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王都知識院

ラガン王国の痩せた土壌に、新たな秩序の種を蒔く。ラバァルが次に打つ手は、自らの手で食料を生み出す「開拓団」の編成だった。しかし、ただ腕力のある者を集めても、荒れ地は決して楽園にはならない。真に必要なのは、鍬を握る腕っぷしよりも、種を蒔く時期を知る知識、水を引く知恵、そして、人を束ねるための思考力だ。

ラバァルは、スラム南地区の混沌へと目を向けた。そして、自らに付き従う子供たち――タロッチやファングたちに、新たな指令を下す。

「ただの人集めじゃない。ダイヤモンドの原石を探せ。この瓦礫の山の中から、未来を切り拓く『知識』という宝を持つ者を見つけ出すんだ」

それは、奈落の底から国を錬成しようとする、壮大な計画の次なる一手だった。


        その137




【スラム南地区、数時間後】



「宝探し」の号令一下、スラムの路地へと散っていった子供たち。


それから、数時間が過ぎた頃。ウィッシュボーンと今後の段取りを話し合っていたラバァルの元へ、タロッチと、そして、なぜか、ばつの悪そうな顔をしたリリィが、戻ってきた。


「おい、ラバァル! 見つけたぜ、『宝』!」

タロッチは、得意げに胸を張った。だが、リリィはラバァルの後ろに回り込み、もじもじと、ラバァルの服の裾を、隠れるように握りしめている。


「ほう。で、どこにいるんだ? その『宝』とやらは」

「それがよぉ…」

タロッチが、言いづらそうに、ある方向を指さした。


その先には、石造りの、崩れかけた建物。ウィッシュボーンからの報告で、以前、メロディたちが騒動を起こした、という診療所だろう。


そして、その入口の前で、一人の老婆が、腕を組み、仁王立ちで、こちらを、射殺さんばかりの勢いで睨みつけていた。

(…あの老婆が、『宝』か…?)


ラバァルは、状況を測りかねていた。だが、その後ろで、リリィが、明らかに怯えている。そして、老婆の視線は、タロッチたちではなく、明らかに、その後ろに隠れるリリィへと、注がれていた。

(…なるほどな。灯台下暗し、というわけか)


ラバァルは、老婆とリリィの間に、何らかの深いつながりがあると、瞬時に推測した。


彼は、ウィッシュボーンに目配せして待機させると、リリィの肩を軽く押し、アズマの元へと、ゆっくりと歩み寄っていった。



「…あんたかい。うちの、馬鹿な孫娘を、そそのかした、悪い虫というのは」

老婆の、最初の言葉で、ラバァルの推測は、確信に変わった。


その、皺だらけの顔に浮かんだ瞳は、ラバァルの、魂の奥底まで見透かすかのように、鋭く、そして厳しかった。

「そそのかしたつもりはない」

ラバァルは、動じずに答えた。そして、隣で怯えるリリィの頭に、無造作に手を置く。


「――こいつが、自分で決めて、そうしてるんだろう」

その言葉は、リリィの決断を肯定し、同時に、祖母であるアズマに、孫娘の意志を認めろと、暗に突きつけるものだった。


アズマは、その言葉に、一瞬、息をのんだ。

ラバァルは、続けた。

「だが、あんたに、一つ、頼みがある。この南地区のことで、聞きたいことがあるんだ」


「ほう…?」

「あんたは、ここで、長年、多くの病人を診てきたはずだ。病人の口は、軽い。あんたは、この地区の、誰が、どんな技術を持ち、どんな過去を持っているか、そのほとんどを、知っているはずだ。…俺は、その『知識』が欲しい」


ラバァルの言葉に、アズマは、眉一つ動かさなかった。


「…なぜ、儂が、あんたのような、得体の知れない男に、協力せねばならん?」

「俺は、この南地区を、再生させる」


ラバァルは、断言した。「あんたが、毎日、その身を削って、救おうとしている、このスラムの人間たちが、二度と、飢えや病で、苦しむことのない場所を、俺が作る。そのための、協力だ」


