神聖都市ハミルトン
ハルミトンで起こったグラティア教徒によるものと思われる襲撃の調査に向かった、シャナが、夜が明けても帰ってこないことに心配するマルティーナは、オクターブにシャナを探してきてと命じた、するとロゼッタも私が行くわといい、二人はシャナの行方を追う......。
その148
【鋼鉄と奈落のアルケミスト】――ハミルトンを蝕む毒
【数ヶ月前 - ハミルトン】
マルティーナたちが築き上げた穏やかな日常が、まだ何の色にも染まっていなかった頃。
神聖モナーク王国の首都ハミルトンに、一人の男が、巡礼者を装って静かに入国した。
男の名は、ヴァルド・エクレシア。
グラティア教【インクイジトル】――異端審問官。彼の現在の任務は、“布教と浸食”。この「偽りの神」ラーナに守られた国を、内側から、静かに、そして完全に腐らせることだった。
「……なんと、愚かで、満ち足りた顔をしていることか」
ヴァルドは、中央市場で笑い合う民衆を眺め、仮面の下で嘲笑った。
彼の最初の「布教」は、街で最も貧しく、救いを求める者たちが集う一角から始まった。
彼はそこで炊き出しを行い始めると、傷ついた者を癒し、そして優しく、甘い言葉を囁き始めた。
だが、その瞳は、獲物を品定めするかのような、冷たい目で見ていた。
(この男は、家族を失ったばかり。情緒が不安定だ。数日中に“導き”を受け入れるだろう)
(この女は、子を抱えている。子に奇跡を見せれば、信仰は揺るがないな)
彼にとって人間は“器”でしかなかった。どれほどの毒を注げば、どれほどの信仰が生まれるか――それを見極めるのが、彼の“審問”だった。
彼の口癖は、こうだ。
「信仰とは、毒のように。甘く、静かに、確実に」
信者は、一人、また一人と増えていった。
そして、特に熱心な「素養」のある信者を集めると、ヴァルドは次の段階へと移行。
街の中にある倉庫内に、教団から貸し与えられていた、神秘の力が秘められた《地喰の環》を使い、地下深くまで続く穴を作ると、そこに築いた秘密の礼拝堂を作った。そこには、異端者を処刑するための“血の祭壇”が設えられていた。
「さあ、兄弟たちよ。桃源郷への旅立ちの時が来ました。これは、あなた方が現世の肉体を捨て、より高次な存在へと昇華するための、祝福の儀式です」
信者たちは、恍惚とした表情で、ヴァルドが差し出す黒い聖杯を呷った。
その液体の正体を、彼らは知らない。
それは、はるか遠くのロマノス帝国、グラティア教本部の深部に存在する、ごく僅かな重鎮しかその存在を知らぬ禁忌の場所――**【黒哭の礼拝堂】**で錬成されたものだった。
そこでは、異端分子と見なされた帝国民たちが監禁されている。彼らは、身の毛もよだつほどの拷問を受け、精神が砕けるまで苦痛を与えられ、時には家族や仲間を売り渡すよう強制される。その全ての過程を、教団の重鎮たちは、まるで観劇でもするように、愉しげに見物するのだという。
そして、底知れぬ恐怖と憎悪を植え付けられた魂が、断末魔の叫びを上げる、まさにその一瞬。
その“記憶”と“憎悪”のエッセンスだけを、秘術によって抽出、錬成した霊薬。
それが、この黒い聖杯に満たされた液体の正体だった。
これを飲んだ者は、知らず知らずのうちに、名も知らぬ誰かの絶望的な苦痛と、世界への憎悪を“共有”することになるのだ。
それこそが、彼らの狂信的なまでの“熱心さ”の正体だった。
儀式を終えた者たちは、数日後、街へと戻っていった。彼らは、以前よりも心身ともに満ち足りた様子で、その奇跡を友人や家族に熱心に語り、新たな信者を獲得していく。
