか」


ブォォォォン……!

ゲオリクの全身から、空気を震わせるほどの闘気が立ち上る。彼の身体の輪郭が陽炎のように揺らめき始め、人間たちの目には、もはやその姿は蜃気楼のようにぼやけてしか見えなかった。


神の使いと、古の闘神。二つの人ならざる存在が、今、ハミルトンの大地で激突しようとしていた。


戦いはまだ始まってすらいない。だが、その余波だけで、世界は悲鳴を上げていた。イグナから放たれる神聖な圧力と、ゲオリクから立ち上る純粋な闘気。二つの巨大な力が衝突し、ただ対峙しているだけで、周囲の建物の窓ガラスがひとりでに砕け散り、石畳には無数の亀裂が走る。兵士たちが、その圧倒的なプレッシャーに耐えきれず、後ずさっていく。


イグナは、その光景を愉しんでいた。この異端の巨人と本気で戦えば、この忌まわしき偽りの聖域がどうなるか。想像するだけで、彼の口元には歓喜の笑みが浮かぶ。

だが、ゲオリクの双眸は、目の前の敵だけを捉えてはいなかった。その視線は、一瞬だけ、恐怖に顔を引きつらせる兵士たちへ、そして主君マルティーナが身を寄せる、この街そのものへと向けられた。

(……なるほど。ここで戦うことこそが、こやつの狙いか)

この街は、戦場ではない。主君が、そしてその仲間たちが、ようやく見つけた安息の地だ。それを、自分の戦いの余波で破壊することなど、断じて許容できない。


「――興が醒めた」


ゲオリクは、不意に、立ち上らせていた闘気をすっと収めた。そのあまりに予期せぬ行動に、イグナが一瞬、眉をひそめる。

その、コンマ一秒にも満たない思考の隙。それこそが、闘神が作り出した唯一の好機だった。

「場所を変えるぞ、神の使い」


次の瞬間、ゲオリクの巨体が再びその場から掻き消え、今度は蹴りが放たれた。だが、それは先程のように肉体を破壊するためのものではなく、衝撃そのものを運動エネルギーへと変換し、イグナの巨体を西の空へと向かって一直線に**“射出”**したのだ。

「なっ……!?」

意思とは無関係に空の彼方へと飛んでいくイグナを見送ることもなく、ゲオリクは自らもまた、西の空へと向かってその姿を消した。


そこに残された者たちの殆どには、何が起きたのか全く理解できなかった。世界を終わらせるかのようなプレッシャーを放っていた二つの巨人が、ただ忽然と消えたのだ。

だが、真の強者たちの感覚はその真実を捉えていた。

「……西ね」

ロゼッタが、烈風剣を握りしめながら呟いた。彼女の風を操る力は、二つの巨体が大気を引き裂いていった巨大な航跡を感じ取っていた。シャナもまた、遥か彼方で炸裂しようとしている二つの巨大な生命エネルギーの波動を感知していた。

