神罰の使徒、降臨す。
――なんと、悍ましい街だ。
イグナ・デシデラは、ラーナ神の聖堂を見上げ、吐き捨てるように言った。
偽りの平和に酔いしれる子羊たちの群れ。
彼には、その全てが“病巣”に見えていた。
そして、彼は医者だ。
神の御名において、この街を「治療」するために遣わされた、ただ一人の。
その治療の名は――浄化。
手術道具は――絶望。
その151
【鋼鉄と奈落のアルケミスト】――神罰の使徒たち
物語の歯車が狂い始めた、一週間前。
神聖モナーク王国の首都ハミルトンに、三つの影が音もなく滑り込んだ。
巡礼者を装い、商人になりすまし、この平和な王都の日常に、毒のように静かに溶けていく。
影の中心にいるのは、一人の男。
その名を、イグナ・デシデラ。
グラティア教最高戦力の一つ、神人とも呼ばれる【死刑執行人】。
その称号は「神の望みを燃焼する者」を意味する。彼の瞳には、この世の全てを焼き尽くさんとする、狂信の炎だけが揺らめいていた。
「……なんと、悍ましい街だ」
イグナは、ラーナ神の聖堂を見上げ、吐き捨てるように言った。
彼の言葉は、静かでありながら、その論理は剃刀のように鋭く、そして狂っていた。
「偽りの神を崇め、偽りの平和に酔いしれる子羊どもの群れ。いいかね、これは単なる異端ではない。“病”なのだよ。放置すれば、魂が腐り、世界そのものを蝕むことになる。我らが主、グラティア神の慈悲とは、その病巣を根こそぎ焼き切ること。故に、ここは浄化されねばならん」
彼に従うのは、三名の【インクイジトル】――異端審問官たち。
先にこの地へ配属されていた、ヴァルド・エクレシア。
冷静沈着で、計画の遂行を至上とする男。彼の役割は、この浄化作戦の「土台」を築くことだった。
「ご安心を、イグナ様。既に、手は打っております」
ヴァルドは、まるで精密機械のように報告を始める。
「この地に眠る**《地喰の環》**の力、その解放に成功いたしました。忘れられた区画の地下に、一瞬にして広大な空間を創り出し、誰にも知られることなく、我らの『祭壇』を築き上げることが可能です」
そして、ノクス・ヴァルディクタとミレナ・アルトム。
兄妹とも噂される、二人一組の審問官。彼らの役割は、街に不和の種を蒔き、民衆を扇動する「仕掛け」。
「この街の若者たちの中には、今の平和に退屈し、刺激を求めている者が少なからずおりますわ。彼らの自尊心を少し煽ってやれば、信仰心の強いラーナ神の信徒とやらを『時代遅れの頑固者』と見下し、喜んで挑発の先兵となってくれるでしょう。パットン王の懐刀、メッシとかいう男を誘き出すための、小さな狼煙としては十分ですわ♡」
ミレナが、扇情的な笑みを浮かべて言う。
彼らの計画は、冷酷なまでに緻密だった。
ヴァルドは街の浮浪者や信仰に迷う者たちを言葉巧みに誘い込み、地下に築いた製造工場で、彼らを次々と成り果ての怪物へと変貌させていった。
ハミルトンを内側から崩壊させるための、静かな軍隊が、着々と組織されていたのだ。
計画の第一段階は、成功。
市場での騒乱は狙い通りメッシを誘き出し、成り果てどもの奇襲によって彼に深手を負わせた。
だが、その報告を受けたヴァルドは、眉をひそめていた。
「……妙だ。こちらの損害が、予想以上に大きい。計算が合わん。ネズミが紛れ込んでいたか……?」
そして、運命の日。
エイゼンとアシタガが、彼の「聖域」に侵入した。
ヴァルドは、彼らをただの腕利きの冒険者と侮り、自らの「音」の力で容易く捕縛する。
だが、その尋問の最中、彼は二人の瞳の奥に、決して折れることのない光を見た。
それは、彼がこれまで裁いてきた、どの異端者とも違う質の光だった。
そこへ、タンガ率いる本隊が雪崩れ込んできた。
ヴァルドは、自らの絶対的な能力に揺るぎない自信を持っていた。
だが、彼の常識は、二人の予想外の存在によって、粉々に砕け散ることになる。
一人は、風の魔力を纏う女剣士――ロゼッタ。
彼女が振るう【烈風剣】は、音を伝える媒体である「空気」そのものを支配し、ヴァルドの絶対的な音響攻撃を、まるで存在しなかったかのように無力化した。
(天敵……! この女がいる限り、我が力は……!)