だが、彼らの変化は、それだけではなかった。
その笑顔には、どこか魂が抜け落ちたような“空虚”が混じり、夜になると、誰もが同じ言葉を無意識に口ずさむのだ。
「桃源郷は、血の中に」
ある者は、夢の中で自分が“ヴァルドの視点”に立ち、他人を選別している感覚にさえ陥った。
それでも彼らは、自分たちが「救われた」と信じて疑わなかった。
ハミルトンの水面下で、グラティア教という毒は、確実にその汚染を広げていた。その全ては、教団の真の目的――この地に眠る、グラティア神の“完全降臨”の器となりうる「素材」を探し出し、信者の魂を贄として、神を現世に錬成するための、冒涜的な計画の一部だ。
【王宮 - 親衛隊庁舎】
「……妙だ」
親衛隊司令官メッシ伯爵は、机の上に広げられたハミルトンの地図を睨みながら、呟いた。
「ここ数ヶ月、街での小競り合いが、不自然なほどに減っている」
彼の向かいに座るパットン王も、その報告に眉をひそめていた。
「良きことではないのか、メッシ?」
「いえ、陛下。これは、民が満ち足りているからこその平穏ではありませぬ。まるで、街から『不満』という感情そのものが、ごっそりと抜き取られているような……不気味な静けさなのです」
メッシの直感は、それだけではなかった。
「それに、最近勢力を伸ばしているグラティア教の集団。彼らの集会に参加した者が、数日後、まるで別人のように晴れやかな顔で戻ってくるという噂も、複数耳にしております」
「ふむ……改宗は自由だ。だが、度が過ぎた信仰は、時に民の目を曇らせる」
パットン王は、立ち上がると窓の外に広がる自らの王都を見つめた。
「メッシ、あの集団について、もう少し詳しく調べてみろ。ただし、決して騒ぎにはするな。我々が彼らを警戒していると悟られてはならん」
「はっ、御意に」
メッシは、王の慧眼に改めて敬服しながら、執務室を後にした。
彼も、そしてパットン王も、まだ気づいてはいなかった。自分たちが今から調査しようとしているものが、単なる新興宗教の集団などではなく、この国そのものを根底から覆しかねない、巨大な悪意の塊であることを。
ヴァルドは、その日の報告書を本国へと送っていた。
『ハミルトンにおける腐敗の進行度、ステージ2に移行。ラーナ神信徒の抵抗は微弱。王パットン、及び司令官メッシが調査を開始するも、その動きはあまりに慎重かつ表層的であり、我々の計画の核心に至る脅威には値せず』
彼はペンを止め、窓の外で輝くラーナ神の聖堂を、嘲るように見つめた。
『この地の“守り手”は、我々が思う以上に臆病らしい。このまま計画を最終段階へと進める。多少の抵抗は予測されるが、パットン王の首一つで、この街の信仰は容易く崩れ去るだろう。全ては、我らが主の御心のままに』
夜明けの捜索者
夜明け前のハミルトンの空気は、ひやりと肌を刺すように冷たかった。
マルティーナたちの住む街のはずれは、まだ深い静寂に包まれている。石畳の道を照らすのは、遠くに霞む月と、家々の窓から時折漏れるランプの灯りだけだ。
「……行くぞ」
オクターブの低い声が、その静寂を破った。隣で、ロゼッタが無言のまま頷く。
二人の間に、多くの言葉は必要なかった。友を案じる焦燥と、これから何が待ち受けているかも知れぬ未知への緊張感が、冷たい空気を通じて痛いほどに伝わり合っていた。
彼らは、眠る街を駆け出すようにして歩き始めた。
住宅街を抜けると、ふわりと甘く香ばしい匂いが鼻をくすぐる。早朝から稼働しているパン屋の煙突から、白い煙が昇っていた。都市の心臓が、ゆっくりと鼓動を始める合図だ。