その、あまりに大きく、そして真っ直ぐな言葉に、アズマは、しばらく、沈黙した。

そして、その視線は、ラバァルの後ろで、怯えるように佇む、孫娘のリリィへと向けられた。


「…リリィ」

アズマが、静かに、その名を呼んだ。

「…ご、ごめんなさい…おばあちゃん…」

リリィは、目に涙を浮かべ、今にも、駆け寄りそうになる。

だが、アズマは、それを、手で制した。


「…お前、儂の言いつけを破り、また、あの力を使ったそうじゃないか」

「…うん…」

「…そして、今、この男と、何をしようとしている? お前が、その力と共に、表の世界に出れば、どうなるか。分かっているのか?」


その声は、厳しかった。だが、その奥には、孫の身を案じる、深い、深い愛情が滲んでいた。

その時、これまで黙っていたラバァルが、口を挟んだ。


「…あんたが、心配するのも、無理はない。だが、その力は、隠し続けるだけでは、いずれ、腐る」

彼は、リリィに向き直った。


「リリィ。お前は、どうしたい? このまま、この診療所で、怯えながら、一生を終えるか? それとも、俺と共に来て、その力を、もっと多くの人間を救うために、使うか?」


ラバァルの問いに、リリィは、しばらく、俯いていた。


だが、やがて、彼女は、涙を拭うと、祖母の目を、真っ直ぐに見つめ返した。


「…おばあちゃん。あたし、行くよ。この人たちと、一緒に行きたい」

その瞳には、もはや、怯えの色はなかった。自らの意志で、未来を選び取ろうとする、強い光が宿っていた。


孫娘の、その覚悟を見たアズマは、深く、長く、息を吐いた。

そして、ラバァルに向き直る。

「…分かった。孫娘を、あんたに預けよう。その代わり、儂の『知識』も、くれてやる。だが、一つだけ、約束しろ」


彼女の目が、再び、鋭く光った。

「この子を、決して、死なせないでおくれ。…それだけじゃ」

「もちろんだ。約束する」

ラバァルは、静かに、そう答えた。

こうして、ラバァルは、この南地区の、最も重要な「情報」という宝と、そして、「奇跡」という、かけがえのない力を、同時に、手に入れたのだ。



【ロット・ノット、スラム東地区・新拠点】


薬師アズマという、スラム南地区の最も重要な情報源を手に入れてから、二週間が経っていた。


彼女からもたらされた、膨大な「知識」を基に、ラバァルとウィッシュボーンは、開拓団に必要な人材のスカウトを、急ピッチで進めていた。


大工、井戸掘り、狩人…。めぼしい人材への接触は、すでに終え、その八割以上から、「話に乗る」という、前向きな返事を得ていた。計画は、順調に進んでいるように、見えた。


その日の朝。シュガーボムから、ベルコンスタンの使いが、一通の書状を携え、ラバァルの元へやって来た。差出人は、ゴールデン・グレイン商会の当主、マルティンだ。


『――ラバァル殿。ご依頼の、トルガンと幌馬車20台の編成が、完了いたしました。つきましては、今後の打ち合わせのため、至急、お会いしたく存じます――』


「…チッ。仕事が、早すぎるな、あの男も」

ラバァルは、書状を握りしめ、焦りを隠せずにいた。


ハードウェア(幌馬車)の準備は、整ってしまった。だが、計画の、最も重要なソフトウェア…最後のピースが、まだ、はまっていなかったのだ。


それは、痩せこけた、死んだ土地を、豊かな実りをもたらす農地へと蘇らせる、特殊な知識と技能を持った、「農夫」だ。


ただの農夫ではない。絶望的な環境でも、作物を育て上げる、本物の専門家。

その人材だけが、どうしても、見つかっていなかったのだ。


これでは、開拓団を組織しても、痩せた土地では、痩せた作物しか作れない。それでは、意味がない。

(…スラムに、そんな都合の良い人材がいるはずもなしか…)


ラバァルは、自らの計画の、詰めの甘さを、内心で、罵っていた。

(…いや、待てよ)

彼の脳裏に、二人の老獪な男の顔が、浮かび上がった。


彼らならば、知っているかもしれない。いや、彼らほどの権力者ならば、そのような特殊技能を持つ人間を、「所有」している可能性すら、ある。


「デサイア!」

ラバァルは、経理室で帳簿をつけていたデサイアを呼びつけた。「出かけるぞ!」

「ん。どこへ?」


「スタート・ベルグ家だ。あの爺さんたちに、少し、知恵を借りに行く」

ラバァルは、デサイアを伴い、すぐさま、上層区画へと向かった。

計画に行き詰まった時、彼が頼るのは、いつものように、裏社会の掟ではない。

より大きな力を持つ者を利用し、自分の計画の駒へと、組み込んでいく。

それこそが、ラバァルの、本当の戦い方だった。

          