「リバンティン公国までは届いていない……おそらくは、ヒュルザの深林……!」

その場にいた誰もが、ゲオリクの意図を理解した。彼は、勝つためだけではなく、この街を守るために、戦場そのものを強制的に移動させたのだ。

「……もし、あの二人がここで本気で戦っていたら……」ノベルはゴクリと唾を飲んだ。「このハミルトンは、地図から消えていましたよ」

その圧倒的な力の差とゲオリクの計り知れない機転に、彼らは感謝すると同時に、人知を超えた戦いの幕開けに、静かな戦慄を覚えるしかなかった。



ヒュルザの深林。古の木々が天を覆うその場所に二つの流星が墜落し、森の静寂を破壊して広大な更地を作り出した。その中心で、イグナ・デシデラは怒りに身を震わせていた。

「……貴様……! よくも、我が神聖なる浄化の儀を!」

ハミルトンを戦場とし、異端者どもを恐怖の坩堝で焼き尽くす。その甘美な計画を、目の前の巨人は悉く踏みにじったのだ。


だが、ゲオリクはそんな彼の憤りなどまるで意に介さず、その瞳に純粋な強者への渇望を映していた。

「戯言はそれだけか、神の使い。ならば……」

ゲオリクは、ゆっくりと拳を握りしめる。

「お前の“本気”とやらを、この俺にぶつけてみせろ」

その、あまりに挑発的な言葉に、イグナの理性の箍が外れた。

「思い上がるな、古き神の残骸がァァァッ!」


イグナの三つ目の瞳が紅く輝き、その巨体から神聖な光の槍が雨あられとゲオリクに降り注ぐ。一本一本が城壁さえも容易く穿つほどの破壊力を持っていたが、ゲオリクはそれを避けるでもなく、ただその身に受け止めた。光の槍は彼の鋼鉄の肉体に弾かれ、まるで子供の玩具のように砕け散っていく。

「……なんだこれは。こんな児戯で何をしたい?」

ゲオリクは、その巨体に似合わぬ、猫が鼠をいたぶるような笑みを浮かべた。

「まさかこの程度で終わりじゃないんだろう? もっとだ。もっと、お前の魂の全てを燃やし尽くした、本気を見せてみろ!」


その言葉は、イグナにとってこれ以上ない屈辱だった。

「ぬぅぅおおおおおおっ!!」

彼は神に与えられた力の第二段階を解放し、その身体はさらに巨大化して10メートルに迫るほどの巨神へと変貌した。その一挙手一投足が森を薙ぎ払い、大地を揺るがしたが、圧倒的なパワーと引き換えに、彼の動きから先程までの洗練された速さは消え失せていた。ゲオリクは、その大振りな攻撃をまるであざ笑うかのように、余裕で回避していく。


しばらくその一方的な攻防が続いた後、不意にゲオリクの動きが止まった。そして、その口から、心底つまらなそうな声が漏れた。

「……ダメだ、本当にこの程度だったとはな」

その言葉が、イグナの敗北を決定づけた。

「な……に……?」


イグナの三つ目の瞳でさえ、捉えることができなかった。ゲオリクが、いつの間にかその手に、天の蒼穹そのものを凝縮して鍛え上げたかのような、壮麗な大剣を握っていたことを。

【スカイブレイカー】。かつて神々の大戦のおりに、大神ラーナが軍団長ゲオリクに授けたとされる伝説の一振り。

ゲオリクの姿が揺らいだかと思うと、次の瞬間には、イグナの背後に立っていた。そして、イグナの巨大な身体の中心に、一筋の蒼い光の線が走った。

イグナは、何が起きたのかを理解できぬまま、自らの身体が上下に泣き別れになっていくのをただ見つめていた。断末魔の叫びを上げる間もなく、その神聖なる肉体は蒼い炎に包まれ、塵となって消滅していった。


戦いは、あっけなく終わった。

ゲオリクは、スカイブレイカーを虚空へと消し去ると、忌々しげに呟いた。

「ふん……。半神のヴァンデッタの方が、遥かに手強かったわ。大神の使いがこのていたらくか。今の神界も、たかが知れる」

その言葉は、彼が知る、古の神々の時代の終焉を嘆いているかのようだった。


ゲオリクがマルティーナたちの元へと帰還し、イグナを討ち取ったことを簡潔に報告するのに、そう時間はかからなかった。

一方、ハミルトンでは、パットン王が駆け付けた将軍に迅速な指示を下していた。負傷者の救護、家屋を失った民への補償、そして街の復旧。為政者としての務めを終えた彼は、マルティーナとこの国を救った異邦の英雄たちを、王宮へと丁重に招いた。今回の事件の礼と、そして、これから始まるであろうグラティア教との本格的な戦争について、話をするために。

ハミルトンの平和は守られた。だが、誰もが知っていた。これは、終わりではなく、始まりに過ぎないということを。



――王宮の夜会と新たなる道


神罰の使徒がもたらした悪夢のような一日は、ハミルトンの民の団結と王への揺るぎない信頼を、逆説的に証明する結果となった。街の復興は驚くべき速さで進み、数日後、王宮には勝利を祝う穏やかな光が灯っていた。