やがて、道は中央市場へと繋がる大通りへと合流する。
まだ人通りはまばらだが、市場は既に一日を始めていた。荷馬車から威勢のいい掛け声と共に下ろされる新鮮な野菜の木箱。肉屋の店先では、巨大な肉の塊が吊るされ、魚屋は氷の上に色とりどりの魚を並べ始めている。
だが、その日常的な活気の裏で、昨日までとは明らかに違う空気が流れていた。商人たちは声を潜め、不安げな表情でひそひそと何かを囁き合っている。
「……親衛隊が、夜通し街を巡回していたらしい」
「グラティア教の連中が、まだどこかに潜んでいると……」
「メッシ司令官は、本当にご無事なのだろうか……」
断片的に聞こえてくる噂話が、二人の心を重くする。シャナが、この不穏な空気の中心に囚われていることは間違いなかった。
市場を抜け、職人たちが集う一角へと足を踏み入れる。規則正しく響き渡る鍛冶屋の槌音、なめした革の独特の匂い、木材を削る音。40万の民の生活を支える営みが、そこにはあった。冒険者ギルドの前を通り過ぎると、早朝にも関わらず、依頼の貼り紙を吟味する屈強な男女の姿が見える。
道は徐々に広くなり、周囲の建物は粗末な木造から、緻密な彫刻が施された石造りへと変わっていく。市街地へと入ったのだ。貴族のものらしき紋章を掲げた馬車が、硬質な蹄の音を響かせて二人を追い越していく。
やがて、前方にひときわ大きく、荘厳な建物が見えてきた。朝日を浴びて白く輝く、ラーナ神の聖堂だ。その神聖な姿が、この街に渦巻く不和を浄化してくれるかのように、静かにそびえ立っている。
そして、その聖堂のさらに奥。ハミルトンの中枢、王宮の白い外壁が、ついにその姿を現した。
王宮の敷地内に入った瞬間、空気が一変した。
街の喧騒は嘘のように遠のき、代わりに厳粛で、張り詰めたような緊張感が二人を包み込む。目的地である親衛隊庁舎の前には、普段の倍はいるであろう兵士たちが、鋭い視線で周囲を固めていた。庁舎の壁の一部には、昨夜の戦闘のものと思われる焦げ跡や、何者かの爪で抉られたような生々しい傷跡が残っているのが見える。
オクターブとロゼッタは、庁舎から少し離れた木陰で足を止めた。
正面から乗り込んで「仲間が戻らないのだが」などと尋ねても、この物々しい雰囲気の中では、まともに取り合ってもらえるとは思えない。それどころか、ただでさえよそ者の自分たちが、余計な疑いをかけられる可能性すらあった。
何が起きたのか。シャナはどこへ消えたのか。全ては、闇の中だ。
「どうする?」
ロゼッタが、低い声で尋ねる。
オクターブは、親衛隊庁舎の厳重な警備を睨みつけながら、静かに答えた。
「……力尽くは最後の手段にしとこう。まずは、情報を集める。この庁舎に出入りする人間の中に、話を聞けそうな奴がいるはずだと思うんだ」
二人の長い一日が、今、始まろうとしていた。
彼らはすぐには動かず、庁舎が見えるカフェテラスの隅に席を取り、街の風景に溶け込みながら、辛抱強く観察を続けた。オクターブの鋭い目は、警備兵の交代の周期、将校らしき人物の出入りの時間、そして警備が手薄になる裏口の存在まで、冷静に分析していく。
一方、ロゼッタの視線は別のものを捉えていた。庁舎の通用口から、大きな荷車を引いて出てきた一人の男。彼は納入業者らしく、衛兵に何事か軽口を叩いてはいるが、その顔には疲労と、そしてわずかな不満の色が浮かんでいた。
「……あの男、狙い目かも」
ロゼッタが、カップで口元を隠しながら囁く。
「口が軽そうだし、何か愚痴の一つでも抱えていそうだわ」
オクターブは黙って頷いた。