【スタート・ベルグ家、応接室】


ラバァルは、ジョンとアンドレアス将軍を前に、率直に、自らが直面している問題を語った。


「――というわけで、枯れた土地を蘇らせ、豊かな実りをもたらす、そういう特殊な知識を持つ人材が、どうしても必要なのです。しかし、ロット・ノットの、どこを探しても、そのような人物は見つからず、お二人の知恵をお借りしたく、参上した次第です」


その言葉に、ジョンは、顎鬚を撫でながら、頷いた。


「ふむ、なるほどな。それならば、王立知識院に、そのような研究をしている者がいるかもしれんな。一度、問い合わせてみてはどうかな?」


「王立…知識院…?」


ラバァルは、初めて聞くその名に、眉をひそめた。そもそも、それがどこにあり、自分のような者が、簡単に入れる場所なのかも、分からない。


その、戸惑いを、ジョンは、すぐさま察した。


「はっはっは、心配せずともよい、ラバァル殿。知識院の方へは、私の方から、使いを出し、そのような人材がおらぬか、問い合わせておこう。そうさな…三日ほど、もらえれば、何らかの返事は得られるだろう」


だが、ラバァルに、三日も待つという、選択肢はなかった。


「申し訳ありませんが、ジョン殿。できれば、今日、これから、すぐにでも、その知識院とやらに、行ってみたい。場所は、どこですか? 通行証などが必要なら、どこで発行してもらえますか?」


その、あまりに性急な物言いに、アンドレアス将軍が、面白そうに、突っ込みを入れた。


「なんじゃ、ラバァルよ。何を、そんなに急いでおる」


「ええ」ラバァルは、包み隠さず、その状況を説明した。「実は、先ほど、ゴールデン・グレイン商会から連絡がありまして。依頼しておいた、幌馬車隊20台の準備が、整ってしまったのです。次の輸送隊は、その20台で、ルカナンへと向かわせる手筈です。そして、その道中で、以前から目星をつけておいた開拓地へ、必要な人材と資材を、一気に送り込んでしまいたい。そのためには、一刻も早く、肝心の、農業技術者を確保する必要があるのです」


その、あまりに無駄がなく、合理的で、そして、大規模な計画に、二人の重鎮も、改めて、舌を巻いた。

ただ、幌馬車を往復させるだけではない。その移動すらも、自らの計画の、次なる布石として、最大限に、利用し尽くす。


「ふむ。お主がいくら焦ったところで、向こうが首を縦に振らねば、連れては行けんぞ」

「はい。それは、重々、承知しております。ですが、まずは、会って話をしなければ、始まりません」


ラバァルの、その揺るぎない決意に、ジョンは、観念したように、笑った。


「…分かった、分かった。せっかちな男じゃのう。よかろう、執事!」

ジョンは、執事を呼びつけると、命じた。


「至急、王宮内への通行を許可する、特別な身分証を、二枚、用意させよ! 私の名で、だ!」

そして、ラバァルに向き直る。


「王宮内への許可証があれば、知識院へも、問題なく入れる。しばし、待たれよ、ラバァル殿。一時間もあれば、使いの者は、戻って来るだろう」


こうして、ラバァルたちは、スタート・ベルグ家の、壮麗な応接室で、ただ、許可証の到着を待つ、という、彼にとっては、少しばかり、退屈な時間を、過ごすことになったのだった。

        


   

【ロット・ノット、新市街・商業区】


ラバァルが開拓団の編成に奔走していた、その頃。


ロット・ノットの新市街では、もう一つの戦いが、佳境を迎えようとしていた。


ここ数週間、王国警備隊の隊長、カイ・ロスヴァルトは、歯噛みするような日々を送っていた。

警備を倍増させ、300名の部下を市街の各所に配置し、夜な夜な警戒を続けていたにも関わらず、まるでそれを嘲笑うかのように、ゾンハーグ家傘下の商店への襲撃は、5件も続いたのだ。

犯人は、常に、影のように現れ、影のように消える。


だが、カイは、無能ではなかった。

度重なる襲撃のパターンから、彼は、ついに、敵の次なる標的を予測することに成功した。そして、その宝石店の周囲に、部隊の主力を集結させ、完璧な包囲網を敷いて、待ち構えていたのだ。

そして、その夜。

「――来たぞ!」


闇に紛れ、宝石店の裏口に現れた黒い影の一団。カイの低い号令と共に、潜伏していた警備隊員たちが、一斉に飛び出した。


「 待ち伏せだ!」


不意を突かれ、ケイオスのメンバーたちは、動揺する。だが、彼らもまた、修羅場をくぐり抜けてきた精鋭。すぐに体勢を立て直し、警備隊員たちと、激しい斬り合いを開始した。


カイは、戦場の喧騒の中で、冷静に、敵の動きを見極めていた。


そして、一人、他の者たちとは明らかに次元の違う動きで、次々と部下を葬り去っていく、一人の男を視認。

(…あの男が、頭目か!)