そして、もう一人。
規格外の男――タンガ。
彼の身体は、なぜかヴァルドの攻撃を一切受け付けない。
それどころか、仲間を傷つけられた怒りに呼応し、大地そのものを武器として牙を剥いた。
(何だ、この男は……!? 私の音が、届かない……! それどころか、地面が、空間が、この男の怒りに共鳴して、私を拒絶している……!? 理屈に合わん! こんな現象は、私の知識のどこにも記録されていない!)
それが、審問官ヴァルド・エクレシアの、最期の思考だった。
同時刻。
市街地を見下ろす鐘楼の頂で、イグナは静かにその報告を聞いていた。
ミレナが、悔しそうに唇を噛んでいる。
「……申し訳ありません、イグナ様。ヴァルドが、討たれました。拠点も、おそらくは……」
「ヴァルドの敗因は?」
イグナの静かな問いに、ノクスが答えた。
「二つ。一つは、我らの力の天敵とも言える、風を操る剣士の存在。そしてもう一つは、大地を味方につける、正体不明の能力者です。この二人の連携の前に、ヴァルドの力は完全に封殺されたものと……」
その報告を聞いても、イグナの表情に、怒りや悲しみの色はなかった。
むしろ、その口元には、歓喜に似た歪んだ笑みが浮かんでいた。
「……素晴らしい。実に、素晴らしいじゃないか!」
イグナは、両手を天に広げた。
その様は、まるで舞台のクライマックスを演じる悲劇役者。
「神は、我々に試練をお与えになったのだ! この地に巣食う異端が、我らの想像以上に根深く、そして面白いということを、ヴァルドの死をもって教えてくださったのだ! 彼の死は無駄ではない! 彼は、我らがこれから奏でる、壮大な鎮魂歌の、最初の“音符”となったのだ! 祝福しろ、ノクス! ミレナ!」
彼の狂信は、部下の死さえも、神の栄光へとすり替えてしまう。
「ノクス、ミレナ。計画を変更する」
イグナは、二人のインクイジトルに、新たな神罰を告げた。
「もはや、小細工は不要。地下に眠る、最も優れた『作品』を解き放て。この街の者どもに、真の絶望とは何かを、我らが神の怒りの顕現を、見せつけてやれ」
「「はっ!」」
それが、あの巨大怪物が王都に姿を現した、全ての真相。
ヴァルドの死は、終わりではなかった。
それは、死刑執行人イグナ・デシデラによる、本格的な「浄化」の始まりを告げる、破滅の鐘の音に過ぎなかったのだ。
奇襲の一手
王宮から市街地へと駆け下りた彼らの目に飛び込んできたのは、もはや地獄としか言いようのない光景だった。
石畳の大通りは抉られ、美しい装飾が施された建物は無残に砕け散っている。
そして、その破壊の中心で、一体の怪物が咆哮を上げていた。
体長は8メートル近くあろうかという、複数の獣を歪に繋ぎ合わせたようなおぞましい巨体。
その周囲には、かつて地下で見たのと同じ、成り果ての怪物と化した人間たちが、逃げ惑う市民に牙を剥いていた。その数、およそ20体。
だが、ノベルたちの視線を釘付けにしたのは、その混沌を、まるで舞台上の演劇でも眺めるかのように、静かに見下ろす者たちの存在だった。
三人の神官戦士ミレス・サケル。
そして、その中央に立つ、男女二人組。
彼らは、あのインクイジトルと寸分違わぬ、黒鉄の法衣と沈黙の仮面を身につけていた。
「……あいつらだ!」
タンガが、憎悪に満ちた声で叫ぶ。
「地下で倒した奴と、同じ装備をしているぞ!」
「なんですって!」
ノベルの脳裏に、エイゼンとアシタガから聞いた、あの不可解な能力の情報が瞬時に蘇る。
「皆さん、よく聞いてください!」
ノベルは、戦闘の喧騒の中でも全員に届くよう、鋭く指示を飛ばした。
その声には、不思議なほどの説得力がある。
「あの仮面の二人には、絶対に深追いしないこと! 奴らは、我々の理解を超えた能力で、こちらの動きを封じてきます! モニカさん、パトリック! あなた方は決して前に出ず、後方からの支援に徹してください! 下手に関われば、回復や援護すらできなくなりますよ!」
「「はい!」」
二人は緊張に顔を強張らせながらも、力強く頷く。
ノベルは、即座に作戦を組み立てる。