「俺はここに残って、引き続き人の流れを読む。ロゼッタさんはあの男に接触してみてくれ。だが、深入りはダメですよ。目的はあくまで情報収集ですから」
「わかってるわ」
ロゼッタは席を立つと、ごく自然な足取りで男の後を追った。男は庁舎から少し離れた路地で荷車を止め、水筒の水を呷って一息ついている。絶好の機会だった。
「すみません、少しよろしいでしょうか?」
ロゼッタは、困り顔の旅人を装って声をかけた。
「冒険者ギルドに用があって来たのですが、この辺りは初めてで道に迷ってしまって。それにしても、あちらの建物は随分と物々しい雰囲気ですね。何か大きなお祭りでもあるのかしら?」
当たり障りのない質問。だが、それは男の愚痴の堰を切るには十分なきっかけだった。
「お祭り? とんでもねえ!」男は顔をしかめ、声を潜めてまくし立てた。「昨夜、捕まってたグラティア教の連中が化け物になって大暴れしたんだ! メッシ司令官様も大怪我をされたってお話だよ。おかげでこっちは朝から大わらわで、血の海の掃除を手伝わされるわ、追加の食料を届けさせられるわ……」
そこまで言って、男ははっと口をつぐんだ。そして、さらに声を潜める。
「……お嬢さん、旅の人なら余計なことには首を突っ込まねえ方がいい。なんでも、化け物の仲間みてえな、翼の生えた怪しい女も捕まったって話だからな。今のハミルトンは、よそ者にはちとキナ臭すぎる」
――翼の生えた、女。
その言葉を聞いた瞬間、ロゼッタの背筋に冷たいものが走った。彼女は平静を装って男に礼を言うと、足早にオクターブの元へと戻って行く。
カフェテラスに戻ったロゼッタの顔は、血の気が引いていた。その深刻な表情に、オクターブは訝しげな視線を向ける。
「その顔はどうしたんです? 何か分かったんですか?」
彼の声には、まだ事の重大さを全く理解していない、平坦な響きがあった。ロゼッタは、そんなオクターブの目を真っ直ぐに見つめると、低く、抑揚のない声で事実だけを告げた。
「ええ……分かったわ。シャナは、捕まったようね」
「……何ですって?」
オクターブの反応は、一拍遅れた。彼はロゼッタの顔と言葉を頭の中で結びつけようと、わずかに目を見開く。
ロゼッタは続けた。「『翼の生えた怪しい女』としてね。昨夜、この庁舎に連行されたみたいね」
最悪の推測が、ロゼッタの口から語られたことで、動かぬ確信へと変わった。
二人の間に、重い沈黙が落ちる。シャナは生きている。だが、彼女は今、怪物と疑われ、敵地の真っ只中で囚われの身となっているのだ。
情報収集の段階は、終わった。
次は、どうやって彼女を救い出すか。
二人の視線が、再び親衛隊庁舎の堅牢な壁に向けられた。
だが、見れば見るほど、その守りは堅く思えた。
パットン王の治世下で、この国の兵士たちは生まれ変わったと聞く。その噂は、決して誇張ではなかった。庁舎を固める兵士たちの立ち姿、その視線の鋭さ、寸分の隙もない連携。それは単なる数合わせの衛兵ではなく、厳しい訓練を積んだ精鋭たちの動きだった。
「……こいつは、厄介だな」
オクターブは、唸るように呟いた。正面突破など、自殺行為に等しい。
焦りが滲むオクターブの横顔を、ロゼッタは冷静に見つめていた。そして、まるで逸る馬をなだめるように、静かに言った。
「何でも直ぐに結果を求めちゃダメよ、オクターブ。粘り強くなくっちゃ。どんな堅い城壁にも、必ず綻びは生まれるものよ。チャンスは、必ず来るわ」
その言葉には、歴戦の冒険者としての経験に裏打ちされた、確かな説得力があった。ロゼッタはオクターブに向き直ると、有無を言わせぬ口調で続けた。
