ラナーシャ&カイvsゼル・カイラン
遊撃隊による闇夜の罠が発動された、囮は二か所からロットノットの中を移動する護衛付き幌馬車だ、これに食いついて来るだろう予測していたのは、ムーメン家の実践部隊ケイオスと、それを率いるゼル・カイランだった。
その146
【ロット・ノット、決行の夜】
その夜のロット・ノットは、まるで巨大な鉛の塊のように、重苦しい空気に満たされていた。
市街とスラムとを結ぶ全ての検問所には、普段の数倍はあろうかという兵士たちが、物々しい雰囲気で立ち並んでいる。行き交う人々は、これから何が始まるのかと訝しみながらも、その殺気だった空気に急かされるように、足早に検問を抜けていく。
だが、その厳戒態勢とは裏腹に、検問そのものは驚くほどに緩かった。
兵士たちの視線は、一般市民にはない。彼らは、明らかに何か特定の「獲物」を探しており、それ以外の者には興味がないとでもいうように、うざったそうに手を振って素通りさせていく。
いつもならば、身分証の提示だ、荷物の中身の確認だと、粘着質に絡んでくる彼らが、だ。
それはつまり、今この街で起きている、あるいはこれから起ころうとしていることは、一人一人の通行人を咎めている暇などないほどに、切迫した事態であることを、雄弁に物語っていた。
松明の光が、鎧を、赤く照らし出し、抜身の剣が、月光を、鈍く、反射する。
街全体が、まるで、巨大な、罠と化したかのような、物々しい、緊張感に、包まれていた。
その、張り詰めた、空気を、切り裂くように。
一台の馬が、疾風の如く、検問所へと、突進してきた。
「止まれ! 何者だ!」
警備隊員たちが、慌てて、槍を、突き出す。
だが、その馬は、速度を、緩めることなく、彼らが、作り上げた、バリケードを、軽々と、飛び越え、闇の中へと、駆け抜けていった。
「…あ、あの、野郎…! また、やりやがった…!」
若い、隊員が、悔しそうに、叫ぶ。
だが、隊長格の男は、その背中を、追うことなく、静かに、制した。
「…構うな。我々には、今夜、もっと、重要な、任務がある」
それから、数時間が、経過し、夜が、さらに、深まった頃。
今度は、南の方から、地響きが、近づいてきた。
それは、ただの、足音ではない。数百人の、男たちが、足並みを揃え、行進する、重く、そして、不気味な、音だった。
「…エッホ、エッホ…! エッホ、エッホ…!」
その、奇妙な、掛け声と共に、松明の光に、照らし出されたのは、剣や斧、手槍などの他に
つるはしや、スコップを、肩に担いだ、おびただしい数の、男たちの、大群だった。
その、先頭を、馬に乗った、一人の男が、率いている。
検問所の、隊長、ジェイコフは、その、あまりに、異常な光景に、息をのんだ。
検問所の、兵士は、50名弱。対する、相手は、目算で、その十倍近い。
「…これは、やばい…!」
ジェイコフは、声を、絞り出した。
彼は、震える、部下たちに、命じる。
「いいか、お前たち! 決して、先に、手を出すな! こちらから、手を出せば、どうなるか分かってるな!」
その、絶望的な、数の差を前に、ジェイコフは、戦うという、選択肢を、捨てた。
彼は、部下たちに、バリケードを、どけさせ、道を開けると、自ら、一歩前に出て、声を、張り上げた。
「待て! 貴様ら、一体、何者だ! 今宵、王都では、大規模な、作戦が、展開されている! うろついていれば、王国警備隊と、衝突することになるぞ!」
精一杯の、虚勢だった。
すると、馬に乗った男…ウィッシュボーンが、手綱を引き、ジェイコフの前で、馬を止めた。
そして、悪びれもせずに、言った。
「…すまん。こちらも、急ぎの用でな。通させてもらう。詳しい話は、後だ」
それだけ言うと、ウィッシュボーンは、再び、馬を、進め、ジェイコフの、脇を、通り抜けていった。
その後ろから、400名近い、男たちの、大群が、黙々と、続いていく。
ジェイコフと、その部下たちは、その、圧倒的な、圧力の前に、ただ、立ち尽くすことしか、できなかった。
やがて、その、異様な、行列が、完全に、通り過ぎると、ようやく、一人の、若い隊員が、震える声で、呟いた。
「…た、隊長…。今のは、いったい…」