この絶望的な戦力差を覆すには、敵の頭脳であり、最も危険な能力を持つインクイジトルを、戦闘の初期段階で叩き潰さなくてはならない。
「――奇襲をかけます」
ノベルは、前衛の四人に向き直った。
「パットン陛下と兵士の方々には、巨大怪物と成り果てどもを引きつけていただきます。その隙に、タンガ、リバック、ロゼッタ、グリボールの四人で、あの仮面どもに気づかれずに接近。狙いはまず一人! 奇襲で、確実に仕留めてください!」
「おうよ!」
「任せろ!」
四人の精鋭が、覚悟を決めた目で頷く。
作戦は、即座に実行に移された。
「全軍、突撃ィッ! 市民を守り、あの巨体を止めろ!」
パットン王の号令一下、親衛隊の兵士たちが雄叫びを上げて巨大怪物へと突撃していく。王自らも剣を抜き、その先頭に立つ。その陽動によって、ミレス・サケルたちの注意は完全にそちらへと引きつけられた。
その隙を、狩人たちは見逃さない。
タンガを先頭に、四人の冒険者は破壊された建物の瓦礫の影から影へと、音もなく滑るように移動していく。
タンガの《穿界者の残響》は、敵の視線や警戒網という見えない「流れ」さえも、地中の構造のように感じ取っていた。
「……右手の建物、二階から回り込む。女の方は警戒が固い。狙うは、油断している男の方だ!」
タンガの囁きに、三人が無言で頷く。
彼らは崩れかけた建物の壁を駆け上がり、音もなく二階へ侵入。
そして、インクイジトルたちのいる広場を見下ろす、絶好の奇襲ポイントへとたどり着いた。
眼下では、もうパットン王の部隊が死闘を繰り広げている。
インクイジトルの男は、その光景を愉しむかのように、腕を組んで微動だにしない。
――今だ。
ノベルの合図はない。
だが、四人の間には、それ以上の確かな意思疎通があった。
最初に動いたのは、リバック。
彼は建物の二階から飛び降りると同時に、巨大なスパイクシールドを地面に叩きつけ、轟音と共にインクイジトルの男の注意を強制的に引きつけた。
「何!?」
男がリバックに気を取られた、そのコンマ5秒にも満たない、僅かな隙。
その背後、屋根の上から、二つの死の影が舞い降りた。
一つは、巨大な戦斧を振りかざしたグリボールの破壊の嵐だ。
もう一つは、風の刃を纏ったロゼッタの、音なき斬撃。
そして、とどめとばかりに、インクイジトルの足元の地面そのものが、牙を剥いた。
「喰らいやがれェッ!!」
タンガが地面に叩きつけた拳に呼応し、無数の岩の槍が、男の身体を内側から食い破らんと突き出す。
奇襲は、完璧なはずだった。
「喰らいやがれェッ!!」
タンガが地面に叩きつけた拳に呼応し、無数の岩の槍がインクイジトル(ノクス)の身体を内側から食い破らんと突き出す。
リバックの陽動、グリボールとロゼッタの強襲、そしてタンガのとどめ。
それは、アークデーモンすら屠った彼らの、必殺の連携。
奇襲は、完璧なはずだった。
だが、彼らが相手にしているのは、ただの魔物ではない。
神の権能を代行する、異端審問官。
岩の槍がノクスの足元を砕く寸前、彼の身体が、まるで陽炎のように揺らめいた。
「――遅い」
仮面の下から響いた声は、絶対的な自信に満ちていた。
タンガの攻撃が発動するコンマ数秒前に、彼はその場から消失していたのだ。
「上だ!」
ロゼッタがいち早くその気配を捉え、叫ぶ。
見上げると、ノクスはいつの間にか建物の屋根の縁に、音もなく降り立っている。
「見事な連携だ。だが、お前たちの殺意は、音がうるさすぎる」
ノクスは、まるで指揮者のように、優雅に指を振るった。
その瞬間、地上で体勢を立て直そうとしていたリバックとグリボールの巨体が、ぐらりと揺れる。
「ぐっ……!?」
「め、耳が……!」
平衡感覚を司る三半規管を、直接音で攻撃されたのだ。屈強な戦士たちが、赤子のようにその場に膝をつく。
「まずは、五月蠅い蝿からだ」
ノクスが膝をついた二人にとどめを刺さんと、屋根から飛び降りようとした。
だが、その選択は、彼の犯した唯一にして、致命的な過ちだった。
「――風よ!」
ロゼッタの烈風剣が、鋭い風切り音と共に閃く。