「あなたは、マルティーナ様の元へ戻って。シャナが親衛隊に捕らえられていることを、きちんと報告してあげて。大丈夫、相手はこの国の正規の騎士団よ。怪物と疑われてはいても、すぐに殺されるようなことはないはずだから」
彼女はそう言うと、再び庁舎へと視線を戻した。
「私はここに残って、見張りを続けるわ。何が起こるか分からないもの」
その淀みない指示に、オクターブは一瞬、思考が止まった。だが、言っていることは理に適っている。マルティーナへの報告は、確かに最優先事項だ。
「……そうですね。わかりました」
オクターブは短く応じると、ロゼッタに背を向け、マルティーナたちの家へと向かって歩き出した。
一人、帰り道を歩きながら、彼は先程のやり取りを頭の中で反芻していた。ロゼッタの判断は正しい。役割分担も的確だ。だが、何かがおかしい。
ふと、オクターブの足が止まった。
「……あれ?」
彼は、自分のこめかみを指でぽりぽりと掻いた。
「なんで俺、あの人に指示されてんだ……?」
そうだ。今回のシャナ捜索のリーダーは、マルティーナ様から直接命じられた、自分のはず。それが、いつの間にかパシリのように報告に戻らされている。
「……おかしいぞ……」
オクターブは、釈然としない表情で頭を抱えながらも、主君の待つ家へと、とぼとぼと歩き続けるのだった。
王との対峙
「なんですって! シャナが親衛隊に捕まっているですって!?」
オクターブの報告に、マルティーナの穏やかだった表情から血の気が引いた。その声は、驚きと不安に震えている。
「は、はい……どうやら、翼を持つ姿から、グラティア教の化け物の一味だと誤解されたようで……」
「それで、ロゼッタさんはどうしているのです?」
「はい、引き続き庁舎の監視を続けてくれています」
「そうなの……でも、どうすれば……どうすれば、シャナを助け出せるというの……」
途方に暮れるマルティーナ。その時、黙って話を聞いていた二人の男が、会話に割って入った。知的な冒険者ノベルと、元国家魔術師のラージンだ。
「それは、難儀なことになりましたな」
ノベルが冷静に状況を分析するように口を開いた。
「マルティーナ様、ここは私に行かせてはいただけませんか? 彼らと直接、話をしてみましょう」
「ノベル殿が?」
ラージンは一瞬考えるとその提案に頷いた。
「確かに。我々のような素性の知れぬ者よりも、大陸で名の通ったA級冒険者であるノベル殿が交渉役として出向けば、話くらいは聞いてもらえるやもしれん」
こうして、新たな一手は決まった。ノベルは、万が一に備え、屈強な盾役であるリバックを伴い、再びあの物々しい親衛隊庁舎へと向かうことになったのだ。
その頃、親衛隊庁舎の地下深く。
冷たく湿った石造りの尋問室で、シャナは一人の囚人として、厳しい尋問に耐えていた。
「いい加減に吐いたらどうだ! 貴様のような異界の者が、ここで何を企んでいた! 正体を明かせ!」
尋問官の怒声が、狭い部屋に響き渡る。だが、シャナは顔色一つ変えず、ただ同じ言葉を繰り返すだけだ。
「ですから、私は市場の噂を聞いて、あの高名なメッシ様がお怪我をなされたと知り、いてもたってもいられず、ただ真相を確かめに来ただけです。ああ、憧れのメッシ様……」
その、あまりに場違いな返答に、尋問官たちは苛立ちと困惑を隠せない。
「おいおい、こいつ、本気でメッシ様の追っかけなんじゃねぇのか?」
「馬鹿を言え! 翼が生えてるんだぞ! グラティア教が送り込んだ密偵に決まってるだろ!」
「いや、あるいは異界から紛れ込んだ本物の悪魔かも知れんぞ……」