パットン王の正式な招待を受け、王宮の大広間に足を踏み入れたマルティーナ一行と冒険者たちは、その壮麗な光景に息を呑んだ。磨き上げられた大理石の床にシャンデリアの光が乱反射し、壁には神聖モナーク王国の歴史を物語る勇壮なタペストリーが掲げられている。マルティーナは、故郷マーブルの王宮を彷彿とさせるその光景に一瞬胸が締め付けられるのを感じたが、すぐに王女としての気品を取り戻し、優雅な微笑みを浮かべた。


一方、普段は冒険者としての無骨な装備に身を包むノベルたちは、貴族たちが着るような豪奢な正装に、どこか居心地の悪そうな表情を浮かべていた。

「いやはや、窮屈でかなわん! こんな服で戦えるか!」

グリボールが襟元を緩めながらぼやくと、ロゼッタが「静かに、グリボール。あなた、今日は英雄として招かれているのよ」と呆れたように彼を諌める。そのやり取りに、周囲の貴族たちからくすくすと笑い声が漏れた。


晩餐会は和やかな雰囲気で進み、宴もたけなわとなった頃、パットン王は冒険者たちを傍らへと招いた。

「さて、皆には改めて礼を言う。本当に、よくぞ我が国を救ってくれた」

王は深々と頭を下げ、その真摯な態度に冒険者たちは恐縮する。

「そして、これは私の個人的な願いなのだが……もしよければ、君たちに、この神聖モナーク王国の騎士として、あるいは宮廷魔術師として、席を置いてはくれまいか? もちろん、破格の待遇を約束しよう」


王からの直々のスカウト。それは冒険者にとって最高の栄誉だった。黒衣の剣士アシタガが「……光栄です。その話、前向きに考えさせていただきたい」と応じ、魔術師のモニカも「私の魔法が、この国の役に立つのでしたら」と肯定的な返事をした。

だが、他の者たちの答えは違った。ノベルは丁重に、しかしきっぱりと、まだ果たすべき旅の途中にあると断りを入れる。そして、タンガもまた、深々と頭を下げた。


「俺も、そのお話はお受けできません。申し訳ありません、パットン王」

「ほう、理由を聞いても?」

「はい」タンガは顔を上げた。その瞳には、揺るぎない決意の光が宿っている。「俺は、故郷であるリバンティン公国へ帰らねばなりません。幼い頃に交わした、ある誓いを果たすため……友である、ロスコフ様の元へ馳せ参じ、彼の力になるために」


その名を聞いた瞬間、パットン王は驚いたように目を見開いた。

「おお! そなた、あのロスコフ殿の知人であったか!」

「えっ、パットン王は、ロスコフ様をご存知なのですか!?」

パットンは懐かしそうに目を細め、「ああ。昔、彼の妻であるアンナ様を巡って、ハルマッタン邸でな……まあ、色々とあったのだ」と語った。


その言葉をきっかけに、話はリバンティン公国の現状へと移っていった。パットン王の口から語られた、ラガン王国の侵略行為や、北部でのグラティア教の不穏な動きは、タンガにとって衝撃的なものばかりだった。故郷の危機と友の苦境を知り、タンガの心は決まった。

「エイゼン、悪いが、俺はもう行く。一刻も早く、リバンティンへ帰る!」

その唐突な宣言を、冷静な声が堰き止める。

「待て、タンガ。勝手な行動は許さん」

シーフのエイゼンだった。彼はやれやれといった表情でグラスを傾け、「今、お前が焦って一人で戻って何ができる? 考えなしに突っ込んで、ロスコフ様に余計な敵を作るつもりじゃあるまいな?」と諭す。その言葉に、タンガは「うっ」と詰まり、バツが悪そうに頭を掻いた。


そのやり取りを、マルティーナは静かな微笑みを浮かべて見守っていた。そして、おもむろに口を開く。

「タンガ様。その、ロスコフ様とは、どのような御方なのですか? よろしければ、お聞かせ願えませんか」

その問いに、タンガは待ってましたとばかりに、幼き日の親友との思い出を、鉱山での出来事を、そしてもう一人の親友スペアーの悲劇的な死を、熱を込めて語り始めた。大精霊との遭遇と、ロスコフだけが感応したという奇跡の瞬間についても。