「…知るか」ジェイコフは、額の、冷や汗を、拭った。「どうせ、評議会の、クソッタレ共の、縄張り争いだろ。俺たちの、知ったことじゃねえ」
だが、彼の、内心では、一つの、確信が、芽生えていた。
ロット・ノットの、裏社会の、パワーバランスが、今、この瞬間にも、大きく、変わろうとしているのだ、と。
そして、その、巨大な、渦の中に、自分たちが、巻き込まれる日も、そう、遠くはないだろう、という、不吉な、予感と共に。
ロット・ノットの、運命を、左右する、二つの、戦いの火蓋が、今、同時に、切って、落とされようとしていた。
【ロット・ノット、決行の夜】
作戦の夜。
ロット・ノットは、張り詰めた、緊張感に、包まれていた。
まず、動いたのは、陽動部隊(Aルート)。
夜陰に、紛れ、スラムへと続く、南門から、侵入した、二台の、幌馬車。その、周囲は、数十名の、屈強な、護衛たちによって、厳重に、固められていた。
彼らは、あえて、松明を、高く、掲げ、スラムの、南地区を、縦断。そして、スラム北西部の、検問所を、抜け、新市街へと、入ると、一路、上層区画にある、ゾンハーグ家の、屋敷を、目指して、ゆっくりと、その駒を、進めていった。
それは、まるで、「ここに、お宝があるぞ」と、大声で、叫んでいるかのような、行軍だった。
だが、その、あまりに、あからさまな、「餌」に、狡猾な、敵は、食いつかなかったのだ。
本当の、戦場は、別の場所だった。
東門から、市街へと、入る、薄暗い、裏通り。
ラナーシャは、そこで、息を殺して、待ち構えていた。
彼女が、率いる、200名の、精鋭部隊。そして、彼らが、護衛するのは、たった、一台の、何の変哲もない、幌馬車。
こちらの方が、本命だと、彼女は、確信していた。
そして、その時は、来た。
闇の中から、まるで、滲み出るかのように、無数の、黒い影が、姿を現した。
その数、およそ150。
そして、その先頭に立つのは、あの、氷のように、冷たい瞳を持つ、男…「灰の処理人」、ゼル・カイラン。
「…来たわね」
ラナーシャは、静かに、呟いた。
敵の、総数は、こちらの、予想を、下回っている。だが、その、一人一人が、放つ、殺気は、尋常ではない。
(…このまま、ぶつかれば、こちらの、被害も、甚大になる…!)
ラナーシャは、即座に、決断した。
「伝令!」
彼女は、背後に、控えていた、2名の、伝令兵に、鋭く、命じた。
「今すぐ、散開! 最も、近くに、配置されている、カイ隊長の、部隊へ、至急応援を、要請せよ! 行きなさい!」
伝令たちは、それに、頷くと、闇の中へと、散っていく。
そして、ラナーシャは、残った、部下たちに、向き直った。
その、声には、鋼のような、覚悟が、込められていた。
「いいわね! 敵は、手強い! だが、我々の、目的は、殲滅ではない! 時間を、稼ぎ、そして、一人でも、多く、生き残ること! 応援が、到着するまで、何としてでも、持ちこたえなさい!」
「「「はっ!!」」」
ラナーシャの、号令と共に、壮絶な、市街戦の、火蓋が、切って落とされた。
王国警備隊の、兵士たちは、ラナーシャの、指示通り、狭い、路地を、利用し、決して、深追いはせず、防御に、徹した、陣形を、組む。
だが、【ケイオス】の、暗殺者たちの、動きは、それを、上回っていた。
彼らは、壁を、駆け上がり、屋根から、襲いかかり、警備隊の、陣形を、内側から、切り崩していく。
「くそっ! 上だ! 上に、気をつけろ!」
「ぎゃあっ!」
あちこちで、悲鳴が、上がり、兵士たちが、倒れていく。
その、中心で。
ラナーシャは、ただ一人、その、元凶である、男と、対峙していた。
「…貴方が、ゼル・カイランね」
「……」
ゼルは、何も、答えない。ただ、その、無感情な、瞳で、ラナーシャを、見据え、二本の、毒塗りの短剣を、構える。
二つの、影が、交錯する。
ラナーシャは流麗な、サーベルと、ゼルの、無慈悲な、短剣が、火花を、散らす。
数手打ち合った、剣技は、互角の様だ。
だが、ゼルには、ラナーシャにはない、一つの、武器があった。
それは、「躊躇」の、なさ。
彼は、自らの、体に、傷を負うことも、厭わず、ただ、ひたすらに、ラナーシャの、急所だけを、狙ってくる。
(…強い…! これが、プロの、暗殺者…!)