議論が行き詰まり、尋問室の空気が膠着した、まさにその時だった。
重厚な鉄の扉が、外から唐突に開かれた。
入ってきたのは、見慣れぬ壮年の侍従。その男の姿を認めた瞬間、それまで威圧的にシャナを取り囲んでいた親衛隊員たちが、弾かれたように直立不動の姿勢をとり、一斉に敬礼した。
隊員たちが作り出した道の奥から、一人の男がゆったりとした足取りで姿を現す。
「やぁ、君かい。噂の、翼ある女性というのは」
男は、まるで旧知の友人にでも会いに来たかのような、気さくな口調で言った。そして、先ほどまで尋問官が座っていた椅子に、何の遠慮もなくドカッと腰を下ろす。その所作の一つ一つに、尋常ならざる威厳と、揺るぎない自信が満ち溢れていた。
「……あなたは、一体?」
シャナが訝しげに問いかける。
その瞬間、周囲の隊員たちが色めき立った。
「女! 口を慎め!」
「御前であるぞ!」
だが、男が軽く手を挙げて制すると、彼らの声はピタリと止んだ。絶対的な支配力。その光景を見て、シャナの脳裏に、一つの信じられない可能性が浮かび上がる。
(この人……まさか……)
シャナの心の声が聞こえたかのように、男は不敵な笑みを浮かべた。
「その通りだ。私がパットン。この神聖モナーク王国の王だ」
『賢王の慧眼』
「私がパットン。この神聖モナーク王国の王だ」
その言葉は、絶対的な真実の重みをもって、尋問室の空気を支配した。
シャナは一瞬、息を呑んだ。だが、彼女はただの囚人ではない。王女を守り、幾多の死線を越えてきた護衛だ。驚愕から立ち直ると、その瞳に強い意志の光を宿し、目の前の王を真っ直ぐに見据えた。
「――恐れながら、申し上げます。もし、私に真実をお求めになるのでしたら、まずはお人払いをお願いできますでしょうか」
静かだが、凛とした声だった。その場にいた親衛隊員たちが、再び色めき立つ。
「無礼者! 王に対して何を!」
「危険です、陛下! こやつが何を企んでいるか分かりませぬぞ!」
だが、パットンは周囲の喧騒を意にも介さず、面白そうにシャナを見つめていた。その瞳は、彼女の胆力を値踏みしているかのようだ。やがて彼は、満足げに頷いた。
「よかろう。だが、私の側近二人だけは、ここに残させてもらおう」
王の鶴の一声で、尋問官たちは不満げな表情を浮かべながらも、速やかに退室していった。
静まり返った尋問室で、シャナは決断した。この王は、信じるに足る。10年近くこのハミルトンで暮らし、耳にしてきた噂は嘘ではなかった。民を愛し、正義を重んじ、そして何より賢明であると。その人格を信じ、彼女は全てを語り始めた。
自分たちが、遠い東の国、マーブル新皇国の者であること。ある事情により、王女マルティーナとその仲間たちと共に、この地に流れ着き、静かに暮らしてきたこと。そして今回の事件は、市場の噂を聞き、敬愛するメッシ司令官の身を案じるあまり、非合法な手段を取ってしまったこと。
一連の告白を、パットン王は表情一つ変えずに聞いていた。そのあまりに落ち着いた様子に、シャナはひとつの疑問を抱かざるを得なかった。
「……もしや、ご存知だったのですか? 私たちのことを」
すると、パットンは初めて愉快そうに口の端を上げた。
「勿論、知っていたさ。街のはずれの古家に、まるで物語から抜け出たような美しい女性と、彼女を鉄壁の如く守る者たちが住み着いた、という報告は、とうの昔に私の耳に届いていたよ」
「それでは……知っていて、放置してくださっていたと?」