「全隊、あの男を狙え! 生死は問わん、仕留めろ!」

カイは、そう命じると、自らも、鍛え上げられたロングソードを抜き放ち、その男…ゼル・カイランへと、突撃した。

戦いは、激戦となった。


警備隊員が、ゼルの短剣に倒れれば、ケイオスのメンバーが、カイの剛剣に斬り伏せられる。双方、多大な犠牲を出しながら、一進一退の攻防が続いた。


だが、その均衡は、カイが予め配置していた、別動隊の到着によって、破られた。

「隊長! 応援に来ました!」


騒ぎを聞きつけた50名、さらに50名と、警備隊の兵力が、次々と戦場に流れ込んでくる。


数の上で、完全に、圧倒的優位に立った、王国警備隊。


部下たちが、次々と倒されていくのを、ゼル・カイランは、無感情な瞳で、把握、そして、彼は、薄く、笑った。


「…やれやれ。少々、遊びすぎましたか」


彼は、懐から、卵ほどの大きさの、灰色のクリスタルを取り出した。


そして、それを、何のためらいもなく、その手の中で、握り潰す。


パリン、と。乾いた音が響き渡った瞬間。

砕けたクリスタルから、得体の知れない、紫色の煙のようなオーラが、奔流となって、ゼル・カイランの体の中へと、吸い込まれていった。


彼の全身の血管が、紫色に浮かび上がり、その瞳が、不気味な紫色の光を放ち始める。

「グ…アアアアアアア…!」

骨が軋み、筋肉が、服を内側から引き裂きながら、異常なまでに、膨れ上がっていく。

「…な…んだ、あれは…」


カイは、目の前で起こっている、あまりに非現実的な光景に、戦慄した。

「全隊、奴から離れろ! 退避しろッ!!」

カイの、悲鳴に近い絶叫が響く。

だが、遅かった。


逃げ遅れた数名の隊員の背後から、ゼルの体から生えた、影のような、紫色の**「腕」**が伸び、その体を、いとも容易く、握り潰した。


グチャリ、という、嫌な音。

もはや、それは、人間ではなかった。

「ひ、ひいぃぃっ!」

その、あまりに凄まじい破壊力に、恐怖した隊員たちが、次々と逃げ惑う。


だが、カイは、逃げなかった。彼は、生き残った側近たちに、目配せで合図を送る。

(…ここで、この化け物を止めなければ、ロット・ノットが、地獄になる)


隊長としての、誇りと、責任感。それが、彼の足を、その場に縫い付けていた。


カイと、数名の側近たちが、絶望的な覚悟を固め、得体のしれない化け物へと変貌した「灰の処理人」を、取り囲む。


彼らの、決死の戦いが、今、始まろうとしていた。



【ロット・ノット、新市街・商業区】


絶望的な覚悟を固め、怪物へと変貌した「灰の処理人」を取り囲んだ、カイ隊長とその側近たち。


だが、にじり寄ろうとした、その瞬間。カイの視界の端に、後方で待機していた、クロスボウ部隊の姿が映った。


はっと、カイは閃いた。そうだ、我々には、まだ手がある…!


「全隊、退避しろ! あの化け物から、距離を取れェッ!!」


カイは、大声を張り上げ、自らも、その場から後方へと飛び退いた。


先ほどまで、自分たちが敵を取り囲んでいたせいで、クロスボウ部隊は、味方を誤射するのを恐れ、攻撃できなかったのだ。


「クロスボウ隊! 聞こえるか! 目標、中央の化け物! 放てェッ!!」

その号令が、合図だった。


ヒュンッ! ヒュンッ! ヒュンッ!