だが、その刃はノクスを狙ったものではない。
彼女が斬ったのは、ノクスと、苦しむ仲間たちの間にある「空間」。
目に見えない風の刃が、音の伝達を阻害する真空の壁を一瞬だけ作り出したのだ。
「なにっ!?」
自らの力が遮断されたことに、ノクスが初めて動揺を見せる。
その、コンマ一秒にも満たない、絶対的な隙。
それこそが、タンガが待ち望んでいた、唯一の好機。
ノクスがロゼッタに意識を向けた瞬間、彼の背後、屋根の瓦礫の中から、もう一つの影が、音もなく、気配もなく、まるで亡霊のように立ち上がっていた。
「……お前か」
地を這うような、低い声。
タンガだ。
彼は最初から、地上にはいなかった。
リバックが陽動のために飛び降りた瞬間、《穿界者の残響》の力で建物の壁を**“通り抜け”**、最初からノクスの死角である屋根の上で、息を潜めていたのだ。
「俺のダチに……手ぇ出してくれたなァッ!!」
タンガの拳が、インクイジトルの後頭部に叩き込まれた。
それは、魔法でも、スキルでもない。
ただ、仲間を傷つけられたことへの、純粋な怒りを込めた一撃。
だが、その拳には、地殻さえも砕くほどの質量が宿っていた。
ゴシャッ、という鈍い音。
ノクスの仮面が砕け散り、その下の頭蓋が、熟れた果実のように破裂する。
声も、悲鳴も、なかった。
インクイジトルの身体は、糸の切れた人形のように屋根から崩れ落ち、地面に叩きつけられると、ヴァルドと同じように、黒い塵となって風に攫われていった。
「……一人、討ち取ったぞ!」
タンガの雄叫びが、戦場に響き渡った。
それは、この絶望的な戦いにおける、反撃の狼煙を告げる、勝利の咆哮だった。
「……一人、討ち取ったぞ!」
タンガの雄叫びが戦場に響き渡る。
だが、その勝利に酔いしれる時間は、今はない。
「ノクスッ!!」
兄とも相棒とも言われた男を、一撃の下に塵とされたインクイジトルの女――ミレナ・アルトムが、静かな、しかし空間そのものを震わせるほどの怒りを込めて絶叫した。
その声は、もはや人の声ではなかった。
傷つけられた獣の、狂気の咆哮。
その声に呼応し、これまで傍観していた三人のミレス・サケルが一斉に動きだす。
鉄壁の陣形を組み、ミレナを守るように、冒険者たちとの間に立ちはだかる。
「よくも……よくも、神の使いをッ!」
ミレナが両手を広げると、彼女の身体から耳を劈くような高周波が放たれた。それは、兄ノクスが使ったような指向性のある攻撃ではない。街灯のガラスが弾け飛び、建物の壁に亀裂が走るほどの、無差別な破壊の音波――『嘆きの聖歌』。
「ぐっ……!」
後方で支援していたモニカとパトリックが、その衝撃に膝をつく。
だが、前衛に立つ三人は、怯まない。
「舐めるなァッ!」
リバックが雄叫びを上げ、その身に纏う白銀のフルプレートアーマーと、巨大なスパイクシールドを構えて前進する。
「我に挑むは神意への反逆! 『聖銀の反響』!」
シールド表面に刻まれたルーン文字が、白銀の魔力に呼応して激しく輝き出す。
ミレナが放つ破壊の音波がシールドに吸収され、その衝撃でリバックの足元が陥没する。だが、彼は歯を食いしばり、その全てを受け止め、必死に耐える。うぉぉぉ!
そして、吸収したエネルギーを、沈黙の衝撃波として逆放射!
目に見えない力がミレス・サケルたちを襲い、その強固な陣形が一瞬だけ、ぐらりと揺らいだ。
その好機を、二人の狩人が逃すはずがない。
「グリボール!」
「おうよッ!」
ロゼッタの叫びに応え、グリボールが動いた。
【ルビナ迷宮】で手に入れたという、魔晶石と黒鉄鋼を異界の技術で混ぜ合わされ作られたと思われる刃を持ち、ルーン文字で魔力強化された巨大な両手斧――**『地砕きの戦斧』**を天に掲げる。
「砕け散れェッ! 『地砕きの一撃』!」
斧が地面に叩きつけられた瞬間、凄まじい衝撃波が石畳を駆け抜け、ミレス・サケルたちの足元を粉砕する。体勢を崩した二人の神官戦士の鎧に、グリボールの巨斧が叩き込まれ、聖なる加護を受けたはずの鋼鉄が、ガラスのように砕け散った!