ラナーシャは、徐々に、追い詰められていく.....。
このままでは、応援が、来る前に、自分が、やられてしまう…!
その、焦りが、彼女の、剣筋を、わずかに、鈍らせる。
その、一瞬の、隙を、ゼル・カイランが、見逃すはずもなかった。
彼の、短剣が、ラナーシャの、肩を、深々と、切り裂いた。
「ぐっ…!」
激痛に、顔を、歪ませながらも後方に飛び跳ね距離を取り膝をつく。
しかしゼル・カイランも追従して来た、そして、もう一つの、短剣が、動けないラナーシャの、喉元へと、迫って来た!
ダメ! 避けられない!!。
ラナーシャが、素手てブロックしようした、その時。
ガギンッ!!!
横から、飛んできた、長大な、ロングソードが、ゼルの、短剣を、弾き飛ばしていた。
「…隊長! 素手で受け止めようなんて無茶ですよ!」
そこに、立っていたのは、副官の、カイ・ロスヴァルトだった。
彼の、後ろには、応援に、駆けつけた、百名の、部下たちが、ずらりと、並んでいた。
「…カイ隊長…。 助かりました、でもこんなに早くたどり着けたなんて、なぜ?」
「貴女が、一人で、突っ込むのが、見えていたんでな。先回り、させてもらったんですよ」
カイは、不敵に、笑った。
ゼル・カイランは、舌打ちすると、音もなく、後方へと、飛び退こうとした。
だが、カイは、それよりも、速かった。
「―――逃がすかッ!! 全隊、包囲せよッ!!」
カイの、号令と共に、応援の、兵士たちが、一斉に、動き出し、ケイオスの、残党たちの、退路を、完全に、断った。
ゼル・カイランは、孤立した。
「…面白い」
彼は、初めて、その、無感情な、瞳に、かすかな、闘志の光を、宿した。「ならば、ここで、貴様ら、全員、灰にしてくれよう」
ゼルと、ラナーシャ、そして、カイ。
三人の、指揮官が、入り乱れる、壮絶な、決戦が、始まった。
ラナーシャの、速く、美しい剣が、ゼルの、注意を引きつけ、その隙を、カイの、重く、力強い剣が、打ち砕く。
二人の、全く、異なる、剣技が、完璧な、連携で、ゼル・カイランを、徐々に、追い詰めていく。
「―――終わりですッ!!」
ラナーシャが、フェイントで、ゼルの、体勢を崩す。
そして、その、がら空きになった、心臓に、カイの、ロングソードが、深々と、突き刺さった。
「…が…はっ…」
ゼル・カイランは、信じられない、という顔で、自らの、胸を、見下ろす。
そして、その体は、足元から、ゆっくりと、灰へと、還っていった。
「カイラン様!!」
主を、失った、【ケイオス】の、残党たちに、もはや、戦う意志は、なかった。
彼らは、次々と、武器を捨て、その場に、膝をつき始める。
ムーメン家が、誇る、最強の、実践部隊は、この夜、ラナーシャと、カイの、見事な、連携の前に、壊滅的打撃を受けたのだ。
夜の闇に、ゼル・カイランの断末魔が溶けて消えた。
彼の肉体を構成していた最後の灰が、血と硝煙の匂いが立ち込める路地で風に攫われると、そこには絶対的な沈黙だけが残された。
主を失った【ケイオス】の残党たちは、まるで魂を抜かれた抜け殻のようだった。その瞳から闘争の光は消え失せ、誰からともなく、持っていた武器が乾いた音を立てて石畳に落ちていく。やがて一人、また一人と、彼らは力なくその場に膝をついた。ムーメン家が誇った実践部隊の一つが、その矜持ごと砕け散った瞬間だった。
すべては、王都守護庁が誇る二人の隊長、ラナーシャ・ヴィスコンティとカイの見事な連携が可能にした奇跡。しかし、その代償もまた、決して小さくはなかった。