数十本の鋼鉄の矢が、一斉に、空気を切り裂き、怪物化したゼル・カイランへと、殺到した。

「グ…オオオオオッ!?」

さすがの怪物も、予期せぬ、全方位からの集中砲火には、たまらず、苦痛の声を上げる。その強靭な肉体に、次々と矢が突き刺さっていく。


彼は、すぐさま、その場から逃走を図る。だが、カイの準備は、万端だった。

「第二射、用意! 逃がすな、追撃しろ!」

次なる矢の雨が、逃げる怪物の背中に、容赦なく降り注ぐ。ゼル・カイランは、苦しみにもがきながらも、闇の中へと、その姿を消していった。


「…ふぅ……」


カイ隊長は、その場に、へなへなと座り込んだ。「…ここで、死ぬのを、覚悟したぞ…」

その言葉が、先ほどまでの危険な状況を物語っていた。



【王都守護庁、庁長室】


事後処理を終え、自らの傷の手当てを済ませたカイ隊長は、王都守護庁の長、イーシス・ラフェンの前で、事の一部始終を報告していた。


「……実行部隊は、壊滅させました。ですが、首魁と思われる男は、取り逃しました。その男は…」

カイは、言葉を選びながら、あの信じがたい光景を、語った。


「…得体の知れないクリスタルを握り潰し、人ならざる、化け物へと、変貌いたしました」


その、あまりに荒唐無稽な報告に、イーシスは、眉をひそめた。だが、カイは、この庁で、最も信頼する部下の一人だ。彼が、嘘を言うはずもない。



【王宮、宰相アルメドラの執務室】


イーシスからの報告は、すぐに、宰相アルメドラの元へ、そして、ゾンハーグ家の主、エリサの耳へと届けられた。

「なんですって…!? 化け物に、変身した、ですって…!?」


エリサは、扇を持つ手が、微かに震えるのを、止められなかった。「それは、真のことですの、アルメドラ様…?」

「うむ。儂も、にわかには信じられん話じゃがな」アルメドラは、重々しく頷いた。「生き残った兵士たちの証言が、全て一致しておる。どうやら、本当のことらしい」


「……どうやって…? ムーメン家の、あの若造が、いつの間に、そのような力を…? 私の知らない、おかしな力を、手に入れたとでも、いうのですか…?」


「いや、エリサ。お主が、知らぬはずはない」


アルメドラの、鷹のような目が、エリサを射抜いた。


「お主が飼っておる、『ブラッドレイン』。あれらもまた、その手の、人ならざる力を持つ者たちだと、儂は聞いておるぞ」


「ブラッドレインが…! まさか…」

エリサは、息をのんだ。「…いえ。ありえない話では、ありませんわ…」



【ブラッドレイン】――それは、エリサが、極秘裏に、リバンティン公国方面へ派遣していた、特殊部隊。彼らの中には、異能の力を持つ者がいる、という話は、確かにあった。


「どうやら、飼い犬に、手を噛まれたようじゃのう、エリサ殿」

「…まだ、そうと決まったわけでは、ございませんわ」

エリサの脳裏に、いくつもの疑問が、渦巻いていた。


(まさか、奴らが、ムーメン家と、裏で繋がっていたとでも…? しかし、奴らは、今頃、王都から遥か離れた場所で、動いているはず…。なぜ、このタイミングで、ロット・ノットに…?)

エリサは、自分が知らないところで、何かもっと大きな、そして、不吉な何かが、動き始めていることを、予感せずには、いられなかった。

          