残る一人のミレス・サケルが、グリボールの隙を突こうと剣を振りかぶる。
だが、その首筋を、風が撫でた。
「――遅いのよ」♬
ロゼッタが、風の精霊のルーンが刻まれた曲刀**【烈風剣】**を抜き放ち、木の葉のように舞っていた。その動きは、もはや人間の目で追うことはできない。
「舞い踊れ! 『烈風の円舞』!」
幾条もの真空の刃が、ミレス・サケルの全身を襲い、その鎧をズタズタに引き裂いていく。最後の神官戦士は、何が起きたのかも理解できぬまま、血煙を上げて崩れ落ちた。
「貴様らぁぁぁっ!!」
守りを全て失ったミレナが、最後の力を振り絞り、全ての音を一点に収束させた、空間そのものを抉り取るかのような破壊の光線を放つ。
だが、その前には、再びリバックの銀色の盾が、絶対的な壁として立ちはだかっていた。
凄まじい衝撃が、リバックの巨体を襲う。彼の足元のアスファルトが蜘蛛の巣状に砕け散り、衝撃波だけで後方の建物の窓が吹き飛んだ。リバック自身も、その全身を軋ませながら、数メートル後方へと押し込まれる。
だが――。
彼が構えるスパイクシールド。
それは、かつて**「生贄の迷宮」**で手に入れた、どこの時代のものかも定かではない、旧高度文明時代の未知なる金属で作られたアーティファクト。
その表面に刻まれた古代のルーン文字が、破壊の光線に呼応して淡い光を放つのみ。
盾には傷一つ、亀裂一つ入ってはいなかった。
「……なっ!?」
ミレナの瞳が、信じられないものを見たかのように、絶望に見開かれる。
自らの最大の一撃が、この男の前では、ただ押し返すことしかできなかったという事実に。
そして、その背後で、ロゼッタが最後のルーンを解放した。
「おとなしく、風に還りなさい! 『風精の牢獄』!」
ミレナの周囲の空気が渦を巻き、逃げ場のない竜巻の檻となって彼女を捕らえる。
「そんなもので……!」
ミレナが檻を内側から破壊しようとした、その時。
彼女の真下の地面が、静かに口を開けた。
「終わりだ」
タンガが、そこに立っていた。
彼の瞳には、もはや怒りの色はない。
ただ、仲間を傷つけた者への、冷徹なまでの裁きの意志だけが宿っていた。
タンガが地面に置いた手が、ゆっくりと握り締められる。
それに呼応し、地面がミレナの身体を飲み込み、凄まじい圧力で圧殺していく。
ミレナ・アルトムの断末魔は、ロゼッタが作り出した風の牢獄の中で、誰の耳に届くこともなく、虚しく消えていったのだ。
インクイジトルを殲滅した勝利の余韻は、戦場の悲鳴によって一瞬でかき消されてしまう。
広場では、パットン王率いる親衛隊が、絶望的な戦いを繰り広げている。
8メートル級の巨獣が振るう腕の一撃が、石畳を粉砕し、屈強な兵士たちを木の葉のように吹き飛ばしていく。その周囲では、成り果ての怪物たちが兵士たちの陣形に食らいつき、一人、また一人と血祭りにあげていた。
「ノベルさん!」
タンガたちが、作戦の司令塔であるノベルの元へと駆け戻ってくる。
ノベルは、その混乱の中を冷静な目で見つめながら、即座に次の一手を告げる。
「ご苦労さまと言いたいところですが、――まずは、雑魚の掃除から初めて下さい!」
彼の声は、混乱の極みにある戦場でも、不思議なほどクリアに響いた。
「あの巨体は、今はパットン陛下たちに任せる方が賢明です! 我々は拡散している成り果てどもを一体残らず叩き、兵士の方々の負担を減らしましょう! 数を減らせば、必ず勝機が見えてきます! さぁ、時間が惜しい! 行ってくださいッ!」
その指示は、あまりに的確だった。
「「「応ッ!!」」」
冒険者たちは、一斉に散開。
その絶望的な戦場に突如として現れた援軍の姿に、劣勢に立たされていた兵士たちは目を見張った。
タンガの拳が地面を砕き、複数の成り果てを地中に飲み込む。
グリボールがその手に握る**《地砕きの戦斧》**。それは、黒鉄鋼と魔晶石が、もはや現代では失われた技術によって完全に溶け合わされ、一つの未知なる合金として鍛え上げられたアーティファクト。その魔斧が唸りを上げて横薙ぎに振るわれれば、数体の成り果てがまとめて肉塊へと変わった。