「……しかし、何故だ?」
静寂を破ったのは、荒い息を整えていたカイの呟きだった。彼の視線は、ゼル・カイランがいた空間、今はただ虚空が広がる一点に注がれている。
「何故とは、何のことですか、カイ隊長?」
ラナーシャが、己の消耗も隠さずに問い返す。その声には、激戦を潜り抜けた者だけが共有できる、独特の疲労と信頼が滲んでいた。
「いえ……」カイは視線をラナーシャに戻し、わずかに眉を寄せた。「以前奴と手合わせした時、追い詰められたゼル・カイランは、禍々しいクリスタルを握り潰し、人の形を捨てた怪物へと変身した。だが、今回はそれを見せなかった。あれだけの窮地にありながら……」
カイの言葉に、ラナーシャは初めて聞く事実だとでもいうように、わずかに目を見開いた。
「怪物に……? あの報告書の件はあなただったのね。
「そうです。」
だけど、もし本当にそうなっていたら、どうなっていただろう」
ラナーシャは自嘲気味に息を吐くと、部隊の負傷者たちへと視線を巡らせた。
「あれだけの剣技に加え、さらに人外の力まで解放されていたとしたら……今頃、ここに立っているのは我々ではなかったでしょうね。勝利の女神も、偶には気まぐれを起こすということにしときましょうよ」
「……それも、そうですね」
カイは短く応じ、二人の間に束の間の沈黙が流れた。
その静寂を破ったのは、応援部隊の到着を告げる慌ただしい足音だった。レオン隊長が率いる部隊が、現場の確保と事後処理のために駆け付けたのだ。
ラナーシャの表情から、個人の感慨は消えていた。彼女は再び王都守護庁「特別遊撃隊」隊長としての貌に戻り、鋼の意志を宿した声で指示を飛ばす。
「レオン隊長! 投降した【ケイオス】の残党を全員拘束しろ! 一人たりとも逃がすな!」
「カイ隊長は、部隊の負傷者をリストアップし、重傷者は直ちに救護班へ! 我々も手当てを急ぐぞ!」
その命令は、戦いがまだ終わっていないことを、彼ら全員に告げていた。
死闘の熱が冷めやらぬ王都の夜。彼らに、傷を癒し休む暇など、まだ与えられてはいなかった。
【王侯区画・ムーメン家邸宅】
ムーメン家の広大な屋敷、その最奥に位置する当主モローの執務室は、深淵のような静寂に包まれていた。磨き上げられた黒檀の机、壁一面を埋め尽くす革張りの書物、そして暖炉で揺らめく気怠げな炎。その全てが、この部屋の主が持つ揺るぎない権勢を物語っている。
その静寂を、血相を変えて駆け込んできた一人の男が乱暴に引き裂いた。監察部隊【レクナム】に所属する諜報員だった。
「ご、ご報告申し上げます! モロー様!」
男が絞り出した声は、恐怖に上ずっていた。
「【ケイオス】が……ゼル・カイラン様、率いる実践部隊【ケイオス】が、王都守護庁の罠に掛かり、壊滅いたしました!」
報告を聞き終えるや否や、モローの側に控えていた巨漢、”鋼拳”のバルカスが獣のような咆哮をあげた。
「馬鹿なッ! あのゼル・カイランと【ケイオス】が、守護庁の青二才どもに後れを取るだと!? 何かの間違いであろうが!」
怒りに任せて机を叩きつけるバルカス。だが、当主であるモローは微動だにしなかった。彼はただ、ゆっくりと指先で最高級のクリスタルグラスをなぞり、その中に満たされた血のように赤い葡萄酒の揺らめきを見つめている。
やがて、その視線が音もなくバルカスに向けられた。
「……バルカス」
静かな、それでいて室内の空気を凍てつかせるほどに冷たい声だった。
