地下からの鼓動
王からの依頼を受けた、冒険者たちは、ハミルトンの街の地下で....。
その149
王の依頼
シャナの衝撃的な告白によってもたらされた沈黙を破ったのは、パットン王のため息だった。彼はゆっくりと立ち上がると、執務室の窓辺に立ち、眼下に広がる自らの 王宮を見下ろした。その背中には、先程までの気さくな雰囲気とは違う、一国の王としての重い責務が滲んでいた。
「さて……君たちに、私がなぜ自ら尋問室まで足を運んだのか、その理由を話そう」
パットンは振り返ると、その鋭い視線でシャナ、ノベル、リバックの三人を順に見つめた。
「君たちの話を聞いて、私の確信はさらに強まった。君たちが、ただの異邦人や冒険者ではない、並外れた経験と力を持つ『強者』であるということがな」
彼の声のトーンが、わずかに翳る。
「私の腹心、メッシが深手を負った。神官たちの懸命な治療のおかげで命に別状はないが、戦線に復帰するには、かなりの時間が必要だろう。……奴は、私にとって単なる司令官ではない。幼き頃より苦楽を共にしてきた、唯一無二の友なのだ」
王の口から語られた個人的な感情。それは、この依頼が単なる公務ではなく、彼の私的な願いでもあることを示していた。
「そこで、君たちに頼みがある。いや、依頼と言った方が正確か。この国の危機を救うため、君たちの力を貸してはくれまいか?」
王からの、直々の依頼。
その言葉の重みに、部屋の空気が再び張り詰めた。最初に口を開いたのは、シャナだった。彼女は静かに立ち上がると、王に対して深く頭を下げた。
「そのお言葉、身に余る光栄です。ですが、私のこの身は、主君マルティーナ様のもの。いかなる御命令であろうと、まずはマルティーナ様の御許可をいただかねば、お受けすることはできかねます」
揺るぎない忠誠心。パットンは、その答えを予測していたかのように、静かに頷く。
次に、ノベルがリバックと短く視線を交わした。長年の付き合いで培われた、阿吽の呼吸。リバックの無言の同意を得て、ノベルは冒険者としての顔で王に向き直った。
「ふむ……一国の王からの直々の依頼とは、冒険者稼業を長く続けておりますが、これほどの栄誉はございません。お話だけでも、お聞かせ願えますでしょうか」
「おお、聞いてくれるか!」
パットンは、わずかに安堵したような表情を見せた。彼は執務机の上に広げられていたハミルトンの詳細な地図の一点を指し示す。
「先程話した【死刑執行人】だが、現在二名が、その配下と共に市街地のこの区画に潜伏している可能性が高い。君たちに頼みたいのは、その拠点の調査だ」
王の指が示すのは、古い倉庫や廃教会が立ち並ぶ、いわくつきの一角だった。
「出来ることなら、敵に気づかれずに、彼らの目的と戦力を探ってほしい。だが……」
パットンは言葉を切り、厳しい表情で付け加えた。
「相手は、君たちの想像を超える人ならざる存在だ。何が起こるかは、私にも予測がつかん。最悪の場合、生きては戻れんかもしれん」
その危険極まりない依頼内容に、ノベルは即答を避けた。
「……承知いたしました。ですが、この件、一度我々の仲間たちと共有し、相談するお時間をいただきたく存じます」
「うむ、当然だな」
パットンは席に戻ると、最後に切り札を提示した。
「良い返事を期待している。そして、もしこの依頼を引き受けてくれるのなら……国として、考えうる限りの『礼』を支払うことを約束しよう」
その「礼」という言葉が、単なる金貨の山を意味しないことを、その場にいた誰もが理解していた。
王の執務室を出た時、彼らの心には、断るにはあまりに重く、受けるにはあまりに危険な、王からの「信頼」という名の枷が、確かにはめられていた。
食卓の評決
王宮の重厚な扉が背後で閉ざされた瞬間、三人はようやく詰めていた息を吐き出した。王と対峙するという、尋常ならざる緊張感から解放されたのだ。彼らは足早に王宮を後にし、マルティーナたちが待つ家路を急いだ。
親衛隊庁舎の近くで、張り詰めた表情で見張りを続けていたロゼッタが、彼らの姿を認めて駆け寄ってくる。シャナの無事な姿を見て、彼女の顔に安堵の色が浮かんだ。