そして、ロゼッタの姿はもはや疾風そのもの。
10年以上の歳月を共に過ごした魔剣**【烈風剣】**は、もはや彼女の手足の一部。彼女が思考するより速く、剣に封じられた風の精霊がその身体を動かし、戦場を駆け巡る。彼女が通り過ぎた後には、首を刎ねられ塵と化していく怪物たちの残骸だけ。
だが、その中でも最も異彩を放っていたのは、銀色の巨体――リバックだった。
彼はもはや、ただの「盾を持つ者」ではない。
その身に**《堅律の心核》**を宿し、“盾そのもの”と化した存在。
《城壁のグラディウス》。
「―――我が領域を侵すな」
リバックが兵士たちの前に立ちはだかり、その大盾を地面に突き立てた。
その瞬間、彼の周囲の空間そのものが、まるで意思を持ったかのように硬質化する。成り果てどもが放った酸のブレスや鋭い爪による攻撃が、リバックに届く遥か手前の空間で、見えない壁に阻まれて霧散していく。
そして、リバックはただ守るだけでは終わらない。
「『城壁の反響』!」
彼が受け止めた攻撃の衝撃エネルギーが、銀色の魔力となって盾から逆放射される。不可視の衝撃波が扇状に広がり、前方にいた数体の成り果てどもを、まとめて吹き飛ばし、壁に叩きつけて沈黙させた。
その、あまりに人間離れした戦闘能力。
兵士たちの間から驚愕と歓喜の声が上がった。
「おおっ、あれは……A級冒険者の方々だ!」
「すげぇ……あの化け物どもを、まるで子供扱いしているぞ……!」
彼らが戦線に加わった瞬間、戦況は劇的に変化した。
兵士たちを一方的に蹂躙していた20体近くの成り果てどもは、瞬く間に数を減らし、やがて最後の一体が断末魔を上げて塵と化す。
これで、残る敵はあの巨大な怪物一体になった。
全ての兵士と冒険者たちの視線が、広場の中央で暴れ狂う8メートル級の巨獣へと注がれた。
「……モニカさん」
ノベルが、静かに名を呼んだ。
「はい」
後方で機会を窺っていた若き魔術師が、一歩前に出る。
彼女の瞳には、これまで見せたことのない、強い決意の光が宿っていた。
「準備は、できています」
モニカは、その声に答える様に、詠唱を開始する。
それは、彼女がこれまでに紡いできたどの呪文とも違う、複雑で、神聖な響きを持つ古の言葉。
唱え始めると、彼女の周囲の空間が、目に見えて歪み始める。
「――空間よ、因果よ、我が声に応えよ! 理の鎖を断ち切り、無慈悲なる虚無をここに顕現させよ!」
彼女が到達した、人間の限界に限りなく近い魔法階層。
第5階層――『裂界領域』。
モニカの掲げた両手の先に、空間そのものを削り取ったかのような、漆黒の球体が現れた。
それは、光さえも吸い込む、絶対的な破壊の奔流。
「くらえッ! 『虚無の牢獄』!!」
3日に一度しか放てない、彼女の奥の手だ。
漆黒の球体が、音もなく巨獣の巨体に命中すると、その中心で弾け飛んだ。
だが、それは爆発ではなかった。
空間そのものが、悲鳴を上げたのだ。
ゴッ、という、空気がごっそりと抉り取られるような轟音と共に、巨獣の巨体があった場所を中心に、世界が**“黒く歪んだ”**。
「な……なんだ、あれは……!?」
「魔法……だと? 爆発でも、凍結でもない……空間が、喰われている……!」
「ばかな……あんな魔法、見たことも聞いたこともないぞ!」
歴戦の兵士たちですら、目の前の光景を理解できず、恐怖に顔を引きつらせる。
仲間であるはずの冒険者たちでさえ、その現象に息を呑む。
凄まじい衝撃波が周囲の瓦礫を吹き飛ばし、兵士も冒険者も、誰もがその圧倒的な威力に息を呑んだ。
空間を引き裂くほどの魔力が、巨獣の巨体を内側から食い破り、その全身から黒い光が噴き出す。
やがて、巨獣は断末魔の咆哮を上げながら、ゆっくりと、しかし確実にその場に崩れ落ちていった。
ズウウウウウンッ、という地響き。
巨獣が完全に沈黙した瞬間、戦場を支配していた絶望的な静寂は、一人の兵士の、かすれた叫び声によって破られた。
「……やった……のか……?」
その言葉が引き金だった。
次の瞬間、堰を切ったように、兵士たちの間から歓喜の雄叫びが爆発する!