「貴様の預かる部隊が、だ。王国最強を謳いながら、この様は何だ? 些か、自惚れが過ぎたのではないか?」
モローの瞳には、怒りというよりも、出来の悪い駒に対する侮蔑と失望の色が浮かんでいた。その静かな圧に、猛り狂っていたバルカスの巨体がびくりと震える。彼は自らの激情が一瞬で氷解していくのを感じ、慌ててその場に膝をついた。
「も、申し訳ございません、モロー様! この失態、必ずや……!」
「詫びて済む話か」
モローはバルカスの言葉を遮り、グラスを口元へと運んだ。
「お前の失態で、我がムーメン家の牙は抜かれた。ゾンハーグ家との抗争が激化するこの局面で、だ。この意味が、貴様にわかるか?」
その問いは、答えを求めてはいなかった。それは、”鋼拳”の称号を持つ男の存在価値そのものを問う、冷酷な宣告だった。バルカスは顔を蒼白にさせ、ただ頭を垂れることしかできない。
まさにその時、凍り付いた空気を破るように、新たな報告者が執務室の扉を叩いた。先程の男と同じく、【レクナム】の紋章を付けた諜報員だった。彼は主君の前に進み出ると、震える声で信じ難い事実を告げた。
「緊急報告! 先ほど、暗殺団【アウル】の本部が……何者かの襲撃を受け、首領・黒鴉王、並びに四天王全員が討伐され、組織は事実上、壊滅したとの情報が入りました!」
その言葉が執務室の空気を切り裂いた瞬間、時が止まった。
バルカスですら、報告の意味を咀嚼できずに呆然と口を開けている。
だが、最も激しい反応を示したのは、当主モロー・ムーメンその人だった。
「―――今、何と言った?」
地を這うような低い声。先程までの冷徹なまでの静けさが嘘のように、その声には明確な殺意と、信じられないという拒絶が渦巻いていた。手にしていたクリスタルグラスが、ミシリ、と嫌な音を立てる。
報告者は、主君の豹変に全身を強張らせながらも、必死に言葉を繰り返した。
「はっ……【アウル】が、壊滅……首領・黒鴉王も……」
ガシャァンッ!!
報告が終わるより早く、モローの手の中でグラスが粉々に砕け散った。高価な葡萄酒と鮮血が、彼の指の間から滴り落ちる。だが、モローはそんなことには全く構わず、血に濡れた手で報告者の胸ぐらを掴み上げ、その体を宙に吊り上げた。
「戯言を抜かすなァッ!!」
それは、側近であるバルカスやカザンですら、一度も聞いたことのない、激情に満ちた咆哮だった。
「あの御方が! この私を拾い、育て、このロット・ノットの支配者へと押し上げた、あの黒鴉王が! 誰に敗れるというのだッ!! 貴様の目は節穴か! 偽りの報告でこの俺を謀るとは、万死に値する!」
モローの瞳は血走り、冷静沈着な貴族の仮面は完全に剥がれ落ちていた。それは、絶対的な庇護者であり、超えることのできない壁であった「親」を失ったことへの、原始的な恐怖と怒りだった。幼い頃、何者でもなかった自分に力を与え、この世の理を叩き込んだ、唯一無二の存在。その絶対者が滅びるなど、天地がひっくり返ってもあり得ない。あってはならないことだった。
主君のあまりの剣幕に、バルカスは言葉を失い、”百目の”カザンは息を呑んだ。彼らが知るモロー・ムーメンは、常に盤面を俯瞰し、駒を冷徹に動かす支配者だった。これほどまでに感情を爆発させる姿など、想像すらしたことがなかった。
だが、カザンの鋭い思考は、その衝撃の奥で冷徹に働き続けていた。
(黒鴉王を……あの古の化物を、討ち滅ぼすほどの存在……?)