【ロット・ノット、王立知識院】


スタート・ベルグ家で、特別な通行許可証を手に入れたラバァルとデサイアは、王宮へと続く丘を少し下り、新市街の西側へと向かった。


やがて、彼らの目の前に、一つの巨大な建物が、その姿を現した。


切り立った崖を背にするようにして建てられた、白亜の塔。その高さと規模は、かつてヨーデルで見た、「夜明けの塔」あれをも、上回る規模の建物だと言う事が分かった。

「…ラバァル。あれが…」

「ああ。王立知識院、らしいな」


建物の周囲には、慌ただしく、しかし、どこか浮世離れした雰囲気の者たちが、絶え間なく出入りしている。学者や、研究者、あるいは、その卵たちだろうか。

ラバァルたちが、敷地内へと続く大きな門の、脇にある受付へと向かっていると、突然、一人の若い女性が、脇から猛スピードで駆け込んできた。


「早く早く! 授業に遅れちゃうじゃない!」


彼女は、デサイアの肩に、ドン、とぶつかると、謝罪の一言もなく、そのまま受付に通行証を叩きつけ、建物の中へと消えていった。


「おい、大丈夫か、デサイア」


ラバァルが声をかけると、ぶつかられた衝撃で、軽くよろめいていたデサイアは、何事もなかったかのように、服についた土を払いながら答えた。

「ん? こんなの、問題ないわ、ラバァル」


その、あまりに平然とした様子に、ラバァルは、内心で苦笑した。


受付で、ラバァルは、単刀直入に用件を伝えた。


「痩せた土地を、農地に変える知識を持つ者を探している。心当たりは、あるか?」


受付の男は、ラバァルの、あまりに場違いな風体と、その尊大な物言いに、一瞬、眉をひそめたが、彼が提示した、ジョン・スタート・ベルグの名が刻まれた特別な許可証を見ると、すぐさま、その態度を改めた。


「…ああ、それでしたら、農政学部の、バジル博士をお訪ねください。本館の、5階、一番東側の部屋です」


「5階、か」

ラバァルたちは、建物の中へと足を踏み入れた。そこは、本のインクと、古い羊皮紙の匂い、そして、様々な薬草が混じり合った、独特の空気に満ちていた。


果てしなく続くかのような、螺旋階段を登り始める。

「…5階、だったわね」

3階を過ぎたあたりで、ラバァルが、ぽつりと呟いた。


「どうした。もう、疲れたのか?」


「馬鹿言わないで、ラバァル。私でも、そこまで虚弱じゃないわ」

「…悪い。そうだな」

ラバァルは、また余計なことを言ってしまったと、少しだけ後悔した。


ようやく5階までたどり着いた二人は、教えられた通り、東側の廊下を進んでいく。


そして、一番奥にある部屋の扉を、ラバァルは、ノックもせず、そっと横にスライドさせた。


部屋の中は、奇妙な器具と、見たこともない植物で、溢れかえっていた。そして、数人の白衣を着た男女が、机の上に置かれた、レンズのついた筒のようなものを、食い入るように覗き込んでいる。彼らは、ラバァルたちが部屋に入ってきたことにも、全く気づかないほど、その作業に没頭していた。


ラバァルは、ズカズカと部屋の中央まで進むと、その中の一人の男の背後から、筒の中を覗き込んだ。

「よぉ。何を、そんなに熱心に覗いているんだ?」


その、あまりに唐突な声に、男は、ビクリと肩を震わせ、ゆっくりと顔を上げた。


度の強い眼鏡の奥で、その目は、焦点が合っていないかのように、ぱちくりとしている。


「…はへぇ? …あ、あなたは、どなた、ですかな…?」


その、あまりに間の抜けた返答に、ラバァルは、これから始まる交渉が、これまでとは、全く違う種類の、面倒なものになることを、予感していた。



【王立知識院、農政学部】


「…すまねぇ。実は、知識と人材を借りに来た」

ラバァルは、単刀直入に、そう切り出した。


「…知識と、人材、ですかな?」

度の強い眼鏡の奥で、男は、不思議そうに、首を傾げた。


「そうだ。痩せこけた土地を改良して、まともな作物を育てられる、そういう特別な人材が必要なんだ。あんたら、農政学部の人間なら、何とかできると聞いて来たんだが」


ラバァルの言葉に、それまで、顕微鏡のような筒を覗き込んでいた、他の白衣の男女たちも、一斉に顔を上げた。そして、彼らは、最初に話していた男…バジル博士の周りに、まるで雛鳥のように集まると、何やら、ひそひそと、専門用語らしき言葉で、話し合いを始めてしまった。