「まあ……ご親友が、お亡くなりに……」

マルティーナは、その美しい瞳に涙を浮かべた。彼女の持つ共感能力が、タンガの悲しみに深く同調したのだ。

この話を通じて、その場にいた誰もが理解した。ロスコフ・ワーレン侯爵という人物は、ただの貴族ではない。大精霊と対話し、この世界の鍵を握る可能性のある存在なのだと。


「……是非私もお会いしてみたいものですわ。その、ロスコフ様という方に」

マルティーナが静かな興味を込めて呟くと、タンガは屈託なく笑った。

「おうよ! なら、マルティーナ様も、俺と一緒に行くかい?」

その無邪気な誘いにシャナやオクターブが慌てるのを制し、マルティーナは悪戯っぽく微笑んだ。

「ふふっ。ええ、是非に」

その一言が、全てを決めた。

「良いのです、シャナ。私も、いつまでもこの聖域に留まっているわけにはいきません。それに……」彼女はパットン王へと視線を向けた。「グラティア教という脅威は、もはや一つの国の問題ではないのでしょう?」


その問いに、パットン王は深く頷く。

「その通りだ、マルティーナ殿。奴らの根は大陸全土に広がっている。もし、貴殿がリバンティンへ向かうというのなら、我が国としてもできる限りの協力を約束しよう。ロスコフ殿にも、私から文を書いておこう」

こうして、一つの晩餐会は、新たな旅立ちの決意の場となった。ハミルトンで束の間の平和を過ごした者たちは、ロスコフ・ワーレンというまだ見ぬ一人の男が待つ、戦雲渦巻くリバンティン公国へと、その運命の舵を切ることになったのだ。



――それぞれの道、ひとつの旅路


ハミルトンを救った英雄たちへの褒賞は、パットン王の名において盛大に執り行われ、冒険者たちは十二分の金貨と共に、神聖モナーク王国における「永久名誉市民」という最高の栄誉を授かった。

そしてその場で、黒衣の剣士アシタガと若き魔術師モニカは、王国直属の冒険者として仕えることを決意した。それは、一つのパーティの終わりを意味していた。

「……達者でな、アシタガ、モニカ」

グリボールがぶっきらぼうに、しかし寂しさを隠せない声で言うと、アシタガは「ああ。お前たちもな」と短く応じた。


別れの挨拶が交わされる中、ノベル、リバック、ロゼッタの三人は、まだ自分たちの進むべき道を決めかねていた。そんな彼らの背中を押したのは、マルティーナの決意だった。

「――では、我々も、ロスコフ侯爵にお会いしてみましょうか」

ノベルがリバックとロゼッタの顔を見ながら言った。「大精霊と対話し、グラティア教という共通の敵と対峙しているかもしれない人物……そこには何か、進むべき道標があるやもしれません」

その提案に、反対する者はいなかった。


こうして、二つのパーティは、一つの大きな流れへと合流した。

タンガ、エイゼン、パトリック、グリボール。

ノベル、リバック、ロゼッタ。

そして、マルティーナ、シャナ、オクターブ、ラージン、ゲオリク。

総勢、十二名。


晩餐会から二日後。ハミルトンの民衆と、新たな道を歩むことを決めたアシタガとモニカに見送られ、彼らは西へと向かう旅路に就いた。目指すは、戦雲渦巻くリバンティン公国。まだ見ぬ「鋼鉄のアルケミスト」ロスコフ・ワーレンとの出会いが、この世界の運命を、再び大きく揺り動かすことになることを、まだ誰も知らなかった。




【鋼鉄と奈落のアルケミスト】――公爵の来訪、運命の契約


タンガたち一行が神聖モナーク王国を出立した、まさにその頃。遥か西、リバンティン公国北部の山村『リバイン村』の静寂を破るように、一頭の馬車がワーレン侯爵邸の門をくぐった。掲げられた紋章は、この国の行政の頂点に立つ者――『公』ホフラン・ルクトベルグ公爵その人を示すものだった。