彼の脳裏に、たった一人の男の顔が浮かんでいた。スラムから現れ、ロット・ノットの勢力図を根底から覆しつつある、あの得体の知れぬ男の存在を。
(あの男……ラバァル。とうとう、この領域にまで手を伸ばしたというのか……)
カザンは目を閉じ、これから王都に吹き荒れるであろう破滅的な嵐を予見していた。【ケイオス】の壊滅は、序章に過ぎなかったのだ。
絶対的な後ろ盾を失い、怒りと絶望に我を忘れる主君を横目に、カザンは悟る。
もはや、ムーメン家が安泰でいられる時代は、終わった。それどころか、存続すら危うい、破局の瀬戸際に立たされているのだと。
その背筋を、かつてないほどの冷たい汗が伝っていった。
「戯言を抜かすなァッ!!」
モローの咆哮が、血と葡萄酒の匂いが混じる執務室に響き渡った。その手から滑り落ちた報告者は、咳き込みながら必死に後ずさる。絶対的な見えない後ろ盾であった黒鴉王の死という、受け入れがたい現実に、モローの精神は怒りと絶望の淵を彷徨っていた。
その、誰もが主君の激情に触れることを恐れる凍てついた空気の中、ただ一人、冷静さを失わない男がいた。
”百目の”カザン。
彼は、震える主君の前に静かに進み出ると、揺るぎない声で進言を始めた。
「モロー様。お言葉を返すようですが、報告は真実と受け止めるべきかと」
カザンの声は、激流に打ち込まれた杭のように、その場の感情の渦を無理やり押しとどめた。
「そして、最早、我がムーメン家には武力で事を構える力は残されておりません。【ケイオス】を失った今、我らは牙を抜かれた狼に同じ。そこで……」
カザンは一度言葉を切り、敢えて最も屈辱的な選択肢を口にした。
「直ちに、ゾンハーグ家へ使者を送り、謝罪を。そして和睦を乞わねば、明日にもムーメン家は地図から消えましょう。我らには、もはや敵の侵攻を防ぐ手立てはございません」
「何を腑抜けたことを抜かすか、カザンッ!」
その言葉に、それまで沈黙していた”鋼拳”バルカスが吼えた。主君の怒りを己が怒りとして燃え上がらせ、彼はカザンに掴みかからんばかりの剣幕で詰め寄る。
「この俺がいる限り、ムーメン家は終わらん! ゾンハーグだろうがベルトランだろうが、どこの家が攻めて来ようと、この俺の拳一つで殴り倒し、踏み潰してくれるわ!」
その言葉には、己の武力に対する絶対の自信が漲っていた。だが、カザンの目は冷ややかだった。
「”鋼拳”バルカス。貴殿一人の武が、天を衝くほどのものであることは認めよう。だが、貴殿は百人、二百人と押し寄せる兵を相手にしながら、敵将の首を掻けるというか? 仮にそれが出来たとして、貴殿が無事で済むと?」
カザンの言葉は、熱に浮かされたバルカスの思考に冷水を浴びせかける。
「好機と見たハイエナ共は、もはやゾンハーグ家だけではあるまい。我らが弱ったと見るや、これまで息を潜めていた全ての家が、我らの肉を喰らい尽くさんと一斉に襲い掛かってくるのだ。貴殿の拳は、その全ての牙を防ぎきれるのか?」
「ぐっ……!」
バルカスは言葉に詰まる。彼の誇る武勇も、国家間の戦争という巨大なうねりの前では、あまりに無力だった。
執務室に、再び重苦しい沈黙が落ちる。全ての視線が、血に濡れた拳を握りしめ、俯く当主モローに注がれた。
親同然であった黒鴉王から叩き込まれたのは、弱肉強食の理。強者が弱者を喰らう、ただそれだけの世界の法則。その教えに従うならば、今ここで敵に頭を垂れるなど、自らの存在意義を否定するに等しい。
だが、カザンの言うこともまた、冷徹な事実だった。
カザンは、葛藤に身を震わせる主君の前に深く頭を垂れ、静かに、しかし有無を言わさぬ響きで最後通牒を突きつけた。
「モロー様。プライドか、家の存続か……ご決断を」
「ご決断を」
カザンの静かな、しかし刃のように鋭い言葉が、モローの心臓に突き刺さった。
その瞬間、モローの脳裏を稲妻のように駆け巡ったのは、これまで積み上げてきた全てのものだった。スラムの泥濘から這い上がり、【アウル】という強力な後ろ盾を背景に、このロット・ノットで貴族の地位を築き上げた。それは全て、始まりに過ぎなかったはずだ。
(この俺が……こんな途中で終わると言うのか……?)
モローの全身が、屈辱と怒りに打ち震えた。
ロット・ノットを完全に掌握し、腐敗したラガン王国そのものを喰らい尽くす。この国を、この俺の王国へと作り変える。その壮大な野望のために、血を流し、裏切り、全てを捧げてきたというのに。
(どうだ、この様は……)
絶対の信頼を置いていた暗殺団【アウル】は壊滅。ムーメン家最強と信じていた実践部隊【ケイオス】もまた、一夜にして藻屑と消えた。戦力は、もはや無きに等しい。この情報は、隠しようもなく瞬く間にロット・ノット中を駆け巡るだろう。
現在、かろうじて手を握っているベルトラン家も、明日には手のひらを返すに違いない。あの抜け目のない男が、沈みゆく船にいつまでも乗っているはずがなかった。そうなれば、我らは完全に孤立無援となる。
(ダメだ……勝ち目など、万に一つもない)
思考がカザンに追いつき、絶望的な結論へとたどり着く。
では、どうする? カザンの言う通り、エリサ・ゾンハーグに頭を垂れ、謝罪するか?