「うおおおおおおおっ!!」
「勝った! 俺たちは、勝ったんだ!」
「ハミルトンは、救われたぞぉぉぉっ!!」
兜を天に放り投げる者、隣の戦友と肩を叩き合って喜ぶ者、その場にへたり込み、安堵の涙を流す者。
死の淵から生還した彼らの歓声は、王都の空に、勝利の凱歌となって響き渡った。
しかし、ノベルだけは、その顔から一切の油断を消していなかった。
そして。
その最悪の予感は、的中してしまう。
崩れ落ちたはずの巨獣の身体を包んでいた漆黒の魔力が、霧のように晴れていく。
その下から現れたのは、確かに深手を負いながらも、未だその瞳に闘志の炎を宿らせた、怪物の姿だった。
巨獣の身体は、まるで神衣とも言うべき、禍々しいオーラに守られていたのだ。
モニカの裂界魔法ですら、その防御を完全に貫くことはできなかった様だ。
ゴゴゴゴ……!
巨獣は、地響きを立てながら、再びその巨体をゆっくりと起こし始めた。
その瞳は、先程よりもさらに深い憎悪と殺意をたたえ、モニカを――そして、その場にいる全てを、睨みつけていた。
戦場を包んだのは、束の間の歓喜から一転した、圧倒的な絶望感を放つ得体乗れない巨獣だった。
モニカの裂界魔法という切り札をもってしても、あの巨獣は倒れない。
その事実が、兵士たちの士気を根元からへし折り、歴戦の冒険者たちの顔にさえ、焦りの色を浮かばせた。
(どうすれば……どうすれば、あの神衣を貫けるんだ……!?)
誰もが、次の一手を失い、立ち尽くす。
巨獣は、その好機を見逃さなかった。
再びその巨体を起こすと、新たな獲物と定めた兵士の一団に、その巨大な爪を振り下ろさんと咆哮を上げる。
まさに、その時だった。
夜空を切り裂き、一筋の閃光が迸った。
それは、流星のようであり、神の裁きの雷のようでもあった。
閃光は、常人には捉えきれぬ速度で巨獣の巨体を貫き、その攻撃モーションを強制的に中断させる。
ズシンッ、と再び大地を揺らし、巨獣が前のめりに倒れ込んだ。
「な……何が起きた!?」
パットン王が、信じられないという表情で叫ぶ。
誰もが、何が起きたのかを理解できず、ただ呆然と空を見上げていた。
空には、何かいる。
翼を持った、人型の何かが、夜空を旋回しているのが分かった。
だが、その動きはあまりに速く、常人の動体視力では、その正体を捉えることなど到底不可能だ。
巨獣が、再び身を起こそうともがく。
その瞬間、空の飛翔体が、今度は急降下を開始した。
狙いは、巨獣の頭部。
閃光が、再び走る。
今度は、巨獣の顔面を、額の中心から後頭部へと正確に貫いた。
巨獣の巨体が大きく痙攣したかと思うと、今度こそ完全に動きを止め、その場に沈黙。
額には、その巨体にはあまりにも不釣り合いな、小さな風穴が開いているだけだった。
圧倒的な、力の差。
あの絶望的な怪物を、わずか二撃で沈黙させた謎の存在に、誰もが畏怖の念を抱き、その場に釘付けになっていた。
兵士たちが、倒れた巨獣の骸に恐る恐る近づいていく。
その隙に、あの飛翔体が、すうっと音もなく、ノベルたちの前に舞い降りた。
そこに立っていたのは、神話に謳われる戦乙女そのもの。
白銀と蒼を基調とした流麗な鎧を身に纏い、背には猛々しいこげ茶色の翼を生やしている。
そして、その手に握られているのは、見る者に原始的な恐怖を抱かせる、禍々しくも美しい、血のように赤い槍――**【血月の槍】**だ。
その顔を見て、ノベルは、そしてその場にいた全ての冒険者たちは、息を呑んだ。
「……シャナ殿!?」
「皆さん、ご無事ですか」
そう言って、戦乙女――シャナは、静かに微笑んだ。
なぜ、彼女がここに?
