ラナーシャとラバァル
開拓地から戻ったラバァルは、ベルコンスタンを含めた幹部たちに、発破を掛けた、安穏としてると、下部組織に転落もあり得るといったのだ、その言葉に、抵抗するかの様に、ベルコンスタンは耐えていたが、
やはり、心の中の動揺は隠しきれずにいた、執務室の外で話を聞いていた、幹部の二人、ボルコフとロメールは、情けない姿を晒していた、そんな二人に、ラバァルは......。
その139
【シュガーボム、執務室からバーへ】
執務室を出る前、ラバァルは、最後の指示として、ベルコンスタンに、釘を刺した。
「そうだ、ベルコンスタン。お前に、新たな仕事をやる。今、起きている、ゾンハーグ家とムーメン家の抗争。その、一つ一つの戦いの手法を、詳しく調べ、分析しろ。いいな、今回は、大雑把な報告では、役に立たん、詳細が必要になる」
その、静かだが、有無を言わせぬ命令に、ベルコンスタンは、背筋を伸ばし、深く、頷いた。
ラバァルが、扉の外へ出ると、そこには、ボルコフとロメールが、まるで石像のように、頭を下げたまま、佇んでいた。
「いつまで、そうしているつもりだ。落ち込んでいる暇など、ないぞ」
ラバァルの言葉に、二人は、はっと、顔を上げた。
「お前たちは、これから、スラムの東地区へ行け。そこにいる、テレサという司祭の元を訪ね、『ラバァルに言われた』と伝えろ。そうすれば、お前たちのその無様な顔も、足も、すぐに、治してくれるだろう。…さっさと行って、動ける体になってこい」
その、思いがけない、温情とも言える命令に、二人は、言葉を失った。そして、ラバァルが去っていく、その後ろ姿を、深々と、見送った。彼らは、ここにいない、今もベッドで呻いている、クロードのことも、連れて行こうと、心に決めていた。
ラバァルは、そのまま、バーのカウンターへと向かい、いつもの隅の席に、腰を下ろした。
「お久しぶりですね、ラバァルさん」
バーテンダーのハウンドが、声をかけながら、グラスに、琥珀色の液体を注ぐ。
「どうだ、儲かっているか?」
「ええ、おかげさまで」ハウンドは、声を潜めた。「二大勢力が、派手にやり合ってくれているおかげで、中立の『安全地帯』である、うちに、流れてくる客が増えましてね。酒の消費量は、以前の、二割増しになっているんですよ」
「ほう…」
(…漁夫の利、か。悪くない)
ラバァルは、グラスを傾けた。「それで、最近、面白い噂話は、何かあるか?」
そこから、ハウンドの口を通して、ロット・ノットの、生々しい、裏の情報が、次々と、ラバァルの耳へと、流れ込んでいった。どの家の、どの傘下組織が潰されたか。誰が、誰を裏切ったか。そして、新たに、頭角を現し始めた、チンピラたちの名前…。
それらは、ベルコンスタンが上げる、公式の報告書には、決して、載ることのない、泥臭いが、重要な情報だった。
「おっと、失礼。あちらの、上客がお呼びのようだ」
「ああ、行ってやれ」
ハウンドが去ると、ラバァルは、一人、酒を喉に流し込んだ。
久しぶりの、安らぎの時間。だが、それは、長くは続かない。彼は、グラスを空にすると、静かに、席を立った。
自室に戻り、数時間、仮眠を取っただろうか。
ラバァルが、むくりと起き上がった時、窓の外は、まだ、深い闇に包まれていた。眠りについたのは早かったせいか、まだ、夜半過ぎといったところだろう。
昼間の喧騒と、久しぶりに飲んだ酒。
その、浅い眠りの中で、彼の脳裏に、ふと、一つの顔が浮かんだ。
銀色の髪、誇り高い瞳。
ラナーシャ。
(…そういえば、あいつ…)
そこで、ラバァルは、はたと気づいた。
クレセントの一件で、彼女には、世話になった。それなのに、自分は、その後、何の連絡も入れずに、開拓団を率いて、一年近くも、ロット・ノットを留すにしていたのだ。
(…あいつのことだ。別に、気にはしていないだろうが…)
あの、気位の高い女騎士のことだ。今頃、自分のことなど、忘れて、日々の任務に、邁進しているに違いない。