(……いや、不可能だ)
モローの脳裏に、あの老獪な女当主の、蛇のように執念深い瞳が浮かんだ。あれだけの血を流させ、彼女のプライドをズタズタに引き裂いた相手を、あのエリサが決して許すはずがない。和睦を申し出たところで、それはただ無防備に首を差し出すのと同じことだ。
ならば、と別の選択肢を探す。
マクシム・デュラーン……奴に助けを乞うか?
(いや、ダメだ。奴だけは……)
モローは本能的にその選択を拒絶した。あの男の瞳の奥には、底の知れない闇が渦巻いている。奴と関わることは、虎の檻から逃れるために、龍の巣に飛び込むようなものだ。理由はわからない。だが、魂がそう警告していた。
それでは、どこへ?
ベスウォール家など論外。スタート・ベルグ家も同じこと。もはや、このロット・ノットにムーメン家と手を結ぶ者など、どこにもいやしない。
思考の迷宮を彷徨った末、モローは再び、最初の絶望的な結論へと引き戻された。
(あの婆ぁに……エリサ・ゾンハーグに、莫大な賠償金を支払い、屈辱に耐えて傘下に組み込んでもらう……)
それしか、生き残る道はないというのか。
この俺が、あの女の下で、犬として生きろと?
その考えに至った瞬間、モローの口から乾いた笑いが漏れた。それは、己の運命を嘲笑うかのような、虚ろな響きだった。
ああ、終わったのだ。
ムーメン家の野望は、今夜、完全に潰えた。
暖炉の火が弱まり、執務室の影がより一層濃くなる。その闇の中で、モローははっきりと未来を見た。弱った獲物の匂いを嗅ぎつけたハイエナたちが、四方八方から集い、牙を剥き、生きたままその肉を喰い千切ろうとしている。そんな未来しか、もはや残されてはいなかった。
朝靄がまだロット・ノットの街路を覆っている時間だというのに、その凶報は風よりも速く貴族たちの屋敷を駆け巡った。
王都守護庁の特別遊撃隊が、ムーメン家が誇る実践部隊【ケイオス】を奇襲、これを壊滅せしめた。そして、”鋼拳”バルカスの懐刀とまで言われた『灰の処理人』ゼル・カイランは、その名の通り、塵ひとつ残さず灰にされた、と。
「あの愚か者めがッ! 何をやっておるのだ、モローの奴!」
ベルトラン家当主、ローラン・ベルトラン(60)は、自室で怒りに任せて高価な磁器を床に叩きつけていた。精緻な絵付けが施されたそれは、無残な音を立てて砕け散る。
彼にとって、ムーメン家とはゾンハーグ家という巨大な脅威と戦うため、矢面に立たせた**「剣」**そのものであった。厄介な敵との正面衝突をムーメン家に押し付け、自分は比較的安全な場所から漁夫の利を得る。そのための同盟だったのだ。
その剣が、突然、一夜にして、根元から叩き折られてしまったのだ。 こんな馬鹿な..,。
「これでは、次にゾンハーグの牙が剥かれるのは我らではないか! あのディオール家の残党どもと小競り合いを演じている場合ではなかったのだ! 今度は、こっちの身が危ういではないか!」
ローランは頭を掻きむしり、自らの判断の甘さを呪った。ゾンハーグ家という虎の尻尾を踏みつけ、ムーメン家との協定を優先してしまった。もはや手遅れ。蜘蛛の巣に絡め取られた蝶のように、ただ破滅を待つしかないのか。彼は即刻、ムーメン家との関係を断ち切ることを決意したが、それがもはや何の慰めにもならないことを、誰よりも理解していた。
まさに、ローランが今後の身の振り方を思案し、絶望に頭を抱えていたその時だった。
「大変です、ローラン様!」
側近が、扉を叩くのももどかしく、息を切らして部屋に転がり込んできた。
だが、ローランは顔も上げない。
「……フン。今のこの状況より、大変なことなどあるものか」
彼の頭は、どうやってエリサ・ゾンハーグの報復から逃れるか、そのことで完全に飽和していた。
しかし、側近の様子は尋常ではなかった。彼は震える手で、密偵から受け取ったばかりの小さな羊皮紙を差し出した。