「シャナ! よかった……!」
「ええ。ご心配をおかけしました、ロゼッタさん」
四人となって家路につく頃には、空は美しい夕焼けに染まっていた。
家の扉が見えてきた、その時。待ちきれないといった様子で、マルティーナが中から飛び出してきた。
「シャナッ!」
主君の、悲痛なまでの呼び声。
「マルティーナ様……!」
二人は言葉もなく、ただ強く抱きしめ合った。離れていたのは、わずか一日。だが、その一日は、永遠にも感じられるほどに不安な時間だった。
「さあ、皆さん。中へ」
涙を拭ったマルティーナは、ノベルたちに向き直ると、心からの感謝を込めて微笑んだ。
「ノベルさん、リバックさん、ロゼッタさん。本当に、ありがとうございました。お食事を作って待っておりました。さあ、冷めないうちに召し上がってください」
家の中は、温かいシチューの香りと、再会を祝う仲間たちの笑顔に満ちていた。
だが、その和やかな食卓の雰囲気は、ノベルがパットン王からの依頼について語り始めると、一変した。
「――以上が、パットン王からの依頼の全てだ。【死刑執行人】の拠点を、極秘裏に調査してほしい、と」
ノベルの説明が終わると、食卓は重い沈黙に包まれた。誰もが、その依頼の危険性を即座に理解したからだ。神の使いの仮面を被った、人ならざる怪物。そんなものを相手にしろというのか。
沈黙を破ったのは、腕利きの坑夫タンガだった。彼は、熱いシチューをスプーンでかき混ぜながら、不敵な笑みを浮かべると、こう切り出した。
「【死刑執行人】、ねぇ。確かにヤバそうな連中だが、俺たちが相手にしてきたもんに比べりゃ、どうってことねえんじゃねえか?」
その言葉を皮切りに、冒険者たちの間で激しい議論が始まった。
「そうだぜ!」盗賊のエイゼンが、タンガの言葉に乗る。「思い出してみろよ、あの【ルビナ迷宮】での死闘を! グレーターデーモンなんざ、前菜みたいなもんだったじゃねえか!」
するとタンガはスプーンを置き、興奮したように声を張り上げた。
「ああ! それどころか、俺たちは奴を倒しちまったんだぜ! ギルドの討伐記録にすらない、あの地獄の公爵――アークデーモンをな!」
その言葉に、それまで壁際で石像のように沈黙を保っていた巨人が、初めてピクリと反応した。
「ほう……アークデーモンを、倒したと?」
“闘神”ゲオリク。その、地鳴りのような低い声に、場の全員が息を呑んだ。彼はゆっくりと閉じていた目を開き、その視線を冒険者たちへと向けた。それは、ただの興味ではない。本物の強者だけが放つ、相手の実力を見定める鋭い眼光だった。
ゲオリクの思わぬ反応に、エイゼンはさらに勢いづいた。
「へへっ、そうだぜ、巨人のおっさん! だからよ、やろうじゃねえか! 王からの依頼だぜ? ここでデカい名を売って、たんまり褒美まで貰えるってんなら、受けない手はねえだろ!」
だが、その楽観的な空気に、斧戦士グリボールが冷や水を浴びせた。
「ふん、調子に乗るな、エイゼン。アークデーモンに勝てたのは、偶然と奇跡が重なったからなどという、生易しいものではない!」
グリボールの、地を這うような低い声に、食卓の熱気がすっと冷める。
「あれは、天文学的な確率の偶然が、三つ同時に重なっただけだ。実際、あの時は皆、死を覚悟していただろうが」
彼は、指を一本ずつ折りながら、あの日の絶望的な戦いを語り始めた。
「一つ。偶然、奥の扉が開いたことでタンガが手にした**《穿界者の残響》……あの秘宝が、運良く坑夫であるタンガの性質と適合し、秘められた〖力〗**が解放されたこと」
「二つ。あの悪魔の、不可視の結界に誰もが絶望しかけた時、エイゼン、お前が手にした秘宝**《穿影の瞳》の力に覚醒し、マスターシーフを超えた《影穿のアーキス》**へと進化したことで、結界のただ一点、針の穴ほどの『綻び』を見抜けたこと」
「そして、三つ。その綻びを突くための、ほんの一瞬の時間を作るため、リバックがあの絶望とも言える悪魔の、因果律を歪める神の如き一撃を、ただの一度だけでも、耐えきったこと。