そう、頭では分かっている。分かっているのに、なぜか、胸の奥に、小さな棘が刺さったような、奇妙な感覚が、残っていた。
ぐるぐると、普段は、決してしないような、釈然としない思いを、頭の中で巡らせているうちに、ラバァルの眠気は、完全に、吹き飛んでいた。
もはや、彼に、二度寝という選択肢はなかった。
彼は、音もなく、ベッドから抜け出すと、そのまま、夜の闇に紛れ、新市街の、先ほど思い出した、目的地へと、その歩みを進めていった。
理由など、ない。
ただ、その顔を、一目、見ておきたくなった。
ただ、それだけだった。
【新市街、マレリーナの雑貨店前、深夜】
雑貨店の前にたどり着いたラバァルは、静まり返った夜の闇の中、建物を見上げた。表から入るわけにはいかない。彼は、建物の側面へと回り込むと、二階にある、一つの窓を見つけた。おそらく、あそこが、彼女の部屋だろう。
ラバァルは、足元から、手頃な大きさの極小石を拾うと、それを指で、弾いた。
コツン、と。乾いた音が、静寂に響く。
幾度か、それを繰り返した、その時。
ようやく、窓が、わずかに開かれ、寝間着姿のラナーシャが、訝しげに、顔を覗かせた。
その瞬間を、ラバァルは見逃さない。
彼は、地面を蹴った。
壁を、まるで階段でも駆け上がるかのように、ぴょん、ぴょん、と跳躍すると、ラナーシャが悲鳴を上げるよりも早く、その体を、部屋の内側へと、押し倒していた。
突然の襲撃者に、ラナーシャは、すぐさま反撃しようと、その身を捻る。だが、その耳元で、聞き覚えのある、低い声が、囁いた。
「――静かにしろ。俺だ」
「…ラバァル…!? あなた、こんな夜更けに、窓から侵入するなんて、一体、何を考えているのですか!」
「声がでかい。叔母御が、起きるぞ」
その指摘に、ラナーシャは、はっと、口を噤んだ。
「…すまん。一年近く、留守にしていたからな。八時間ほど前に、ロット・ノットへ、戻ってきたところだ」
「また、どこかへ、出かけていたのですか…?」
「ああ。食料事情を、少しばかり、改善するためにな」
ラバァルは、そう言うと、自分たちの、あまりに近い距離を、利用した。彼は、ラナーシャを、そのままベッドへと運ぶと、その寝間着の、胸元へと、手を滑り込ませる。
「ちょっ…何を…」
「いいだろう。久しぶりなんだ」
その、有無を言わせぬ、しかし、どこか焦がれるような声に、ラナーシャの抵抗は、力を失った。彼女は、この一年間、溜め込んでいた、彼への想いを、ただ、その身に、受け入れていた。
【一時間後】
熱が、引いていく。二人は、ベッドに横たわり、静かに、言葉を交わしていた。
「…まだ、この店を、手伝っていたのか?」
「ええ。謹慎は、まだ、解かれていませんから。もう、私のことなど、忘れられてしまったのかもしれません」
その、自嘲気味な言葉に、ラバァルは、鼻で笑った。
「ふん。そろそろ、だと思っていたところだ。まあ、良い。俺が、聞きに行ってやる」
「えっ…? 聞きにって、何処、誰に、ですの…?」
「お前が知りたいなら、一緒についてくるか?」
その、思いがけない提案に、ラナーシャの目が、見開かれた。「よろしいのですか?」
「ああ。お前の、問題でもあるんだからな」
その言葉に、ラナーシャは、ふと、思い出したように、尋ねた。
「…そういえば、随分前の事です、保養施設へ行った時の事を思い出しました、受付の方に、少し、冷たくされてしまいましたわ。きっと、あなたが、何か、なさったのでしょう?」
「んっ? ああ、あれか。別に、何も。ただ、クレセントを、姉と暮らさせるために、連れて帰っただけだ」
「えっ…? 姉、というと、テレサさんと言ってた、方? あの方は、ゾンハーグ家に、捕らえられていたと…」
「そうだ。だから、力づくで、取り返してきた」
「―――え?」
信じられない、という顔で、ラナーシャは、ベッドから上半身を起こし、ラバァルを見つめた。