「そ、それが……密偵からの緊急連絡にございます! 暗殺団【アウル】が……」
「アウルがどうした?」
ローランは億劫そうに聞き返す。どうせ、どこぞの貴族か商人がまた消されたという、ありふれた闇の報告だろう、と。
だが、側近が絞り出した言葉は、ローランの想像を遥かに、そして常識さえも超越していた。
「【アウル】が……壊滅したとの報告が、たった今!」
「…………」
側近の言葉が、まるで遠い異国の言葉のように聞こえた。ローランはゆっくりと顔を上げ、何を言われたのか理解できない、という表情で側近を見つめた。
「……だから、アウルがどうしたのだと聞いている」
その虚ろな問いに、側近は主君のすぐ側まで駆け寄り、はっきりと、そして絶望的な響きを込めて繰り返した。
「壊滅です! あの暗黒の巨塔、古の暗殺団アウルが、壊滅したとのことでございます!」
一瞬の、完全な沈黙。
ローランの脳が、ようやくその言葉の意味を理解し、受け入れた。
ありえない。
あってはならない。
世界の理が、根底から覆るような、絶対的な事実。
次の瞬間、ローランの口から、もはや悲鳴とも絶叫ともつかない声がほとばしった。
「な……なんだとぉぉぉぉぉぉーーーーーっ!!」
その声は、ベルトラン家の屋敷中に響き渡り、これから訪れるであろう破滅の時代の到来を告げる、不吉な序曲となっていた。
夜が明け、東の空が乳白色に染まり始めた頃。ロット・ノットの闇が一掃されるかのように、ゾンハーグ家の屋敷には一条の光が差し込んでいた。
それは、宰相アルメドラから直々に遣わされた密使がもたらした、まさに吉報という名の光だった。
当主エリサ・ゾンハーグは、夜着の上に豪華なガウンを羽織っただけの姿で、その封蝋も真新しい密書を受け取った。彼女の周囲に侍る執事や侍女たちは、主君の纏う夜通しの緊張感が、今この瞬間に最高潮に達しているのを肌で感じ、固唾を飲んで見守っている。
エリサの、年輪を重ねてもなお美しい指先が、僅かな焦燥を滲ませながらも優雅に封を切る。その瞳が、羊皮紙に走るインクの文字を捉えた瞬間――彼女の時間が、止まった。
『ゼル・カイラン、討滅』
『ムーメン家実践部隊【ケイオス】、此を以て、壊滅』
短い、しかし何よりも雄弁な勝利の報告。
次の瞬間、屋敷中の誰もが見たことのない光景が繰り広げられた。
「まぁ……!」
エリサの口から、歓喜とも驚愕ともつかない吐息が漏れた。
「やってくれたのですね……! 本当に……!」
その言葉と共に、エリサは握りしめた密書を天に掲げ、まるで少女のように、力強く拳を握りしめたのだ。いわゆる、ガッツポーズというものだった。
常に冷静沈着、氷の仮面を決して崩すことのなかった女当主の、あまりにも人間的で、あまりにも無防備な歓喜の姿。
その場にいた執事や侍女たちは、まるで幻でも見たかのように目を丸くし、息を呑んだ。時間が止まったかのような沈黙が、部屋を支配する。
侍女の一人が、思わず手にしていたティーカップを落としそうになり、か細い悲鳴を上げたことで、エリサははっと我に返った。
「……まぁ、わたくとしたことが」
エリサは一つ咳払いをすると、頬を微かに赤らめ、取り繕うようにガウンを合わせ直した。
「皆の前で、はしたないところをお見せしましたわね」
いつもなら、この失態に厳しい叱責が飛ぶところだろう。だが、今日の主君は違った。その声には怒りの棘など微塵もなく、むしろ心地よい上機嫌な響きさえ感じられる。
エリサは、砕け散ったムーメン家の野望を祝うかのように、窓から差し込む朝日に目を細めると、優雅な微笑みを浮かべて言った。
「さあ、皆。わたくしのために、とっておきの紅茶を入れてちょうだい。今日は、素晴らしい一日の始まりになりそうですわ」
それは、ゾンハーグ家の反撃の狼煙を告げる、勝利の朝のティータイムの始まりだった。
最期まで読んでいただきありがとう、またつづきを見掛けたらまた読んでみてださい