「……それで、侯爵。噂というのは、真のことかな?」

通された応接室で、ルクトベルグ公は単刀直入に切り出した。その顔には、南の大国ラガン王国との間に漂う戦雲への深い憂いが刻まれている。「ワーレン家には、国の危機を覆す、革新的な兵器の研究が眠っている、と」


応じたのは、年の頃30歳、研究者のように白衣を纏った、どこか掴みどころのない男。この地の領主、ロスコフ・ワーレン侯爵だった。

「兵器、ですか。私はただ、祖父の夢の続きを見ているだけですよ」

ロスコフはそう言って悪戯っぽく笑うと、公爵を邸宅の地下へと案内した。


そこは、油と金属の匂いが充満する巨大な工房だった。そして、その中央に鎮座する「それ」を見て、ルクトベルグ公は息を呑んだ。フルプレートアーマーをそのまま巨人のサイズにまで拡大したかのような、鉄の塊。まだ装甲は貼られておらず、内部の複雑な機構が剥き出しになっている。

「……これが、噂の?」

「ええ。私が**『魔導アーマー』**と呼んでいるものです」


公爵は訝しんだが、その疑念は次の瞬間、驚愕へと変わった。ロスコフが台座の巨大な魔晶石に手を触れ、何かを念じると、鉄の巨人の片腕がギシリと音を立てて持ち上がったのだ。腕に刻まれた精緻な秘術紋様『シギル』が、淡い光を放っている。

「……動いた……!」

ルクトベルグ公の全身に、電流のような衝撃が走った。これは、この大陸の戦いの歴史そのものを塗り替える、可能性の塊だと理解したのだ。


「こ…これを、完成させてくれ! 頼むワーレン侯爵、 我がリバンティン公国のために!」

公爵は懇願するようにロスコフに詰め寄ったが、ロスコフは困ったように肩をすくめた。

「お気持ちはありがたいのですが、公爵。ご覧の通り、これは金食い虫でして。今の私の資金では、細々と研究を続けるのがやっとなんです」

「資金なら、国が用意する! いくら必要なのだ!?」

その問いに、ロスコフは「この設計通りに進められれば15年、より現実的なプランでも10年は見ていただきたいですね」と答えた。


「馬鹿を言え!」公爵は声を荒らげた。「もう、我々には、そんな悠長な時間は残ってはおらぬのだ! ラガン王国との戦争は、もうそこまで迫っている! あと3年もつかどうか……!」

もっと早く、と食い下がる公爵に、ロスコフはため息をつく。

「公爵、開発とはそういうものではありません。資金を注ぎ込めば、単純に早まるというものでは……」

「そこを、なんとかするのだ! 資金はいるだけ用意しよう!」


その言葉に、ロスコフの瞳の奥がキラリと光った。(……きた!)

研究者の無邪気な顔の下で、抜け目のない交渉人の顔が一瞬だけ覗く。彼は内なる興奮を完璧に押し殺し、わざとらしく腕を組んで考え込むふりを見せた後、まるで冗談を言うかのように、天文学的な数字を口にした。

「そうですね――金貨だと、30億ミラル程度はいるかな。それだけご用意いただけるのでしたら、あるいは間に合うかも……」


その数字を聞いた瞬間、ルクトベルグ公の顔から血の気が引いた。

「……正気か、侯爵。その額は……このリバンティン公国の国家予算、実に3年分に匹敵するのだぞ! 国庫を、空にする気か!」

その声には、怒りよりもむしろ悲痛な響きがあった。

だが、ロスコフは表情一つ変えなかった。彼の真の狙いは、国の財政ではなく、王家の、底なしとも言われる私的な金庫だったからだ。彼はあえて同情的な表情を作って見せた。

「公爵、お気持ちは分かります。ですが、国が滅びれば、国庫も何もありませんよ。この件、どうか陛下に直接、ご相談願えませんか? ラガン王国に蹂躙され全てを失うか……あるいは、陛下の**“ご決断”**一つで、この国を救うのか」