彼の胸に埋め込まれた秘宝**《堅律の心核》が覚醒し、彼自身が“盾そのもの”である《城壁のグラディウス》**と化した、あの瞬間が起こったからろう。」
グリボールは、全員の顔を厳しい目で見回した。
「タンガの力がなければ、綻びを見つけても意味がなかった。エイゼンが綻びを見つけなければ、リバックが耐えた一瞬が無駄になった。そして、リバックがあの一撃を防げなければ、俺たちは今頃、塵にもなれていなかった。……わかるか? あれは、天と地と、俺たちの魂が、たった一度だけ完璧に噛み合っただけの、ただの僥倖だ」
彼は、最後に釘を刺すように言った。
「次はない。次、あんな化け物とやり合えば、間違いなく全員死ぬぞ」
グリボールの冷静な指摘に、誰もが反論できなかった。
楽観的な空気は完全に消え去り、食卓には重い沈黙が落ちる。誰もが、あの日の死の恐怖を、そして紙一重で掴んだ勝利の感触を、まざまざと思い出していた。
「……だが」
最初に口を開いたのは、意外にも、先程までグリボールに諌められていたエイゼンだった。
「だが、俺たちは生き残った。奇跡だろうが、僥倖だろうが、ここにこうして生きて、飯を食ってる。……あの時、死んでいった奴らのことを考えりゃ、ここでビビって何もしねえって選択肢は、俺にはねえな」
その言葉に、ロゼッタが静かに頷いた。
「ええ。それに、見過ごすことはできないわ。この街の人たちの、あの穏やかな顔を……かつての、私たちの故郷のように、炎で焼かれるのを見ているだけなんて、絶対にできない」
賛成と反対。現実的な恐怖と、譲れない信念。食卓は、二つの意見で激しく揺れ動いた。
「――では、多数決を取りましょう」
ノベルが、議論を収めるように言った。その声には、どのような結果になろうとも、それを受け入れるという覚悟が滲んでいた。
「この依頼、受けるべきか、否か」
一人、また一人と、覚悟を決めた者たちが、重い決意を込めて手を挙げていく。
結果は、僅差。
しかし、確かに「受ける」が上回った。
こうして、彼らの運命は決まった。それは、ただの調査任務ではない。恐怖を知り、それでもなお、誰かのために立ち上がることを選んだ彼らの、ハミルトンの平和そのものを賭けた、【死刑執行人】との死闘の始まりを意味していた。
狩りの始まり
王からの密命を受けた翌日、ハミルトンの空は鉛色に曇っていた。
冒険者たちは、パットン王に示された市街地の一角――見捨てられたように古い倉庫や廃教会が立ち並ぶ「忘れられた区画」を、静かに包囲していた。
作戦は、情報収集が最優先。敵に気づかれずに、その巣を探り出す。
その最も危険な役割を担うのは、闇に生きる二人の専門家だった。
【調査実行班:エイゼン&アシタガ】
「……へっ、気味の悪い場所だな。まるで街ごと墓場になっちまったみてえだ」
今ではマスターシーフから《影穿のアーキス》へと進化したエイゼンが、猫のようにしなやかな足取りで、瓦礫の散らばる路地を進みながら囁いた。彼の視線は、蜘蛛の巣が張られた窓、崩れかけた壁、そして不自然なまでに静まり返った空気、その全てを舐めるように観察している。
彼の半歩後ろを、影が滑るように黒衣の剣士アシタガが続く。彼はエイゼンの軽口に一切応えず、ただ、鞘に収められた刀の柄に右手を添えたまま、五感を極限まで研ぎ澄ませていた。エイゼンが物理的な罠や痕跡を探る「目」ならば、アシタガは殺気や異質な気配を探る「牙」だった。
一つの錆びついた倉庫の扉の前で、エイゼンは足を止めた。愛用のピックを取り出し、鍵穴に差し込む。
「物音一つしねえ。だが、それが逆に怪しい。なぁ、アンタもそう思うだろ?」
返事はない。だが、エイゼンは気にもせず、カチリ、と小さな音を立てて錠前を解除した。
軋む音を立てないよう、慎重に扉を押し開ける。
内部は、埃とカビの匂いが充満する暗闇だった。だが、アシタガがその暗闇の奥、一点を鋭く睨みつけたまま、動かない。
「……どうした?」