「…そんなことが、できるなんて…。あなた、一体、何者なのですか…?」
「俺は、ラバァル」彼は、静かに、しかし、確信を込めて言った。「この国を、裏側から、立て直そうとしている男だ」
「裏側から…? なぜ…?」
「ふん。その方が、面白いだろう?」
ラバァルは、いつものように、はぐらかしてしまった。
だが、ラナーシャは、もはや、それ以上、問わなかった。彼女は、ラバァルの、そのたくましい腕に、しがみつくと、懇願するように、見上げた。
「…私が、いつか、ゾンハーグ家と、本気で戦えるようになった時。その時は、私に、力を貸してくださいますか?」
「…そのつもりだ」
ラバァルの、短い、しかし、力強い答えに、ラナーシャは、安堵したように、微笑んだ。
そして、自ら、彼の唇に、唇を重ねる、すると、二人の体は、再び、熱く、絡み合い始めたのだ。
【マレリーナの雑貨店、翌朝】
ラバァルが、深い眠りから覚めた時、窓の外は、すでに、明るい日差しに満ちていた。
ラバァルが、ゆっくりと身を起こすと、隣にいたはずのラナーシャの姿は、もうなかった。代わりに、階下から、トントン、と、小気味の良い、包丁の音が聞こえてくる。
しばらくして、部屋の扉が、そっと開かれた。
「…ラバァル。朝食の用意が、できたわ。下に、降りてきて」
寝間着の上に、エプロンをつけた、昨夜とは、全く違う、家庭的な姿のラナーシャが、少し照れくさそうに、そう言った。
「…そうか。分かった」
ラバァルは、のそのそと、ベッドから抜け出すと、そのまま、一階へと降りていった。
「洗面所は、こっちよ」
ラナーシャに、洗面用具を手渡され、言われるがままに、顔を洗う。冷たい水が、まだ、少し残っていた、昨夜の熱を、心地よく、冷ましてくれた。
さっぱりとしたラバァルが、台所の隣にある、小さな食堂へと入ると、そこには、湯気の立つ、温かい朝食が、すでに用意されていた。そして、満面の笑みを浮かべた、叔母のマレリーナが、彼を迎えた。
「まぁまぁ、ラバァルさん! お久しぶりね!」
マレリーナは、ラバァルの隣に、腰を下ろすと、声を潜めて、囁いた。
「暫く、顔を見せないものだから、この子も、随分と、心配しておりましたのよ? 毎晩、溜息ばかり、ついて」
「叔母様!」
台所から、ラナーシャの、慌てたような声が、飛んでくる。
「うむ…」ラバァルは、少し、気まずそうに、頭を掻いた。「少し、ロット・ノットを、離れていたものでな。すまん」
その、素直な謝罪の言葉に、マレリーナは、満足げに、頷いた。
「まぁ、そうだったのね! さあさあ! この朝食、この子が、貴方のために、一生懸命、作ったのよ! ぜひ、味見してあげてちょうだい! それと、遠慮は、いらないわ。味付けの好みとか、どんどん、言ってあげて。ね?」
マレリーナは、ラバァルに、ウィンクしてみせた。
ラバァルは、早速、その手料理を、口に運んだ。
そして、そのまま、無言で、一心不乱に、食べ続けた。
あっという間に、皿の上は、空になっていた。
「…うむ。旨かった」
何の、飾り気もない、ただ、それだけの、感想。ラバァルは、本当に、美味しいと、思ったからだ。
だが、その、あまりに素っ気ない感想は、マレリーナにとっては、不満だったようだ。
「まあ…! 『旨かった』だけですって…! これは、まだまだ、修行が足りないようですわね、ラナーシャ!」
マレリーナは、台所に向かって、檄を飛ばす。
「もっと、ラバァルさんの、胃袋を、掴めるように、料理の特訓ですわよ!」
その言葉に、ラナーシャは、困ったように、溜息をついた。
(…料理よりも、剣の腕を、磨きたいのですけれど…)
そんな、彼女の心の声など、全く、お構いなしに。
ラバァルと、マレリーナは、二杯目のコーヒーを、楽しんでいた。
そこには、まるで、本当の家族のような、穏やかで、温かい朝の時間が、流れていた。
【ロット・ノット、王宮街道】