その言葉の真意をまだ完全には理解していなかったが、「陛下に直接」という部分に、ルクトベルグ公は一縷の望みを見出した。彼はしばらく深く考え込んだ後、覚悟を決めた目で言った。

「……わかった。王に、掛け合ってみよう。……いや、陛下に、この国の未来のために、**“ご聖断”**を仰いでみせる」


そう言い残して公爵は去り、翌日、再び侯爵邸に姿を現した。その顔には深い疲労と、それを上回る確かな興奮の色が浮かんでいる。

「……許可は、取り付けたぞ、ロスコフ殿」

彼はロスコフの肩を掴むと、熱に浮かされたように言った。

「頼む! 3年だ! 3年で魔導アーマーを完成させてほしい! 我々も、国の総力を挙げて協力する。必要なものは何でも言ってくれたまえ!」

その必死の形相に、ロスコフは静かに頷いた。

(……やれやれ。随分と、大事になってしまいましたね)

内心の呟きとは裏腹に、その口元には抑えきれない知的な興奮と研究者としての歓喜の笑みが浮かんでいた。

「……分かりました、公爵。謹んで、お受けいたします。我がワーレン家の全てを賭けて、ご期待に応えてみせましょう」


その日のうちに、両者の間で正式な契約書が交わされた。ロスコフは、その一文一句に至るまでを徹底的に精査し、研究の自由、資材の優先供給、そして何より、完成後の魔導アーマーに関する「ある権利」について、自らにとって最大限有利な条件で、その契約を果たしたのだった。

一人の発明家の夢は、今、国家の存亡を賭けた巨大なプロジェクトへと、その姿を変えようとしていた。



――鋼鉄の胎動

【ロスコフ30歳と8ヶ月目 - 首都アンヘイム】


リバンティン公国の首都アンヘイムにあるワーレン侯爵邸。この国では侯爵以上の爵位を持つ者は、首都に邸宅を構えることが法で定められている。多くの貴族がこれを厄介な義務と捉えていたが、根っからの研究オタクであるロスコフにとっては、ただ研究の場所が少し変わっただけのことであり、さして苦にはなっていなかった。彼は可能な限り公務を避け、自室という名の研究室に引きこもるか、あるいは愛する妻アンナと甘い時間を過ごすかで日々を構成し、この政治の中心地での生活を自分なりのやり方で楽しんでいたのである。


だが、あの契約の日を境に、全ては変わった。国家予算3年分という莫大な資金。その黄金の奔流は、彼の退屈な日常を、熱狂的な喧騒へと変えたのだ。


アンヘイム邸の書斎で、ロスコフは二人の女性技術者を前に、新たな設計図を広げていた。彼の瞳は、純粋な研究者として子供のように輝いている。

「――よろしいですね、エクレア叔母様、レザリアさん。これまでの設計は全て白紙に戻します。資金の制約がなくなった今、妥協する必要は一切ありません。理想の機体を、我々は創り上げるのです」


だが、エクレアの冷静な声がその熱狂に釘を刺した。

「……ロスコフ様。理想を追うのは結構なことじゃが、足元を忘れてはおらんか? その『理想の機体』を動かすには、今の数倍の魔晶石が必要になるじゃろう。領地の鉱山は、その負荷に耐えられるのかね?」

「そこです」ロスコフは待ってましたとばかりに、新たな魔導削岩機の設計図を差し出した。「鉱山の採掘効率を倍加させるためのものです。これも資金がなくてお蔵入りになっていましたが、今なら……!」

レザリアはその革新的な設計図に目を輝かせたが、エクレアはまだ厳しい表情を崩さない。

「……それでも、足りぬかもしれんのう。ゼロから理想を追い求めるとなれば、3年という時間はあまりに短い」


その師の懸念を聞きながら、ロスコフの頭脳は既に次の一手を計算し始めていた。後日、彼はルクトベルグ公爵邸を訪れ、深刻な表情で切り出した。

「――というわけで、公爵。開発は順調ですが、一つ問題が。3年という期限の中で、理想の機体を完成させるための魔晶石の絶対量が、これから採掘する分だけでは、おそらくは足りないでしょう」