「まあ、そういうことになるな」パットンは肩をすくめた。「君たちがこの街の平和を乱さぬ限り、私があれこれ口を出す理由はない。もっとも、まさか滅びたはずのマーブル王族だったとは、私も驚いたがね」
この対話を通じて、シャナはパットンという王の器の大きさを、改めて知ることとなった。彼はただの王ではない。全てを知り、その上で泳がせる度量を持つ、真の賢王だったのだ。
それから、数時間が経過した頃。
親衛隊庁舎の正門に、二人の冒険者が姿を現した。ノベルとリバックだ。
「我々は冒険者協会に所属するA級冒険者のノベルと申す。この庁舎に、翼を持つ女性が捕らえられているという噂を聞き、真偽を確かめに参った。彼女は、我々の旧知の者かもしれんのでな」
ノベルは、A級冒険者の身分を示す徽章を提示しながら、堂々とした態度で衛兵に告げた。リバックが、その背後で腕を組み、鋭い視線を庁舎に向けている。
衛兵は、A級冒険者の身分を示す徽章の確かな重みに、一瞬、たじろいだ。だが、彼の職務への忠誠心は、その戸惑いをすぐに打ち消した。
「……お待ちください。あなた方がお探しの方は、もはやこの庁舎の管轄にはおりません」
「何だと?」リバックが、低い声で問い返す。
衛兵は、二人の鋭い視線から逃れるように、わずかに目を伏せた。
「詳細は申し上げられませんが、身柄は王宮の方へと移されております。伝令を走らせ、あなた方がお見えになったことをお伝えしますので、ここでしばらくお待ちいただけますか」
それは、交渉の余地のない、決定事項の通達だった。ノベルはリバックを無言で制すると、「わかった。待たせていただこう」と静かに応じた。
それから、一時間が経過した。
親衛隊庁舎の前で、ただ立ち尽くす一時間は、永遠のようにも感じられた。衛兵は交代したが、二人に対する監視の視線は緩むことがない。この国の規律の正しさと、よそ者に対する警戒心の強さを、彼らは肌で感じていた。
やがて、庁舎ではなく、王宮の方角から一人の伝令兵が馬を走らせてきた。兵はノベルたちの前で馬から飛び降りると、緊張した面持ちで告げた。
「お待たせいたしました! A級冒険者ノベル殿、リバック殿! 陛下より、王宮への立ち入り許可が下りました! こちらへ!」
許可は下りた。だが、その言葉に含まれた「陛下」という単語に、ノベルは眉をひそめた。事態は、彼らの想像を遥かに超えた領域へと進んでいるようだった。
兵に案内されるまま、彼らは親衛隊庁舎の横を抜け、壮麗な王宮の敷地へと足を踏み入れた。磨き上げられた大理石の床、壁にかけられた見事なタペストリー、そしてすれ違う宮廷騎士たちの放つ気品と威圧感。全てが、先程までの軍事施設とは全く異質な、権力の中枢の空気を放っていた。
長い廊下を進み、一つの豪奢な扉の前で案内役の兵は足を止めた。
「こちらでお待ちです」
重厚な扉が、内側から静かに開かれる。
ノベルとリバックが、パットン王の**「執務室」へと通されて目にしたのは、信じがたい光景だった。
そこには、囚人服はおろか、何の拘束も受けていないシャナが、優雅な椅子に腰かけていた。そして、その向かいのソファには、一人の男がゆったりと腰かけ、シャナと穏やかに言葉を交わしている。まるで、古い知人同士が茶会でも楽しんでいるかのような、和やかな雰囲気。
その男の顔を、ノベルとリバックは知っていた。この国の全ての民が知る、絶対的な権威の象徴。
唖然として立ち尽くす二人を見て、その男――国王パットンは、楽しそうに笑みを浮かべた。
「君たちが、A級冒険者のノベルとリバックだね」
その声には、不思議なほど人の心を解きほぐす響きがあった。