穏やかな朝食の後。
「叔母様、少し、散歩に行ってまいります」
「あら、いってらっしゃい。二人で、ゆっくりしてくるのよ」
マレリーナの、温かい見送りを受け、ラバァルとラナーシャは、二人、王宮へと続く、石畳の坂道を、並んで、登り始めた。
途中、上流階級区画へと入る、検問所を通りかかる。
ラナーシャにとっては、かつて、毎日、通っていた、懐かしい場所だ。
彼女が、王国警備隊から、今の隊へと、移籍してから、すでに二年近い月日が流れている。知っている顔も、ずいぶんと、少なくなっていた。
だが、隊長格の男が、ラナーシャの姿を認めると、はっとしたように、背筋を伸ばし、完璧な敬礼を見せた。
「――ラナーシャ元隊長殿! お久しぶりでございます!」
その声に、他の若い隊員たちも、慌てて、それに倣う。
ラバァルは、その光景を、腕を組み、面白そうに、眺めていた。
ラナーシャは、少し、照れくさそうにしながらも、かつての部下たちに、凛とした声で、応えた。
「ええ、久しぶりね。皆、変わりなく、任務に励んでいるようで、何よりです」
「はっ!」
彼らは、深い敬意を込めて、二人のために、道を開けた。
検問所を通り過ぎてから、ラバァルが、ニヤニヤしながら、言った。
「たいした人気だな、隊長殿は」
「…ふふっ。『元』よ。もう、過去の話。今の私は、ただの雑貨屋の店番です」
ラナーシャは、そう言って、笑った。その横顔に、ラバァルは、気づかれないように、薄い笑いを浮かべていた。(そうしてられるのも、もう終わりになるだろう。)
そして、彼らが、たどり着いたのは、あの、壮麗な屋敷。
【スタート・ベルグ家】の、門前だった。
ラバァルは、何のためらいもなく、門を叩き、出てきた門番に、名を告げる。
その、あまりに堂々とした態度に、ラナーシャは、内心、冷や汗をかいていた。
(…スタート・ベルグ家…! 評議会の、筆頭名家じゃない…! いったい、彼は、ここに、何の用…!?)
だが、そこで、彼女は、思い出した。
初めて、ラバァルに会った、あの宮廷の門の前。彼は、確か、あのアンドレアス将軍と共に、いたはずだ。
(…そう。将軍の、ルートで、繋がりが…)
彼女が、そこまで考えた、その時。
隣のラバァルが、前を向いたまま、ぽつりと、呟いた。
「――お前の、思った通りだ」
「えっ…!?」
(…読まれた…!? この人、私の考えを、読んだというの…!?)
「お前の顔と、気は、分かりやすい」
「うそっ! また…!」
ラナーシャは、あまりのことに、おたおたと、狼狽えるしかなかった。
その、どこか、微笑ましい二人の前に、屋敷の執事が、現れた。
「ラバァル様、お待たせしました。応接室へどうぞ、こちらです」
執事に、恭しく、促され、二人は、屋敷の中へと、足を踏み入れていった。
ラナーシャは、これから、何が始まるのか、全く、想像もつかないままに。
【スタート・ベルグ家、応接室】
ラバァルとラナーシャが応接室に通され、待っていると、程なくして、ジョンとアンドレアス将軍が、同時に、姿を現した。
「ふっふっふ。久しぶりじゃな、ラバァル殿。計画は、順調のようじゃな」
「お久しぶりです、ジョン殿。ええ、まあ、あちらの方は。ですが、スラム南地区で、色々と、問題が起きているようでして。この後、直接、見に行くつもりです」
「ふむ。まあ、お主なら、何とかするであろう。心配はしておらんよ」
ジョンの言葉に区切りがつくと、アンドレアス将軍が、鷹のような目で、ラナーシャを見据えた。
「…帰ってきたか、ラバァルよ。して、今日は、二人揃って、どうした? こちらの、背筋の伸びた、美しい騎士殿は?」
「ええ。もう、ご存知でしょうが、こちらが、ラナーシャです」
その紹介に、ジョンと将軍は、「おお、そうであったか」と、わざとらしく、少し驚いたような、表情を見せた。
その反応を見て、ラナーシャは、全てを悟った。
(…この方たちは、私のことを、知っている…!)