彼は、公爵の顔に焦りの色が浮かぶのを見計らって、本題を切り出した。

「――つきましては、これまで我が領地から税として王家へ納められてきた、あの膨大な量の魔晶石。陛下が大切に保管されている、あの**『王家の備蓄』**を、この国の未来のために、お貸しいただくことは叶いませんでしょうか?」


それは、極めて大胆な、しかし理に適った提案だった。ロスコフは、資金だけでなく、王家が独占してきた「資源」そのものにも、その手を伸ばし始めたのだ。

開発チームの再編成、設計の全面的な見直し、そしてそれを支える資源確保の強化。プロジェクトは、これまでとは比較にならない速度で加速し始めた。だが、その光が強ければ強いほど、生まれる影もまた、濃くなることを、この時のロスコフはまだ、楽観視していた。



【ロスコフ30歳、10ヶ月目 - ルクトベルグ公爵主催の夜会】


『公』であるホフラン・ルクトベルグ公爵が主催する夜会は、事実上、この国の政治が動く場所だった。当然、この国で今最も注目を集める男、ロスコフ・ワーレン侯爵にも丁重な招待状が届けられていたが、その主役たるべき男の姿は、煌びやかなシャンデリアの下にはなかった。


「――やはり、ワーレン卿はご欠席か。相変わらず、社交嫌いは治らんらしい」

南部の【トルーマン公爵】が、近くにいた【カール・リッツ侯爵】に、聞こえよがしに話しかける。「我が南部の兵たちが、泥と汗で国境の壁を補強しているというのに、西の御仁は自室で安穏と過ごせるとは、羨ましい限りですな」


リッツ侯爵は動じることなく、優雅にワイングラスを傾けた。

「トルーマン公。我が盟友は、ただ安穏と過ごしているわけではありますまい。彼が今燃やしているのは、この国を救うための、知恵の熱に他なりませぬぞ」

「ふん、知恵の熱、か」トルーマンは鼻を鳴らした。「西のワーレン領には、王家の紋章を掲げた馬車がひっきりなしに資材を運び込んでいると聞く。一体、どのような『お遊び』に国の貴重な資源を費やしておられるのか。その『知恵』とやらを、いずれお聞かせ願いたいものですな」

トルーマンは魔導アーマーの具体的なことは何も知らないが、国家規模の「何か」がロスコフの主導で極秘裏に進められているという噂は、彼の耳にも届いていた。彼の目には、それが前線への支援を滞らせる元凶にしか映らないのだ。

リッツ侯爵は、静かな、しかし有無を言わせぬ声で応じた。

「トルーマン公。ワーレン家の先見の明が、これまでどれだけこの国を豊かにしてきたか、お忘れかな? 今はただ、信じて待つべき時もあるのではないかな」

トルーマン公は忌々しげに舌打ちすると、「机上の空論で、国が守れるものか」と吐き捨て、その場を去っていった。


その険悪な空気を払拭するように、近くにいた北部の貴族たちが、新たな話題をリッツ侯爵に振ってきた。

「リッツ卿、それよりもお聞き及びかな? 北部での、あのグラティア教徒どもの動きを」

口にしたのは北部に領地を持つ子爵だった。その顔には深い憂慮の色が浮かんでいる。「なんでも、強引な布教活動で信者を集め、地元住民と揉めているそうだ。我がリバンティンは、建国以来、他国の宗教活動には寛容な立場を取ってはこなかったはず。一体、奴らは何を考えているのか」

別の男爵も同意するように頷く。「グラティア教といえば、他国でも数々の問題を引き起こしている厄介な連中と聞く。我が国の民も多くがその危険性を察して反発しているが、相手は一筋縄ではいかんらしくてな……」

彼らの視線が、自然とこの夜会の主催者であるホフラン・ルクトベルグ公爵へと集まる。北部を治める彼こそが、この問題の当事者だった。




最後まで読んでくださりありがとう、今回、第一部と重なる時間帯があり、多少変化していますが、物語の大きな部分には影響はでません、よって違っててもそのまま出しました。

それではは、またつづきを見てね。

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