エイゼンの声から、初めて軽薄さが消えた。
アシタガは、ただ一言、呟いた。
「……いるぞ。それも、ただの人間じゃねえ」
【待機・指揮班:ノベル、タンガ、モニカ】
区画の外縁に立つ、一軒の古びた茶屋。その窓際の席で、ノベルはハミルトンの地図を広げ、思考の海に深く沈んでいた。彼の前には、湯気の立つ茶が置かれているが、一口も飲まれた様子はない。
「エイゼンたちが侵入してから15分。そろそろ最初の報告があってもいい頃だが……」
彼の隣では、若き魔術師モニカが、瞳を閉じて精神を集中させていた。彼女は、この区画一帯の微弱な魔力の流れを感知しようと試みている。
「……いえ、ノベルさん。妙です。この区画だけ、まるで魔力の流れが『死んで』いるみたいに、何も感じられません」
その異常な報告に、ノベルの眉間に皺が寄る。
そして、向かいの席に座るタンガは、さらに奇妙な行動をとっていた。彼は茶を飲むでもなく、ただテーブルの木目に指を這わせ、時折、店の床や壁の石材を、まるでその来歴を確かめるかのように、じっと見つめている。
「……この店の基礎は、古いな。もっと下には、何か別の層があるかもしれねえ……」
《穿界者の残響》を手にして以来、彼の興味は、地上の出来事よりも、その下に眠るものへと、少しずつ引き寄せられ始めていた。
【待機・遊撃班:ロゼッタ、リバック、グリボール、パトリック】
区画から少し離れた公園。子供たちの無邪気な笑い声が響く、平和な空間。
だが、ベンチに腰掛ける四人の冒険者の周りだけは、空気が張り詰めていた。
「……ちっ、まだかよ。こっちはいつでも飛び出せるってのによ」
斧戦士グリボールが、愛用の巨大な戦斧を磨きながら、悪態をつく。
「静かに、グリボール。その殺気が、子供たちを怖がらせるでしょ」
風の魔法剣士ロゼッタが、彼を静かに諌めた。彼女はベンチに座りながらも、その視線は常に区画の方向へと鋭く向けられている。
「彼らの隣では、巨大なスパイクシールドを背負ったリバックが、まるで彫像のように微動だにせず座っていた。だが、その白銀のフルプレートアーマーの下で、彼の全身の筋肉が極限まで引き締められているのが、鎧越しに伝わってくるかのような、凄まじい圧を放っていた。」
そして、僧侶のパトリックは、静かに目を閉じ、胸の前でラーナ神への祈りを捧げていた、しかし、その額には、ただならぬ事態を予感しているかのように、冷たい汗が滲んでいる。
まさにその時。
遠くの区画の方角から、一羽のカラスが、けたたましい鳴き声を上げて飛び立った。
その瞬間、三つの場所に分かれていた冒険者たち全員の体に、同時に緊張が走った。
――狩りの時間が、始まったのだ。
闇に蠢く者
「……いる。それも、ただの人間じゃねえ」
アシタガの呟きは、死刑宣告のように倉庫の暗闇に響いた。
その言葉を合図としたかのように、倉庫の奥深く、暗闇が最も濃い場所から、何かが床を引っ掻くような、粘ついた音が聞こえてきた。
ギチリ、ギチリ……。
エイゼンは舌打ちし、腰に下げたポーチから音もなく投げナイフを数本引き抜いた。彼の全身から軽薄な空気は消え失せ、闇に生きる狩人の冷徹な貌が浮かび上がる。
暗闇から這い出てきた「それ」は、かつて人間だったものの残骸だった。
手足はあり得ないほどに引き伸ばされ、関節は逆方向に折れ曲がり、蜘蛛のような四足歩行で床を這っている。顔があったはずの場所には、つるりとした皮膚が広がるだけで目も鼻もない。ただ、胸元まで大きく裂けた口だけが、無音のまま蠢いていた。
「……上等だ。お出ましってわけかい」
エイゼンが呟いた瞬間、怪物が動いた。
床を蹴ったかと思うと、その姿は壁へと張り付き、常軌を逸した速さで天井へと駆け上がる。そして、真上からアシタガ目掛けて、槍のように鋭い爪を振り下ろした。
だが、アシタガは動かない。
怪物の爪が彼の脳天を砕く寸前、アシタガの身体が霞のように揺らめいた。最小限の動きで攻撃を回避すると同時に、鞘走りの音もなく、抜き放たれた刀が一閃する。
ギャアアアッ!