「…光合成効率の、外的要因による…」「…土壌の、微生物叢が…」「…品種改良は、倫理的に…」


ラバァルとデサイアには、全く、意味の分からない議論が、目の前で繰り広げられる。ラバァルは、とりあえず、黙って、その結論を待っていた。


やがて、バジル博士が、再び、ラバァルに向き直った。


「…あんた、枯れた土地を、肥沃な土地にしたい、と?」

「そうだ。そして、そこで、豊かな作物を、腹一杯、作り出したい」


「ほう…。それは、また、どこで?」

「ロット・ノットから、350~400キロは離れた場所だ。枯れた森と、小さな川の後が残っていた」

「…なぜ、また、そんな辺鄙な場所に?」

「誰にも、邪魔されずに済むからだ。王国の、やかましい役人どもにな」

「…なるほど。つまり、その農地は、我々が、何を、どう育てようと、完全に、自由である、と?」


バジルの、眼鏡の奥の目が、キラリと光った。


「ああ、勿論だ。ただし、条件がある。実りのない、痩せた作物では、話にならん。豊作にしてもらう」


その言葉を聞くと、学者たちは、またしても、ひそひそと、仲間内での議論を再開してしまった。今度は、先ほどよりも、さらに白熱しているようだ。


ラバァルは、腕を組み、ただ、待った。5分、10分、20分…。

30分が、経過した。


「―――おい、お前らッ!!!」

ついに、ラバァルの堪忍袋の緒が、切れた。彼の怒声が、研究室中に、轟いた。


「いつまで、ひそひそやってる! 痩せた土地を、蘇らせられる奴は、いるのか、いないのか! さっさと答えろッ!!」


その、凄まじい剣幕に、その者たちは、ビクリと肩を震わせた。


だが、中心にいたバジルだけは、全く、動じていなかった。


彼は、ゆっくりと、顔を上げると、ラバァルの剣幕など、全く意に介さぬ、低い、平坦なトーンの声で、言った。

「…どうかなさいましたかな? そんな、大声を出されて」


その、あまりに間の抜けた、マイペースな返答に、ラバァルの怒りは、行き場を失った。まるで、全力で殴りかかった拳が、綿菓子に吸い込まれたかのような、脱力感。


彼は、思わず、ズッコケそうになりながら、声を絞り出した。


「…頼むから、俺の調子を、狂わせないでくれ…。いるのか、いないのか、と、聞いているんだ。痩せた土地でも、作物を育てられる、専門家は…!」


すると、バジルは、当たり前のように、こともなげに、言った。

「…ええ、できますよ」

「……へっ?」


今度は、ラバァルが、間の抜けた声を、上げてしまった。


その瞬間、それまで、ラバァルの背後で、完璧な無表情を貫いていたデサイアの口元から、「くすっ」と、小さな笑い声が、漏れた。


その、初めて見る、デサイアの笑顔に、ラバァルは、驚きに、目を見開いた。そして、同時に、自分が、この変わり者の学者と、同じような声を上げてしまったことに気づき、顔から、火が出るような、恥ずかしさに襲われた。


彼は、ゴホン、ゴホン、と、二度ほど、わざとらしい咳払いをして、無理やり、平静を取り繕った。

「…できる、と、言ったな。誰がだ?」

すると、目の前の、度の強い眼鏡の男は、何のてらいもなく、親指で、自分自身を、指し示した。


「…僕ですが、何か?」



【王立知識院、農政学部】


「…僕ですが、何か?」

自分を指さし、こともなげに言い切った、目の前の変わり者の学者に、ラバァルは、もはや、駆け引きなど不要だと判断した。


彼は、バジルの肩を、がしりと掴んだ。


「頼む。お前が必要だ。明後日の朝には、出発する。一緒に来て、俺に力を貸してくれ」

その、あまりにストレートな懇願に、バジルは、少しだけ、驚いたような顔をした。そして、眼鏡の奥で、値踏みするように、ラバァルを見つめ返した。


「…いいですよ。その代わり、僕たちのやりたいように、やらせてもらう。資金も、人材も、全て、僕たちの研究のために、自由に使わせてもらう。それでも、いいのなら」


「おお! もちろん構わん! 好きにやってくれ!」


ラバァルは、快諾した。「必要な物があるなら、全て、言ってくれ。すぐに揃えさせる。…おい、デサイア、メモを取れ!」


ラバァルの声に、デサイアは、素早く羊皮紙とペンを取り出した。


そこから、バジルたちの、専門用語だらけの、怒涛の要求が始まった。特殊な培養土、希少な植物の種子、ガラス製の実験器具…。デサイアは、その全てを、驚異的な速さで、書き留めていく。

「良し。では、明後日の朝、ここに迎えに来る。それで、いいんだな?」

「うん。行けるのは、僕と、そこのヤーコンの二人だね。ミッチェルとシャイは、ここに残って、別の研究を続けるそうだから」


「分かった。二人は、来てくれるんだな」

「…もしかしたら、三人になるかもしれないけど。まだ、分からない」

「増える分には、大歓迎だ。では、早速、準備に取り掛かる。またな」


ラバァルは、それだけ言うと、デサイアと共に、王立知識院を後にした。





最後まで読んでいただきありがとう、また続きを見掛けたら読んでみて下さい。 

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