あの、廃教会での、絶望的な戦い。その裏で、動いていた、見えざる手。その全てが、この、偉大な二人の、差配によるものだったのだと。
その、ラナーシャの思考を、ジョンが、肯定した。
「その通りじゃよ、ラナーシャ嬢。お主のことは、こちらのラバァル殿から、色々と、頼まれておっての。裏から手を回したこと、気分を害したのであれば、謝ろう。だが、あれが、最善の方法だったのじゃ」
その、温かい言葉に、ラナーシャは、深々と、頭を下げた。
「いえ…。皆様のおかげで、助かった命が、多くあります。あのままでは、私も、死んでいたことでしょう。何も知らず、一人で突進し、皆様に、多大なご迷惑をおかけしたこと、どうか、お許しください…!」
その、痛々しいほどの、謝罪に、アンドレアス将軍が、豪快に、笑い飛ばした。
「はっはっはっ! 若い指揮官が、何を言うか! それくらいの気概がなければ、何も、壊せはせんし、何も、知ることは、できなんだ! あの戦いで、確かに、犠牲は出た。だが、長い目で見れば、その犠牲は、決して、無駄にはならん。この経験を、次に、繋げるのじゃ!」
その、あまりに寛大な言葉に、ラナーシャは、思わず、目に涙を浮かべた。
「…えっほん。何を、格好つけてるんですか、将軍」
その、感動的な空気を、ラバァルが、ぶち壊した。「甘やかさないで、いただきたい」
「うぉっほっほっ!」
将軍は、ただ、笑うだけだった。
そしてラバァルは、本題を切り出す。
「それで、ジョン殿。ラナーシャは、いつ、復帰できる?」
その、単刀直入な問いに、ジョンは、頷いた。
「うむ。まさか、本人を連れて来るとは、思わなかったがな。…すでに、考えてある。向こうにも、一通り話は通してあるのじゃが、まだ正式にまでは行っておらん。」
その言葉に、ラバァルとラナーシャは、思わず、身を乗り出した。
「彼女は、もう、王宮警備隊へは、戻れん」
「何ですって!?」
「まあ、待ちなさい」ジョンは、慌てる二人を、手で制した。「そこで、この際、王国近衛騎士団へ、と思い、カルタス殿に、相談したのじゃがな。彼曰く、『彼女の器は、王宮よりも、もっと広い場所でこそ、輝く』と。…王都守護庁の長、イーシス殿の元へ、預けるのが、最善だろう、と、進言があっての」
「王都守護庁…!」
その名を、ラナーシャは知っていた。王宮以外の、王都を含む周辺全体の治安を司る、巨大な組織。そして、その長であるイーシスは、鉄の女と噂される、非常に厳しい人物だと。
「…はい。雇っていただけるのであれば…」
その、少し弱気な返事に、ラバァルが、横槍を入れた。
「何、言ってやがる。そんな役人、顎で使ってやれ」
そして、彼は、ジョンに向き直る。
「ジョン殿。そのイーシスという人物に、俺が、直接、会いに行っても?」
「ラ、ラバァル! いくら何でも、それは無茶よ!」
ラナーシャが、慌てて止めようとするが、アンドレアス将軍が、面白そうに、それに乗った。
「おお、それは、良い! 早速、ジョン殿に、紹介状を書いてもらい、それを持って、行ってくるが良いわ、ラバァル!」
ジョンは、顎に手を当て、少し、考え込んだ。
「ふむ…。確かに、すでに、カルタス殿を経由して、ある程度の話は、通してはおるのじゃがな…」
彼は、ラバァルを、値踏みするように、じっと見つめた。
「…それに、あの手の、筋金入りの役人というものは、どの派閥にも属さぬ代わりに、何よりも、中立を保つことを、優先するからのう。下手に、儂のような者が、圧力をかければ、逆に、心を閉ざしかねん」
そして、彼は、ニヤリと、笑った。
「…お主のような、常識の枠に、全く、収まらぬ人間が、直接、ぶつかっていった方が、あるいは、話が早いかもしれんな」
ジョンは、乗り気だった。自分が、どうここから攻め落とすか、何度か、シミュレーションをしていたが、この、規格外の男に、後の事は、任せてみるのも、面白い、と。
「少し、待っていてくれ。すぐに、紹介状を、書いてくる」
そう言うと、ジョンが、部屋を出ていく。その背中を見送りながら、ラナーシャは、まるで嵐の中にいるかのような、感覚に襲われていた。
今まで、知らなかった。自分の知らないところで、これほど多くの、偉大な人々が、自分のことを案じ、そして、自分の未来を、真剣に、考えてくれていたなんて。