怪物は、初めて人間のような悲鳴を上げた。天井から落下し、床を転がる。その右腕が、肘から先、綺麗に切断されていた。
「へっ、さすがだな!」
エイゼンが叫ぶと同時に、懐から小さな球体を複数、床に叩きつける。
パンッ!という乾いた音と共に、倉庫内が眩い閃光と濃い煙幕に包まれた。
視界と聴覚を奪われ、怪物が錯乱したように叫び声を上げる。だが、それはエイゼンの罠だった。煙幕は、敵の注意を自分に引きつけるための陽動。本命は、煙の向こうにいるアシタガだ。
エイゼンは煙幕の中を疾風のように駆け抜け、怪物の背後に回り込む。そして、切断された腕の傷口目掛けて、立て続けに三本の投げナイフを深々と突き立てた。
悲鳴がさらに甲高くなる。怪物はエイゼンを振り払おうと、盲滅法に爪を振り回した。
だが、その動きは完全に予測されていた。
「――そこだ」
煙幕の中から、地を這うようなアシタガの声が響いた。
次の瞬間、煙を切り裂いて現れたアシタガの姿は、まるで一つの幻影のようだった。
彼の右手には、闇そのものを切り取ったかのような黒い刀身の**《影裂》。
左手には、霧を固めて作り上げたかのような白い刀身の《霧穿》**。
怪物が、煙の中で揺らめくアシタガの気配を捉えきれず、盲滅法に爪を振り回す。
だが、その爪が空を切った瞬間、アシタガは既にその懐に滑り込んでいた。
最初に閃いたのは、右手の《影裂》。
そのショートソードから放たれる斬撃は、まるで影が伸びるかのように無数の残像を生み出し、怪物の視覚と感覚を完全に惑わせる。怪物が、無数に見える刃のどれが本物かを見極めようとした、その一瞬。
左手の《霧穿》が、霧のように滑らかな軌道を描き、怪物の硬い外皮を、まるでそこに何も無いかのように、すり抜けていた。
物理的な防御を一時的に無効化する《霧穿》のショートソードは、抵抗なく怪物の体内に侵入し、その核と言うべき魔力の源を正確に断ち切る。
そして、とどめ。
怪物の動きが完全に止まったのを見計らい、アシタガは二振りの剣を交差させた。
「――双月」
影と霧、二つの相反する力が交錯し、怪物の身体を内側と外側から同時に切り裂く。
裂けた口から最後の絶叫を絞り出す間もなく、怪物の身体は十字に分断されると、やがて黒い塵となってサラサラと崩れ落ちていった。
煙が晴れ、倉庫に静寂が戻る。
アシタガは、二振りの剣の血糊を振るうと、音もなく鞘に納めた。その所作は、まるで一つの儀式を終えたかのように、静かで洗練されていた。
床には、人ならざるものが存在した証である黒い染みだけが残される。
「やれやれ……心臓に悪いぜ。地上にもこんなのが、まだうろついてるってのか?」
エイゼンはナイフを拭いながら、軽口を叩く。
アシタガは剣の血糊を振るうと、音もなく鞘に納めた。そして、倉庫のさらに奥、暗闇が続く先を見つめながら、静かに、しかし確信を込めて言った。
「……いや。こいつは、ただの見張りにすぎん」
倉庫の中で放たれた強烈な殺気が、ふつりと消えた。
公園のベンチで祈りを捧げていた僧侶パトリックが、はっと目を開く。茶屋で地図を睨んでいたノベルの指が、ぴたりと止まった。彼らは、戦闘が終わったことを、その肌で感じ取っていた。
「……やったようだ。」
グリボールの呟きに、ロゼッタが頷く。
「ええ。エイゼンたちが、仕留めたようね」
安堵のため息が、待機する仲間たちの間に広がった。だが、ノベルの表情は晴れない。