その答えは、彼女が舞い降りてきた方向から、すぐに示された。
広場の入り口に、新たな一団が姿を現したのだ。
先頭に立つのは、王女としての気品と、慈母のような優しさを湛えた、マルティーナ。
そして、その脇を固める、ラージン、オクターブ。
そして、その後ろに。
巨大な人影。
“闘神”ゲオリクの姿もある。
街を揺るがす騒音を聞き、彼らもまた、この戦場へと駆けつけてくれたのだ。
絶望の淵にあったハミルトンの戦場に、今、新たな、そして最強の援軍が、その姿を現したのである。
――神罰の降臨
シャナの神速の二撃が、巨獣エクスモルドの巨体を完全に沈黙させた。
そして、後方から現れたのは、マルティーナ王女、ラージン、オクターブ、そして、ただそこに立つだけで戦場の空気を支配する“闘神”ゲオリク。
絶望の淵にあったハミルトンの戦場に、今、誰もが勝利を確信する、最強の援軍が揃ったのだ。
「おお……なんと、心強い!」
パットン王でさえ、その光景に安堵の声を漏らした。
だが、その歓喜と安堵の空気を切り裂くように、どこからか、乾いた拍手の音が響き渡る。
パン……パン……パン……。
誰もが、音のする方角――市街地で最も高い鐘楼の頂上へと視線を向け見る。
そこに、一人の男が立っていた。
夕陽を背に、まるで舞台役者のように、眼下の惨状を静かに見下ろしていた。
死刑執行人イグナ・デシデラは、ゆっくりと拍手を止めると、その瞳に狂信の炎を宿らせて、恍惚と呟いた。
「素晴らしい……実に、素晴らしい! 我が忠実なる僕たちを屠り、神が創りたもうた最高傑作までをも打ち破るとは。神は、これほどまでに上質な“贄”を、この地に用意してくださっていたか!」
その声が響き渡った瞬間、戦場の空気は再び凍り付く。
勝利の歓喜は消え失せ、代わりに、先程までの巨獣とは比較にさえならない、根源的で、絶対的な「悪意」が、その場にいる全ての者の肌を突き刺した。
イグナは鐘楼から音もなく飛び降りると、まるで重力など存在しないかのように、広場の中央に静かに着地する。
「貴様ら異端の力、そしてその魂の輝き、確かに見届けた。だが、それも全ては我が主グラティア神の偉大なる御心のまま。神の御前においては、等しく無に帰すのだ」
その、あまりに不遜な態度に、最初にキレたのはタンガだった。
「てめぇが、こいつらのボスかァッ!」
怒りに任せて、タンガが地面を蹴って飛び出す。
だが、イグナは彼を一瞥すると、嘲るように言った。
「ほう……ヴァルドの魂を砕いたのは、小僧、貴様か。その大地に根差した、悍ましい力……なるほどな」
なぜそんな事が分かる!?
タンガの思考が一瞬、停止する。
だが、直情的な彼が、その謎に拘る時間はなかった。
「うるせえッ!」
タンガの拳が、大地を揺るがすほどの力を込めて、イグナの顔面に迫る。
だが、イグナは微動だにしない。
「――遅い」
タンガの拳が届く寸前、イグナの身体が霞のように揺らめいた。
次の瞬間、タンガの視界からイグナの姿が消え、腹部に、まるで鉄槌で打ち抜かれたかのような、凄まじい衝撃が走る。
「がはっ……!?」
タンガの体は、いとも簡単に宙を舞い、先程まで彼が立っていた場所まで、一直線に蹴り飛ばされた。
地面に激しく叩きつけられ、瓦礫にまみれて転がったタンガは、呻き声を上げて、立ち上がることさえできないでいる。
たった、一撃。
あのインクイジトルを粉砕した、パーティの主力が、まるで赤子のように、一蹴されてしまったのだ。
その光景に、マルティーナとノベルは息を呑む。
だが、ゲオリクは、その表情を一切変えなかった。
彼の“闘神”としての双眸は、驚きや恐怖といった常人の感情を映してはいない。
ただ、冷徹なまでに、今の攻防を分析していたのだ。
(……小僧、あまりに未熟。怒りに任せた直線的な攻撃では、このレベルの相手には児戯に等しい。そして、敵……)
ゲオリクの視線は、イグナに注がれていた。
(……あの回避、そして反撃。無駄な動きが一切なかった。速さや力以上に、その“理”が、人の域を遥かに超えている。なるほど、面白い)
彼は瞬時に結論を導き出していた。
この場にいる者たちでは、誰一人として、この男には勝てないだろう。
だが、ゲオリクは動かない。
これは、まだ人の子らの戦い。
彼がこの地に降り立ったのは、側に付く事に決めたマルティーナの成長を守るため。その生命が脅かされぬ限り、彼はただの静かなる巨人として、戦況を見守るだけだった。
イグナは、地面に転がるタンガを見下ろし、まるで路傍の石でも見るかのように、冷たく言い放つ。
「さあ、始めようか。」
「神罰の時間だ」
最後まで読んでくださりありがとう、また続きを見かけたら読んでみて下さい。