謹慎を言い渡された、あの日から、止まってしまっていたはずの、自分の時間が。今、目の前の、この規格外の男によって、とんでもない速度で、再び、動き出している。
その、あまりの展開の速さに、ラナーシャは、不安と、そして、新たな道への、確かな期待を感じながら、ただ、呆然と、立ち尽くすしかなかった。
【スタート・ベルグ家、応接室】
ジョンが、紹介状を書きに、席を外している間。
ラバァルは、アンドレアス将軍に、ずっと、気になっていたことを、尋ねた。
「…将軍。以前、耳にした、政治犯収容施設『サイオン』の件ですが。貴方と、ジョン殿を、そこに送り込もうとしていた、連中の動きは、今、どうなっています?」
その問いに、将軍の、穏やかだった目が、一瞬、鋭さを増した。
「…うむ。宮廷内の、パワーバランスは、今、奇妙な形で、小康状態を保っておる」
彼は、指を折りながら、説明を始めた。
「評議会の票は、こうじゃ。我らに与する、スタート・ベルグ家と、ベスウォール家で、二。ゾンハーグ家が、単独で、一。手を組んだ、ムーメン家とベルトラン家で、二。そして、中立を標榜する、デュラーン家とディオール家で、二。…我々にとっては、動きやすいが、国にとっては、決して、良い状況とは言えんのだ」
その、ギリギリの均衡の上に、今のロット・ノットの、平穏が成り立っている。
ラバァルは、その危うい構図を、頭に叩き込んだ。
そこへ、ジョンが、封蝋された、一通の紹介状を手に、戻ってきた。
「待たせたな。これが、イーシス殿への、紹介状じゃ」
彼は、それを、ラナーシャへと、手渡した。
「ただし、先ほども、言うたがな。彼女は、筋金入りの役人。この紙切れ一枚で、お主を、優遇したりは、せんぞ。門戸は開いてくれるだろうが、そこから、上に昇れるかどうかは、お主の実力次第じゃ」
「はい! もちろん、承知しております!」
ラナーシャは、その紹介状を、両手で、恭しく受け取ると、深く、深く、頭を下げた。「ジョン様、このご恩は、決して、忘れません…!」
「はっはっは、何を言うか」ジョンは、優しく、笑った。「イーシス殿が、噂通りの切れ者ならば、お主の実力など、一目で見抜くはず。何も、心配することはないぞ、ラナーシャ嬢」
「…はい。お気遣い、痛み入ります…!」
あまりに、感謝の念が強すぎたのか、ラナーシャは、中々、頭を上げようとしなかった。
その、健気な姿に、ラバァルが、呆れたように、割って入った。
「おい、いつまで、頭を下げているつもりだ。そんなに、感謝されたら、ジョン殿も、居心地が悪いだろうが。行くぞ」
その、不器用な、指摘に、ラナーシャも、はっと、顔を上げた。そして、ジョンの目を、真っ直ぐに見つめ、もう一度、軽く、お辞儀をした。
「よし。もう、いいだろう。行くぞ、ラナーシャ」
ラバァルが、彼女の腕を取り、外へと連れ出そうとした、その時。
「待たれよ、ラバァル殿」ジョンが、笑いをこらえながら、言った。「…お主、王都守護庁が、どこにあるか、知っておるのか?」
その、的確な指摘に、ラバァルは、ぴたりと、足を止めた。
「…そういえば、どこにあるのですか?」
「王宮内の、外周路を、東へ進めば、すぐに、案内板があるはずじゃ」
「外周を、東…。分かりました。では、行ってまいります」
ラバァルは、それだけ言うと、今度こそ、ラナーシャを連れ、応接室を、後にして行った。
その、慌ただしい背中を見送りながら、ジョンは、楽しそうに、呟いた。
「ふふふっ。本当に、せっかちな男じゃな」
「だが、だからこそ、物事が、早く進むのでしょうな、ジョン殿」
アンドレアス将軍が、満足げに、応える。
「うむ。あやつらを見ていると、儂らも、負けてはおれんと思うが…」
ジョンは、立ち上がろうとして、思わず、腰を押さえた。「…おっと、あたたたた…! 腰が…!」
「ぶっはっはっはっ! だから、無理は、するなと、言うたのに!」
二人の老練な重鎮は、顔を見合わせ、声を上げて、笑った。
彼らは、その身が、動けなくなったとしても、未来を託すに値する、若者たちを、心から、応援していた。
最期まで読んで下さりありがとう、引き続き次を見掛けたらまた読んでみて下さい。