(殺気が単発でしたね。まだ、最初の見張りを始末しただけのようです……)
彼の胸騒ぎは、まだ始まったばかりだった。
一方、倉庫の奥深くへと足を踏み入れたエイゼンとアシタガは、すぐに異変に気づいた。
そこは、ただの倉庫ではなかった。床の中央部分が巨大な円形にくり抜かれ、地下へと続く螺旋階段が、見えない深さまで、口を大きく開いている。
「……おいおい、こんな所で地下迷宮のお出ましかよ」
エイゼンは松明に火を灯し、階段の下を照らした。光は、どこまでも続く暗闇に吸い込まれ、その底を見せることはない。ひやりとした、墓場のような空気が、下から這い上がってきた。
「どうする? 一旦戻って報告するか?」
エイゼンの問いに、アシタガは答えなかった。彼はただ、腰を落とし、階段の入り口付近の床にそっと指を触れさせている。
「……アシタガ?」
「……新しい」
「何がだ?」
「この階段……掘られてから、まだ日が浅い」
その言葉に、エイゼンの表情が曇った。これだけ大きな空洞が、つい最近、何者かによって作られたというのか? 見ても分からん位深いぞ! 誰にも気づかれずに?
二人は視線を交わし、覚悟を決めた。松明の光を頼りに、彼らは螺旋階段を慎重に下り始める。
一歩、また一歩と下るたびに、地上とは全く異質な空気が肌を刺す。カビ臭い匂いに混じって、微かに、甘ったるい腐臭が鼻をついた。
やがて階段は終わり、広大な空間へと繋がっていた。
そこは、教会を模したような、歪な礼拝堂だった。壁には冒涜的な紋様が刻まれ、祭壇があったであろう場所には、黒い粘液のようなもので汚れた巨大な石のテーブルが置かれている。
そして、二人は見てしまった。
礼拝堂の隅に、無数の「それ」が、まるで蛹のように壁に張り付いていたのだ。
先程倒した怪物と、同じ特徴を持つ、人間だったものたち。だが、彼らはまだ「成りかけ」だった。手足が不自然に伸び、皮膚が引き攣り、時折、痙攣するように微かに動いている。
「……くそっ、なんだってんだ、こいつらは……」
エイゼンは、思わず声を殺した。ここは、怪物を「製造」する工場なのだ。
だが、恐怖はそれだけでは終わらなかった。
石のテーブルの上。そこに、何かぼろ布のようなものが無造備に置かれている。エイゼンが松明を近づけて、それが何かを認識した瞬間、彼の喉がひきつった。
それは、親衛隊の制服だった。
つい数日前まで、誇り高き騎士がその身に纏っていたであろう、血と泥に汚れた衣服。
「……まさか」
メッシ襲撃の際、行方不明になったと噂されていた兵士たちが、数名いたはずだ。彼らのなれの果てが、この蛹たちだというのか。
その時、アシタガが鋭く囁いた。
「……来る」
礼拝堂の奥、さらに暗闇が続く通路の向こうから、複数の足音が聞こえてきた。
それは、蛹たちを回収しに来たのか。それとも、新たな「材料」を運び込みに来たのか。
エイゼンとアシタガは、音もなく祭壇の影に身を隠した。
松明の火を、そっと踏み消す。
完全な暗闇と沈黙が、二人を支配した。心臓の音だけが、やけに大きく耳に響く。
足音は、ゆっくりと、しかし着実に、こちらへと近づいてくる。
闇の奥から現れるのが、一体何なのか。
二人は、息を殺し、その時を待った。
ここまで読んでくださりありがとうございます、引き続き次を見かけたら、また読んでみて下さい。