「シャナ殿から、君たちの話は聞かせてもらったよ。あの伝説の『生贄の迷宮』に降り立ち、生きて帰ってきたとは……噂に違わぬ、凄いつわものたちのようだね、遠慮せずかけてくれたまえ。」
ノベルとリバックも席に着くと、先程までの和やかな空気は消え、パットン王の瞳に賢王としての鋭い光が宿った。彼は、まるでチェスの盤面を見つめるかのように、目の前の者たちを静かに見渡している。
「さて、本題に入ろう。君たちには、知っておいてもらわねばならぬことがある」
その重々しい切り出し方に、ノベルたちの背筋が自然と伸びる。
「シャナ殿を捕らえた一件の裏で、グラティア教からの新たな刺客が、既にこのハミルトンに送り込まれている。それも、最も厄介な連中が、だ。――悪名高き【死刑執行人】」
その名を聞いた瞬間、ノベルとリバックの顔色が変わった。つい二ヶ月前まで、彼らがその恐怖の噂が渦巻くロマノス帝国領内を旅してきたばかりだったからだ。
「連中が、かの帝国で何と呼ばれているか、君たちは知っているかい?」
パットン王の問いに、ノベルが重い口を開いた。
「……存じております。人々は彼らを、畏敬と恐怖を込めて、『神人』と」
「ほう」
「ですが」ノベルは続けた。その声には、隠しきれない嫌悪が滲んでいる。「その行いは、悪魔の所業を遥かに超える。口にするのも躊躇われるほどの残虐行為を繰り返し、神の名の下に裁きを下すと称して、抵抗する者は見せしめとして根絶やしにする。ロマノス帝国では、爵位を持つ大貴族ですら、彼らに睨まれれば一族郎党、赤子に至るまで皆殺しにされると聞いております」
ノベルの淀みない説明に、パットン王は「うむ」と深く頷いた。
「概ねその通りだ。だが、君たちが知っているのは、まだ彼らの”人間の”側面だけだ。――彼らが、人ならざるものへと姿を変えるという事実は、知っているかな?」
その言葉に、ノベルとリバックは顔を見合わせ、かぶりを振った。彼らの知る【死刑執行人】は、あくまで狂信的な人間の集団。その常識が、今、根底から覆されようとしていた。
その時、それまで沈黙を守っていたシャナが、静かに口を開いた。その声は、遠い日の恐怖を呼び覚ますかのように、微かに震えていた。
「……私は、見ました」
全員の視線が、彼女に注がれる。
「かつて、故郷マーブルの首都ヨーデルで。彼らは、天から舞い降りてきました。巨大な、一つ目の巨人となって……」
シャナの脳裏に、あの日の絶望的な光景が焼き付いて離れない。
「その大きさは、5メートルはあろうかという巨体。背には巨大な翼を生やし、空を自由に飛び回っていました。人間の軍隊など、まるで子供の玩具のように蹂躙されていきました。そして……」
彼女は一度言葉を切り、唇を噛んだ。
「彼らは、『恩寵』と呼ぶ、特殊な力を使っていました。それが何なのかは分かりません。ただ、その波動を浴びた者は、悲鳴を上げる間もなく……塵となって消えていきました。私も、あのままマルティーナ様と法皇フェニックス様のお助けがなければ、間違いなく……」
シャナの衝撃的な告白に、客間は水を打ったように静まり返った。
ノベルとリバックは、言葉を失っていた。自分たちが知っていた脅威は、氷山の一角に過ぎなかったのだ。神の使いの仮面を被った、人外の怪物。そんなものが、今、この平和なハミルトンに潜んでいる。
事態の深刻さが、絶望的なまでの実感を伴って、彼らに突きつけられた瞬間だった。
一定数の蓄えが出来ましたので、また再開する事にしました、
また読んでくれた方々に深くお礼を言いたいと思います。 引き続き第三部を読み始めてくれありがとうございます。




